栂尾明恵上人伝記 57 明恵、建礼門院徳子に受戒す
上人、首楞嚴經(しゆりゃうごんぎやう)を披(ひら)き見給ひて、一代聖教の眼目なりとて、常に講じて諸人に聞かせ給ひけり。
或時建禮門院御受戒有るべしとて、上人を請じ申されて、御身は母屋(もや)の御簾(みす)の内に御座(おは)して、御手計り指出(さしいだ)し合掌して、上人をば一長押(ひとなげし)さがりたる處におき奉りければ、上人云はく、高辨は湯淺權守(ゆあさのごんのかみの)が子にて下もなき下﨟(げらう)なり。然れども釋子(しやくし)と成りて年久しく行へり。釋門持戒の比丘(びく)は神明をも拜せず、國王大臣をも敬せず、又高座に登らずして戒を授け法を説かば、師弟共に罪に墮(だ)する也と經に誡(いまし)められたり。是れ法を重んじゆるがせにせざる故なり。身をあぐるに非ず。かゝる非人法師をも御崇敬候へば、利益(りやく)ますます多く、いやしみ眇直(さげし)み給へば大罪彌(いよいよ)深し。いかに仰せ辱(かたじけな)くとも本師釋尊の仰を背きて諂(へつら)ひ申す事はあるまじく候。かやうにては益なくして罪あるべく候。誰にても貴敬し思食(おぼしめ)し候はん人を御請(おんしやう)じ候て、御受戒あるべしとて頓(やが)て出で給ひければ、女院驚き思召て急ぎ御簾より外へ出でさせ給ひ、樣々に悔み申し給ひ、高座に居(す)ゑ奉り信仰を致し、御受戒有りけり。其の後は、殊に上人を貴び給ひて、最後まで深き師檀(しだん)と成りおはしましけり。
[やぶちゃん注:「建禮門院」平徳子(久寿二(一一五五)年~建保元(一二一四)年)は元暦二(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での平家滅亡から凡そ一ヶ月後の五月一日に出家して直如覚と名乗っているが、本話は事実とすれば、何だか、おかしい。
「釋子」釈迦の弟子。
「師檀」受戒の師僧と檀那。]