八丈は小さき島なるよ 九首 中島敦 (「小笠原紀行」より) /歌群「小笠原紀行」了
八丈は小さき島なるよ
西港八重根をあとにのぼり來(く)とはやも見えきぬ東の三(み)つ根(ね)
[やぶちゃん注:八丈島中央の南西側に位置する八重根漁港から東北へ約四・四キロメートルの位置に神湊(かみなと)港があるが、この東一帯を三根と呼称する。]
白黑の斑(はだれ)の牛の眼もやさし石垣沿(ぞ)ひの往還にして
[やぶちゃん注:「斑(はだれ)」は古語で「はだら」に同じ。斑(まだら)の意。]
綠高き家あり屋根の茅葺の茅の厚さをめづらしと見つ
石垣の上につゞくは櫻ならむ蕾ふゝめり春日しみゝに
中納言秀家の墓尋(と)め行けどもとな知らえず春の日昏(く)れぬ
[やぶちゃん注:「中納言秀家」所謂、五大老の一人であった宇喜多秀家(うきたひでいえ 元亀三(一五七二)年~明暦元(一六五五)年/一説に寛永二(一六二五)年とも)。秀吉に寵遇され、文禄三(一五九四)年権中納言に任ぜられた。慶長五(一六〇〇)年に関ケ原の戦いでは西軍総帥に擁されたが、敗れて島津義弘を頼り薩摩に逃亡、同八年、島津・前田両家の嘆願によって死罪を免れて駿河久能山に幽閉された後、同一一年に八丈島に配流となって同地で没した(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて五十年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも言われるが、偶然に嵐のために八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったという話や、八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして妻子への土産にしたとも)などが伝承されている。家康の死後に恩赦により刑が解かれたが秀家は八丈島に留まったという説もある。大名としての宇喜多家はそこで滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝えた。明治以後、宇喜多一族は東京本土に移住したが、数年後に八丈島に戻った子孫の家系が現在も墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島大賀郷の南原海岸には現在、西(秀家は備前岡山五十七万四千石の大名の最後の当主であった)を臨む秀家と正室豪姫(天正二(一五七四)年~寛永一一(一六三四)年)は前田利家四女で秀吉養女。秀家の八丈島流罪後は兄前田利長の元へ戻され、他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住んで秀家に物資を送り続けて余生を送ったという)の石像が建てられている。八丈島の墓所は現在の東京都八丈町大賀郷にある稲場墓地である(ここまではウィキの「宇喜多秀家」に拠った)。「岡山市東京事務所」公式サイトの「宇喜多秀家の墓(八丈島)」で地図と墓石の画像が確認出来る。見れなかった中島敦の代わりに見ておこう。
「もとな知らえず」は上代の副詞で、根拠なく・やたらに、また、非常にの意であるから、もう一向にその在り処を知ることが出来ず、の謂いであろう。]
夕暗き椿小道(つばきこみち)ゆのつそりと牛が出てきぬ大き乳牛
春の夜の小學校の庭にして村人の歌ふ八丈の歌
芋酒をくらひ醉へばか太鼓うつ若者の動作いやおどけくる
さくさくと踏めは崩るゝ春の夜の火山灰道を海に下り行く
[やぶちゃん注:「さくさく」の後半は底本では踊り字「〱」。]
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宇喜多秀家の注が長いのを奇異に思われるかも知れない。これは僕自身が戦国史に疎く、僕自身の勉強のための仕儀である。悪しからず。