父島大村街上所見 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)
以下五首 大村街上所見
[やぶちゃん注:「大村」父島の中心地である北西部の集落名。現在も小笠原諸島を統轄する小笠原村役場が置かれている。]
僧衣(ころも)著(け)す僧が竿もて木瓜(パパイヤ)の實をとりにけり立ちて食(を)しけり
[やぶちゃん注:「著す」は「着す」とも書く上代語で、サ行四段活用の他動詞。「着る」の尊敬語。
「木瓜(パパイヤ)」双子葉植物綱スミレ目パパイア科パパイア Carica papaya。ボケと同じ「木瓜」という表記はパパイアの異名和名の一つであるが、これで「モッカ」と読む。他にも「チチウリノキ(乳瓜木)」「マンジュマイ(万寿瓜)」「パウパウ」「ポーポー」「ママオ」「ツリーメロン」などと呼ばれることもある(以上はウィキの「パパイア」に拠る)。]
小笠原支廳の庭に椰子伸びて島の役所の事無げに見ゆ
[やぶちゃん注:「小笠原支廳」ウィキの「小笠原諸島」の「年表」をみると、明治九(一八七六)年に小笠原島の日本統治を各国に通告して日本の領有が確定、小笠原諸島は内務省の管轄となり、同時に日本人三十七名が父島に定住して内務省出張所が設置され、明治十三(一八八〇)年には父島に東京府小笠原出張所が置かれている(この二年後の明治一五(一八八二)年には東京府出張所の行なう行政に協議権をもつ会議所も設置され、議員十五人を公選、この時、欧米系住民が全て日本に帰化している)。その後、明治一九(一八八六)年にこの小笠原出張所が小笠原島庁と改称(この後の大正九(一九二〇)年には陸軍築城部が父島支部設置し、これ以降、先の歌に出た砲台などの陸軍施設が建設されていった)、大正一五(一九二六)年の郡制の廃止と同時に小笠原島庁は東京府小笠原支庁に改称していることが分かる。]
みんなみの島の理髮店(とこや)の晝永くうつらうつらとひげ剃らせけり
[やぶちゃん注:「うつらうつら」の後半は底本では踊り字「〱」。]
父島の二見細江(ほそえ)の渚べに赤ら目河豚が打ちあがりゐる
[やぶちゃん注:「父島の二見細江の渚べ」父島の北西に、大村を西岸とする西に開いた大きな二見湾があり、この湾の大村を含む北部一帯の貫入部分が、父島の表玄関である二見港である。「細江」とあるのは地名ではないと思われ、細い入り江の謂いであろう。地図で見ると二見港の開口部分は一キロメートル程度、二見港最深部もここから一キロ半程で、「細江」と言ってもおかしくはないと思われる。
「赤ら目河豚」和名では条鰭綱フグ目フグ科トラフグ属アカメフグ
Takifugu chrysops がいるが、トラフグ属ヒガンフグ Takifugu pardalis など他の種でも目が赤いフグ類はおり、実際にヒガンフグは地方名でアカメフグとも呼称するのでここでは同定は出来ない。]
午後(ひるすぎ)の石垣の上に尾の切れし石龍子(とかげ)を見たり金綠(きんりよく)の背(せな)

