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2013/08/09

耳嚢 巻之七 即興狂歌の事

 即興狂歌の事

 

 當時御勘定所を勤(つとむ)る太田直次郎といへる、若き時狂歌に名高く、狂名は四方(よも)の赤良(あから)といへる、或は寢惚(ねぼけ)先生といゝしが、今は去(さる)事もせざりしが、壹歳(ひととせ)御用にて上方へまかりしに、□宿移りなんとせしに、入相比(いりあひころ)駕(かご)にたくわへし火消(きえ)ぬれば、當りの町家へ火もらひに僕を寄(よせ)けるに、彼(かの)家に兩三人あつまり居(ゐ)て、あれは寢惚先生とて東都にて狂歌に名高き人也、火を乞はゞ狂歌にてもいたさるべき事也、火は不出(いでず)候と答(こたへ)よとて其通り答へければ、赤良矢立(やたて)取出し、

 入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり

 斯(かく)認置(したためおき)て行(ゆき)すぎしとなん。上方にても殊に此狂歌を感じ都鄙(とひ)の口ずさみとなりにける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。狂歌技芸譚。ラスト・シーンに少し翻案を加えた。

・「太田直次郎」既に複数話で既出の狂歌師大田南畝蜀山人四方赤良(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)は本名を太田覃(ふかし)といい、通称、直次郎(後に七左衛門と改める)。彼は著名な狂歌師であると同時に御家人で幕府官僚でもあった。「今は去事もせざりし」というのは天明七(一七八七)年に寛政の改革が始まると、改革に対する政治批判の狂歌として人口に膾炙していた「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや、田沼意次の腹心であった土山宗次郎と親しかったことなどから目を付けられ、また、戯作者山東京伝らが弾圧されるのを目の当たりにして狂歌をやめ、その後は職務に励む傍ら、専ら随筆などを執筆したことを指している(ウィキの「大田南畝」に拠る)。同ウィキの「公職」の記載によれば、寛政六(一七九四)年に幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、寛政一一年には孝行奇特者取調御用、同一二年、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられている。これは江戸城内の竹橋倉庫に保管されていた勘定所関係書類の整理役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に南畝は、

 五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳

と詠んでいる。その後、享和元(一八〇一)年に大坂銅座に赴任しており、本話はその折りの逸話かと思われる。文化元(一八〇四)年に長崎奉行所へ赴任、文化五(一八〇八)年には堤防の状況などを巡検する玉川巡視の役目にも就いている。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この当時は満五十七歳、長崎奉行所勤務であった。根岸よりも十二歳年下である。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」の「四茂野阿加良」の私の注も参照のこと。

・「□宿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『旅宿』とある。

・「入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり」「入相にかねの火入」は日暮れに撞く「入相の鐘」に刀剣や鍛冶での「かね」(金物)の「火入」(ひいれ)を掛け、「火入をつき出せば」では、鐘を「つき出せば」に、煙草盆の中に組み込まれた火種を入れておく器である「火入」を火を求めた人に「つき出せば」を掛け、さらに「ひはくるゝなり」で「日は暮るる」と「火は呉るる」を掛けている。

――入相の鐘――鐘は金物――火入れは縁じゃ――入相の鐘を撞きだすその折りに――火種を呉れろという旅人には――素直に火入れを突き出すものじゃ――いずこの里にても――入相とならば――必ず日は暮るるように――火は呉るるものじゃ――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 即興の狂歌の事

 

 当時、御勘定所を勤めて御座った太田直次郎と申さるる御仁、若き時には狂歌師として名高く、その名は四方赤良(よものあから)とも、あるいは寝惚先生(ねぼけせんせい)とも名乗って御座った由。

 今はそのような風狂への執心も、これ、なさってはおられぬようじゃが、一年ほども前のこととか申す、御用にて上方へ参った折りのこと、公務の都合で午後も遅うになって旅籠(はたご)をば、かなり離れた所へ移さねばならずなったと申す。

 入相ころのこととて、駕籠(かご)に吊るし灯して御座った火(ひい)が消えてしまい、夜道も不案内のこととて、辺りの町家(まちや)へ火(ひい)を貰わんと下僕を訪ねさせたところが、かの家にてはたまたま三人ばかり、町屋の好事連が集まって御座って、またその中の一人に太田殿の噂をよう、知って御座った者があり、

「あれは先般、寝惚先生と申し、東都にては狂歌に名高き人じゃて。」

と下僕主人を見破ったによって、三人相談の上、

「『――火を乞わるるのであらば――狂歌の一つもなさるるが道理じゃ。――それも成さずば火は――出やしまへんで。』とお答エ。」

と手代に申しつけた。

 手代がその通りに答えたところ、下僕は踵を返して駕籠の中の太田殿へ、かくと申し上げた。すると赤良氏(うじ)、やおら矢立てを取り出だいて、

 

 入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり

 

と認(したた)めたものを、下僕から町屋手代に渡いて、そのまま、暗がりの中を行き過ぎたとか申す――無論、狂歌を貰った町家主人は、慌てて提灯を持たせた手代を走らせては、太田氏の次の旅宿まで同道致させたことは、言うまでも御座らぬ。――

 上方にても、殊にこの狂歌には感じ入って、大いに都鄙(とひ)の口ずさみとして流行って御座ったとか、申すことで御座る。

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