耳嚢 巻之七 婦人強勇の事
婦人強勇の事
仙臺侯の醫師工藤平助といへる者有。彼(かの)者直(じき)もの語りにて聞(きき)しとて人の語りぬ。平助若き時より好みて三味線を彈(ひき)けるが、去(さる)武家の娘望(のぞみ)に付(つき)、少斗教(すこしばかりをしへ)し事も有(あり)。彼娘年比(としごろ)に緣付(えんづき)けるに、先方も小身の籏本(はたもと)にて、貮度目にて先妻の娘貮ツになん也(なり)し由。然るに彼婦人、娘を片脇に寢付(ねつか)せ縫物して居(ゐ)たりしに、年比廿斗(ばかり)の女忽然と、右寢たる子の脇に居けるに驚(おどろき)けるが、勇氣もたくましき婦人なるや、右女に向ひ、いつより來り給ふやと靜(しづか)に尋(たづね)けるに、一向答(こたへ)なければ、尚又いか成語(なること)に來り給ふやと尋しに又答なき故、せん方なく其樣子を得(とく)と見屆(みとどけ)しに、程なくいづち行けん見へず成りぬ。其家に老女のありける故、斯々(かくかく)の女來りたり、其容貌有樣くわしく語りければ、それは過(すぎ)さり給ふ先の奧方ならんと申(まうす)ゆへ、彼婦人申けるは、我に恨(うらみ)あるべき事もなし、出生せし娘子に心殘りてならむ、我身今此(この)家へ嫁し參る上は、小兒は我産(わがうみ)し子も同じ事なれば、などおろそかになすべき、産みの子より大事ならんに、心殘りて迷ひ給ふいたわしさよといゝて、其夜用所(ようしよ)へ彼奧方至りしに、最前の女窓より顏を出し居たりけるに、一通りの婦人なりせば聲立(たて)氣絶もなすべきに、靜に彼女に向(むき)、御身は先の奧方なるべし、年若き男最愛の妻にわかれては、又の妻むかふるも常なれば、我に恨みありて見へ給ふにはあるまじ、あれなるおさなき子に心殘りてならん、我身爰に嫁し來ぬれば、則(すなはち)我(わが)子同前(どうぜん)なれば御身にまさりていつくしみ育(そだつ)るなれば、安堵して迷ひ給ふなと申ければ、彼女忽然と消失(きえうせ)しが、其後はかつて去(さる)事なく榮(さかへ)ける。
□やぶちゃん注
○前項連関:本格霊異譚三連発。
・「工藤平助」(享保一九(一七三四)年~寛政一二(一八〇一)年)は仙台藩江戸詰藩医で経世論家。四十歳代前半までは医師として周庵を名乗り、髪も剃髪していたが、安永五(一七七六)年頃、藩主伊達重村にから還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになった。安永六(一七七七)年には、築地の工藤邸は当時としてはめずらしい二階建ての家を増築、二階には椹(さわら:檜の同属で水湿に強い。)厚板でつくった湯殿があり、湯を階下より運んで風呂として客をもてなしたといわれる。手料理なども上手く、ここに出る三味線の師匠というのも納得出来る。平助は、藩命により貨幣の鋳造や薬草調査なども行い、また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学・西洋医学・本草学・長崎文物商売・海外情報の収集・訴訟の弁護・篆刻など、幅広い学識と技芸を有した才人であった。ロシアの南下政策に対して警鐘を鳴らし、開港貿易とともに蝦夷地の経営を論じた「赤蝦夷風説考」(天明三(一七八三)年完成)の筆者で、若き日の仙台藩士林子平(平助より四歳下)に影響を与えた人物としても知られる。先駆的な海防軍事書として評価の高い、寛政三(一七九一)年に全巻刊行された林子平の「海国兵談」は、この「赤蝦夷風説考』の情報に多くを依拠している(以上はウィキの「工藤平助」に拠った)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、平助の死後五年が経過している。
・「いつより來り給ふや」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「いつより」は『何れより』とある。それで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
婦人強勇の事
仙台侯の江戸詰医師工藤平助殿と申すお方が御座る。
この御仁から直話(じきわ)として聞いたと、人の語って御座った話。
平助殿、若き時より三味線を好んで嗜んでおられたが、さる武家の娘、これが、たっての望みにつき、その娘に少しばかり、三味を教えことが御座ったと申す。
その娘が、そのうち年頃となって縁づいた。
先方は小身の旗本にて――後妻――亡き先妻の二つになろうかと申す娘も御座った。
ところがある夜(よ)のこと、この婦人が娘を片脇に寝かせつけて、縫い物なんどしておったところが、ふと端(はた)を見れば、
――年の頃二十(はたち)ばかりの女が独り
――忽然と現われ
――その寝ておる子(こお)の脇に
――凝っと
――坐っておる。……
奥方、内心ひどく驚いたものの、よほど、勇気稀に見る強き婦人ででも御座ったらしく、その妖しき女に向かい、
「……どちらから参られたのじゃ?」
と静かに訊ねた。
が、一向、答えも御座らぬ。
されば、なお、
「何のために来られたのじゃ?」
と再三訊ねた。
が、また答えも、これ、ない。
さればとて、仕方なく、その影薄き姿を凝っと――見詰めて御座ったと申す。
――が
――ほどのぅ
――何時の間にやら……一体どこへ消えたものやら……影も形も見えずなって御座ったと申す。
翌日、その家(や)に老女中の御座ったゆえ、奥方は、二十ばかりの、かくかくの女が昨夜来たったこと、その容貌・有様なんども含め、詳しぅ語って聞かせたところが、老女は真っ蒼になって、
「……そ、それは……とうに、お亡くなりになった……先の奧方さまに……相違御座いませぬ。……」
と申した。
すると、それを聴いた奥方は、
「……妾(わらわ)に恨みを持っておるようには全く見えず御座った。……されば、出生(しゅっしょう)致いた娘子(むすめご)に心が残ってのことで御座いましょう。……妾が今、この家(いえ)へ嫁して参った上は――小児は妾が産んだ子も同じこと――どうして育(はごく)むにおろそかになど致すもので御座ろうか――実の子(こお)より大事大事に致いて御座いまするに。……心の残って、未だこの世に迷うておらるることの、何と、いたわしいことか。……」
と呟かれたと申す。
さてまた、その夜(よ)のことで御座った。
奥方が後架(こうか)へ立たれたところが、
――前夜の女が再び
――今度はこともあろうに
――後架の窓より内へぬっと顔を突き入れて御座ったと申す。
これ、普通の婦人で御座ったれば、金切り声を張り挙げ、気絶すること間違いなきことなれど、やはりこの婦人、尋常の婦人にては御座らなんだ。
静かにかの女の霊に向き直ると、
「……御身は、先の奧方で御座ろう。……年若き男の、最愛の妻に死に別れては、またの妻をお迎えにならるるも、これ、常のことなればこそ、妾に恨みのあって、現われなすったのでは御座るまい。……あの、幼き子(こお)のことが、これ、心に残ってのこととお察し申しまする。――我らこと、ここに嫁(か)し来たった上は――かのあなたさまの子(こお)は――則ち、我が子同然なればこそ――御身に勝って慈しみ育(はごく)む覚悟なれば――どうか、ご安堵なされ、お迷いになられ給うな。――」
と申したところが、かの女の霊は忽然と姿の消え失せたと申す。
その後(のち)は、かつてそのような怪事の起こることも、これなく、御旗本も大いに栄えたと、申すことで御座った。
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