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2013/08/14

偕老同穴蟲 萩原朔太郎

       ●偕老同穴蟲

 

 我々の國に於ては、しばしば配偶生活が偕老同穴蟲にたとえられる。そして悲しいか。じつさいにこの比喩は當つてゐるのだ。

 偕老同穴蟲の配偶は、全く偶然の運命によって決定される。ある海潮のしづかな流れが、一の硅質の網籠にまで、一對の甲殼蟲を閉ぢこめる。かくして大海に生棲している、無數の同屬中での或る任意の一對が廻合するとき、直ちにその配偶生活が始まつてくる。即ち彼等の婚姻は、氣流や海潮が運ぶところの、氣まぐれの「運」に任せてあり、その配偶の選擇は、いつさい「偶然」が決定する。しかもかくして、一旦定められた偶然の配偶は、彼等が共に老いて死ぬまで、生涯を通じて變ることなく、宿命的に結合された夫婦である。何となればその網籠には、どこにも自由の出口がなく、一旦閉じこめられた以上には、もはや終生出ることができないから。

 偕老同穴蟲。意識なく個性なき海中の微生物の場合にあつては、この自然の結婚法が最も滿足にして完全なものであるだらう。何となれば彼等は、その同種屬たる限りに於て、AもBもCもDも、すべてが全く同一の衝動體にすぎない故、任意に選ばれた二箇のものは、常に必らず最善の配偶である。この場合での結婚とは、性を異にする二箇の物質が、自然の盲目的な媒介――運や偶然や――によって結合し、選り好みなき生殖生活をするものにすぎない。

 人間の場合に於て、萬物の靈長たる人間の場合に於て、これがまた同樣にそうであるならば! 人と人の配偶が、もしBの代りにCを取り、Cの代りに任意の一を取りうるような、天運任せの抽籤的結合であるならば、いかに人間の結婚は非倫であり、みじめな、下等動物的のものにすぎないだらう。しかも世の所謂「夫婦」とは、概ねただ偶然の機會によつて、殆ど多くの選り好みなく、運命的に、抽籤的に結合したものにすぎないのだ。社會はこれを結婚と呼び、外面的な儀式によって神聖化してる。ただ儀式だけが、空虛な胡魔化しの形式だけが、所謂「人倫」を觀念づけてる。だがその儀式を除いてみよう。あらゆる多くの配偶者は、眞に文字通りの「野合」である。即ち人格と人格との配偶でなく、性と性との、細胞物質と物質との、一般的なる選擇なき結合である。

 偕老同穴蟲的動物――。いかに歴史の長い間、人間はこの非倫的なる、下等動物的なる結婚を續けて來たことぞ。過去に於ても、現在に於ても、我々の結婚は常に盲目的で、偶然の「緣」により、豫想のつかない「運」によって、配偶者の盲籤を引きあてている。何人も、結婚してしまつた後になって、逆に初めて配偶者の何者たるかを――眞にいかなる人物てあったかを――知る。結婚の前にあつては、單に異性であることの外、漠然たるよそ行きの概念の外、どんな具體的の人物も知つていない。我々は無鐵砲に、運を天に任せて、豫想のつかない結婚をする。ただその日の天候が、氣流が、潮の滿干の流れが、我々の自由意志と交渉なく、ある偶然の配偶を運んでくる。人は結婚せねばならない。しかしながら何物が、どんな方面から、いかにしていつ求婚してくるかを知らない。一切の配偶は緣であり、豫想のつかない、偶然の支配に屬している。(それ故に、結果の幸不幸も、また偶然の運である。)

 實に數千年の長い間、人は「偶然」によつて結婚し、しかも生涯を通じて離れず、概ね貞操ある夫婦として過して來た。(何となれば道德が、法律が、社會の制度が、別して子供への責任などが、それの出口を塞いでいるから。)げに人間のみじめさは、よくも數千年の歷史を通じて、偕老同穴蟲たる運命を忍んできた!

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊の「虛妄の正義」の冒頭の「結婚と女性」より。早くも六節目に現われるネガティヴなアフォリズムである。太字「悲しいかな」「しまつた」は底本では傍点「●」。「偕老同穴蟲」以下に示す海綿カイロウドウケツの中に雌雄で閉じ込められて一生を終わるとされるカイロウドウケツエビのこと。萩原朔太郎の本考察を考える上で非常に重要となるので、以下、私が丘淺次郎「生物學講話」で附けたそれらの生物についての注を引用しておく。

 まず、棲家となるカイロウドウケツ。

 海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目カイロウドウケツ科カイロウドウケツ Euplectella aspergillum。英名 Venus’ Flower Basket。種名のエウプレクテラは、ギリシャ語の“eu”「上手に」+“plektos”「編まれた」に由来し(学名解説は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「カイロウドウケツ」に拠る)、和名「偕老同穴」は、本来は「詩経」邶風(はいふう)の「撃鼓」に出る「偕老」と、同書王風の「大車」に出る「同穴」を続けて言った、生きては共に老い、死んでは同じ墓に葬られるの意の、夫婦が仲睦まじく、契りの堅固なことを言う故事成句を、ここで示されたように海綿内に雌雄一対で死ぬまで共生するドウケツエビ Spongicola venusta (後注参照)の様態に比して命名されたもの(共生エビから逆に遡及して名付けられたものではあるものの、私は海産動物の中でもとても素晴らしい和名命名であると思う)。二酸化ケイ素(ガラス質)の骨格(骨片)を持ち、ガラス海綿とも呼ばれる。本邦では相模湾や駿河湾など一〇〇〇メートル程度の深海底に限られており、砂や泥の深海平原を好む。以下、参照したウィキの「カイロウドウケツ」より引用する(アラビア数字は漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『円筒状の海綿で、海底に固着して生活している。体長は五~二〇センチメートルほど、円筒形の先端は閉じ、基部は次第に細くなって髭状となり接地している。円筒の内部に広い胃腔を持ち、プランクトンなどの有機物粒子を捕食している』。『パレンキメラ(parenchymella)と呼ばれる幼生を経て発生』、『成体となったカイロウドウケツの表皮や襟細胞、柱梁組織(中膠)といった体の大部分はシンシチウム(共通の細胞質中に核が散在する多核体)である』。カイロウドウケツの体部を構成する『骨片は人間の髪の毛ほどの細さの繊維状ガラスであり、これが織り合わされて網目状の骨格を為している。これは海水中からケイ酸を取り込み、二酸化ケイ素へと変換されて作られたものである。このような珪酸化作用はカイロウドウケツに限ったものではなく、他の海綿(Tethya aurantium など)も同様の経路でガラスの骨片を作り、体内に保持している。これらのガラス質構造はSDVsilica deposition vesicle)と呼ばれる細胞小器官で作られ、その後適切な場所に配置される。カイロウドウケツのガラス繊維は互いの繊維が二次的なケイ酸沈着物で連結されており、独特の網目構造を形作っている。ガラス繊維には少量のナトリウム、アルミニウム、カリウム、カルシウムといった元素が不純物として含まれる。なお、普通海綿綱の海綿が持つ海綿質繊維(スポンジン)は、カイロウドウケツには見られない』。深海を生息域とするが、『骨格が珪酸質で比較的保存されやすい事、形状が美しい事から、打ち上げなどの形でしばしば人目に触れる機会があった。ヴィクトリア朝時代のイギリスでは非常に人気があり、当時は五ギニー(現在の貨幣価値で三〇〇〇ポンド以上)ほどの値段で売買されたという』(二〇一二年一〇月現在の為替レートでは約三十八万円強であるが、ヴィクトリア朝時代当時は変動が激しく確定出来ないものの、ネット上のある記載では一ポンドは少なくとも五万円相当とあるので、何と一億五千万円に相当する)。但し、当時のヨーロッパでは専ら、中国の名工が人工的に作物した工芸品と捉えられていたようである。本邦の文献上では、「平治物語」『の中に「偕老同穴の契り深かりし入道にはおくれ給ひぬ」(上巻第六)というくだりがある。現在でもカイロウドウケツは結納の際の縁起物として需要がある』とする(荒俣氏の記載にはドイツの動物学者ドーフラインの「東アジア旅行記」(一九〇六年)に載る逸話として、シーボルトがミュンヘン博物館のためにフィリピンからカイロウドウケツを取り寄せた際、税関で高価な工芸品として高額の関税が掛けられそうになり、シーボルトが「これは動物(の骨格)である」と必死に説明してことなきを得たという面白い話を記しておられる)。現在は『工業的な側面から、カイロウドウケツのガラス繊維形成に着目する向きもある。例えば光ファイバーに用いるようなガラス繊維の製造には高温条件が必須であるが、カイロウドウケツはこれを生体内、つまり低温で形成する。またこのガラス繊維を構成する二酸化ケイ素は結晶質ではなくアモルファスであり、かつ光ファイバーと同じように屈折率の異なるコアとクラッドの構造を持』っており、『光ファイバーよりも細く曲げに対しても強い。このような低温条件での繊維形成制御機構を解明し、いわゆるナノテクノロジーや光学用途へ応用する事が期待されている。』とある。昏い深海にひっそりと佇むウェヌス(ビーナス)の籠が、未来の鮮やかな光明となる可能性――これこそヒトが手にした素晴らしい光である――チェレンコフの業火など――いらない。

 次にその中に永遠に閉じ込められるカイロウドウケツエビについて。

 上記の海綿カイロウドウケツEuplectella aspergillum の網目構造内の胃腔の中に片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta。このエビは幼生のうちにカイロウドウケツ内に入り込み、そこで成長して網目の間隙よりも大きくなって、外部に出られない状態となる。多くの場合、丘先生の述べられた如く、一つのカイロウドウケツの中に雌雄一対のドウケツエビが棲んでおり、二匹が海綿内で一生を過ごす。なお、編み目から入るときには雌雄は未分化の状態で、内部でやがて分化する。ドウケツエビは、海綿の食べ残しやガラス繊維に引っかかった有機物を食べて生活している。また、カイロウドウケツの網目がドウケツエビを捕食者から守る効果もあるとされる(以上はウィキの「カイロウドウケツ」の解説中の「ドウケツエビ」の項を主に参照した)。

 丘浅次郎先生はこの一対のドウケツエビの夫婦和合を非常に高く評価されておられるのだが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「カイロウドウケツ」には非常に興味深い反論が示されている。まず、

●生物学者牧川鷹之祐は昭和九(一九三四)年の雑誌『植物及動物』の「生物関係の語彙集 Ⅲ」の中でこのエビにつき、『はたして古人の思ったとおり幸福円満といえるのか』、小さな時にたまたま入って出られなくなって、遂に一生を終えねばならないものであるなら、『これを夫婦和合の象徴として珍重するのはちょっと考えものではなかろうか』と疑義を呈しているのである。また、

●動物学者岡田要も、カイロウドウケツの内部に於いてはその初期、複数個体がいて、それらが『激しい生存競争結果、』互角の二匹だけが生き残る、しかも時には三匹が一つ穴に入っていて(と語っているのはそのようなカイロウドウケツの個体を岡田氏は複数回観察しているということらしい)『三角関係になっている』。『その何がおめでたいのか、とつねづね語っていたと伝えられる』

とあるのである。――私はこれを非常に面白く読んだ。それは丘・牧川・岡田という同じ生物学者が

×『ドウケツエビが幸か不幸か』を考えている

――のではなく――

それぞれ丘・牧川・岡田という男(♂)の女性観や夫婦観、ひいては人生観の違いが微妙に作用して、このドウケツエビの様態を、

◎『自分自身だったら幸か不幸か』になぞらえて考えている

からである。

×この何れが正しいのかを考えること

は無益である。

――が――

□こう考えるそれぞれの学者先生一人ひとりが、どういう男(♂)であったかを考えてみること

――これは――

頗る面白い。誰がどうだと非難したいのでは毛頭、ない。しかし例えば、

――三角関係になるのはまっぴらだ、と『つねづね語っていた』という岡田先生は、もしかすると三角関係で辛酸を嘗めたのかも知れない(勿論、そんな「こゝろ」みたような地獄を知らずに今の妻と円満でいられるのは幸せだ、と考えたのでもよい)。

――自分の意思に反して、選ぶ自由もなしに、女(♀)を与えられて、家から出られなくなって、遂に一生を終えねばならないなんて悲し過ぎる、と考えた感じのする牧川先生も、もしかすると自分の身に引き比べて考えているような雰囲気がありはしないか(勿論、それが牧川先生が相思相愛の夫婦であったからというポジティヴな認識に基づくものであっても一向に構わない)。

――私は小学生の時に図鑑で読んだ時から今に至るまで、丘先生と同じように感じ続けてきたし、三者の意見を比較している今現在も、それは変わらない。だからと言って――私が『後に入り來るものがあつても、これを食ひ殺すか、追い退けるかして、家庭の平和を保つことに努め』たかどうか――『少量の餌を食つて滿足し、外に出て大いに活動するといふやうな野心は夢にも起こさず、明けても暮れても夫婦差向ひで、雄の方も嚴重に貞操を守り、或る種の女權論者の理想とする所を實現して居る』という稀有の至福の夫婦像を思い描きながらも、実際の私と私の妻との夫婦生活が、それを一分たりとも実現しているかどうかは――これまた――別問題なのである……]

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