『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 惠比壽樓
●旅館
◎惠比壽樓
惠比壽樓(ゑびすらう)は鳥居際にあり、江の島第一の旅館にして、眺望の絕美なる、料理の新鮮なる、優に江の島に冠(くわん)たり。
片瀨の棧橋を蹈(ふ)め、よせてはかへす浦浪白く砂(いさご)を捲(ま)き、日夜洗はるゝ海濱。江の島は近くに浮びて、巖角(がんかく)秀(ひい)づる處、双尾の鯛の溌溂(はつらつ)として甍(いらか)に宿するの家屋、ゑびすやと頷(うな)づくも名うての旅館なればなるべし。
客間 江の島に遊ばゝ此の樓を訪れよかし、旭の間、月見の間、鶴、龜、松、竹の間、雪見、富士見の間、桐の間、松望室、見晴、廣間、二階三階、客室の數は算(かぞ)へがたし、同家にては、この客間を別莊と稱せり。
鮮鱗潑溂 宿の女浴衣(ゆかた)を持ち來りて、風呂に召せといふ、欄に凭れて四邊(あたり)の風光をながめつゝ待つ間(ま)程なく、膳は運ばれて銚子の數も重ねつ、海老は皿に盛られて新らしく、鯛は椀に浮びてあざやかななり。
[やぶちゃん字注:「鮮鱗潑溂」の底本の傍点「●」は「鮮鱗潑」までしかないが、誤植と見て「溂」まで太字にした。]
運動場 後背の山にあり、紅鼻緖(べにはなを)の草履穿いて運動かてらに上る石段二三十段を拾ふて、崖腹に稻荷社あり、頂は廣く眺望頗る絕佳、碑文あり。
住み馴れて居ても凉しや島の月 泉山
泉山は樓主(らうしゆ)なり、俳諧を好み、感吟多し。嘗て龍燈の松の下蔭に憩ひて。
龍燈の松や島根の夏木立 泉山
眺望 挿畫に示すは、旭(あさひ)の間の眺望にして、烟波萬里水天髣髴(えんぱばんりすゐてんはうふつ)の間に遠く鋸山(のこぎりやま)を望み、三浦三崎逗子の濱邊は薄墨もて描かれつ、稻村が崎七里ケ濱、さては小動(こゆるぎ)腰越の磯まぢかく立ち龍口寺は伽藍の屋根を見せて、片瀨川の水淸く流れ、棧橋を渡りくる遊客(ひと)の數さへよまれつ、藤澤の遊行寺鵠沼邊漸く逃げて、遙かに大山の峻嶺左に聳ゆ。三十八疊の大廣間、百花はりまぜの銀屛風二双。「好山天展畫圖春」と題する額面は聽雨居士の筆する所。躑躅(つゝじ)の床柱、寸莎(すさ)の塗り壁、床の間には貝の置物、都人士には珍し。懸軸あり。
[やぶちゃん注:以下の七言漢詩は続けて書かれている(結句は分断されるために二行目にある)が、一段組で示した。]
去年今日扈鑾輿。
咫尺天顏閲羽書。
一轉乾坤事如夢。
湘南烟憶水鱸魚。 春畝閑人
東雲(しのゝめ)の空、紫の霞は潮(うしほ)と堺を隈りて夜(よ)は明けむとしつ、群靑の上に胡粉もて畫きしやうなる帆の影は幾つともなく波に浮びて、包むや朝霧の絕え間(ま)に島山(しまやま)の見え隱れするも心ゆく限なれ、旭のきらきらと波の上に照りまさりたる一層(ひとしほ)の咏め優り咏め優りて、海面(うみづら)には小舟のりいだして生簀(いけす)の魚を捕りに行くも、我等が今朝(けさ)の馳走(ちそう)なるべし。
[やぶちゃん注:「恵比寿屋」として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。公式サイトのトップには創業三百五十余年とあり、『島に弁天 旅館は恵比寿』という恐らくは古くからのキャッチ・フレーズを配する。絢爛たる形容、強力なるタイアップ記載である。挿絵は早々と「不老門」と「鐘の銘」の間、八頁と九頁の間に挿入の多色刷見開き二頁で載る。旭の間の右に上方に吹出のように全景を楕円で描く(全景の左上海上の空の部分に「住み馴れて/居てもすゝしや/島の月/ゑひす樓/主人/泉山(落款)」とある)。旭の間の中央で客に対座する好々爺が描かれているが、彼のこちら側にいる御婦人の持つ(と思われる)団扇が老爺の胸にかかっているが、そこには「龍燈の/まつや/島根の/夏木立/ゑびす樓/主人(落款)」と認められ、この老人が永野泉山(後述)かとも見られる。
「泉山は樓主なり」永野泉山(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)は恵比壽楼の第十六代主人。本名、政康。明治期の江の島俳壇で門下の育成に努めた。この「住みなれて居てもすゞしや嶋の月」と彫られた句碑(明治三一(一八九八)年十一月十五日建立)が恵比壽屋門内右手に、「明治子に茂どることしやいはいきぬ」と彫った永野泉山還暦記念碑(明治三四(一九〇一)年建立)が辺津宮表参道女坂に現存する。
「寸莎(すさ)」苆莎とも書く。壁土に混ぜて罅割れを防ぐつなぎにする材料。荒壁には藁を、上塗りには麻または紙を用いる。壁苆(かべすさ)・つたともいう。
「春畝閑人」伊藤博文の雅号。本詩には訓点がないが、我流で書き下す。
去年(こぞ)の今日(けふ) 鑾輿(らんよ)に扈(したが)ふ
咫尺(しせき)の天顏 羽書を閲(けみ)す
一轉 乾坤 事 夢のごとし
湘南の烟水 鱸魚を憶ふ
・「鑾輿」天子の乗る車。
・「咫尺の天顏」真直に拝する天皇の尊顔。
・「羽書」羽檄(うげき)。急を要する檄文。昔、中国で緊急の触れ文に鳥の羽を挟んだ故事による。飛檄(ひげき)。但し、この檄文が何を意味するのかは不明。もしかすると伊藤博文が明治二五(一八九二)年に大成会を基盤とした政党結成を主張するも天皇の反対により頓挫したことと関係するか。明治天皇は明治二四(一八九一)年十月二十四日から二十六日にかけて近衛兵秋期演習観戦のために藤沢町や六会村を視察しているが、この折りに江ノ島に来島したものか。「羽書」の推測の時期とは一致する。]
【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】
山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島恵比寿楼と同旅館内の旭の間からの景観の図(着色)
[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の三枚目。上部欄外中央に「惠比壽樓全景並ニ同樓旭の間の圖」とキャプションがある。私のスキャン機器の関係上、下部が、右手が一・五センチメートル、左が七ミリメートル、を大きく二・九センチメートルほどカットしてある。右下には唯一、強い朱で描いた塗り盆の上の急須と鮮やかな黄色い茶菓が描かれてあるのであるが、最大限、左方の月と景色を優先したため、せっかくのピン・ポイントのカラーであるが、省略した。
「旭の間」という名と景観から、同楼のコテージ(本文によれば「別荘」)の内、東寄りの海際と考えられ、上図の大棟の端に鯱鉾上の鳥衾(とりぶすま)の付くそれの可能性が高いか(実際に泊まって宿に聴けば分かるとは思うが、流石に直近過ぎてちょっと泊まることはあるまいから、何方かお教え願えれば幸いである)。
本文記事の気持の悪いほどのベタ褒めは、現行のガイド・ブック同様、全く以って一大提携広告見たようなものであって、『風俗畫報』編集部は、これ、相当な広告料と饗応を恵比寿屋主人からせしめたものと思われる。恐らくは中央の団扇を持った老人が当時の主人である十六代永野政康ではないかと思われる(本文の私の注を参照されたい)。
既に前の注で述べたが、二枚の画中に俳句が記されており、上の全景図中の句が、
住馴れて
居ても
すゝしや
島の月
ゑひす樓
主人
泉山(落款)
で(「すゝしや」は「涼しや」)、大きな旭の間の図中の、背を向けた浴衣姿の婦人が持っていると思われる団扇に何気なく書かれているそれが、
龍燈の
まつや
嶋根の
庭木立
ゑびす樓 (落款)
主人
とあり(「まつ」は松)、やはり述べた通り、この「泉山」は実は主人永野政康の俳号である。底本の澤壽郎先生の解説に、『「住馴れて」の句は、いまでも江の島土産の手拭に染め抜かれい』るとある。今度行ったら、買って、アップしようと思う。
左手の少女が、背後ながら、実に可愛らしい。]
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