霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 「ひげ・いてふ」 の歌 五首 中島敦
(以下五首 ひげ・いてふの歌)
我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏(ふたもといてふ)
ユウゴオが鬚にかも似る冬枯の增德院の二本銀杏
冬來れば二本銀杏鬚めきてそゝけ立ちぬと人に告げこそ
朝づく日今を射し來(く)と大銀杏黄金の砂を空に息吹くも
朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む
[やぶちゃん注:「增德院」かつて元町一丁目現在の元町プラザの位置にあった真言宗準別格本山増徳院。現在、地図上では「増徳院元町薬師堂」とあるが、これは旧寺地に昭和四七(一九七二)年に再建された薬師堂である。増徳院は九世紀初頭大同年間の創立と伝えられる(記録は残っていない)古くから元町の中心としてあり、元町自身がこの寺の門前町的存在として発展した。震災後、昭和三(一九二八)年に南区平楽に移築再建され、第二次世界大戦の戦災を経て、その殆んどが平楽へ移ってしまった(ここまでは主に初がつお氏のブログ「竹輪の芯」の「増徳院、元町薬師」を参照させて戴いた)。この寺にはどこからでも見える二本の大銀杏があったが、震災で寺全体が壊滅的な被害を受けた際に、この銀杏も深刻なダメージを受けたと郷土史関連の本に書かれてあり(にしてもこれらの中島の歌は明らかに昭和八(一九三三)年(横浜高等女学校奉職の年。なお、彼が本格的に横浜市中区本郷町に一家を構えたのは昭和一一(一九三六)年三月初旬である)から同一二(一九三七)年の間で詠まれたもので、その時には未だ黄葉した葉を茂らせていたことが分かる)、現存もしないようであるから、恐らく中島が本歌を詠んだ後に立ち枯れたか、第二次世界大戦の空襲などによって焼失したものかと考えられる。この「鬚銀杏」(特にその消失)について識者の御教授を更に乞うものである。因みに現在我々が外人墓地として認識している場所は、元来はこの増徳院の境内墓地で、平成の初期までは増徳院による供養が実際に行われていた(ここはウィキの「横浜外国人墓地」による)。]

