栂尾明恵上人伝記 59 明恵、泰時の荘園寄贈を固辞す
次の歳、義時朝臣逝去して、彼の泰時、天下の事、掌(たなごゝろ)に握られける最初に、丹波の國に大庄一所、梅尾に寄進せられたりければ、上人仰せられけるは、かゝる寺に所領だにも候へば、住する僧ども何と惰懶懈怠(らんだげたい)に振舞ふとも、所領あれば僧食(そうじき)事(こと)闕(か)けまじ、衣裝も補ひぬべしなんど思ひて、無道心なる者ども籠り居て、彌(いよいよ)不當(ふたう)にのみ成り行き候べし。寺の豐(ゆたか)なるに耽りて兒(ちご)ども取り置き酒盛(さかもり)し、兵具(へいぐ)を提げ不思議の振舞ひ勝て計ふべからず。さもとある山寺の、佛の禁(とゞ)めに違ひてあさましく成り行くは、是より事起れり。只僧は貧にして人の恭敬(くきやう)を衣食とすれば、自ら放逸なる事なし。信々として實しく行道する處は、さすが末代なりと雖も、十方檀那の信仰も甚しければ、自然に法輪も食輪(じきりん)も盛なり。不律不如法(ふりつふによはふ)の僧侶の肩を並ぶる所は、只俗家に謗法(ばうはふ)の罪を與ふるのみにあらず、信仰歸依の輩も無ければ、日に隨つて衰微して荒廢の地とのみなれり。されば共に誠の本意にあらねども二つをくらぶれば、人の貴敬せざらんことに憚りて不律儀(ふりつぎ)に振舞はざるは、暫く法命(はふみやう)を嗣ぐ方はまさるべく候なり。又所領の寄りてよかるべき寺も候はんずれば、左樣の所に御計らひなんども候べし。かゝる寺に所領なんどの候はんは、中々法の爲には宜しからじと覺え候。返す返す加樣(かやう)に佛法を崇め給ふことありがたく候へども、此の所に限りて存ずる旨候とて返し奉られけり。
[やぶちゃん注:「次の歳、義時朝臣逝去して」誤り。第二代執権北条義時は承久の乱から三年後の貞応三(一二二四)年六月十三日に享年六十二で急逝した(「吾妻鏡」によれば脚気衝心のためとする)。
「泰時、天下の事、掌に握られける」北条泰時は同年六月十七日に六波羅探題を退任し、六月二十八日に執権となった(この前後に泰時の継母伊賀の方が実子政村を次期執権に擁立しようとしたとされる伊賀氏の変が起こっている)。
「大庄」大規模な荘園。
「惰懶(らんだ)」講談社文庫「明惠上人伝記」もこの語順。岩波版は「懶堕(らんだ)」とする。錯字のように思われるがママとした。]
秋田城介義景は、其の後出家して上人の御弟子に成りて、大蓮房覺知(だいれんぼうかくち)とぞ云ひける。
[やぶちゃん注:父安達景盛の誤り。前注済。これが誤りであることは「大蓮房覺知」(「知」は正しくは「智」であるがしばしば通字とされる)がまさに景盛の法名であることからも分かる(義景の法名は「願智」である)。]
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