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2013/08/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 24 ホイスト・ゲーム / 松浦佐用彦のこと

 昨晩私はカルタで不思議な経験をした。学生達が私のところへやって来て、その中の一人が、私の「君達はウイストを知っているか」という質問を、了解する丈の英語を知っていた。出来ると思う者もいたので、私は椅子若干を工面し、円卓を片づけて、さて札をくばって見ると、彼等が札の価値さえも知らぬことがわかった。彼等はジャックと女王とを区別するのにさえ骨を折った。私の質問が誤解されたのである。カードとウイストとは同意語であるらしい。だが、彼等は即座にこの遊戯に興味を待った。勿論それは無茶苦茶だったが、然し私は学生達が気がよくて丁寧なのをうれしく思った。椅子は彼等を痛めたらしく、しばらくすると彼等は畳の上に坐るように、椅子の上に坐って了った。

[やぶちゃん注:「ウイスト」原文“whist”。ホイストとはイギリスを発祥とするトランプを用いたナポレオンに似たゲームの一つ。四人が二人ずつ二チームに分かれて勝敗を争う。現在はあまりプレイされることはないが、十八世紀から十九世紀にかけて流行した。ブリッジの元になった伝統的なゲームだそうである。私はこうしたゲーム類には疎いのでウィキの「ホイスト」を参照されたい。]

 

 今日松浦という、はきはきした立派な男が、大学の特別学生として私に逢いに来た。松村及び料理番と石油ランプを二つ持って、例の洞窟を訪れ、ランプの光で洞窟蟋蟀(こおろぎ)その他の昆虫をかなり沢山採集した。これ等はすべて石の下や、古い材木の下にいるのと同じような、薄明の形式をしていた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これはやはり八月下旬の出来事である。先に示した同時期の東大の下見の記載の直後に、『同じ頃、松浦佐用彦(まつらさよひこ)が江ノ島に来た。佐々木忠二郎とともに生物学科第一回生となって秀才。モースはこの松浦と松村を伴って洞窟を再訪、昆虫類を採集している』とある(『佐々木忠二郎』とは後の昆虫学者佐々木忠次郎(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)。近代養蚕学・製糸学の開拓者)。上谷桜池氏の「谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー」(非常に優れたサイトである)の「谷中墓地」に松浦佐用彦墓碑の詳細が載る。HP下部に『そう遠くない将来当サイトを閉鎖する予定です。何の保証も致しかねますがソースフリーですので、ご利用ください。』とあるので、全文と画像二枚(墓碑と裏面のモースの献辞文)を引用させて頂く。この場を借りて上谷桜池氏に感謝申し上げる(病気療養中とのこと、どうか御大切に)。なお、この没年は誤りで彼の死(病死)は翌明治一一(一八七八)年のことである(磯野先生別論文により確認。これではモースは松浦の幽霊と洞窟探検したことになってしまう)。

   《引用開始》

松浦佐用彦(まつうらさよひこ) 安政4年~明治10年7月5日(一八五七―一八七七)

大森貝塚発掘者モースの助手・東京大学創生期の動物学者。名、佐譽彦。高知県出身。明治10年(1877)モース博士がアメリカから来日し、東京大学の教授となると、モース教授の動物学教室に集まった俊才の一人。モースと共に大森貝塚を調査する。病気のため学生のときに没する。

墓は、谷中霊園乙6号2側。正面「高知県松浦左用彦墓」。東京大学有志により建てられた。裏に、モースの献辞文が英語で書かれている。モースが遺した唯一の石碑である。墓碑裏には、享年22歳とある。

 

A Faithful student, a sincere freiend. a lover of nature. Holding the belife that in moral as well as in physical questions. "The ultimate court of appeal is observation and experiment, and not authority" Such was Matsura. Edward S. Mors

 

「忠実な学生、誠実な友人、自然を愛する人。モラールにおいてのみならず物質的な問題でも“最後に訴えるべき所は、権威ではなく、観察と実験だ”との信念を持ち続けた。これが松浦だった。

 

谷中墓地で関係のある人々は、外山正一、矢田部良吉、石川千代松、田中芳男。

Matsuurasayohikoa_4
Matsuurasayohikob_3
        モースの献辞文


   《引用終了》

この献辞……とってもいい。

21歳の青年学徒……たった一年付き合っただけの、かのモース先生から……これだけの賛辞を受けたプエル・エテルヌス(永遠の少年)……

「薄明の形式をしていた」原文“They were all twilight forms”所謂、真洞穴性生物(ここでの“twilight”とは薄明とか微光という名詞ではなく、闇に包まれたという形容詞であろう)の形態を指している。例えば体色の白化傾向・眼の退化(及びそれに伴う触覚等の別器官の発達や触覚器官としての付属肢の伸長)・外骨格の薄化・新陳代謝率の低下と動作の緩慢性等を指していよう。]

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