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2013/08/09

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 16 岩本楼

    ◎岩本樓

一の鳥居を過ぎて、右にある旅館を岩本樓といふ、昔は岩本院と號し、一山の總別當職を勤む、江の島に遊ぶものは必ず此の院に宿す、給仕には稚兒あまた侍りぬるとかや。

いづれの旅館も風景は絶美なるも、富岳を望むは當樓を第一とす、遠くは烏帽子岩を中にして、右の方は大磯より箱根あたり霞の間にながめ、洗ひ出でたる富士の根は、靜かに扶桑の美を收めて、高く雲表に傑出し、淡靄(たんあい)かすかに裾を罩めて空の匂ひいと深かし、此室(このしつ)を望岳亭と題す。

 正面に江の島臺のふしねを

      さゝけいでたる岩本の院    蜀 山 人

右は有名なる太田蜀山人の詠なり、三島中洲また此の樓に宿して一詩を題す。

[やぶちゃん注:以下の七言漢詩は続けて書かれている(結句は分断されるために二行目にある)が、一段組で示した。後書は一続きであるが適宜切って改行した。]

 波光嵐影遶欄濃。

 憶昔靑年駐客蹤。

 白髮滿頭人已老。

 依然樓上舊芙蓉。

   戊子九月宿江島望嶽亭書

   感距今卅年前余少年負笈

   遊江戸始過此故及

樓主は維新後復職して神官となりしも、先年歿命(みまか)りて、今は岩本たけ女主の名なり。又當山の本尊、空海上人の作辨財天女の木像は、傳へて同樓にあり、其他古文書寶物多く所藏すれども、女主秘して示さず、因にいふ、戯場(ぎじゃう)にて演ずる辨天小僧、岩本院の稚兒あがりとは事實なる由。

[やぶちゃん注:現存。鎌倉時代の岩本坊に遡るため、公式サイトでも創生から七百四十年とする。挿絵は後の方の見開き単色図版の左右上部にある。左頁上部全面と右に少しかかって中央に富士を配した図、右頁上にやや小さな全景図を描く(下は右頁が「各旅館の圖」、左下方が「貝細工商店の圖」となっている)。

「正面に……」の太田南畝蜀山人の狂歌は、

 正面に江の島薹(うてな)の不二の嶽(ね)を捧げ出でたる岩本の院

と読む。

「三島中洲」(みしまちゅうしゅう 文政一三(一八三一)年~大正八(一九一九)年)は漢学者。東京高等師範学校教授・新治裁判所長・大審院判事・東京帝国大学教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した、明治の三大文宗(他二人は重野安繹と川田甕江)の一人。漢学塾二松學舍(現在の二松學舍大学の前身)の創立者。旧備中松山藩藩士。安政五(一八五八)年二十八歳の時に藩主の許可を得て江戸に出、昌平黌に入っている。更に本詩の後書には「戊子」(つちのえね・ぼし)とあり、これは明治二一(一八八八)年に相当し、きっかり三十年後となる。この詩にはその初めての入府の際に江の島に立ち寄った際の思い出に基づくものである。文宗に対して失礼ながら、七絶と後書きを我流で書き下しておく。

 

 波光 嵐影 欄を遶りて濃し

 昔を憶へば 靑年 客として蹤(あと)を駐(とど)む

 白髮 滿頭 人 已に老いたり

 依然たり 樓上 舊(きふ)芙蓉

 

戊子九月、江島望嶽亭に宿して書す。感ずるに、今を距つこと卅年前余、少年、笈(きふ)を負ひて江戸に遊び、始めて此を過ぎし故に及べり。

 

後書きの末尾の読みが覚束ない。識者の御教授を乞う。]
 

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

 

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 岩本楼の図(二枚)

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の二枚。見開きのページにある四枚の内から当該の二枚をトリミングした(他二枚は、江の島参道の「各旅館の圖」「貝細工商店の圖」でこれは本日、新規記事として掲げる)。一枚目の小さな方の右上に「岩本樓」(全景図)、横長の方の上部欄外中央に「岩本樓の上より冨嶽を望む圖」とキャプションがある。

 E.S.モースは江ノ島に日本初の臨界実験所を数ヶ月稼働させた間、その殆んどの期間はこの岩本楼に滞在したが、彼がいたのは全景図左手の三階建の建物の前身である(電子テクストカテゴリー「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳を参照されたい。私は一番最初に私の愛する江の島から入りたくて、「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」より開始した。ずっと下部にリストが出る)。また丁度、まさにこの富士を望む位置の部屋に三年前、父と亡き義父を招待して泊まって貰ったのも思い出す。]

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