日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 1 江の島から東京大学研究室まで
八月二十八日。今日は荷物を詰めるので大多忙だった。小便も、特別学生も、病気になったので、この仕事は松村と私とに振りかかって来た。我々がやとった車夫達は、例の通り手伝う事を申し出たので、私は彼等に麦藁をきざませたが、日本人はいろいろなことを器用にやるから、我々よりも上手に、荷を詰めたかも知れぬ。水曜日の朝、我々は人力車を五台つらねて出発した。箱、曳網、その他、及び人を四人のせた舟は、翌日まで出帆出来ないので、荷ごしらえの残部は小使にさせることにした。繊弱過ぎて詰めることの出来ない標本は、大きな、浅い籠に入れた。大きな、細い枝を出した珊瑚(さんご)は、板に坐布団をくくりつけてその上に置き、料理番がこれを東京へ着く迄膝の上に乗せて行った。我々はみな標本を入れた籠を一つずつ持ち、最後の人力車には荷物を積んだ。図191は、三十マイル以上を走って東京へ向うべく出発した時の一行の有様を、朧(おぼろ)げながらも示したものである。我々はかなり、くっつき合って進んだが、人々が我々から受けた印象を見受けることは面白かった。彼等は不思議そうに先頭を瞥見し、二番目を眺め、吃驚して三番目に来る人を見詰め、そして我々がそろって膝の上に、かくも奇妙な物をのせている光景に、驚いて笑い声を立てる。我我は横浜で泊ることにした。翌朝我々は大切な珊瑚その他を、少しも傷けずに、東京へ着いた。金曜の朝には舟が着き、私は荷物が大八車二台に安全に積まれ、三人の男が曳いたり押したりして、最後に大学で私にあてがわれた部屋で下ろされるのを見た。これ等の部屋は博物館――日本に於る最初の動物博物館――の細胞核である。私は、私の契約期限が切れる迄に、これをしっかりした基礎にのせるようにしたいと希望している。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(九七頁)によれば、
《引用開始》
〇二十八日 荷物を詰め、実験所を閉じる。
〇二十九日 モース、松村、松浦、午前中に江ノ島を離れる。横浜で一泊。
〇三十日 東京着。採集品は、この日江ノ島を出た船で東京へ。
《引用終了》
明治一〇(一八七七)年八月二十八日は火曜日であるから、採集品が届いた「金曜の朝」とは江の島を船が出た翌三十一日の朝のこととなる。
「特別学生」前出の松浦佐用彦。]