夕の椰子の歌 七首 中島敦 (「小笠原紀行」より)
夕の椰子の歌
薄暮大村より南方に通ずる峠を上る、
峠を越ゆれば即ち、見はろかす巉岩の
累積の彼方、昏れ行く太平洋の渺淼た
るを見る。巉岩の億傾斜のところどこ
ろ椰子樹佇立して夕風に鳴る、わがか
たはらにも亦一本あり
夕されば孤島に寄する波の音岩の上にしてひとり聞きたり
岩の上に夕潮騷を聞き立てる一本(ひともと)椰子の菓ずれ寂しも
潮騷(しほざゐ)のやゝに離(さか)れば荒磯邊(ありそべ)の靑枯椰子も眠りに入るか
荒磯邊(ありそべ)の巖の椰子らおのがじし夕べさびしく眠りに入るも
夕坂を籠(こ)をもつ翁のぼり來て内地の人かと慇懃(いんぎん)に問ふ
八丈より移りてここに五十年(いそとせ)を乏しき土に生くるとふ翁
五十年(いそとせ)の生きの寂しさしみじみと翁は嘆く椰子の下(もと)にして
[やぶちゃん注:詞書の中の「ところどころ」及び最後の一首の「しみじみ」の後半はいずれも底本では踊り字「〲」。
「大村より南方に通ずる峠」父島の南方にある峠としては「中山峠」がある(国土地理院地形図閲覧システム 東経142度11分31秒・北緯27度3分28秒)。地図上で見る限り、ロケーションもここに相応しい気はする。こちらの
honeycat2201 氏の「父島 中山峠からの眺め」を見ると、その確信が一気に高まる。グーグルのストリート・ビューで見る限りではこの附近、海岸に近づくに従って椰子がかなり茂っていて、今や中島敦の「ところどころ」どころではない感じである。]