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2013/08/14

笑劇作家は心中を三度チャラかす 又は 心中も三度水差せばお笑いとなる / 三谷幸喜「其礼成心中」劇評

 面白い。どっかの阿呆首長が貧しい感性で思い付きの批判をし、「金の切れ目が縁の切れ目」と文楽の極悪人よろしく脅した前後に、速成で、しかも本人曰く、文楽を余り見てはいないという劇作家がものしたものとしては、すこぶる文楽が『元気を貰った』芝居として、高く評価してよい新作文楽である。

 冒頭、二度、書割を割って、また、さらに続く饅頭屋の段で、左右に隔離抑制する形で一度、(その間に実際には饅頭屋冒頭にオフで一度、縊死心中の制止があるので実際は四度になる)半兵衛が六助とおせんの曽根崎心中を妨害するに至って、「曽根崎心中」の持つ心中の哀切な情念や美化された悲劇性が完膚無きまでに払拭される。その確信犯が小気味よい。本作が徹頭徹尾(厳密には「心中天網島」劇中劇部分はそうではない。そこだけは私は極めて正統的な『文楽的な真面目を湛えた世界』であると感じている。後述する)喜劇として、古典的浄瑠璃作品では慶事の舞踏物以外にはまず見られない祝祭的純粋喜劇として、本作を――心中の既遂されない稀有の「心中物」――として産み落とした手腕は美事である。心中で心底笑えるのは、川島雄三の「幕末太陽傳」の挿話のような詐欺の場合に限ると思っていたが――心中を同一人物に、それも饅頭のために三度止められる――という構造が、独特の幟――『三谷笑劇場「其礼成心中」千客万来☞』――という道標となって爽快に棚引くのが幕開きである。

 因みに、冒頭の制止の際、半兵衛は天神の鳥居の描かれた書割を左右に割って登場するのであるが、これは所謂、掟破りの、ギリシャ悲劇に見られる超法規的大団円――デウス・エクス・マキナのパロディであることを示すものに他ならない。舞台上の死んだ者たちを一瞬にして生き返らせ、「チャンチャン!」というズッコケのオトシをやらかす魔法が、三谷にとって、伝統的「心中物」謀殺の完全犯罪にはどうしても必要だったのである。いやそれは寧ろ――「デウス・エクス・マキナ」 ―― Deus ex māchinā ――機械仕掛けの神――としての半兵衛という頭や人形、それを操る黒子達にこそ真正に相応しい謂いであったのである。……そうしてこの――「デウス」(神)こそが「其礼成心中」のキー・ワードである――と私は思ってもいるのである。

 三谷は半兵衛をして心中成金の獣人化にひた走らせる一方(それはそれで「それなり」に笑えるのであるが)、「おかつ」をそれに追従させながらも、一貫して好ましい人物として描いている。

 因みに、あらゆる劇的世界には『人でなし』の極悪人が必要となる。しかし現実世界には純粋絶対悪の存在としての『人でなし』は、実はいないのである(それは「人でなし」という命題自体が語っている「真」である)。だから後半で「曽根崎心中」の極悪の九平次のエピソードが半兵衛によって語り出され、亡霊のように九平次の姿が、高みにあって世間を戯画化する「神の様な」近松の下に、あたかも舞台上手に恨みの亡霊の如くに登場する。そこでは心中を売り物にし、模倣心中を現に多数誘発させておきながら、平然と二匹目三匹目の泥鰌を(「心中天網島」では厳しい不善性への断罪を結末に示したが)狙った近松の、ある意味で安易お手軽な作劇法への、劇作家三谷の痛烈にしてヒューマニスティックな批判が、半兵衛の、九平次のモデルとなった加害者も社会的生活者として最低限人格が守られねばならない(という考え方のパロディ)とする訴えの中に隠されているように思われる。

 「曽根崎の母」となった「おかつ」の身の上相談の助言は、如何にもな、すこぶる尋常(寧ろ、陳腐)なものである。これをもっと面白可笑しく、しかも確実に流行らせて大衆の圧倒的支持を得させ、大金を捲き上げているトンデモ人物と共同正犯である妻にしようとするのであれば、どこぞの国家の首長がぶちあげているようなありもしない未来への大風呂敷を際限なく広げたり、現にメディアに露出の高い予言者や占い師然とした『おば様』として描く方がよかろう。そうしたアップ・トゥ・デイトな印象を三谷は敢えて拒否しているようfである。

 というより、この「おかつ」は作中唯一の文字通り「母」なのであり、三谷が持つ永遠なる母性性の一つの典型が、この「おかつ」には体現されているように私には感じられたことはどうしても述べておきたい。そうした印象を、また一貫して演じ続けた人形の吉田玉佳を――私の好きな、主役半兵衛を使った一助、ではなく――私は本公演の随一としたい。

 「曽根崎饅頭」に対する「かき揚げ天網島」の語呂には脱帽である。
 ここで半兵衛とおかつは二人して近松の新作「心中天網島」を見物に行く。

 どうも初演ではここは背後の暗幕に文楽「心中天網島」の橋尽くしの段が映写されたようだが、今回は実演であった。今回は初演の内容を相当にブラッシュ・アップしている(と冒頭の三谷人形が語る)らしいが、ここはまさしく、してやったり! こここそは実演でなくてはならぬのである。

 ここではこの劇中劇こそが、真の「文楽」の秘蹟としての光輝を眩いまでに放つからである。

 治兵衛と小春の死出の道行の切々たる無言の挙措に、半兵衛とおかつが、思わず同情し、共感し、哀しく震えてシンクロナイズしてゆくのが美しい(私は目頭が熱くさえなった)。

 このシーンこそが三谷の新作「文楽」の「文楽」たる所以、その真骨頂であるとさえ言ってよい。

 「心中天網島」が如何に無惨に悲劇であるか(大近松によって惨たらしく断罪されるそのエンディングは描かれない)ということを知らずに見ている方であろうか――感極まった半兵衛が右手を掲げて立ち上がり掛けるのをおかつが制するシーンに失笑した女性客が何人もいた(8割強は女性であった。因みに妻の隣の女は鞄に録音機を潜ませて秘かに録音していた不届き者であったそうである)。

『ここは笑うべきところでは断じてない。笑ったあなたは「心中天網島」を見る義務がある。』

私は現にそう感じて、ムッとしたことを告白しておきたい。

 また、ここで台詞と三味線について一言、言っておきたい。

 本作は未だ大阪で上演されていないのであるが、大阪公演では、このままでは関西人には大きな違和感を感じさせざるを得ないと思うのである。三谷は世田谷生まれであるから仕方がないとはいえ、舞台の設定上からも標準語仕様の本作は、やはりもっと関西弁の比率を増やして語られねばならないと痛感する。半兵衛おかつの一人娘「おふく」の「お母さん」は如何にも虫唾が走る。「嬶(かか)さま」でないと私には承服出来ない。太夫も如何にも語り難そうであった。地の文を標準語で綴るのは構わないとして、会話文はもっと文楽的な関西弁にするに若くはない。三味線も作劇が徹底したチャリである割に、三味のチャリ表現が思いの外少ないのはかなり不満である。文楽の太夫と三味の地位を考えれば(それを文楽に馴染みのない観客にアピールするという啓蒙性からも)、これらはもっともっとブラッシュ・アップが望まれる部分である。

 近松の登場は開演前に管見した床本で知ってはいたが――私は秘かに、幕開けの前に登場した三谷頭(がしら)の人形が近松役で出て来るのではなどと夢想したりしたが――この半兵衛と大近松の議論は、私には三谷幸喜の劇作家としての内的葛藤の二極外化した役割のように思えた。

 あらゆる登場人物を「神」(デウス)として操る大近松のような芸術至上主義的な欲望と、恐らく三谷が決して失いたくない、市井の一人間としての素朴な地平に立ったリアリストとしての視線のアンビバレンツである。この「大近松 半兵衛直訴の段」は「其礼成心中」という外題の秘密が明かされる重要なシーンであると同時に、不思議な夢幻性を兼ね備えた(ある意味、「異様」にして「オリジナル」な)心的世界を現出させている。定之進か、近松の頭(かしら)がいい。

 但し、この後の近松を三谷はやや扱い兼ねている感じがする。この後の擬カタストロフ(半兵衛とおかつの入水未遂)の前に登場する近松、また、エンディングに上手から下手に先の神の位置で移動する、執筆に悩み、癇癪を起して反古を舞台に投げつける近松の作劇上の意味が、私には(観客はそこでドッと笑ったのだが私だけが馬鹿なのか、私は笑いながらも『彼は何を怒っているのか?』と疑問に思ったものである)今一つ、摑みかねたからである(これらは孰れも床本には記載がない。実に三谷の演出による追加なのである)。

 特に前者は、近松が半兵衛に意味深長に要求した「それなりの心中」の実行決意の直前であり、確かに意味深長でありながら、遂にその登場の意味が観客にすんなり理解され得たとは私には思われない。私の場合、寧ろあれは、近松の内なる芸術至上主義への、「それなり」に興味をそそる心中への期待という悪魔的な願望への、かすかな悔恨の情の、その霊的表現として読めてしまうのである(すると喜劇としては失敗であると私は思う)。

 但し、私は私が分からないとするエンディングで、分からないにも拘わらず、私が何故笑ったかを考えてみるのである。それは、またヒット作になりそうな『それなりの心中』をし損ねてしまった、半兵衛とおかつに反古紙をぶつけるように見えたからであるが、この苛立つ大近松は、実は――心中で大儲けしている近松が近松自身に苛立って上手く書けないその真の姿――であったと解釈するならば、私には論理的に――その握り潰した反古の礫が――すんなりと心の底に落ちてはきたのであった。(2013年8月13日 2:00 於パルコ劇場)

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