尾瀬の歌 二首 中島敦
尾瀨の歌
熊の棲む尾瀨をよろしと燵岳(ひうちだけ)尾瀨沼の上に神(かん)さびせすも
しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚(いはな)提(さ)げつゝわが歸りけり
[やぶちゃん注:底本第三巻の年譜では昭和九(一九三四)年の『八月、同僚と尾瀬、奥日光に遊ぶ』とはある(因みにこの直後の翌九月には『喘息発作のため生命をあやぶまれる』と記されてある)――あるのだが、しかし――しかし私は――いろいろ調べる中で実は、その前年に単独で行った尾瀬での嘱目吟なのだ――とほぼ確信するようになったのである。――それについては「中島敦短歌拾遺」の昭和八(一九三三)年の「手帳」にある、本歌群の草稿の注記を是非、参照されたい。
「燧岳」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。
「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。
「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「神(かみ)さび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。
「白根葵」キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]