水中の薔薇 大手拓次
水中の薔薇
―「風・光・木の葉」を讀みて―
あなたの指をうごかしてください。
薄明の霧のなかに
やはらかくまばたくもの、
しろくかすかにまばたくもの、
さざなみするみづのなかに
ほそぼそとまばたくもの、
あをくほのかにひかりあるもの。
あなたの指をうごかしてください。
薔薇はひとつの鳥のやうに
早春の水氣(すゐき)のなかに
かろくまばたいてゐます。
[やぶちゃん注:副題「風・光・木の葉」は底本では「風 光・木の葉」。誤植と見て、中黒を打った。「風・光・木の葉」は白秋門下の詩人で作詞家としても知られた大木篤夫(明治二八(一八九五)年~昭和五二(一九七七)年)が大正一四(一九二四)年に出した処女詩集。この後の大木は、一九三〇年代後半頃から歌謡曲の作詞も手がけるようになり、東海林太郎の「国境の町」は一世を風靡した。太平洋戦争の開戦と同時に徴用され、海軍宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属、バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流した。この時の経験を基に作られた詩集「海原にありて歌へる」(アジアラヤ出版部昭和一七(一九四二)年刊)をジャカルタで現地出版したが、この詩集には日本戦争文学の最高峰とも称せられる「戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』(「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを、-」)が掲載されており、この詩は前線の将兵にも愛誦された。この詩集で日本文学報国会大東亜文学賞を受賞するとともに従軍記・軍歌・愛国詩等の原稿依頼が殺到したが、戦後は一転、戦争協力者として文壇からは疎外された(以上はウィキの「大木惇夫」に拠った)。]
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