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2013/09/30

嘔吐 藤森安和

   嘔吐

岩波写真文庫の
ページを
私はめくった。
初めに
原爆被害市
広島
長崎が私の
眼の前にあらわれた

鉄骨の壁は
腐敗した
人間の肉のように
爛れ
木材の建物は
黒い灰のまま
くずれ
形が残り。
爛れずにいる
鉄筋の壁には
人間のとけた
黒い
死にあとがある。
人間。
女の頭は
男のように
丸坊主。
坊主頭の上には
ケロイドの山があり
男の胸には
ケロイドの
乳山がある。
男女とも
背中と言わず

手に
ケロイドの
溶岩が流れている。

彼らは
おのれの苦しみを
敵にふきかけようと
隣を見る。
だが
隣りにも
おれと同じ
苦しみになやむ
同伴を見る。
同伴からそらした
気違いの眼を
空に向ける。

  *

次のページには
ボディビルの肉体と
ストリッパーの肉体
がある。

  *

私は
二ページ目の
人間だ。
あの原爆被害者より
百倍も幸福なのに
不幸だと言って
悲感し
姦婦の堕落した
肉体を
もてあそんでいる。

私は
幸福な人間なのだ。
マッチのケロイドに
死んでしまうと
叫ぶ
人間なのだ。



(藤森安和「十五才の異常者」昭和三五(一九六〇)年荒地出版社刊より)

綾鼓

ふと能の「綾鼓」を思い出し、綴りたくなった。――



 
   綾鼓(あやのつづみ)

女御(ツレ)に恋慕した庭掃きの老人(シテ)は、廷臣(ワキ)を通して伝えられた女御の池の畔りの桂木に吊るした鼓を打ってその音(ね)が聴こえたら姿を見せてやると伝える。老人は懸命に鼓を打つ。

シテ「げにや承り及ぶ月宮(げつきう)の月の桂こそ、名にたてる桂木(けいぼく)なれ、これは正しき池邊(ちへん)の枝に、掛かる鼓の聲(こゑ)出でば、それこそ戀の束(つか)ねなれと、〽夕(いふべ)の鐘の聲そへて、また打ち添ふる日並(ひなみ)の數。
地謠〽後(のち)の暮(くれ)ぞと賴め置く、後の暮ぞと賴め置く、時の鼓を打たうよ。
シテ〽さなきだに闇の夜鶴の老の身に、
地謠〽思ひを添ふるはかなさよ〔シオリ〕。
シテ〽時の移るも白波の、
地謠〽鼓は何(なに)とて、鳴らざらん。
シテ〽後の世の近くなるをば驚かで、老に添へたる戀慕の秋。
地謠〽露も涙もそぼちつゝ、心からなる花の雫の、草の袂に色添へて、何を忍(しのぶ)の亂れ戀(ごひ)。
シテ〽忘れんと思ふ心こそ。
地謠〽忘れぬよりは思ひなれ。
地謠〽しかるに世の中は、人間萬事、塞翁が馬なれや、隙(ひま)行く日數移るなる、年去り時は來れども、つひにゆくべき道芝(みちしば)の、露の命の限りをば、誰(たれ)に問はましあぢきなや、などさればこれほどに、知らばさのみに迷ふらん〔シオリ〕。
シテ〽驚けとてや東雲(しののめ)の、
地謠〽眠りを覺ます時守(ときもり)の、打つや鼓の數繁く、音に立たば待つ人の、面影もしや御衣(みけし)の、綾の鼓とは知らずして、老の衣手(ころもで)力添へて、打てども聞えぬは、もしも老耳(ろうに)の故やらんと、聞けども聞けども、池の波窓の雨、いづれも打つ音(おと)はすれども、音(おと)せぬ物はこの鼓の、あやしの太鼓や、何とて音(ね)は出でぬぞ〔シオリ〕。

――しかしその鼓は皮の代わりに綾を張ったもの――幾ら打っても音は出ぬ。……

地謠〽思ひやうちも忘るゝと、綾の鼓の音(ね)もわれも、出でぬを人や待つらん。
シテ〽出でもせぬ、雨夜(あまよ)の月を待ちかぬる、心の闇を晴らすべき、時の鼓も鳴らばこそ。
地謠〽時の鼓のうつる日の、昨日今日とは思へども。
シテ〽賴めし人は夢にだに、
地謠〽見えぬ思ひに明暮(あけくれ)の、
シテ〽鼓も鳴らず、
地謠〽人も見えず、こは何(なに)と鳴神(なるかみ)も、思ふ仲をば放(さ)けぬとこそ聞きしものをなどされば、か程の緣なかるらんと〔シオリ〕、身を恨み人を託(かこ)ち、かくては何(なに)のため、生(い)けらんものを池水(いけみづ)に、身を投げてうせにけり、憂き身を投げて失せにけり。

――悲嘆に暮れた老人は池水に入水し、果てる――
《中入》
――廷臣(ワキ)が女御に老人の死を告げる。池畔に立つ女御(ツレ)――その様子は何か妖しげである――

ツレ〽いかに人々聞くかさて、あの波の打つ音(おと)が、鼓の聲に似たるはいかに。
ツレ〽あら面白の鼓の聲や、あら面白や。
ワキ〽不思議やな女御の御姿(おんすがた)、さも現(うつつ)なく見え給ふは、いかなる事にてあるやらん。
ツレ〽現なきこそ理(ことわり)なれ、綾の鼓は鳴るものか。鳴らぬを打てと言ひし事は、我が現なき初めなれと、
ワキ〽夕波(いふなみ)騷ぐ池の面(おも)に、
ツレ〽なほ打ち添ふる、
ワキ〽聲ありて。

――老人の霊が出現し――

後シテ〽池水(いけみづ)の、藻屑となりし老の波、
地謠〽また立ち歸る執心の恨み、
後シテ〽恨みとも歎きとも、言えばなかなかおろかなる。
地謠〽一念嗔恚(しんに)の、邪婬の恨み、晴れまじや、晴れまじや、心の雲水(くもみづ)の、魔境(まきやう)の鬼(おに)と今ぞなる。
後シテ〽小山田(おやまだ)の苗代水(なはしろみづ)は絶えずとも、心の池の言ひは放なさじとこそ思ひしに、などしもされば情(なさけ)なく、鳴らぬ鼓の聲立てよとは〔ツレへ向く〕、心を盡し果てよとや〔ツレの方へ一歩出、杖を以って床を突き鳴らす〕。
後シテ〽心づくしの木(こ)の間の月の、
地謠〽桂(かつら)にかけたる綾の鼓〔両の手を合わせ、鼓を見つめる〕、
後シテ〽鳴るものか〔ツレへ向く〕、鳴るものか、打ちて見給へ〔ツレの方へ一歩出、杖を棄てる〕。
地謠〽打てや打てやと攻め鼓〔ツレへ寄る〕。寄せ拍子(びやうし)とうとう、打ち給へ打ち給へとて〔ツレの胸を執って引き立てる〕、笞(しもと)を振り上げ責め奉れば〔打ち杖を振り上げる〕、鼓は鳴らで悲しや悲しやと〔ツレ、シオリ〕、叫びまします女御の御聲(おんこゑ)、あららさて懲りやさて懲りや〔右手でツレを指して足拍子〕。
地謠〽冥途の刹鬼(ぜつき)阿防羅刹(あばうらせつ)〔足拍子〕、冥途の刹鬼阿防羅刹の、呵責(かしやく)もかくやらんと、身を責め骨を碎く、火車(くわしや)の責めといふとも〔足拍子、正面へ〕、これにはまさらじ恐ろしや、さて何(なに)となるべき因果ぞや〔ツレへ向いて一歩出る〕。
後シテ〽因果歷然は目(ま)のあたり、
地謠〽歷然は目のあたり〔足拍子〕、知られたり白波の、池のほとりの桂木(けいぼく)に〔作り物を指す〕、掛けし鼓の時も分かず〔打ち杖を振り上げて作り物に登る〕、打ち弱り心盡きて〔下る〕、池水(いけみづ)に身を投げて〔安座す〕、波の藻屑と沈みし身の、程もなく死靈(しりやう)となつて〔立つ〕、女御に憑き祟つて〔ツレを凝視す〕、笞(しもと)も波も打ち叩く〔立って打ち杖を揮う〕、池の氷(こほり)の東頭(とうとう)は〔見回し、足拍子〕、風渡り雨落ちて〔左袖で被(かず)く〕、紅蓮大紅蓮(ぐれんだいぐれん)となつて〔角へ〕、身の毛もよだつ波の上に〔足拍子〕、鯉魚(りぎよ)が踊る惡蛇となつて〔左から周って常座へ〕、まことに冥途の鬼といふとも〔左袖を返し、ツレへ向き直る〕、かくやと思ひ白波の、あら恨めしや恨めしや〔中央へ〕、あら恨めしや、恨めしの女御やとて〔周って常座へ〕、戀の淵にぞ入りにける〔両手を打ち杖に添えて膝をつく停まる〕。

[やぶちゃん注:引用本文の底本は小学館の「日本古典全集 謡曲集(2)」を元にしたが、総て恣意的に正字化し、また平仮名表記の一部を漢字に変えてある。一部の読みを省略したり、追加したりしている。一部に入れた所作(主にシテのそれ)は同書を参考にしたが、同じ言い方を用いずに私が分かり易いと判断する表現に変更してある。]

黄色い春 北原白秋

   黄色い春

黄色(きいろ)、黄色(きいろ)、意氣で、高尚(かうと)で、しとやかな
棕櫚の花いろ、卵いろ、
たんぽぽのいろ、
または仔猫の眼の黄いろ‥‥
みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、
夕日黄いろく、粉(こな)が黄いろくふる中に、
小鳥が一羽鳴いゐる、
人が三人泣いてゐる、
けふもけふとて紅(べに)つけてとんぼがへりをする男、
三味線彈きのちび男、
俄盲目(にはかめくら)のものもらひ。

街(まち)の四辻、古い煉瓦に日があたり、
窓の日覆(ひよけ)に日があたり、
粉屋(こなや)の前の腰掛に疲れ心の日があたる、
ちいちいほろりと鳥が鳴く、
空に黄色い雲が浮く、
黄色、黄色、いつかゆめ見た風も吹く。

道化男がいふことに
「もしもし淑女(レデイ)、とんぼがへりを致しませう、
美しいオフエリヤ樣、
サロメ樣、
フランチエスカのお姫樣。」
白い眼をしたちび男、
「一寸、先生、心意氣でもうたひやせう」
俄盲目(にはかめくら)も後(うしろ)から
「旦那樣や奧樣、あはれな片輪で御座います、どうぞ一文。」
春はうれしと鳥も鳴く。

夫人(おくさん)、
美しい、かはいい、しとやかな
よその夫人(おくさん)、
御覽なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも
黄色い木の芽の粉(こ)が煙り、
ふんわりと沁む地のにほひ、
ちいちいほろりと鳥も鳴く、
空に黄色い雲も浮く。

夫人(おくさん)、
美しい、かはいい、しとやかな
よその夫人(おくさん)、
それではね、そつとここらでわかれませう、
いくら行(い)つてもねえ。

黄色、黄色、意氣で高尚(かうと)で、しとやかな、
茴香(うゐきやう)のいろ、卵いろ、
「思ひ出」のいろ、
好きな仔猫の眼の黄いろ、
浮雲のいろ、
ほんにゆかしい三味線の、
夢の、夕日の、音(ね)の黄色。

「東京景物詩」より。底本は昭和25(1950)年刊新潮文庫「北原白秋詩集」。同詩集では昨日の「新生」の直後に配されてある。

「フランチエスカのお姫樣」はダンテの「神曲」の「地獄篇」の登場人物フランチェスカ・ダ・リミニのこと。ラヴェンナ領主グイド・ダ・ポレンタの娘で、父の政争の道具にされて容貌醜悪で足の不自由なリミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタへ嫁がせようとするが、ジョヴァンニは足が不自由で容姿も醜くく、事前に彼女が激しい嫌悪感を抱いていることを知って、美少年のジョヴァンニの弟パオロ・マラテスタを替え玉にして結婚式を挙げる。お決まりのようにフランチェスカとパオロは恋に落ちるが、フランチェスカは結婚式翌日の朝まで自分が騙されていることに気づかなかった。後日、二人の抱き合う様を見たジョヴァンニによってパオロとともに殺された(ウィキの「フランチェスカ・ダ・リミニ」を参照した)。

「サンシユユ」は山茱萸でミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis。晩秋に紅色の楕円形の実をつける、通称ヤマグミのこと。高さ3~15メートルになる落葉小高木で樹皮は薄茶色、葉は互生で楕円形、両面に毛がある。三月から五月にかけて若葉に先立って花弁が四枚ある鮮黄色の小花を木一面に集めて咲かす。花弁は四個で反り返る(以上はウィキの「サンシュユ」に拠る)。

耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事

 郭公狂歌の事

 

 元の木阿禰といへる、狂歌詠(よみ)に春夏のうつりかはる氣色詠(よみ)得たり迚見せける。

 

  春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狂歌連関。

・「元の木阿禰」狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「春夏の氣違いなれやきのふまでわらひし山に啼時鳥」「氣違(きちがひ)」は「季違ひ」と狂人の意の「氣違ひ」の掛詞。岩波の注で長谷川氏は、『笑うは花の咲くことをいう。花は春でほととぎすは夏、それで季違い』となり、『春と夏と季節が変わったからか昨日まで花の咲いていた山にはほととぎすが鳴』いているように、さっきまで『泣いていた者が急に泣出すとは狂人のよう』という人事を詠じたものという風に読めるように評釈されておられる。しかしここは、「春夏のうつりかはる氣色詠得たり」という前書から考えるなら、素直に(といってもトンデモ歌語ではあるが)、自然を人事のそれに喩えたもののように思われるが、如何?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 郭公(ほととぎす)の狂歌の事

 

 元の木阿禰と申す、狂歌詠みが、「春夏の移り変わる景色を詠み得たり」とて見せたという、その狂歌。

 

  春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥

蒲公英の忘れ花あり路の霜 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   蒲公英(たんぽぽ)の忘れ花あり路の霜

 

 小景小情。スケツチ風のさらりとした句で、しかも可憐な詩情を帶びてる。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(10) 「危険がアブナい」歌

いつはりと吾は知れりけり吾が知るを知りていつはるをみなにくしも

[やぶちゃん注:別案として、

いつはりと吾は知れりけり吾が知るを知りていつはるをみな淋しも

が提示されている。これ以降もまた、すこぶる「危険がアブナい」歌群と思う。]

人の世のひたむき心哂ふとふをみなにくしもくちうすくして

[やぶちゃん注:「哂ふ」は「わらふ」。]

思ひ詰めし戀ならなくに秋の夜は何か寂しもいく日あはずて

[やぶちゃん注:別案として、

思ひ詰めし戀ならなくに秋の夜は何か寂しも別れ來ぬれば

が提示されている。]

あふもうしあはぬもうたてしかすがにあきの夕はあはむとぞ思ふ

[やぶちゃん注:以下、三箇所の別案が示されているが、「うし」→「よし」と「うたて」→「よかれ」は組と考えて復元しておく。

あふもうしあはぬもうたてしかすがにあきの夕は如何にとぞ思ふ

あふもよしあはぬもよかれしかすがにあきの夕はあはむとぞ思ふ

あふもよしあはぬもよかれしかすがにあきの夕は如何にとぞ思ふ

「しかすがに」然すがに。既注済み。そうはいうものの。]

朝曇心しらじら思ふこと別れむ時にはやもなりしか

[やぶちゃん注:「しらじら」の後半は底本では踊り字「〲」。別案として、

朝曇心さみしく思ふこと別れむ時にはやもなりしか

が提示されている。]

よりそへど心かたみに通はずよはや別れむとおもひなりぬる

わかれむと心さだめて踵高の鋪道ふむ音さみしらにきく

[やぶちゃん注:「踵高」ハイヒールの意であろうが読み不明。「しようたか(しょうたか)」か?]

天鷲絨の上衣の胸の膨らみをじつと見てをり何かひえびえ

[やぶちゃん注:「ひえびえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

いにしへはこひに死なむといひけらし末世の戀のなどあさましき

[やぶちゃん注:別案として、

いにしへはこひて死なむといひけらし末世の戀のなどあさましき

が提示されている。]

いにしへは人をこほしく死にけらし末世の戀のなどあさましき

[やぶちゃん注:前の一首の別稿と思われる。]

公園をいでゝ鋪道のすゞかけの下に別れぬ知らぬ人のごと

[やぶちゃん注:別案として、

公園をいでゝ鋪道のすゞかけの下に別れし知らぬ人のごと

が提示されている。]

別れきてひたに大空仰ぎけり空はうれしも見れど飽かなく

朝ぐもり掘割のへにシュニッツラァのアナトオルなど想ひけるかな

[やぶちゃん注:「シュニッツラァのアナトオル」七つの一幕物からなる戯曲。新妻のいる色男の青年アナトールを狂言役にその場限りの享楽的刹那的な恋愛に身を任す若者たちが描かれる、妖婦や密会がアイテムの芝居。]

七段目のおかるならねどこの道のまことそらごとけじめ知らずも

[やぶちゃん注:「七段目のおかる」「仮名手本忠臣蔵」で塩冶家家臣早野勘平は主君刃傷の日に恋仲の腰元お軽と逢引していたために失態を演じ、おかるの実家に身を寄せていたものの、誤っておかるの父を殺し、結局、切腹する(六段目)。七段目はその後の景で、傷心のおかるは由良助に呼ばれて京都祇園一力茶屋の遊女となっており、芝居を演じている由良助に身受けされることになっている。そこで佞臣九太夫の間諜による仇討ちの露見未遂の一件が演じられ、仇討ちに加わりたい一心から実兄平右衛門の覚悟の切かけを受け、納得づくで自害しかけるが、由良助の計らいで九死に一生を得、亡父亡夫の追善に生きるという設定になっている。おかるの作品内の人格や設定というより、七段目の芝居自体の展開部の内容が「まことそらごと」の「けじめ知らず」の構成ではある。]

あによりもあをなつかしとたまもなすよりにしこゝろかなしとおもふ

[やぶちゃん注:この一首、何か、驚天動地の新しい事実を我々に伝えているのかも知れない。]

しろい火の姿 大手拓次

 しろい火の姿

わたしは 日(ひ)のはなのなかにゐる。
わたしは おもひもなく こともなく 時のながれにしたがつて、
とほい あなたのことに おぼれてゐる。
あるときは ややうすらぐやうに おもふけれど、
それは とほりゆく 昨日(きのふ)のけはひで、
まことは いつの世に消えるともない
たましひから たましひへ つながつてゆく
しろい しろい 火のすがたである。

鬼城句集 秋之部 案山子/鳴子

案山子   谷底へ案山子を飛ばす嵐かな

      山かげの田に弓勢の案山子かな


[やぶちゃん注:「弓ン勢の」弓勢(ゆんぜい)は「ゆみせい」の音変化で、元来は弓を引っ張る力量、弓を射る力の強さを指すあ、ここは弓を目いっぱい引いたなりの(案山子)の謂い。]


鳴子    里犬を追出してゐる鳴子かな

ラストに電車に押し潰される夢

僕は横浜駅近くの図書館でかつての同僚教員相手の研修会で発表をしている。
[やぶちゃん注:場所は平沼高校辺りの架空の施設である。]

内容は河合隼雄ばりの日本昔話の深層心理である。次のような質問を立て続けに参加者に指名で投げかけている。
――浦島太郎は何故玉手箱を開けて老人、古形では白鳥にならねばならなかったか? その白煙や白鳥の「白」は何をシンボルするのか?
――かぐや姫は何故前半と後半で人格が豹変せねばならないのか? 富士から永遠に立ち上り続ける燃え切ることのない不老長寿の焼却の煙と浦島の玉手箱の白煙はどこか似ていないか?
――花咲か爺さんがときじくの花を再生する「灰」と浦島の「白煙」と竹取の霊薬の「煙」とは皆軌を一にした象徴ではないか? ポチとは原型に於いて本当は「犬」ではなかったのではないか?
そう問う僕には、それらについて明瞭で驚天動地の意外な解答を持っているらしいこと、その答えにすこぶる自信を持っていることがその表情から汲み取れた。
[やぶちゃん注1:この中の前の二つ、「浦島太郎」と「竹取物語」についての疑問は私が教師時代に授業で投げかけた問題を含むが、私はそれを明らかにする明確な仮説を持っている訳ではない。三番目のものは何か性的な分析結果を夢の中の僕は持っているらしく感じられた。]
[やぶちゃん注2:この夢を私は第三者として、映画のマルチ・カメラの様に、多様な角度から眺めている。ないわけではないが、私の夢は一人称夢が多く、比較的珍しい。ただこれは、後のカタストロフ場面でリアルでショッキングな効果を発揮していたことは事実である。]

聴いている同僚たちは如何にも退屈そうで、疲れた顏をしている。
[やぶちゃん注:この手の研修は翠嵐時代の終わりによくやらされたし、聴きもした。但し、結構、面白おかしくやっていた。ただ、擦り切れるような多忙の中でやらされていたから、誰もが肉体的には限界的に疲れていたようには思われる。]

そこに突然、津波警報が発令される。
全員が退避するのだが、向いにある踏切の前に立って見ていると、電車は殆んど止まりかけている。
私は線路沿いに横浜駅に向かおうとする。
細い路地を通るとコンクリを打っていない土の地肌の出たところに踏み込んだとたん、端の方に巨大な陥没が出来て、一瞬内に水が吹き出し、地面が液状化、その泥が今度はその穴に激しく吸い込まれてゆく。僕はそれに足を採られてその穴の奈落に落ちそうになるが、辛うじて逃げ延びて走っている(この前後の映像はややスローモーションがかかって見易くなっている)。

続く風景は北海道の田舎の駅の荒寥寂寞とした雰囲気である。
とある小学校のプールに裏口から入り込んでしまって、そこで不審者とすてとがめられそうになる。「津波から退避しようとしてあそこの裏口から誤って迷い込んだのです。怪しい者ではありません。近くの翠嵐高校の教員です」と謝ると、その事務長らしい男性は扉を開けて出してくれながら、「誰もがそうした肩書で許してくれると思うものさ」と皮肉を言った。
[やぶちゃん注:このシーンの元はかなり分かり易い。北海道の田舎の駅の光景や小学校の事務長というのは、間違いなく昼間見たNHKの「こころ旅」のマンマ。肩書云々というのは例の経済産業省のキャリアへの怒り心頭に発している意識の表われと解釈出来よう。]

横浜駅に近づく[やぶちゃん注:言わずもがなであるが似ても似つかぬもの。]。高速の高架があってその下の僕が歩いている路上のすぐ脇を路面電車のように相模線の線路が走っていて、それに直角にクロスして(!)JRが走っている。避難民で満員の相模線が物凄いスピードで走って来る。――あのスピードは危ない!――と思った瞬間[やぶちゃん注:この辺りは福知山線事故の無罪判決の影響だろう。]、高速の橋脚に接触、脱線し、二つほど車輌は右半分が完全に切断される。反対側の左座席に座っていた乗客の無数の足が力なく中空にぶら下っている。それが皆、若い女性の真っ白な足である[やぶちゃん注:不気味ながらこれも分かりがいい。「こころ旅」で火野正平が盛んに若い女性の生足を目で追いかけるのを、カメラもなぞっていた、その意識残像と見て間違いないからである。]。僕は線路のクロスする近くに茫然と立ち竦んでいる[やぶちゃん注:カメラは二十メートル以上離れた橋脚下から広角で撮っている。]。そこにまた猛スピードで東海道線が突っ込む。――白煙が辺りに立ち込める。カメラは累々たる残骸と血まみれのまま動かない負傷者達を捕りながら、平行にトラックして、画面が乱れ流れる――(FO)
[やぶちゃん注:最後の立ち位置から見てラストで僕自身は電車に押し潰されてしまったものと思われる。]

アリス8歳の誕生日

二十六夜(旧暦八月二十六日)
月の出  0:47
月正中(今から凡そ3時間後の朝7:40に南中)
月の入 14:27

(今日までフェイスブックとミクシィでは約束通り、これらを示して月を毎日見てきた)

 

――5:00――南東の中空に――井戸のような丸あるい雲間があってそこに下弦の月が浮かんでた……
今日の日の出は5:35――もうじき……

 

――今日は三女アリスの8歳の誕生日――“Here's looking at you, Alice!”

2013/09/29

芥川龍之介 江南游記 教え子T.S.君の探勝になる白雲寺写真追加

芥川龍之介「江南游記」に教え子T.S.君の探勝になる白雲寺の写真を注に追加した。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 12 不思議な釣り人?

M44


図―44

 とある川の岸で、漁夫が十本の釣り竿を同時に取扱っているのを見た。彼は高みに立って扇の骨のように開いた釣竿の端を足で踏んでいる。このようにして彼は、まるで巣の真ん中にいる大きな蜘蛛(くも)みたいに、どの竿に魚がかかったかを見分けることが出来るのであった(図44)。
[やぶちゃん注:私の父は鮎の毛鉤釣りのプロで、川漁にも詳しいが、このような釣り方は聴いたことも見たこともないとのことであった。ネット検索でもそれらしいものは見当たらない。モース先生、何かを見間違えたのではなかろうか? しかしまた、見間違えそうなものが思い浮かばないのであるが。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 11 街路点描

 仕事をするにも休むにも、日本人は足と脚との内側の上に坐る――というのは、脚を身体の下で曲げ、踵を離し、足の上部が畳に接するのである。屢々足の上部外側に胼胝(たこ)、即ち皮膚が厚くなった人を見受けるが、その原因は坐る時の足の姿勢を見るに至って初めて理解出来る。鍛冶(かじ)屋は地面に坐って仕事をする(手伝いは立っているが)。大工は床の上で鋸を使ったり鉋(かんな)をかけたりする。仕事台も万力も無い大工の仕事場は妙なものである。

 時々我々は、不細工な形をした荷鞍の上に、素敵に大きな荷物を積んだ荷牛を見受けた。また馬といえば、何マイル行っても種馬にばかり行き会うのであった。東京市中及び近郊でも種馬ばかりである。所が宇都宮を過ぎると、馬は一つの例外もなく牝馬のみであった。この牡馬と牝馬とのいる場所を、こう遠く離すという奇妙な方法は、日本独特のものだとの話だが、疑もなくこれはシナその他の東方の国々でも行なわれているであろう。
[やぶちゃん注:「疑もなく」はママ。ここに描かれた雌雄の隔離飼育(別に地方に雌を隔離した訳ではなく、たまたまモースの管見したものが圧倒的に雌馬の放牧であったからと思われるが)は、馬が季節繁殖性の哺乳類で、妊娠していない大人の雌馬は日が長くなる春先にのみ発情し、その発情も二~三日しか持続せず、この間にのみ雄を受け入れて、それ以外の時期には雄を受け入れないという習性に基づくものと思われる。]

 村の人々が将棋――わが国の将棋(チェス)よりもこみ入っている――をさしている光景はおもしろかった。私はニューイングランドの山村の一つに、このような光景をそっくり移してみたいと想像した。

 あばら家や、人が出来かけの家に住んでいるというようなことは、決して見られなかった。建築中の家屋はいくつか見たが、どの家にしても人の住んでいる場所はすっかり出来上がっていて、足場がくっついていたり、屋根を葺かず、羽目を打たぬ儘にしてあったりはしないのである。屋根の多くは萱葺きで、地方によって屋背の種類が異なっている。杮葺(こけらぶき)の屋根もすこしはある。杮は我国のトランプ札と同じ位の厚さで、大きさも殆ど同じい。靴の釘位の大きさの竹釘が我国の屋根板釘の役をつとめる。一軒が火を発すると一町村全部が燃えて了うのに不思議はない。柿というのが厚い鉋屑みたいで、火粉が飛んでくればすぐさま燃え上るのだから……。

* 家屋の詳細は『日本の家庭』に就いて知られ度い。

日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は奇麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。畑に肥料を運ぶ木製のバケツは真白で、わが国の牛乳鑵みたいに清潔である。ミルクやバターやチーズは日本では知られていない。然しながら料理に就いては清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それが如何にして調えられたかという知識は、食慾促進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、おそらく世界中どこへ行っても、貧民階級では同じことがいえるであろう。
[やぶちゃん注:これは庶民階級の食品の衛生観念の低さを言っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 10 杉並木と電柱

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図―41

M42
図―42

 宇都宮の二十五マイル手前から日光に近い橋石に至る迄、道路に接して立派な杉(松柏科の一種)の並木がある。所々に高さ十二フィートを越える土手があり、その両側には水を通ずる為に深い溝が掘ってある。その溝のある箇所には、水の流れを制御する目的で広い堰(せき)が設けられている。二十七マイルにわたって、堂々たる樹木が、ある場所では五フィートずつの間隔を保って(十五フィート以上間をおくことは決してない)道路を密に辺取(へりど)っている有様は、まさに驚異に値する。両側の木の梢が頭上で相接している場所も多い。樹幹に深い穴があいている木も若干見えたが、これは一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である。所々樹の列にすきがある。このような所には必ず若木が植えてあり、そして注意深く支柱が立ててある(図41)。時に我々は木の皮を大きく四角に剝ぎ取り、その平な露出面に小さな丸判を二、三捺(お)したのを見た。皮を剝いだ箇所の五、六尺上部には藁繩が捲きつけてある(図42)。このようなしるしをつけた木はやがて伐られるのであるが、いずれも密集した場所のが選ばれてあった。人家を数マイルも離れた所に於て、かかる念入りな注意が払われているのは最も完全な保護が行われていることを意味する。何世紀に亘ってこの帝国では、伐木の跡には必ず代りの木を植えるということが法律になっていた。そしてこれは人民によって実行されて来た。この国の主要な街道にはすべて一列の、時としては二列の、堂々たる並木(主に松柏科)がある。奥州街道で我々は、村を除いてはこのような並木に、数時間亘って唯一つの切れ目もないのを見ながら旅行をした。
[やぶちゃん注:「二十五マイル」約40キロメートル。宇都宮の手前というと小山を過ぎた辺りになる。現在は失われた往時の日光街道の杉並木の威容が髣髴とされる。
「橋石」原文は“Hashi-ishi”。このような地名はない。日光に着いてからの第三章の冒頭のも出るが、ここで石川氏は割注して『〔括弧してストーンブリッジとしてあるが現在の日光町字鉢石(はついし)のことらしい〕』と記しておられ、そこに付帯するモースの図から見ても鉢石であることが分かる。その発音の誤認と、恐らくは日光の入口に当る鉢石の大谷川に架かる神橋との混同による思い込みからかく言っているように思われる(この橋は石造ではないが、橋脚が石造でそれに切石を用いて補強されている特殊なものであることから、モースはこの石造橋脚の説明を通弁から聴いていたと推定される)。
「十二フィート」約3・7メートル。
「二十七マイル」約43・5キロメートル。
「五フィート」約1・5メートル。
「十五フィート」約4・6メートル。
「一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である」慶応四(一八六八)年四月に大鳥圭介率いる旧幕府軍が野口十文字に陣を張り、それを新政府軍が砲撃した際の弾痕である。
「五、六尺」1・5~1・8メートル程。]

 密集した部落以外に人家を見ることは稀である。普通、小さな骨組建築(フレーム・ワァーク)か、門(ゲート)の無い門構(ゲート・ウェー)が村の入口を示し、そこを入るとすぐ家が立ち並ぶが、同様にして村の通路の他端を過ぎると共に、家は忽然として無くなって了う。

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図―43

 道路の両側に電信柱がある。堤の上には柱を立てる余地が無いので、例の深い溝の真中に立ててあり、柱の底部に当って溝は手際よく切られ、堤の中に入り込んでいる(図43)。古いニューイングランド式の撥釣瓶(はねつるべ)(桿と竿とは竹で出来ている)が、我国に於るのと全く同じ方法で掛けてあるのは、奇妙だった。正午人々が床に横わって昼寝しているのを見た。家は道路に面して開いているので、子供が眠ている母親の乳房を口にふくんでいるのでも何でもまる見えである。野良仕事をする人達は、つき物の茶道具を持って家に帰つて来る。山の景色は美しく、フウサトニック渓谷を連想させた。
[やぶちゃん注:「横わって」はママ。
「つき物の茶道具」原文は“the ever-present appliances for making tea”。お茶を淹れるための常の道具。
「フウサトニック渓谷」“the Housatonic Valley”底本では直下に『〔ニューイングランドを流れる川の一つ〕』という割注が入る。コネチカット州のフーサトニック川とタコニック山脈が作り出した風光明媚な渓谷。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 9 一路、人力車にて日光へ

 

 翌朝、我々は夙く、元気よく起き出でた。今日は人力車で二十六マイルいかねばならぬ。人力車夫が宿屋の前に並び、宇都宮の人口の半数が群れをなして押し寄せ、我々の衣類や動作を好奇心に富んだ興味で観察する有様は、まことに奇妙であった。暑い日なので私は上衣とチョッキとを取っていたので、一方ならず派手なズボンつりが群衆の特別な注意を惹いた。このズボンつりは意匠も色もあまりに野蛮なので、田舎の人たちですら感心してくれなかった。


[やぶちゃん注:「二十六マイル」約41・8キロメートル。先に計測した通り、推定される宿泊地である現在の宇都宮市伝馬町から日光街道を辿ってみると、約40キロ弱であるが、高度があるから範囲内でぴったりと言ってよい。
「暑い日」六月三十日。]

 

 車夫は総計六人、大きな筋肉たくましい者共で、犢鼻褌だけの素っぱだか。皮膚は常に太陽に照らされて褐色をしている。彼等は速歩で進んでいったが、とある村に入ると気が違いでもしたかのように駆け出した。私は人間の性質がどこでも同じなのを感ぜざるを得なかった。我国の駅馬車も田舎道はブランブランと進むが、村にさしかかると疾駆して通過するではないか。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 8 按摩初体験

 四角い箱の形をした、恐ろしく大きな緑色の蚊帳(かや)が四隅からつられた。その大きさたるや我々がその内に立つことが出来る位で、殆ど部屋一杯にひろがった。枕というは黒板(こくばん)ふき位の大きさの、蕎麦殻(そばがら)をつめ込んだ小さな袋である。これが高さ三インチの長細い木箱の上にのっている。枕かけというのは柔かな紙片を例の袋に結びつけたものである。その日の旅で身体の節が硬くなったような気がした私は按摩(あんま)、即ちマッサージ師を呼びむかえた。彼は深い痘痕(あばた)を持つ、盲目の老人であった。先ず私の横に膝をつき、さて一方の脚を一種の戦慄的な運動でつまんだり撫でたりし始めた。彼は私の膝蓋骨を数回前後に動かし、この震動的な(こ)ねるような動作を背中、肩胛骨(けんこうこつ)、首筋と続けて行い、横腹まで捏ねようとしたが、これ丈は擽(くすぐ)ったくってこらえ切れなかつた。とにかく按摩術は大きに私の身体を楽にした。そして三十分間もかかったこの奉仕に対して、彼はたった四セント半をとるのであった。
[やぶちゃん注:「三インチ」7・6センチメートル。]

新生 北原白秋

   新生

新らしい眞黄色(まつきいろ)な光が、
濕つた灰色の空―雲―腐れかかつた
暗い土藏の二階の窻に、
出窻の白いフリジアに、髓の髓まで
くわつと照る、照りかへす。眞黄(まつき)な光。

眞黄色(まつきいろ)だ眞黄色(まつきいろ)だ、電線から
忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、
雨滴(あまだれ)が、憂鬱が、眞黄(まつき)に光る。
黑猫がゆく、
屋根の廂(ひさし)の日光のイルミネエシヨン。

ぽたぽたと塗りつける雨、
神經に塗りつける雨、
靈魂の底の底まで沁みこむ雨
雨あがりの日光の
鬱悶の火花。

眞黄(まつき)だ‥‥眞黄(まつき)な音樂が
狂犬のやうに空をゆく、と同時に
俺は思はず飛びあがつた、驚異と歡喜とに
野蠻人のやうに聲をあげて
匍ひまはつた‥‥眞黄色(まつきいろ)な灰色の室を。

女には兒がある。俺には俺の
苦しい矜(ほこり)がある、藝術がある、さうして欲があり、熱愛がある。
古い土藏の密室には
塗りつぶした裸像がある、妄想と罪惡と
すべてすべて眞黄色(まつきいろ)だ。――
心臟をつかんで投げ出したい。

雨が霽れた。
新らしい再生の火花が、
重い灰色から變つた。
女は無事に歸つた。
ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、
眞黄色(まつきいろ)に眞黄色(まつきいろ)に、
髓の髓から渦まく、狂犬のやうに
燃えかがやく。

午後五時半。
夜に入る前一時間。
何處(どつ)かで投げつけるやうな
あかんぼの聲がする。


註。四十四年の春から秋にかけて、自分の間借りして居た旅館の一室は古い土藏の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春畫を描いてあつたさうな。それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土藏全體が古びて、雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。

「東京景物詩」より。底本(昭和25(1950)年新潮文庫「北原白秋詩集」)では「註」は五字下げ(二行目以降は七字下げ)の下インデントである。なお、第二連一行目の二度目の「眞黄色」には「いろ」しかルビがないが、補った。

耳嚢 巻之七  養生戒歌の事 / 中庸の歌の事

 養生戒歌の事

 

 予許へも來りし横田泰翁とて、和歌を詠じて人も取用(とりもちゐる)叟(おきな)なりしが、或時咄しけるは、去(さる)翁の戒にせよとて詠(よみ)て贈りしざれ歌なり迚、

   朝寢どく晝寢又毒酒少し食をひかへて獨寢をせよ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿養生譚で直連関。正直、類話・類歌でつまらぬ。

・「横田泰翁」底本の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 養生戒の歌の事

 

 私の元へもよく参る、横田泰翁と申されて、和歌を詠じられてはよく人の歌会や行事に招き寄せらるるご老人があるが、ある時、話されたことには、さる老人が養生の戒とせよとて、詠んで贈られた戯れ歌で御座るとて、紹介して呉れた狂歌。

   朝寝どく昼寝又毒酒少し食をひかへて独寝をせよ

 

 

 中庸の歌の事

 

 右の泰翁中庸の歌とて、人の需(もとめ)しに、詠得(よみえ)ぬるとおもひ侍るとて語りぬ。

  すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし

 

□やぶちゃん注

○前項連関:横田泰翁直談咄直連関。

・「すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし」歌意は、

――真っ直ぐでなくては物を截ち割ることのが出来ぬ斧のような物もあれば――曲らねば立ちようがない屛風のような存在もある――と申すが、これ、世の中というもの――

岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 すぐなると用ゆるものもまがらねば足らぬ屛風も世の中ぞかし

とある。本書の方がよい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 中庸の歌の事

 

 右の泰翁殿、

「……中庸の歌と申して人から需められましたによって、詠みましたとろ、まあ、少しは上手く詠めたのではないか、と思いまして。……」とて、語り聴かせてくれた狂歌。

 

  すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし

愚に耐えよと窓を暗くす竹の雪 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   愚に耐えよと窓を暗くす竹の雪

 世に入れられなかつた蕪村。卑俗低調の下司趣味が流行して、詩魂のない末流俳句が歡迎された天明時代に、獨り芭蕉の精神を持して孤獨に世から超越した蕪村は、常に鬱勃たる不滿と寂寥に耐へないものがあつたらう。「愚に耐えよ」といふ言葉は、自嘲でなくして憤怒であり、悲痛なセンチメントの調しらべを帶びてる。蕪村は極めて溫厚篤實の人であつた。しかもその人にしてこの句あり。時流に超越した人の不遇思ふべしである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(9) 街路逍遙女性(にょしょう)点描

 

わざをぎの噂するらしをみな子のくちのうすきをたゞに目守りをり

[やぶちゃん注:「わざをぎ」俳優・役者。]

脣のうすきをみなを憎みつゝ朝曇する街を行きにけり

[やぶちゃん注:如何にも元町風景らしい風景とは思われる。「街路逍遙女性(にょしょう)点描」という副題は僕が勝手に附したものなので悪しからず。以下、この手帳歌群には前書はないので、この注は略す。]

日はうつる 大手拓次

 日はうつる

手のなかに 日はうつり、
あゆみを うつす、
にほひのひらく とほぞらのかほへ。

鬼城句集 秋之部 迎火/魂棚

迎火    迎火や年々焚いて石割るゝ

 

      迎火や戀しき親の顏知らず

 

[やぶちゃん注:この句の映像の中の人物は恐らく明治二五(一八九二)年に母スミを亡くした鬼城の娘二人と思われる。婚姻はスミとの結婚はスミ二十四の時、逝去の時は未だ二十七であった。]

 

魂棚    魂棚の見えて淋しき寐覺かな

 

[やぶちゃん注:「魂棚」「たまだな」は精霊棚(しょうりょうだな)のこと。盂蘭盆に先祖の精霊を迎えるために用意する棚。位牌を安置し、季節の野菜・果物などを供える。]

2013/09/28

野人庵史元斎夜咄 第貮夜 巴別(ばべる)の塔

 秋の宵。野人庵は何か穏やかならぬ気配である。

藪八 「儂(あっし)は、福島第一原発はモウ、ヤバい、と思う!」
野治郎「いんや! お国の親分もちゃんとコントロオルしとる言うとるやないかい! いい加減、放射能やら汚染水やら神経病みたような謂いはやめんかい! 長屋の連中だって五輪で盛り上がっとるんや! てめえみてえな、辛気臭(くせ)え奴がいると虫唾が走るワッ!」 
直吉 「……俺(おら)には、よう分からん……八っさんの言うように危ないような気もするし……野次さんのようにいいかげん、脱原発反原発で深刻になるのもなんだかなあちゅう気もするんや……おいらが信心しとるお祖師(そそ)さまは全く以って大事な云うとうるし……こないだ見たら、何や、環境アナリストちゅう、よう分からんけど、その筋の専門家らしいお人が、数値を挙げて、安全や、危ない云うとる輩は頭がおかしい、いうとったから……それに福島じゃあ、必死で復興に精出す人たちもおる中で、これ外野で、危ない、深刻や、とばかり騒ぐんは、これ、どんなもんやろ、と思うこともあったりして……」
野治郎「直よ! いいか! てめえの生き神さまなんざあ、おら、信じねえんだヨ! だからそういう意味じゃなッ、お前の言ってることはマ、ル、デ、マルカラ、分、カ、ラ、ネ、んだってことよ!……だけんどよ、まあ、ヘヽ、いい子じゃねえか! お前さんの神さまは、その点では正しいからナ! ヘヽ!」
(直吉、如何にも不服げだが、黙って薄い酒を呷る。)
藪八 「いんや! 野次! コントロオルなんぞ出来てねってことは、あの親分がのたもうて五輪誘致が決まったとたん、待ってましたとばかり、東電自身がはっきり自白したやないかい! 直の云う環境アナリストだかアナクロニストだか知らねえが、危ないと言い続けとる正真正銘の専門の、科学者先生も、そや! 京の都の小出裕章先生とか、しっかりおるんやぞゾ!」
野治郎「科学者がなんじゃい! 大事なのは豊かさや! 経済の活性化、ちゅうもんよ! 経済界の大物先生なんぞ、事故の直後っから原爆の放射能で死んだ人間は一人もおらんと言うとるぞ! 何よりよ、てめえみてえに、折角の五輪のお祭り気分も、景気も何んもかも、盛り下げに下げに下げて、何が面白いんじゃ? てめえの云うことは一事が万事、毛唐の言葉そのものよッ! 訳わからんぜ!」
藪八 「福島で燕の奇形やら昆虫の異常が見つかって、況や、子どもの甲状腺癌が悪化の一途を辿ってるんを、野治郎、てめえはどう言い訳するつもりじゃッ?」
野治郎「オウよ! その原因が原発じゃて、うっかり八兵衛大先生、一つドウゾ、ここでご高説、ご拝聴と仕りましょうかい!?」
(藪八、遂に野次郎に摑みかかり、大乱闘となる。大徳利が倒れかける。それを、すかさず史元斎、押さえて一喝!)
史元斎「これッツ! いい加減にせんカッ!!」
(滅多に声を荒らげぬ史元斎の怒りに二人、ススッと居直り、互いにそっぽを向いて、ふて腐れて茶碗酒を呷る。)
(史元斎、眼をつぶってやおら誦し出す。)
史元斎「……全地(ぜんち)は一(ひとつ)の言語(ことば)一(ひとつ)の音(おん)のみなりき……茲(こゝ)に人衆(ひとびと)東に移りてシナルの地に平野を得(え)て其處(そこ)に居住(すめ)り……彼等互に言(いひ)けるは去來(いざ)甎石(かはら)を作り之(これ)を善(よ)くやかんと……遂(つひ)に石の代(かはり)に甎石(かはら)を獲(え)灰沙(しつくひ)の代(かはり)に石漆(ちやん)を獲(え)たり……又(また)曰(いひ)けるは去來(いざ)邑(まち)と塔(たふ)とを建て其塔(そのたふ)の頂(いただき)を天にいたらしめん斯(かく)して我等(われら)名を揚(あげ)て全地の表面(おもて)に散ることを免(まぬか)れんと……ヱホバ降臨(くだ)りて彼(かの)人衆(ひとびと)の建(たつ)る邑(まち)と塔(たふ)とを觀(み)たまへり……ヱホバ言(いひ)たまひけるは視(み)よ民は一(ひとつ)にして皆一(みなひとつ)の言語(ことば)を用(もち)ふ今既(すで)に此(これ)を爲(な)し始めたり然(され)ば凡(すべ)て其(その)爲(なさ)んと圖維(はか)る事は禁止(とど)め得られざるべし……去來(いざ)我等(われら)降(くだ)り彼處(かしこ)にて彼等の言語(ことば)を淆(みだ)し互に言語(ことば)を通ずることを得ざらしめんと……ヱホバ遂(つひ)に彼等を彼處(かしこ)より全地の表面(おもて)に散(ちら)したまひければ彼等(かれら)邑(まち)を建(たつ)ることを罷(やめ)たり……是故(このゆゑ)に其名(そのな)はバベル卽ち淆亂(みだれ)と呼ばる是(こ)はヱホバ彼處(かしこ)に全地(ぜんち)の言語(ことば)を淆(みだ)したまひしに由(より)てなり彼處(かしこ)よりヱホバ彼等(かれら)を全地の表(おもて)に散(ちら)したまへり……」
(藪八、野治郎、直吉、ぎょっとする。)
藪八 「……ご、ご隠居?……」
野治郎「……あ、あっしの拳骨(げんこ)が、あ当り、ま、ましたんで?……」
直吉 「……ご隠居! 傷は浅そう御座いますぞ! 気をしっかりとッ!……」
史元斎「――耶蘇教の旧約聖書の『創世記』と申すものの、第十一にある言葉じゃ……意味は難しくあるまい?」
藪八 「……もともとはこの世は一つの言葉しかなかった、と?……」
野治郎「……『シナル』……ってえのは土地の名前でござんすか?……そこの平らな土地を手に入れて住んだ、と……」
直吉 「……な、なんかみんなで建てたんで御座んすよね、建て物を……そこでみんなが楽しく暮せるよな……」
史元斎「……彼らはまた言うことには『さあ、町と塔とを建てて、その頂きを天に届かせようではないか。そうして、我ら人が人としての名を全世界に知らしめられれば、この地上で散り散りになってしまうことから永遠に免れることが出来る。』と。――」
史元斎「……その時、主エホバは降臨されて、人の子たちの建てようとしている町と塔とをご覧になって宣われた、『民は一つであって、みな一つの言葉を用いている。今まさに彼奴(きゃつ)らは既にこのようなことをし始めてしもうた。彼奴らがしようとしていることは、このままでは最早、止め得ぬことは火を見るよりも明らかじゃ。……さればいざ、我らはその彼奴らの元へと降って行き、そこで彼奴らの言葉を乱し、そうして彼奴らが総て互いに言葉が通じなくなるようにしてやる。』と。……かくしてエホバは……藪八?……」
藪八 「……その通りになっちまったんで御座んすね?……誰もが喋ってる理解し合っていたはずの言葉が……互いに……全く……分からなくなった……だから……みんな、相手と意志を疎通することが出来ずなってしもうた……だから、みんな、散っていた……彼奴らを、かの地より地上のあらゆる場所へとお散らしになられた、と。……」
野治郎「……だからそして……彼奴らは町を建てるのをやめた……」
直吉 「……このことから、その町の名はバベルと呼ばれる。これはエホバが、そこで、この地上の総ての言葉をお乱し遊ばされたからであった。……エホバは、このバベルの地から、あらゆる人を、地球上の、ありとある地に散らばされたのである。……ご隠居、「バベル」というのは「混乱」てな、意味なんでしょうか?」
(唐人が喋るように。)
史元斎「ナオキチ! ヨク、デキマシタ!」
(史元斎、空になった徳利をぶら下げて、厨(くりや)へ向かう。)
藪八 「……何となく……」
野治郎「……そ、やな……」
直吉 「……おいらたちの言い分……」
藪八 「……その言葉は……まんず……」
野治郎「……これ、確かに皆……互いに……」
藪八・野治郎・直吉「――通じとらん、わ……」
(史元斎、たぽたぽと音をさせて大徳利を持ちきたり、三人に注ぐ。)
史元斎「……福島の原発事故以降、儂(わし)らの使う言葉は全く……互いに通じんようになってしもうた。……科学系の放射性物質危険言語や放射性物質安全言語――宗教系言語――経済系言語――政治系言語――風評言語に五輪誘致言語という新言語まで……バイリンガルの語学の達人もこれにはお手上げじゃろ……大橋弘忠なんぞのように、事故以前、偉そうに「プルトニウムは飲んでも平気」「事故が起こるなんて専門家は誰も考えてない」とのたまい、そんなことを考える奴は馬鹿だと言わんばかりに幅を利かせていた御用学者どもは、これ、すっかり鳴りを潜めてしもうたな……専門の科学者で、汚染水や現在の第一原発の安全性や向後の希望的展望を力強く語る者はどうして払底してしまったのじゃ?……
アカデミズムは、こういうカタストロフにはまるで役に立たんのか?……だったら何のための科学か!!……かくして……今や、科学系言語はすこぶる地に堕ちてしもうた……かに見える……本当はこれだけが真理を語れるはず、なのじゃがな……そうして、そう、藪八の言う「環境アナリスト」「経済アナリスト」「科学ジャーナリスト」なんどという肩書を持った有象無象の輩が、安全だ、いや、危ない、と言い合うのを、科学を知らぬ我ら凡夫は、ただただ、手を拱いて呆けた表情(つら)で、そしてどこかで、『もういいかげん、その話はやめようよ、飽きた。』と、うっちゃらかしているのが、どうじゃ、現実ではないかのぅ……こういうのを「判断停止」と言うての、「智そのものの死」という致命的な病い以外の何ものでもないのじゃが、の……しかも哀しいことに、同じ言語であっても、福島におらるる人々の言語と、東京人の言語は、その他者性を際立てて、言語学上の方言以上に異言語のようになって、通じ難くなっておろうが……危険という言語は同じでも、その危険区域に住まう人々と、そうでない人々の使用する際の質量は、特殊相対性理論並みに異なってしまっておるんじゃ……いや、同じ福島に現に住まう家族の老祖父母と孫の母のそれは。まるで違ったものであったりしてくる……子のために危険と感じる母は、ともに居たいと思う祖父母と。時に食い違い、家族は別れ別れに過ごさねばならなくなる……といったことも現に起っておる……さても……かく言う儂にも儂の「信ずる」ところの言語はあるから大きなことは言えんが……しかし……しかし、これは福島第一原発の事故に象徴さるるところの……「原子力」という「神」――自然を凌駕する人為的な技術(科学ではないぞ、技術じゃ)――こそが――則ち――かの「バベルの塔」であり――儂ら、言葉を通じ合えたはずの隣人たちが、遂に散り散りにさせられるところの――新しい――そうして最期の――おぞましき多言語生成を語るところの――絶望的な神話なのではないか、の。……」
(藪八・野治郎・直吉、皆、膝を見つめたまままんじりともしない。もう誰も喋らない。徳利の酒をもそのままに、夜は更けゆくのみ。)
 庭で、蟋蟀が一声高く、鳴いた。

[やぶちゃん注:副題に使用した「巴別(ばべる)」は中国語の謂い。史元斎が語る旧約聖書の文語訳はサイト「tombocom」のこちらの訳を改変せずに引用させて戴いた。但し、節番号を省略し、間を6点リーダで繋いである。なお、昨日の晩の、「随分御機嫌よう」という、

 さればこそ鬼とならむと思ふ汝(な)は

    戀路も斷ちて癡(ち)とはなるなれ

という短歌の謂いは、実はこの二編の「野人庵史元斎夜咄」を公開するためのスプリング・ボードであったことを告白しておく。]

野人庵史元斎夜咄 第壱夜 蜥蜴の尻尾

 秋の宵。於野人庵。長屋の藪八が薄い酒をちびりちびり。主人史元斎に話しかける。
藪八 「ご隠居、経済産業省出向のお偉いさんがとんでもねえ罵詈雑言をブログに書いてたってえ話、御存知ですかい?」
史元斎「一応はその日のうちに名前を調べ上げて、粗方の公開記事や投稿写真なんどはしっかり読ませてもらったがね。キャリアだか何だか知らねえがよ、『復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいいのに』だの、『ほぼ滅んでいた東北のリアス式の過疎地で定年どころか、年金支給年齢をとっくに超えたじじぃとばばぁが』だのと、綺羅星の如きその差別表現を目にすると、こりゃ、生理的に虫唾が走るってもんさね。鬱憤晴らしに飼い犬に可哀そうな悪戯をした写真を得意げに載せるのを見た日にゃ、異常性格と言ってもよかろうってもんだな。」
藪八 「昨日のニュースじゃ、マスキングされてやしたが、いけしゃあしゃあと出てきて、私も日本のよりよい未来を考えてるとかどうとか、訳の分からねえ謝罪こいてたやしたね。」
史元斎「あの波状的な確信犯の侮蔑的発言を一度御覧な、ええ? 反省して一日で真人間に戻れるような手合いじゃあネェよ。」
藪八 「でもご隠居、停職二ヶ月喰らってますし、自分で書いてた天下りも、これでオジャンでげしょ?」
史元斎「そう思うかい? だからお前さんはうっかり八兵衛なんて呼ばれるんさ。お前さん、どうやってその情報を確認するつもりだぇ? だいたいお前さん、名はおろか、この出来事自体直きに、忘れっちまうだろ? ほとぼりが冷めた頃には、前に本人も望んでたよに、相応の天下り先へと目出度くちんまりお座りになられるんだろうよ。そのうち、どっかの講演会で、『栄養バランスが整った日本食文化の魅力』なんてえ、有り難ご高説を拝するようになるのがオチだぜ。」
藪八 「……なんだか……ザマ見ろぃと思ってすっきりしてたんが……東北の人が停職二ヶ月で憤ってガツンと一発やりたいねって言ってたけんど、ご隠居の話を聴いてたら、またぞろ、ムカっ腹が立ってきやしたゼ!」
史元斎「まあ、落ち着きなさい。――しかしね、考えようによれば、あの男は、ある真実を儂らに伝えて呉れたじゃないか。」
藪八 「そりゃ、またどういうことでげす?」
史元斎「あの国家機関の中枢で働くキャリアが永きに亙って復興不要を言い放って一向に愧じなかったのは、何故だと思う? それは彼に代表される政治を実際に動かしているキャリアにとっての命題として「不要」が「真」であるからに他ならない。それが彼らの本音であり真理だからに他ならない。図らずもあ奴は、現在の、日本国家という化け物の思惑を、鮮やかに包み隠さずに語って呉れたということじゃ。最早、政府も官僚も東北を復興しようなんて気持ちは実は微塵もない、ということを彼が代表して表明したということじゃ。停職二ヶ月たあ、蜥蜴の尻尾切りとも言えぬ尻尾――尻尾は考えないよ。考えるのは頭だぁな。それが生物学でいう自切じゃ。危なくなると尻尾をちょいと切ってとんずらを決め込むはお上の常套手段よ ♪ふふふ♪」
藪八 「そりゃあ、余りとと言いゃあ余りの……」
(史元斎、台詞を食い、珍しく苛立って)
史元斎「五輪を『復興』と称して招致にまんまと成功したが、あの時、招致委員会の竹田恒和理事長が何と言ったか覚えてるんかい?!――東京と福島は「ほぼ二百五十キロ、非常に、そういった意味では離れたところにありまして、皆さんが想像するような危険性は、東京には全くないということをはっきり申し上げたい」とのたもうたんだよ?! これが『復興五輪』という御旗の後ろに見え隠れするおぞましい本音でなくって何だってえんだい、ええっ?!」
(藪八、しゅんとなる。史元斎、干鮭をカッシと噛み千切って、茶碗酒を煽って吐き捨てるように)
史元斎「……まあ、なんだな……実はもう祭りは……とっくに……終わっちまったのかも……知れないよ……おお、一句出来(でけ)たわ。」
(史元斎、色紙に川柳をものして藪八に渡す。曰く)
――ろ富士(ふじ)いやしかれご大(オリンピア)
(藪八、覗いて)
藪八 「……な、何でげす? こりゃ?」
(史元斎、意地悪く微笑んで黙っている。)
 秋の夜は更けゆく。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 7 行灯 附“Japanese Homes and Their Surroundings”より「畳」の原文・附図と私の注

 旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。即ち私は日本の紙に日本の筆で蟾蜍(ひきがえる)、バッタ、蜻蛉(とんぼ)、蝸牛(かたつむり)等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。

 

M40

図――40

 

 六十六マイルの馬車の旅で疲れた我々は、上述の芸当を済ませた上で床に就いた。すくなくとも床から三フィートの高さの二本の棒に乗った、四角い提灯(ちょうちん)の形をした夜のランプが持ち込まれた。この構造の概念は、挿絵(図40)によらねば得られない。提灯の一つの面は枠に入っていて、それを上にあげることが出来る。こうして浅い油皿に入っている木髄質の燈心若干に点火するのである。日本では床の上に寝るのであるが、やわらかい畳(マット)【*】がこの上もなくしっかりした平坦な表面を持っているので、休むのには都合がよい。

[やぶちゃん注:置行灯(おきあんどん)である。なお、ここから原典の傍注記号は【*】で本文に入れ込んで示すこととする(以下、この注は略す)。

「三フィート」91センチメートル。]

 

 

* この畳に関する詳細は私の『日本の家庭』(ハーパア会社一八八六年)に図面つきで説明してある。Japanese Homes (Harper & Bros)

[やぶちゃん注:注は底本では全体はややポイント落ちの一字下げで注の前後に有意な空行がある(以下、この注は略す)。

 これは、前出の“Japanese Homes and Their Surroundings”(の再版公刊本。この出版年については「緒言」の私の同書についての注(「私の著書『日本の家庭及びその周囲』」の注)の推理を必ず参照されたい)で、出版社名の“Harper & Bros”は“Harper & Brothers”の略。以下に本電子化の参考にもしている“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある同書の電子テクスト・データを、同所にある原書画像(PDF版)で視認校訂した当該箇所“CHAPTER III. INTERIORS.”の“MATS.”の原文を総て示す(原書p.121-125)。図版は斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)のものを用い、相応しいと思われる位置に配した。

 

 A more minute description of the mats may be given at this point. A brief allusion has already been made to them in the remarks on house-construction. These mats, or tatami, are made very carefully of straw, matted and bound together with stout string to the thickness of two inches or more, the upper surface being covered with a straw-matting precisely like the Canton matting we are familiar with, though in the better class of mats of a little finer quality. The edges are trimmed true and square, and the two longer sides are bordered on the upper surface and edge with a strip of black linen an inch or more in width (fig. 100).

 The making of mats is quite a separate trade from that of making the straw-matting with which they are covered. The mat-maker may often be seen at work in front of his door, crouching down to a low frame upon which the mat rests.

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FIG. 100MAT.

 

 As we have before remarked, the architect invariably plans his rooms to accommodate a certain number of mats ; and since these mats have a definite size, any indication on the plan of the number of mats a room is to contain gives at once its dimensions also. The mats are laid in the following numbers, two, three, four and one-half, six, eight, ten, twelve, fourteen, sixteen, and so on. In the two-mat room the mats are laid side by side. In the three-mat room the mats may be laid side by side, or two mats in one way and the third mat crosswise at the end. In the four and one-half mat room the mats are laid with the half-mat in one corner. The six and eight mat rooms are the most, common-sized rooms ; and this gives some indication of the small size of the ordinary Japanese room and house, the six-mat room being about nine feet by twelve ; the eight-mat room being twelve by twelve ; and the ten-mat room being twelve by fifteen. The accompanying sketch (fig. 101) shows the usual arrangements for these mats.

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FIG. 101. ARRANGEMENT or MATS IN DIFFERENT - SIZED ROOMS.

 

 In adjusting mats to the floor, the corners of four mats are never allowed to come together, but are arranged so that the corners of two mats abut against the side of a third. They are supposed to be arranged in the direction of a closely-wound spiral (see dotted line in fig. 101). The edges of the longer sides of the ordinary mats are bound with a narrow strip of black linen, as before remarked. In the houses of the nobles this border strip has figures worked into it in black and white, as may be seen by reference to Japanese illustrated books showing interiors. These mats fit tightly, and the floor upon which they rest, never being in sight, is generally made of rough boards with open joints. The mat, as you step upon it, yields slightly to the pressure of the foot ; and old mats get to be slightly uneven and somewhat hard from continual use. From the nature of this soft-matted floor shoes are never worn upon it, the Japanese invariably leaving their wooden clogs outside the house, either on the stepping-stones or on the earth-floor at the entrance. The wearing of one's shoes in the house is one of the many coarse and rude ways in which a foreigner is likely to offend these people. The hard heels of a boot or shoe not only leave deep indentations in the upper matting, but oftentimes break through. Happily, however, the act of removing one's shoes on entering the house is one of the very few customs that foreigners recognize, the necessity of compliance being too obvious to dispute. In spring-time, or during a rain of lung duration, the mats become damp and musty; and when a day of sunshine comes they are taken up and stacked, like cards, in front of the house to dry. They are also removed at times and well beaten. Their very nature affords abundant hiding-places for fleas, which are the unmitigated misery of foreigners who travel in Japan ; though even this annoyance is generally absent in private houses of the better classes, as is the case with similar pests in our country.
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FIG. 102.  ATTITUD OF WOMAN IN SITTING.

 

 Upon these mats the people eat, sleep, and die ; they represent the bed, chair, lounge, and sometimes table, combined. In resting upon them the Japanese assume a kneeling position, the legs turned beneath, and the haunches resting upon the calves of the legs and the inner sides of the heels ; the toes turned in so that the upper and outer part of the instep bears directly on the mats. Fig. 102 represents a woman in the attitude of sitting. In old people one often notices a callosity on that part of the foot which comes in contact with the mat. and but for a knowledge of the customs of the people in this matter might well wonder how such a hardening of the flesh could occur in such an odd place. This position is so painful to a foreigner that it is only with a great deal of practice he can become accustomed to it. Even the Japanese who have been abroad for several years find it excessively difficult and painful to resume this habit. In this attitude the Japanese receive their company. Hand-shaking is unknown, but bows of various degrees of profundity are made by placing the hands together upon the mats and bowing until the head oftentimes touches the hands. In this ceremony the back is kept parallel with the floor, or nearly so.

 At meal-times the food is served in lacquer and porcelain dishes on lacquer trays, placed upon the floor in front of the kneeling family; and in this position the repast is taken.

 At night a heavily wadded comforter is placed upon the floor ; another equally thick is provided for a blanket, a pillow of diminutive proportions for a head-support, and the bed is made. In the morning these articles are stowed away in a large closet. Further reference will be made to bedding in the proper place.

 A good quality of mats can be made for one dollar and a half a-piece ; though they sometimes cost three or four dollars, and even a higher price. The poorest mats cost from sixty to eighty cents a-piece. The matting for the entire house represented in plan fig. 97 cost fifty-two dollars and fifty cents.

 

末尾にある“fig. 97”(この図面の家屋に係った畳の総経費が52円50銭であったと述べている)もキャプションと一緒に参考までに以下に示す(キャプションの最後の上付きの「1」があるのは、後の“FIG. 98.”で同標題で別の家屋の平面図を出しているからである)。

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FIG. 97. PLAN OF DWELLING-HOUSE IN TOKIO.1

 

1 P, Parlor or Guest-room ; S, Sitting-room ; D, Dining-room ; L, Library ;

 St, Study ; SR, Servants’ Room ; B, Bed-room ; K, Kitchen ; H, Hall ;

 V, Vestibule ;  C,Closet ; T, Tokonoma ; Sh, Shrine ; U, and L, Privy.

 

このキャプションの“Parlor”は応接間、“Library”及び“Study”は斎藤・藤本訳「日本人の住まい」では前者を「書院」、後者を「書斎」と訳しているが、これは図面を見ると寧ろ後者の方が「書院」で(“ St ”の左手にあるのは“ C ”(押入れ)とするが、これは誤りで明らかに書院造りの違い棚と床の間である)、前者は寧ろ“Parlor or Guest-room”とすべき座敷である。“Hall”は「こゝろ」にも出てくる玄関の間で、“Vestibule”が玄関である。“Shrine”は神棚である。

 以下、語注を附す(斎藤・藤本訳「日本人の住まい」を一部参考にした)。

●“A brief allusion has already been made to them in the remarks on house-construction.”は以下の“The making of mats”の注の引用部を参照。

●“the Canton matting”広東茣蓙(カントンござ)。最近、しばしば見かける中国製のイグサを用いた四角い座布団(布団ではないので変な言い方だが)、敷き茣蓙のこと。現在も広東省はこの茣蓙の産地である。

●“The making of mats”これは畳床(たたみどこ)の製作の意。次にある“the straw-matting”が畳表(たたみおもて)の意。畳の大きさは前の“SELECTION OF STOCK.”(建築用材の選択方法)の部に“As the rooms are made in sizes corresponding to the number of mats they are to contain, the beams, uprights, rafters, flooringboards, boards for the ceiling, and all strips are got out in sizes to accommodate these various dimensions. The dimensions of the mats from one end of the Empire to the other are approximately three feet wide and six feet long;”(約90センチメートル×1・8メートル相当)とある。以下は、畳屋の前での畳表を張っている光景を簡潔に描写している。

●“As we have before remarked”前注に引用した直後に“and these are fitted compactly on the floor. The architect marks on his plan the number of mats each room is to contain.”とある。

●“yields”物理的にへこむ、の意。斎藤・藤本訳「日本人の住まい」では『弾性(イールド)を感じる』と訳す。この後も同訳は『長年のあいだ使ったものは弾性がなくなり』と訳すが、原文には学術的な(文字通り)お硬い「弾性」(例えば“elasticity”)という表現は見られない。

●“From the nature of this soft-matted floor shoes are never worn upon it, the Japanese invariably leaving their wooden clogs outside the house, either on the stepping-stones or on the earth-floor at the entrance.……”以下で、モースは初めて日本人が家屋に入る場合に履き物を脱ぐことを述べ、その習慣がフロアの美観を守っている点で称賛している(但し、長雨の時期には湿気を吸い黴臭くなること、畳干をしなくてはならないこと、蚤の格好の棲み家となること等を同時に述べている)。

●“Upon these mats the people eat, sleep, and die ;”当たり前のことを言っているのだが、私の様に寝室以外に畳がない家に永く暮していると、何か、しみじみとした懐かしさと古き良き日本の面影を感じてしまうのは何かもの狂ほしくなってくる。

●“lounge”この場合は、“lounge chair”で、寝椅子の意。

●“the haunches”通常このように複数形で、人の臀部(尻)・腰部をいう。

●“a callosity”は“callus”(カルス)と同義で、ここでは常時正座することによって生ずる足の甲や踝(くるぶし)の座り胼胝(だこ)のことを言っている。

●“lacquer and porcelain”漆器(lacquer ware)と瀬戸物(chinaware)。

●“a heavily wadded comforter”ぎっしりと詰め物を施された掛け布団。

●“Further reference will be made to bedding in the proper place.”後の“CHAPTER IV. INTERIORS (Continued). ”に“BEDDING AND PILLOWS.”として一項を設けている。]

 

耳嚢 巻之七 志賀隨翁奇言の事

 志賀隨翁奇言の事

 

 石川壹岐守組の御書院與力廣瀨大介といふ者、文化の比(ころ)八十餘なりしが、當時世の中にて長壽の人といへば、志賀隨翁事を口説(くぜつ)なす。彼(かの)大介幼年の節、京都建仁寺にて隨翁に逢(あひ)し事有(あり)。大介に向ひて、此小兒は長壽の相あり、然共(しかれども)不養生にては天命を不經(へず)と語りしと、大介咄(はなし)し由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿譚で直連関し、前の注で鈴木氏によって実は前の「長壽の人狂歌の事」に出た歌(第一首目)を、この話の「隨翁」とする記述があるから、これは同一の情報源であることが強く疑われる。前の項の注も参照されたい。

・「志賀隨翁」底本で鈴木氏は特異的に詳細で重要な考察をなさった注を施しておられるので、例外的に全文を引用したい。

   《引用開始》

『梅翁随筆』八に「生島幽軒といふ御旗本の隠居、享保十年己巳八十の賀を祝ひて、老人七人集会す。その客は榊原越中守家士志賀随翁俗名金五郎百六十七歳、医師小林勘斎百三十六歳、松平肥後守家士佐治宗見百七歳、御旗本隠居石寺宗寿俗名権右衛門九十七歳、医師谷口一雲九十三歳、御旗本下条長兵衛八十三歳、浪人岡本半之丞八十三歳、宴会せしとて、其節の書面、今片桐長兵衛かたにのこれり。」うんぬんとある。この七人の長寿者会合のことは『月堂見聞集』『翁草』にも出ているから、話の種だったことがわかる。享保十年百六十七歳というのが随翁の生存年代を確かめるための一応のめどであるわけだが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』には正徳五年幽軒の尚歯会の際、瑞翁百八十七歳とある。蒿蹊は、「右の内志賀瑞翁は人よく知れり。おのれ三十二三の時、此翁の三十三回にあたれりとて、手向の歌を勧進する人有しが、これは彼延寿の薬方を伝へて、売人其恩を報が為なりと聞えき。此年紀をもて算ふれば、正徳五年よりは十七八年、猶ながらへて凡二百七十余歳なり。長寿とは聞しかども、二百に余れるとはいふ人なし。もし正徳の会の時の齢たがへる歟、いぶかし」と疑っている。蒿蹊の三十二、三は明和初年であるから随翁は享保十六、七年に死んだことになる。いずれにしても無責任な数字というべきだが、この随翁(随応とも瑞翁とも酔翁とも書いた)と実際に逢ったことがあると言い出した者があり、その証拠ともいうべき災難除けの守りを貰ったという人物(江戸塵拾)まで出現した。本書の広瀬大介も逢ったという一人だが、『海録』では、方壺老人(三島景雄)という人が幼時(享保の末)随翁に逢ったが、木挽町に貧しげな様で下男と二人で住んでいた。翁は幼いとき信長公の児小性で、本能寺の変には運よく死を免れたと自ら語った。随翁が死んだ時は下男もいず、あまり起きて来ないので隣家の者が見たら死んでいたという。谷川士清は、「二百歳の寿を保ちしといへるも覚束なし、若くは世を欺く老棍のわざならんか」といっている。自ら長寿を吹聴し人を欺く意図はなくても、稀世の長寿者を待望する心理が民衆の中にあり、その像を具体的に作り上げて行く動きが、いったん走り出すと停らなかった。まず心から信じるには到らなくても、語りぐさとして受け容れる層が存在したことが、このような無責任な伝聞を事実誇らしい形で発展させたことは常陸坊海尊の場合も同様であった。

   《引用終了》

谷川士淸の言葉の中の「老棍」とは老いたる悪漢、無頼の徒の意。

・「御書院與力」御書院番配下の与力。御書院番は若年寄に属して江戸城警護・将軍外出時の護衛・駿府在番などの他、儀式時には将軍の給仕を御小性と交替で当たった。十組程度(当初は四組)の編成で各組に番頭六人・組頭一人(千石高)・組衆五十人・与力十騎・同心二十人を置いた。同与力は玄関前御門の警備に当った。

・「石川貞通」底本の鈴木氏は、『天明五年(二十七歳)家督。四千五百二十石。寛政十年御小性組頭』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「石川」を『石河』とし、長谷川氏は『いしこ』とルビを振ってあり、注では『文化四年(一八〇七)書院番頭、五年御留守居』とある。「新訂寛政重修諸家譜」によると、「石河」が正しいようである。天明五年は西暦一七八五年、寛政十年は一七九八年でこれが同一人物であるとすると、文化四年には五十九歳となるが、備中伊東氏系図で生年を計算してみると、備中岡田藩の第六代藩主であった石河貞通の父伊東長丘(ながおか)の生年は元禄一〇(一六九七)年であるから、天明五(一七八五)年に二十七歳とすると、鈴木氏の言う「石川貞通」の方の生年は宝暦九(一七五九)年、父伊東長丘が六十二歳の時の子供ということになる。考えられないことではないが、長谷川氏の役職も一致するものがなく、これはどう考えても同一人物ではあるまい。訳ではあり得そうな「石河貞通」を採用した。

・「文化の比」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏である。この話が直近の都市伝説であることが分かる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 驚異の長寿で知られた志賀随翁の奇体な評言の事

 

 書院番番頭であらせらるる石河(いしこ)壱岐守貞通殿の組の、御書院番与力の廣瀨大介と申す者、この文化の初年頃には八十歳余りであったと存ずる。

 昨今、世の中にて長寿の人と申さば、志賀隨翁のことがしばしば人の噂に登るが、この大介、幼年の砌り、京都建仁寺にて、その随翁に実際に逢(お)うたことがあると申す。

 その折り、随翁は大介に向かい合って、凝っと彼の顔を見ておったが、そのうちやおら、

「――この小児は長寿の相、これあり。――然れども美食や女色と申す不養生を致いたならば――これ、天命を全うすることは――出来ぬ。――」

と語った、とは、これ、その大介自身の話の由。

玉霰漂母が鍋を亂れうつ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   玉霰(あられ)漂母(ぼ)が鍋を亂れうつ

 漂母(へうぼ)は洗濯婆のことで、韓信が漂浪時代に食を乞うたといふ、支那の故事から引用してゐる。しかし蕪村一流の技法によつて、これを全く自己流の表現に用いて居る。即ち蕪村は、ここで裏長屋の女房を指してゐるのである。それを故意に漂母と言つたのは、一つはユーモラスのためであるが、一つは暗にその長屋住ひで、蕪村が平常世話になつてる、隣家の女房を意味するのだらう。
 侘しい路地裏の長屋住ひ。家々の軒先には、臺所のガラクタ道具が竝べてある。そこへ霰あられが降つて來たので、隣家の鍋にガラガラ鳴つて當るのである。前の「我を厭いとふ」の句と共に、蕪村の侘しい生活環境がよく現はれて居る。ユーモラスであつて、しかもどこか悲哀を内包した俳句である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。底本は「我を厭ふ」が「私を厭ふ」となっているが、訂した。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(8) 「ひげ・いてふの歌」草稿及び別稿

 朝日子に黄に燃えけぶる銀杏の葉そがひの海の靑は眼に沁む

 

[やぶちゃん注:別案を復元する。

 

 朝日子に黄に燃えけぶる銀杏の葉そがひの海は靑寒々し

 

「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の「ひげ・いてふの歌」歌群の草稿。そこでは、

 

朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む

 

となっている。]

靑靑とよみがへる 大手拓次

 靑靑とよみがへる

わたしの過去は 木の葉からわかれてゆく影のやうに
よりどころなく ちりぢりに うすれてゆくけれど、
その笛のねのやうな はかない思ひでは消えることなく、
ゆふぐれごとに、
小雨する春の日ごとに、
月光のぬれてながれる夜夜(よるよる)に、
わたしの心のなかに
あをあをと よみがへる。

鬼城句集 花火/走馬燈

花火    水の上火龍走る花火かな

 

      飄々と西へ吹かるゝ花火かな

 

[やぶちゃん注:「花火」は古くは盆行事の一環として行われたため、秋の季語である。但し、私は自身の句は無季俳句と認識しているので関係ないが、現在の有季定形では夏の季語として使って差し支えあるまいと思う。]

 

走馬燈   走馬燈消えてしばらく廻りけり

 

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]

オリンピック聖火夢 又は ゲッセマネの園夢

2020年である。――
私は3人の教え子とオリンピックの聖火を運んでいる。――
その夜は東北の廃校となった高校の体育館に泊まっていた。
私はまず、2人を放送ブースに入れ、マリン・ランプの聖火の番をして、決して眠ってはならないと命じた。
明日トーチを掲げて走ることになっている今1人には、ピアノ室に入って仮眠をとるように言い、用心のために角型の焼香に用いる火種に移したそれを傍に置かさせ、数時間おきに起きては、火種を繫げるように、と命じた。
私は戸外で、やはり聖火を移した苧殻(おがら)の束の焚き火の前で、凝っとその火を見つめているのだった。――

暫く経った――その時――一陣の強い風が吹いて、一瞬のうちに苧殻が吹き飛び、夜空を焦がして散り消えてしまった。

慌てた私がピアノ室へ駆け込んでみると、火種は白い灰の塊となってしまっていて、探ってみても最早火種はなく、脇に横臥した教え子は、すやすやと眠っており、突っついても全く起きる気配がないのだった。

放送ブースに入って見ると、何故か、マリン・ランプの聖火も消えており、2人の教え子もやはり居眠りをしていて、まるで何か妖怪(あやかし)に憑(と)りつかれたように、私がいくら揺す降っても目覚めぬのであった。――

私は、その時、茫然としながらも、何か悲愴な決意の中で、
「……このカタストロフは――どうしても映画にして残さなければならない!」
と叫んだまま、立ち尽くしているのであった……

これは私がイエス役を演じているという、トンデモ不遜夢なのであるが、事実見てしまったのだから仕方がないのでそのまま忠実に記録した(つもりである)。

何だかこの象徴群は妙に分かり易いのが、かえって変である。

東北を聖火が廻っているという設定が、実に如何にもな皮肉である(夢とは関係ないが、事実、聖火はまた日本中を廻ることになるのであろうが、その時は是非、まだ燃えている福島第一原発まで行ってもらって、その炉心の火も聖火の火種に加えてもらいたいもんだ、などと思う。カロの破片が東京じゅうを経巡るようにだ)。

またこの奇体な夢を何故、細かに記憶出来たかといえば、偏えにオリンピックの聖火という、私が最も興味がなく、寧ろ現在甚だ嫌悪の対象であるところの2020年オリンピック(以前に申し上げた通り、オリンピックなんぞより今やらなくてはならないことは絶望的に山積しているという立場を私はとる者である)に関わった話柄であったからに他ならない。

シチュエーション全体はマルコの福音書に出るゲッセマネの園のシークエンスをほぼそのまま借用している。

しかも私の印象では、マリン・ランプ(実際のかつての東京オリンピックの予備火種はこれを自動車で運んだはずである)がキリスト教を象徴しており(これは私が夢の中で、それを「ランプ」と呼ばずにわざわざ「西洋ランプ」と呼称していた事実からも認識出来る)、移した角型火種が仏教を、お盆の迎え火に用いる苧殻が日本土着の信仰を象徴しており、これまた如何にもな宗教総体の象徴であって、それらが現実のカタストロフを全く救い得ないという構図も、随分、分かり易い、分かり易過ぎ、である。

最後に、何故、映画なのか? 分からない。ただ、私にとって「映画」は「タルコフスキイ」であり、「タルコフスキイ」というと彼の著作の題名ともなっている「スカルプティング・イン・タイム」を連想するのを常としている。映画は唯一、時間を切り取ることが出来るもの、の謂いである……とりあえず醒めた時、私がそんなことを考えたことだけ記しておく。

ともかく――ブッ飛んだトンデモ夢で……それでいて醒めた際に酷く哀しい気持ちになった夢であったことも、これ、事実なんである。……

2013/09/27

隨分御機嫌やう

さればこそ鬼とならむと思ふ汝(な)は戀路も斷ちて癡(ち)とはなるなれ

耳嚢 巻之七 長壽の人狂歌の事

 長壽の人狂歌の事

 

 安永の比迄存在ありし增上寺方丈、壽筭(じゆさん)八九十歳なりし、海老の繪に贊をなし給ふ。

  此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ

 と有しを、小川喜内といへる是も八十餘なりしが、右の贊へ、

  此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。狂歌シリーズ。流石にこの歌に注釈は不要であろう。特になし。狂歌シリーズの一。流石にこの歌に注釈は不要であろう。なお、底本の注で鈴木氏は第一首目の歌に注して、『この歌の異伝と見られるものが、『三味庵随筆』中に、志賀酔翁の作として出ている。酔翁は後出の随翁(瑞翁)で、長生して昔のことを語ったという人であった。実は自分も幼い時その随翁に逢ったことかあるなどと言い出す暑が何人か出て、いよいよ噂ばかり高かった人物だが、信用できるような具体的伝記事実は伝わっていない。「志賀酔翁御逢候哉と尋候へば、自分など江戸へ詰候時分は未ㇾ出人にて候哉、名も不ㇾ聞よし、其已後段々聞及候、酔翁海老を書き、「髭長く腰まがるまで生度と大食をやめ独りねをせよ」と讃書候絵、義岡殿有ㇾ之よし、大坂陣の節共は壮年の積由候ば、何事も知らぬと申候由。」とある。海老の絵にこんな狂歌を書くのは増上寺方丈や随翁に限ったことでなく、一つの型になっていたことを思わせる』とあって、この歌が次項の主人公「志賀隨翁」のものであるという伝承があったことが記されてある。

・「安永」西暦一七七二年から一七八〇年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年。

・「增上寺方丈」底本の鈴木氏注に、『増上寺の十時で安永年間に示寂したのは、二年寂の典誉智瑛(四十八代)と六年の豊誉霊応であるが、いずれも世寿伝えていない』とある。

・「筭」算に同じ。

・「小川喜内」不動産会社ジェイ・クオリスの「東京賃貸事情」(ここの情報はあなどれない!)の「美土代町二丁目」に、同地域の歴史を綴る中に元禄一〇(一六九七)年『には全域を松平甲斐守(柳沢吉保。武蔵川越藩主)が一括して拝領。享保年間(一七一六―三六)になると再び細分化され、小笠原駿河守・林百助・能勢甚四郎・本間豊後守・金田半右衛門・窪田源右衛門・堀又兵衛が拝領している。寛政一一年(一七九九)には林家跡に大前孫兵衛、金田家跡に中野監物、窪田家跡に小川喜内が入っており、文政一二年(一八二九)になると小笠原家跡に駿河田中藩本多豊前守正寛が、その他の一帯に摂津尼崎藩松平筑後守忠栄が入っている』とある。この「小川喜内」なる人物、時代的にもぴったりである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安永の頃まで存命であられた増上寺の方丈は、齡(よわい)八、九十歳まで矍鑠(かくしゃく)となさっておられたが、ある折り、海老の絵に賛をお書きになられた、その和歌。

  此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ

 かくあったものに、後年になって、小川喜内と申す御仁、これも八十余歳にて壮健であられたが、右の賛へ、

  此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(7)……やばいよ……驚愕の恋歌を発見しちまった!!!……

頸の邊のいとくづとりてやりにけり横向きしくちの気取にくしも

[やぶちゃん注:別案を復元する。

頸の邊のいとくづとりてやりにけり横向きしくちのそりのにくしも

……この歌……妻を詠んだものでは「ない」としたら……とんでもないスキャンダラスな歌ということになるであろう……そうして……私は「妻を詠んだものでない」と確信するのである……何故か? 次の一首と注を読まれるがよかろう……]

中空に戀はすまじと人のいふ中空だにも我はこはなし

[やぶちゃん注:本歌は世阿弥作の「恋重荷」を濫觴とするものであろう。シテである御苑の菊守の老人は山科荘司(やましなのしようじ)が女御(ツレ)に恋をし、廷臣(ワキ)が女御の言葉を伝え、美しい荷を見せ、その荷を持って庭を百度も千度も回ったら、顔を見せてもよいという。老人は荷を懸命に持とうとするが持ち上げられない。荷は岩を錦に包んだもので、絶望のあまり、老人は恨みを抱いて憤死するというストーリーで、そこに後半の女御の台詞、 「戀よ戀 我が中空になすな戀 戀には人の 死なぬものかは 無慙の者の心やな」 とある。「ものかは」は反語で、「恋によって人は死なぬか? いや、死ぬることもある!」という謂いである。
「中空に」は形容動詞「なかぞら」①中途半端だ。②心落ち着かぬさま。上の空。③いいかげんなさま、疎か。の意を持つ。
「こはなし」「こは」は「此は」(指示代名詞「こ」+取り立ての係助詞「は」)で、感動表現で、「これはまあ!」「なんとまあ!」の意であるから、この一首は、まさに(!)自分が「今している恋はいいかげんなものでなどでは、決してない!」と中空へ叫んでいるようなものではないか?!……そしてこの恋は……どう考えても、妻への「戀」なんどではありはしない!……この二首は、よろしいか?……昭和十二年の手帳にあるのだよ。――敦は昭和七年にたかと結婚し、昭和八年には長男桓(たけし)が生まれ、その年の十一月に実家から妻子が上京して同居が始まり、昭和十一年には横浜市中区本郷町に一家を構えて、この昭和十二年一月には長女正子も生まれているのだよ(但し、正子は出生三日後に死亡している)。……時に敦、満二十八歳、横浜高等女学校奉職四年目だったのだよ。――何? 喘息はどうだったのか、って?……よろしい、話しましょう。……確かに彼は昭和九年九月に大きな喘息発作に襲われ、命が危ぶまれるという経験をしている。しかしね、その後は登山(昭和十年七月白馬岳登頂)や既に歌でも見たように小笠原(昭和十一年三月二十三日~二十八日)や中国旅行(同じく昭和十一年八月八日~八月三十一日)に出ているのだ。おまけに全集の年譜を見るとだ、この昭和十二年の項には、『七月には教員同士で野球をするぐらゐ元氣で、週二十三時間の授業を受け持つてゐた。七月、同じ敷地内で間取り(八疊、六疊、四疊半)も同じである隣の借家に移る』(私は教師時代、年間通しての最大持ち時間は十九時間以上は持ったことはない)とあるのだよ。(ここまでの文末の「だよ」は「ガンダム」のシャーの強さで読んでほしいものだ)……これでも、この「戀」をスキャンダラスとは言わない、のかね?…………]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(6) 元町点描二首

さしなみのもろこし人の家に行きチビ遊べども事變起らず

[やぶちゃん注:これは次の歌を見るに、山下町や元町の外人の居住地を詠んだものと思しい。「チビ」、長男桓(たけし)を詠み込んでいるところからは歌稿「Miscellany」にある「チビの歌」歌群の草稿である可能性が極めて高い。但し、相似歌はない。]

 

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金に燃ゆる

 

[やぶちゃん注:語句別案が二様に示されているので復元する。

 

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金に盛上る

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金にけぶる

 

「盛上る」は「さかる」と読ませたつもりであろうか。

 この一首は歌稿「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の「ひげ・いてふの歌」歌群の草稿と考えて間違いない。当該歌群には、

 

朝づく日今を射し來(く)と大銀杏黄金の砂を空に息吹くも


朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む

 

の相似性を持った二首があるからである。後者の草稿は後に出る。]

我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

 霜に更ける冬の夜、遲く更けた燈火の下で書き物などしてゐるのだらう。壁一重の隣家で、夜通し鍋など洗つてゐる音がしてゐる。寒夜の凍つたやうな感じと、主觀の侘しい心境がよく現れて居る。「我れを厭ふ」といふので、平常隣家と仲の良くないことが解り、日常生活の背景がくつきりと浮き出して居る。裏町の長屋住ひをしてゐた蕪村。近所への人づきあひもせずに、夜遲くまで書物をしてゐた蕪村。冬の寒夜に火桶を抱へて、人生の寂寥と貧困とを悲しんで居た蕪村。さびしい孤獨の詩人夜半亭蕪村の全貌が、目に見えるやうに浮んで來る俳句である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

白い階段 大手拓次

 白い階段

かげは わたしの身をさらず、
くさむらに うつろふ足長蜂(あしながばち)の羽鳴(はなり)のやうに、
火をつくり、 ほのほをつくり、
また うたたねのとほいしとねをつくり、
やすみなくながれながれて、
わたしのこころのうへに、
しろいきざはしをつくる。

鬼城句集 秋之部 七夕/籾磨

七夕    七夕や笹の葉かげの隱れ里

[やぶちゃん注:山深い地の農家に七夕飾りを見出した景であろう。しみじみとしていい句だと思う。以下の句も同じくすこぶる映像的である。]

 

      雨降りて願の糸のあはれなり

 

籾磨    籾磨つて臼引き合へる妹背かな

 

[やぶちゃん注:「籾磨」は「もみすり」で籾を磨り臼にかけて玄米にすること。]

2013/09/26

平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」劇評 或いは 「義死」の「死の舞踏」が絶対ルールとなる武士道スプラッター満載の究極の「人生ゲーム」の蠱惑 或いは 心朽窩主人謹製「伊賀越道中飛び双六」

●心朽窩主人謹製伊賀越道中飛び双六の遊び方(凡例)

・全十段。近松半二・近松加作共作。天明三(一七八三)年四月、大坂竹本座初演。安永五(一七七六)年十二月に大坂嵐座で上演された奈河亀輔作の歌舞伎を翌年三月に大坂豊竹此吉座で人形浄瑠璃化した当り作「伊賀越乗掛合羽(いがごえのりがけがつぱ)」の改作である。寛永十一(一六三四)年に起こった鍵屋の辻の決闘に取材する。原事件は曾我兄弟の仇討・赤穂浪士の討入と並ぶ日本三大仇討ちの一つとされるもので、岡山藩士渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬弟源太夫の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ったもの。「伊賀越の仇討ち」とも言う。今回の公演は東京では十五年、大阪では二十一年振りの通しである。

・最初の「負け 殺し」の頭の目はその段の主な要人の死者数を示す。㊅は「大ぜい」。

・〔 〕は其処(そこ)で得られる隠しアイテム(伏線や見所)を示す。

 

第一部

――和田行家屋敷の段――鎌倉桐ヶ谷――

  負け 殺し  和田行家(ゆきえ)・和田家奴実内

㊀  勝ち 逃げ  沢井股五郎   桐が谷裏道へ進む

㊂  戻る 勘当  行家娘お谷   ☞ふりだし鶴ヶ岡へ戻る

㊃  追ふ     佐々木丹衛門  ☞北鎌倉へ進む

㊄  一回休み   和田志津馬・傾城瀬川・唐木政右衛門

㊅  未亡人となる 行家後妻柴垣

〔正宗名刀・贋手紙・高適五律「送劉評事充朔方判官賦得征馬嘶」〕

 この段の奥の襖に書かれた漢詩については、本評に先だって記した私のブログ記事『「伊賀越道中双六」第一部冒頭「和田行家屋敷の段」の襖に書かれた漢詩について(参考資料)』を是非、参照して戴きたい。これは謂わば、本作の迂遠な羈旅を象徴する大切な「大道具」なのであった。

 この段で殊勝に懺悔をする振りをしながら悪辣な騙し討ちを決行、たらし込んだ行家の奴実内も惨殺する沢井股五郎は、本外題で徹頭徹尾、生得の淫猥冷血の大悪党として描かれ(お谷を貰って名刀を入手し和田家を滅ぼすことを最終目的とする)、一切の同情を排するように構築されており、観客の憎悪を掉尾まで嫌が上にも昂めるようになっている点、美事としかいいようがない。

 準主役の志津馬の人物造形の厚みを出すためには、相思相愛の傾城瀬川と「大序 鶴が丘の段」が欲を言えば欲しいところである(無論、上演時間を度外視してということになってしまうのだが)。これがないために、志津馬は掉尾まで何だか「影が薄い」という嫌いが拭えないのである。

 なお、この舞台である鎌倉の桐ヶ谷は現在の材木座辺にあった谷戸で、現在の知られる「桐ヶ谷」という桜の品種はもとはこの地に産したからと伝えられている。

 

――円覚寺の段――北鎌倉――

㊁㊅ 負け 殺し  佐々木丹衛門・股五郎母鳴見・他小者多数

㊀  勝ち 逃げ  沢井股五郎   藤川新関へ進む

㊂  勝ち 騙し  沢井城五郎(股五郎従兄弟・和田家に積年の恨みを持つ将軍昵近衆)

㊃  応戦 負傷  和田志津馬   藤川新関へ進む

㊄  一回休み   唐木政右衛門

〔正宗名刀・駕籠・沢井家伝来の妙薬〕

 観客に既に知られている倒叙式の悪党側の謀略が見かけ上、憎らしいまでに進行するように描かれる。股五郎とその母親との交換という条件の中、母鳴見は駕籠の中で短刀を自らに突き立ててしまう。しかしその後の護送と闇討ちの後、股五郎母鳴見と敵方であるはずの丹衛門との隠された同盟の機略(悪党でもせめて息子に武士らしい果し合いの中で死んでほしいという母心)が明らかにされたかと思うや、意外にも正宗の太刀の無事とそのトリックが明かされ観客は合点する。ところがその瞬間、驚くべき凄絶な壮士と瀕死の老婆の太刀による刺し合いという、鬼気迫る「相対死(あいたいじに)」が演じられるのである!

 私はこの不思議な「相対死」に異様なまでの艶っぽささえ感じた。私はこの筋骨隆々の壮年剣士と端正な白髪の婆(ばば)の見つめ合いに、何とも言えぬ不思議な恍惚(エクスタシー)を感じ、図らずも昂奮してしまったことを告白しておく。今回の芝居の最初感動がここで襲ってきた。こういう前部に異常なクライマックスを配したのは誠に憎い仕掛けと思う。また前段に引き続き、股五郎は母の死に一切感情を動かさず、その死骸さえ受け取らぬ人非人として描かれるのには(実景では管領として実権を握っていた上杉家と足利家の対立の中で不満を託っていた城五郎を通しての間接表現となっているが)、精神異常若しくは異常性格者としての股五郎の造形が感じられて慄然とさせる。股五郎はまさに仇討という「系」の中で、その遂行が神の手によって行われるための「悪の機関」としてなくてはならぬ――ということが自然に理解された。よくもこういうピカレスクを造形をし得たものだ。ジャン・ジュネでさえも、ここまでテッテした悪漢を造形することは不可能であったに違いない。

 ここで初めて股五郎贔屓の呉服屋十兵衛が登場するが、しかしその頭(かしら)源太でその心情の善玉は言わずと知れるようになっている。

 

――唐木政右衛門屋敷の段――大和郡山――

×  負け 殺し  ナシ

㊄  離縁婚儀   覚悟  唐木政右衛門  郡山城へ登城

㊀  離縁妊娠   覚悟  お谷      ☞出産のため一回休み後で岡崎へ進む

㊃  推挽推察 自害覚悟  宇佐美五右衛門 郡山城へ登城

㊂  婚儀     饅頭  おのち     ☞乳母の懐で休み

㊁㊅ 一回休み       和田志津馬・沢井股五郎

〔駕籠・婚儀の饅頭〕

 お谷と駆け落ちしてしまって妻は勘当されたままの唐木政右衛門は、このままでは義父の仇討も義弟志津馬の敵討の助太刀も出来ない。そこで窮余の策として彼は愛する妊娠中のお谷を離縁し、柴垣の産んだ頑是ない満六歳の「おのち」を妻にすることで亡き行家を義理の父とするという、トンデモ機略を秘かにしかも敢然と冷酷を装って実行してしまう。本話は、執筆当時は弟などの目下の敵討は公的に認められなかったために、本来の鍵屋の辻の仇討の渡辺数馬が弟の仇討するという設定を父の仇討ちに変更設定している、とものの本にはあったのだが、それ以上に私はここで、遙かに年上の唐木が「おのち」を妻とすることによって年若の志津馬の義理の弟になって、義理の兄の仇討ちを晴れて助太刀するという構造にもなっているという気がしないでもなかった。異母妹おのちが、訳も分からず三三九度、それより饅頭を欲しがり、遂には乳母の懐の中で眠ってしまう――このシチュエーションは笑いを誘うのだが、私には、実の父への仇討のためという義理は理解しながらも、政右衛門から下女扱いされ、子を孕んでおりながら離縁され、失意の底に陥るお谷が何としても哀れであり(この哀れはついに岡崎の段で驚くべき頂点に達するのであるが)、加えてこの何の憂いもない「おのち」という少女のあどけなさが対位法的にお谷へのかきむしりたくなるような悲哀感を感じさせるのであった。但し、この場面、動きが少なく、やや、途中で睡魔が襲いかけたことは自白しておく。

 但し!

 この切の咲大夫の台詞の使い分けの神技にはカッと目が覚めた!

 何というか、その、ともかく凄い! の一言なのである!

 登場人物の台詞が実際に別な大夫によって語られているかのような、則ち、不思議なことに後の台詞が前の台詞を食っているように聴こえる不思議ささえ持っていた!

 私は初めて文楽で大夫の技というものに――咲大夫のそれによって――目覚めさせられたと言ってよい。

 

――誉田家大広間の段――郡山城――

×  勝ち☞負け 桜田林左衛門 ☞恨みを抱き一回休み後に藤川新関に進む

㊀  負け☞勝ち 唐木政右衛門 藤川新関へ進む

㊁  自害☞命拾 郡山藩家臣宇佐美五右衛門

㊅  行司☞芝居 藩主誉田大内記

㊃㊄㊂ 一回休み 和田志津馬・沢井股五郎

〔大槍〕

 ここで駆け落ちしてきたお谷と政右衛門二人を父代わりのように面倒を見てきた宇佐美五右衛門が、政右衛門を藩に推挽していた。藩剣術指南役で宿敵股五郎伯父である桜田林左衛門と試合をする。勝手しまうと敵討ちは不可能、そこで前段の末では親代わりの宇佐美に何と!「腹切つて下され!」と頼むのである。「ハヽヽ慶!」と哄笑して請けがう宇佐美、政右衛門も政右衛門だが、この義心を慮って快諾する宇佐美も宇佐美――しかし見ていて何とも爽やかなのである(但し、その間も私は、眦の端に凝っと顔を伏せたままのお谷が不憫であったことも変わりはないのである)。この不思議な爽快感こそが、動き出したら止まらない仇討機関説――神話としての仇討というメカニズムの証明とも言えると思う。

 勝っていながら藩主より追放を命ぜられて不満たらたらに退場する林左衛門(後半は寧ろ彼が悪方の顕在部分を支えることになる)。

 そこに藩主大内記が槍を持って現われ、「不忠者!」と政右衛門に突き掛かる!(この槍が本物じゃないかと思うくらい長くて異常なリアリティを醸し出す!)

 無論それは芝居なのであるが、藩主がそこまで何もかも分かっているならば(いや、分かっているのであるが)、そのまま指南役を猶予して仇討参加の許諾をしてもよいわけである。であるからしてこれはもう一途に、政右衛門が仇討へ向かうために動いている「仇討自動起動システム」のためなのであって、観客もこの階段で落ちれば必ず死ぬという「相棒」のお約束と同なじに、何らの違和感も覚えないんである。

 そこで藩主に神影流の極意を示すシーンは、もう、玉女の独擅場!

 大振りの政右衛門と玉女の大きな体がハイブリッドと化して、大内記の振う大槍をグッツ! と摑む!

 キリキリという音が幻聴するかのような迫力は言葉では言い表せぬ!

(但し、今回の公演の朝日新聞の玉女のインタビュー記事によれば、師匠で政右衛門の当たり役であった吉田玉男は『あまり大きい胴は嫌や』と『ちいさめに丁寧に人形をこしらえていた』と振り返り、『鬢(びん)の形も独特で立役なら憧れの役。かっこよくつとめたい』と答えておられる。いやもう、ほんと、かっこよかったです!!!)

 

――沼津里の段――沼津の街道――

×  負け ナシ

㊄  強がり☞怪我   平作     ☞沼津平作の家へ進む

㊃  隠密☞驚愕事実  呉服屋十兵衛 ☞沼津平作の家へ進む

㊂  妙薬☞窃盗覚悟  お米     沼津平作の家へ進む

㊀㊁㊅ 以下三回休み  唐木政右衛門・和田志津馬・沢井股五郎

〔沢井家伝来の妙薬《起動》〕

 登場から、その老いさらばえた平作の勘十郎の遣いが尋常でない。その神妙なる「軽さ」が、何か、『これは来るぞ!』という漠然とした直感を感じさせるのである。亡父で先代の勘十郎も得意とした平作であるが、今回の公演の朝日新聞のインタビュー記事で勘十郎は『父が平作を遣う時、軽い人形こそ老いた足取りがが難しいと話していた。僕も還暦。老人役も似合わねば』とおっしゃられているが、足や左遣いの方も含め、この平作はまさに生き人形と言っても過言ではない!

 平作の家でのエピソードは、これまた文楽お約束のトンデモない偶然の括弧三乗。股五郎贔屓の呉服屋十兵衛は言わば股五郎の索敵役、平作のお米は実は志津馬相愛の元傾城の瀬川、そうして平作は満二歳の時に養子に出した息子(瀬川の実兄)がいたと昔語り……何と! それが何を隠そう! この呉服屋十兵衛!……近松門左衛門も吃驚の、奇しき因果の天の網島と申そうか。

 ここのところ、ずっと1か2列のかぶりつきであったのが、今回は少し後ろの8列中央(第二部は7列中央)という優等生の席であったが、ここから見るとやはり人形の表情は見え難いものの、逆に人形の全体の動きが自然、手に取るように分かる良さがある。言わずもがな、蓑助の捌き(特に次の段のクドきのシーン)は段違(ダンチ)神韻と讃すべきもので、お米の生身の肉にそっと触れるような、えも言われぬ色香をこの距離にあっても(この距離だからこそ)十二分に味わうことが出来た。蓑助が女を遣うと、どんな外題にあっても私はその女に恋してしまう。まさに文楽的に命を棄ててもよいと感じてしまうということをここに私は自白する。無論、今回もお米に惚れたことは言うまでもない。

 鶴澤寛治の至宝のいぶし銀と、少年の面影を失わない私の贔屓鶴澤貫太郎のツレの若々しい三味線の音(ね)が道中の景を映して、これ絶品!

 

――平作内の段――沼津平作の家――

×  負け ナシ

㊀ 事実認識☞決意 平作          ☞沼津千本松原へ進む

㊄ 覚悟☞別離   呉服屋十兵衛      ☞沼津千本松原へ進む

㊂ 窃盗失敗☞告白 平作娘お米実は傾城瀬川 沼津千本松原へ進む

㊁㊃㊅    索敵 志津馬家来池添孫八   沼津千本松原へ進む

〔印籠・沢井家伝来の妙薬〕

 お米は愛人志津馬の深手の傷(円覚寺の段で受けたもの)を癒さんと十兵衛の妙薬を盗もうとして失敗、事実を語って詫びる。股五郎のために動いている十兵衛は、平作に実子平三郎であることも、同時に彼女の実兄でもあることをも言い出せず、表向きはあっさりと去ってゆく。しかし秘かに薬を入れた印籠を残してあった。その印籠を見たお米は、はっと気づく。その紋所は思い人志津馬の仇敵沢井のもの。平作もいまの十兵衛こそが実子と思い当る。

 そこで平作は覚悟する。この覚悟こそが凄絶なカタストロフへ繫がることを我々は知らない(無論、今回は床本まで全部読んで準備万端整えての観劇であったが、始まれば私は――愚鈍になることにしている。――「知らなかった」こと、思惟中止する――のである。これが文楽を真に楽しむための大切な心構えであると私は思う)。

 平作は娘の愛する志津馬がために、十兵衛を脱兎の如く追い掛け、股五郎の消息を摑まんものと、宙を飛ぶように走り出すのである。

 この、勘十郎の軽い捌きがまた、絶妙である。

 

――千本松原の段――沼津千本松原――

  事実認識自死 平作

㊁  覚悟別離   呉服屋十兵衛      京都伏見へ進む

㊂  看取り     平作娘お米実は傾城瀬川 京都伏見へ進む

㊃  看取り     志津馬家来池添孫八   京都伏見へ進む

㊄㊅ 一回休み

〔闇・脇差〕

 平作はここで追いつくが、年来の御贔屓の股五郎への義理を通す十兵衛は股五郎の居場所を語ろうとはしない。しかも平作はこの時に至っても十兵衛が実子であることをおくびにも出さない。そして十兵衛の意志堅固を認めるや、平作は十兵衛の脇差を抜き取り、自らの腹にそれを突き立ててしまうのである! 隠れていたお米は父の意想外の暴挙に駆け寄ろうとするが、総てを察した孫八に制止され、凝っと堪えるのである(本来なら、この蓑助の演技に私は注目するはずであったが、平作の捨て身の行為の衝撃に、流石に私は色を失って、平作だけを凝視していた)。瀕死の平作は命と引き換えに股五郎の行方を最期に乞う。十兵衛はこれがたった一度きりしか出来なかった孝行のし納めと、既に察していたところの蔭に潜む妹お米や孫八に聴こえるように股五郎の落延びる先は九州相良と秘密を漏らすのであった(以下の引用は劇場パンフレットの床本を参考にエンディングに近い部分から引用した。なお、私のポリシーから踊り字「〱」「〲」及び大方の漢字を正字化して示した。読みは必要と思われる箇所に独自に歴史的仮名遣で示した。分かり易くするために台詞話者を示した。床本では台詞は実際には全体が一字下げである。以下、この表記注は略す)。

   *

平作「エヽ忝い忝い忝い。アレ聞いたか、誰もない誰もない。聞いたは聞いたはこの親仁一人、それで成仏しますわいの。名僧知識の引導より、前生(さきしやう)の我が子が介抱受け、思ひ殘す事はない。早う苦痛を留めて下され」

親子一世の逢ひ初めの、逢ひ納め

十兵衞「親仁樣親仁様、平三郎でございます。幼い時別れた平三郎、段々の不孝の罪、お赦されて下さりませお赦されて下さりませ」

   *

と、一期一会の哀しい親子の対面(たいめ)と永訣――互いに念仏を唱えながら死にゆく平作――特に「名僧知識の引導より、前生の我が子が介抱受け、思ひ殘す事はない」という台詞で私は思わず大きく首を縦に振っていた。

――私は幕が引き終った後も、何か憑かれたように――茫然自失として、涙の出るのを抑え切れずにいた。……

 勘十郎の平作を越えられる者は、暫くは出るまい。この遣いは、まさに入魂と称すべきものである。

 私の文楽鑑賞は邪道で――人形一の大夫は二の次三味はその下――である。しかし流石にこの切の住大夫は感激した。老齢の平作と完全に重なって、まさに「鬼気迫る」ものを感じた。これはもう、必聴中の必聴、聴き逃すことあらず!

 

 かくして第一部は終わる。

 而して振り返ってみれば、この前半、そのクライマックスは孰れも

――極悪非道の子ヴァガボンド股五郎を、せめて武士らしい武士、男らしい男として最期を遂げて呉れるように願い、唯一人守らんとする――我々を最期に守ってくれる者は永遠に母だけである――老母鳴見と

――生前、結局、お米や平三郎(十兵衛)のダメ親父でしかなかったものが、その最後の「最期」に父親としての不惜身命の生き様=死に様の一挙手を哀しいまでに美事に選び取った――「父は永遠に悲壯である。」(萩原朔太郎「宿命」)――老父平作と

――老いたる父と母の自死によってこそ、敵討ちへの引導は鮮やかに渡されているのであった。

……かくして道中双六は……池添孫八が真っ暗闇の千本松原に散らす小石の閃光の中……凄絶な死の累積と血の収穫を得て……西へ西へと……向かうのであった……

(以上、第一部観劇 2013年9月16日(月) 於東京国立小劇場)

 

 

 

第二部

――藤川新関の段 引抜き 寿柱立万歳――三河藤関所(昼から夕)――

× 負け 殺し

㊅ 手形書状窃盗☞関所通過 和田志津馬  岡崎へ進む

㊀ 一目惚れ☞手形窃盗共犯 お袖     岡崎へ進む

㊂ 狂言回し        沢井家奴助平 ☞ふりだしへ戻る

㊁㊃㊄      一回休み 唐木政右衛門・沢井股五郎

〔遠眼鏡・沢井家書状・通行手形〕

 藤川関所門前、股五郎を追って西下する志津馬はしかし、通行手形を持っておらず、途方に暮れる。その彼に門前茶屋の看板娘お袖がホの字となったのを知って、志津馬は「色で仕掛ける我が身の大事」と間道への手引きを乞う。そこへ飛脚助平が登場、お袖にマイって、「白齒娘のお初穗を、一口呑ますコレ氣はないか」と鼻の下を伸ばし、各種の茶を洒落言葉に散りばめた「茶の字尽くし」(パンフレットによれば歌舞伎からの逆移入とされる)の滑稽台詞がこの本外題でも特異な軽快な長調の段の曲想をヒート・アップさせる。お袖が少し離れた店先にある遠眼鏡(お袖の父山田幸兵衛は百姓ながら関所の下役人を仰せつかっており、元来は関所破りを監視するためのもの)へと誘う。見慣れぬ望遠鏡にすっかりハマって我を忘れる助平。その隙に、彼を茶飲み話に沢井家家来と知った志津馬が書状(引抜きの前。こちらはお袖は知らない)と手形(引抜きの後。こちらはお袖と共同正犯)をまんまと盗むことに成功する。

 

《引抜き 寿柱立万歳》

 この「引抜き」は知られた衣裳の早変わりの「引き抜き」ではなく、本舞台の演技を一時遮断して、遠街の景を描いた幕(ちゃんと周囲が巨大な黒い丸枠になっていて遠眼鏡の中の景であることが示される)が落ちて、まさに遠眼鏡の中に見える遠くの街路で演じられている万歳を舞台前面で演じる、一種の劇中劇を指している。

 この新春を言祝ぐ万歳で、大好きな一輔が大黒頭巾の才蔵の滑稽な舞踏を美事に演じた。――言ってはいけないことなのかもしれないが、出遣いで見たい(というより出遣いでないと悲しいとさえ言える)、心地よい遣い手というのがやっぱりいるもんである。私は故玉男に蓑助・玉女・勘十郎そして一輔である。他の遣い手が生理的にいやだという訳ではないが、どんな人形を扱っても、遣い手の顔が一切邪魔にならない、齟齬を感じないというのはやはり、限定されるものである。それは顏がいいとか悪いとかではなく、その遣い手の顔が自分の知っている誰彼に似ていて、無意識にその連想が入って、人形を見るのを邪魔するからだと私は感じている。ある方などはとてもいい遣い手なのであるが、私にとって因縁のある知人の顔に似ていて、その方が出遣いで出ると何故か芝居に集中出来なくなるという事実があるからである。これは致し方あるまい。――

 この万歳はこれ自体を独立の文楽として十二分に楽しめた。私は三味や鼓に合わせて、思わず膝を叩いていて、藤川(現在の愛知県岡崎市)の町人になったような実に爽快な気分であった(これは年内新春という年の設定であろうか? 因みに実際の鍵屋の辻は寛永十一年十一月七日(グレゴリオ暦一六三四年十二月二十六日)のことであった)。

 

 さて助平、ふと気づけば既に「七つの時がはり」(不定時法であるから四時か四時半前後と思われる)、手形のないのに慌てて、あたふたと道を引き返して去ってゆく。お袖と志津馬は難なく関所を通過するのであった。

 助平は紋壽が病気休演でこれもまた死んだ平作の息が切れぬ間の勘十郎が代演している。平作の軽さとはまた違った、軽妙滑稽を的確に演じ分けている彼には脱帽である。フランス公演のマネージメントもやっているから寝る間もないだろうに、そうしたもろもろの疲れを一切感じさせない、正直、超人である。

 

――竹藪の段――三河藤関所(夕)から竹藪へ――

 負け 殺し   関所巡邏の役人

㊄ 勝ち☞関所破り 唐木政右衛門  岡崎へ進む

㊂ 逃走      沢井股五郎   ☞あがり伊賀上野鍵屋の辻までお休み

㊁ 警護      桜田林左衛門  ☞京都伏見へ進む

㊃ 田舎ヤクザ   蛇の目の眼八

㊅ 一回休み    和田志津馬・お袖

〔闇・雪・鳴子〕

 夕闇迫る関所に鎌倉の奥女中の体(てい)の駕籠が着くが、中に忍ぶは股五郎、それを警護するのは、かの政右衛門によって郡山藩を放逐されて恨み骨髄の股五郎伯父桜田林左衛門、林左衛門は土地のゴロツキ蛇の目の眼八を雇って、追跡して来る志津馬・政右衛門殺害を命じた後、関所を抜け、関所の門は閉じられてしまう。入相の鐘の鳴る中、林左衛門の後ろ姿を垣間見ていた政右衛門が関所前まで辿り着くが、今や遅し。逃してなるものかと、政右衛門は関所破りを決意する。

 見なしの闇の中、抜き放った太刀を便りに行きの積もった竹藪を抜けてゆく政右衛門、大夫の語りがなく、わずかにスローモーションに処理した映像を見るような絶妙の動きがいやがおうにも緊張感を高める印象的なシーンである。

 玉女の眼が血走った政右衛門の眼そのものとなり、警戒の関所役人を一刀のもとに切り殺す――緊迫のシークエンスである。ここで遂に政右衛門は仇討ち成就のために遺恨とは無縁の殺人を行った。最早、仇討システムの停止は出来なくなったと言える重要な鬼気迫る場面なのである。

 

――岡崎の段――岡崎外れ山田幸兵衛屋敷――

 義殺・悪徒成敗  政右衛門長男乳児巳之助・蛇の目の眼八

㊅ 師再会☞子殺   唐木政右衛門    京都伏見へ進む

㊄ 夫再会☞悲劇   お谷

㊃ 弟子再会☞洞察  山田幸兵衛

㊂ 新枕・憐憫    お袖・幸兵衛女房(お袖母)

㊀ 奇計・新枕    和田志津馬     ☞京都伏見へ進む

〔御守袋〕

 お袖は連れてきた志津馬を泊めようとするが、母曰く、お袖は「去年まで腰元奉公をしていた鎌倉でその主人が勧めた縁談を一方的に嫌って家に戻っている娘であるから、その先方の許婚(いいなずけ)のことを考えると、ふしだらにも若き男を連れて来て泊めるなんどということは出来ませぬ」と断られてしまう。せめても茶でもと呑んでいる間にお袖の濃厚なクドきがはじまる。「……お顏見るから思ひ初め、どうぞ女夫(めうと)になりたいと、胸ははしがらむ白川の關は越えても越え兼ぬる戀の峠の新枕、交はさぬ中(うち)胴欲な、つれないことを云うふ手間で、つい可愛いと一口に、云はれぬかいな」(こういう台詞を言われてみたかったなあ、生涯に一度ぐらいは)。ところがそこに、かのゴロツキ眼八(無論、お約束通り、眼八はお袖に気があり、かなり卑猥な言葉を吐く)が現われ、怪しい男と連れであったやに見えたと、命じられた志津馬らではないかと思っての詮議、お袖はうまく志津馬を奥の部屋に隠す。眼八は執拗に疑って奥の部屋へと押し入るが、すぐに幸兵衛に腕を捩じり上げられて出て来る(無法者眼八を蛇蝎のように嫌っていた幸兵衛が機転をきかして更に志津馬を隠したものらしい)。眼八が追い出されると志津馬が出てきて、ともかくも関所破りの冤罪から救ってくれた礼を申し、自らを先程、藤川新関で盗んだ書状の宛名である山田幸兵衛を捜す浪人者と答える。すると、お袖の父は自分が幸兵衛であると名乗る。不審な顔をしている彼に志津馬は自ら股五郎の従兄弟城五郎所縁の者と称して書状を渡す(ここまでで彼は宛名は見ているものの書状の中身は覗いていないことが分かる)。すると、幸兵衛はその内容を復唱、そこにあったのは腕の立つ山田幸兵衛への股五郎助力の懇請であった。それを聴いた瞬間、志津馬は『これ幸ひ』と、「何をか隱さん」「某こそ」「澤井股五郎」と一計を案じた大芝居をやらかすのである。すると(いやもう、何となく観客は分かっているのだが)お袖が名前だけ聞いて(というところがミソ)生理的嫌悪感(はしっかり観客にあるから何故か共感)を抱いて実家に戻った許婚というのが、これ、何を隠そう、沢井股五郎だったという白々しいまでの浄瑠璃お決まり茫然自失偶然呆然驚天動地の事実開陳。お袖の狂喜は無論のこと、老父母は揃って盃の容易の、婿入りの祝言のと言挙げた挙句、田舎のこととてロクな料理はないが、「……娘のお袖が一種でオホヽヽヽ」「アハヽヽヽ」「ホヽヽヽ」「ハヽヽ」……と何だちょっとエロくて少し不気味な高笑いを交わす始末。

 因みにこの十兵衛も、文字通り八面六臂の勘十郎で如何にも安心して見て居られた。文雀のお袖や豊松清十郎の志津馬もともに抑えを利かせてしとやかな感じで、老父母の猥雑な笑いと対極をなし、二人が閨に入る辺りも、不思議に何の妄想も掻き立てないのがいい(志津馬の嘘を知っている我々はお袖と何もないことを何処かで望んでいるからである。少なくとも私はそう感じた)。

 夜更け、疑いを払拭出来ない眼八が忍び込んで来て、中央の葛籠(つづら)の中に入って潜む。

 この間、入口を90度動かすだけで舞台前面が戸外になる文楽の場面転換にすっかり慣れた自分がちょいと不思議。

 外には関所破りをした政右衛門が捕り手に包囲されているが、巧みな柔術でばったばったと組みつく相手をなぎ倒す。その大働きを、音に気づいて起きて来た幸兵衛が凝っと見つめている。そうして表へ出ると、政右衛門を知り合いの飛脚と嘘をついて急場を救う(彼は関所下役人であるから信用度がすこぶる高いわけである)。

 礼を述べて立ち去ろうとする政右衛門に対して、引き留め、今の立ち回りでのそれを自分と同じ神影流柔術と見抜く。

 そう、またここにまたしてもシュールな偶然がまた仕組まれてあるのだ。

 何を隠そう、政右衛門はこの山田幸兵衛の昔の弟子だった!

 孤児(みなしご)であった庄太郎(政右衛門の幼名)の武術の師という次第(もうここまでくると違和感を通り過ぎて痛快でさえある)。十五で家出と思っていた庄太郎は、実は幸兵衛の教えを汲んで諸国行脚へ出たのであったことを弁解、再会を喜ぶ二人。ところが幸兵衛は先の股五郎助勢の話をし、こともあろうに、(今自分の娘お袖と新枕の最中の)若造和田志馬などたかが知れておるが、唐木政右衛門という音に聞こえた武術の達人が厄介、立ち向かえる相手は庄三郎お前以外にはない、と本人に本人打倒の話を頼んでくる。しかしこれを索敵のための絶好のチャンスとして、政右衛門は自らの名や身分を隠して口先で加勢を許諾するのである(この時、幸兵衛は葛籠の中の眼八に気づく一瞬がある)。

 関所から幸兵衛に呼び出し(まさに政右衛門の実際の関所破りの竹藪の一件であろう)があって、政右衛門は師匠の煙草を刻み、老女房は糸を紡ぐ。

 そこに下手より、雪の中を巡礼が乳飲み子を抱えてやってくる。それは何と、お谷である。せめても二人の子を元夫に見せんと政右衛門を追って旅していたのであった。持病の癪(しゃく)を起こして門口に倒れるお谷。覗いた政右衛門は驚愕するが、ここで彼女に出られては演じた嘘がばれる危険があると察し、涙を呑んで、ただの非人乞食と幸兵衛女房へ伝え、先にある御堂へ退去させようとする。しかし、強い癪の発作から動けぬお谷。老女房は政右衛門の関わりになられては不用心というのを抑えて、子供だけでも、と赤ん坊だけは奥の炬燵へ運ぶ。

 そこに幸兵衛が帰宅、と同時に、奥から老女房が稚児を抱いて走り出、この子の御守りの中に「和州郡山唐木政右衞門子、巳之助」と書いてあるわいの、と二人に告げる。

 幸兵衛はそれを聴くと、人質にとって養育すれば、こっちの六分の強み、敵方にとっては八分の弱み、快哉を叫ぶ。

――その瞬間である

   *

政右衞門ずつと寄つて稚兒(をさなご)引き寄せ、喉笛(のどぶえ)貫く小柄の切つ先

幸兵衞驚き

幸兵衞「コリヤ庄太郎。大事の人質ナヽヽヽヽヽなぜ殺した」

政右衞門「ムハヽヽヽヽヽ。この倅を留(と)め置き敵の鉾先(ほこさき)を挫(くぢ)かうと 思し召す先生の御思案、お年の加減かこりやちと撚(より)が戻りましたなあ。武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と後々まで人の嘲(あざけ)り笑ひ草。少分ながら股五郎殿のお力になるこの庄太郎、人質を便りには仕らぬ。目指す相手政右衞門とやらいふ奴。その片割れのこの小倅、血祭に刺し殺したが賴まれた拙者が金打」

と死骸を庭へ、投げ捨てたり

   *

[やぶちゃん語注:「金打」は「きんちやう」(きんちょう)」で誓い・約束の意。ここは股五郎への助勢を誓った証し、といった意味である。]

 この赤子の喉元を突き刺すシーンは本当に一瞬であって――凄惨凄絶なんどと言ふばかりなし――と感じる暇さえない。まさに「息を呑む」行為としか言いようがない。

 ゴミ同然に舞台前面中央に投げ捨てられる赤子……

 これは解説から床本まで総てを下調べして見たとしても(実際に今回の私はそうである)、その「実際の行為」を見るまでは信じられない(事実そうだった)、だからこそ、想像出来ない(現実にそれは惨酷鮮烈にして奇妙な謂いだが新鮮であったのだ)、だからこそ「息を呑む」場面なのである。但し、刺す前後、政右衛門の頭の眼の動きには注視せねばならぬ。

 とりあえずもう少し、先まで見る。

 この直後、幸兵衛は、

   *

幸兵衞手を打ち

幸兵衞「ハヽア尤も。その丈夫な魂を見屆けたれば、何をか隱さう、股五郎は奧へ來てゐるわいの。婆、聟殿を起こしておぢや。『アヽコレコレ股五郎殿の片腕になる賴もしい人が來た』と言ふて、こゝへ呼んでおぢや」

政右衞門「スリヤ、澤井股五郎殿はこの内にゐさつしやるか。シテ、外に連れの衆でもござるかな」

幸兵衞「アヽイヤイヤ供もなし、たつた一人。奧底なう話してたも」

と打ち明け語るは

思ふ壺、『何條知れたる股五郎、手取りにするは易かりなん』と、手ぐすね引いて待つ大膽

志津馬は女房が案内に『股五郎が片腕とは、何奴なりとも只一討ち』と鯉口(こひぐち)くつろげ居合腰

氣配り、目配り、互ひにきつと

政右衞門「ヤアこなたは」

志津馬「こなたは」

と一度の仰天

幸兵衞むんずと居直り

幸兵衞「唐木政右衞門、和田志津馬、不思議の對面滿足であらうな」

   *

 政右衞門の「ヤアこなたは」と志津馬の「こなたは」の発声者は推測である。

 ここであきらかなように、既にしてこの時、幸兵衛は彼らの正体を見抜いていた。以下、幸兵衛が述懐する。

――今宵、自らが沢井股五郎と名乗った青年は、聞いている当人とは年恰好も全く異なり、てっきり仇方の志津馬かその余類の騙りと初めから覚えて、取り敢えず騙された振りをして、その内に化けの皮を剝して詮議してやろうと思っていた[やぶちゃん補注:これはお袖の処女をその騙しの犠牲にすることを幸兵衛が全く厭うていないことに注意したい。「志津馬命のお袖にしてみれば一夜ぎりの逢瀬といえども永遠の瞬間だ」などという気障な台詞は煩悩多き私には口が裂けても言えない。]。――しかし、政右衛門については、たった今、それと悟ったのだ。助勢を頼んだら早速に承知しておきながら、しきりに股五郎の所在を聞き出そうとする点では何か変だとは思ってはいたが。今、『子を一抉(いちえぐ)りに刺し殺し、立派に言ひ放した目の内に、一滴浮む涙の色は隱しても隱されぬ。肉親の恩愛(おんない)に初めてそれと悟りしぞよ』とその理由を明かす[やぶちゃん補注:私には政右衛門の眼に涙が確かに「見えた」。そのような効果を玉女は確かに目の動きで表現していたのである。]。

――沢井に対してはさしたる恩がある訳ではないが、お袖を城五郎方へ奉公にやった時、『筋目ある人の娘、末々はわが一家(いつけ)の股五郎と娶合(めあ)はせん』『オオいかにもお賴み申す』とつい言った一言が、『今さら引かれぬ因果の緣』である。その後娘は奉公から引いて帰りはした。が、『今落目になつた股五郎、見放されぬは侍の義理、匿(かくま)ふ幸兵衞ねらふは我が弟子。惡人に組みしてくれと賴むに引かれず、現在わが子をひと思ひに殺したは、劍術無雙の政右衞門。手ほどきのこの師匠への言ひ譯、イヤモさりとては過分なぞや。その志に感じ入り敵の肩持つ片意地も、もはやこれ限(ぎ)り、たゞの百姓。町人も侍も、變らぬものは子の可愛さ、こなたは男の諦めもあらう。最前ちらりと思ひ合す順禮の母親の心が察しやらるゝ』。

 こうして逆に幸兵衛は我が子を残忍に殺めてまで義理立てをして仇討ちの本懐を遂げんとする政右衛門に感じ入って、志津馬らに協力を決意するのではある。

 しかし、この幸兵衛の言説は男のクールな義理の主論理として語られ、附けたりで、お谷の心情が察せられる、と余韻を含ませているのであるが、多くの方は逆に論理的に納得がいかないのではなかろうか? そもそも事後検証から巳之助の死は有効であったと言えるかという点が問題となる。この幸兵衛の謂いからすれば、政右衛門が正直に胸襟を開いて語っていたらと仮定してみると、若しくは股五郎を語っている怪しい青年と政右衛門をこれより早く対面させていたらと考えてみると、この凄惨悲痛なカタストロフは起こり得なかったということが容易に理解出来るのである。幸兵衛が庄太郎が政右衛門であることを確信するためには、実子巳之助殺傷の場面は、十分条件ではあるが必要条件ではない。ここに事実は避け得ぬ「義理の論理」による正当化などは実は全く成り立たないのである。

 これはもう、作品の構造から見れば話柄を「悲惨に」「凄惨に」し、これ以上の「猟奇性はないとも言える」「己の赤子の咽喉を指す父」「乳児の首から吹き出ずる鮮血」という、「慄っとするほど」「スプラッターな」この上なく「面白い」「シュールな」場面を創る――『為にする』子殺しのシーン――に過ぎないと批判されても文句は言えないであろう。

 だが、そう批判する人々でさえも、この実の子の喉笛を搔き切る政右衛門に怒りよりも前に――何か限りない『無意識の悲愴の共振』を感じるのではないか(因みに私がそう思っているわけではないが、フロイト先生が本作を鑑賞し得たならば、父の子殺し、去勢恐怖の象徴を見て快哉を叫ぶことは想像に難くない)。それ自体が、起動して一定安定速度に達して順調なる当速度運動に入った「伊賀越道中双六」というゲーム・マジックの中の駒となった我々を象徴している現象なのだとも私は思うのである。

 いや、まだ、私の強いしこりとなっているお谷の扱いぶりを語っていなかった。

 以下、先の幸兵衛の台詞の直後からである。

   *

と悔めば

門に堪へ兼ねて、『わつ』と泣く聲内よりも、明くる戸すぐに轉(まろ)び入り、あへなき骸(から)を抱き上げ

「コレ巳之助、物言ふてたも、母ぢやわいの。夕べまでも今朝までも、憂い辛いその中にも、てうちしたり藝盡し、父御(ててご)によう似た顏見せて自慢せうと樂しんだもの。逢ふとそのまゝ刺殺す、慘たらしい父樣を恨むるにも恨まれぬ。前生(さきしやう)にどんな罪をして侍の子には生れしぞ。こんなことなら先刻(さつき)の時、母が死んだら憂目は見まい。佛のお慈悲のあるならば、今一度生き返り、乳房を吸うてくれよかし」

と庭に轉(まろ)びつはひ廻り、抱きしめたるわれが身も雪と消ゆべき風情なり

   *

 慰めの言葉もなき母の悲痛慟哭が聴こえる……涙に暮れる一同……

 ところがこの直後から、芝居はどんどん寸詰まってきてしまうのである。

――ここで志津馬が股五郎の消息を訊ねると、幸兵衛曰く、ついさっき、庄屋に呼ばれた際、そこで股五郎に逢った、今頃は山越えをして中山道と答える(この時の台詞はそこで落ち延びるための手引きを自分がした時、『城五郎へ一旦の情け、股五郎との緣もこれまで。思はぬ手段(てだて)が緣になり、志津馬殿と言ひ交した娘が身の果、不憫や』と言っているのだが、その時にそう思ったとなると、お袖不憫どころか、ますます巳之助の死は回避できたのじゃなかったんかい! と突っ込みたくなってしまう私が、納得づくのはずの私の中にもいるんである……)。

――とお袖が上手から出現。これがまあ、尼になってるんじゃあねえか、都合よく!……

――それでも志津馬への思いを残すお袖を不憫と思い(?)、幸兵衛は一行の中山道への道案内を命ずる、ってさ、もう、尼さんになってんだぜい?!……

――さて、この場のことをみんな知ってる奴が、この場にしゃしゃあとずっといるので片付けなくちゃあなんねえ。葛籠の中の眼八、ここで血祭り! スプラッター駄目押し!……

――「……と笑ふて祝ふ出立(しゆつたつ)は、侍なりける次第なり」……

という祝祭で幕、かい!!

……でも私はもう、大働きの最後の眼八の惨殺シーンもあまり覚えていないのだ。……

……なぜなら私はずっと……下手縁の脇に巳之助の亡骸を抱いて蹲る……哀れなお谷だけを……見ていたのだから……

(お谷を遣うはやはり私贔屓の和生。今回の公演の朝日新聞のインタビュー記事には、『型がほとんどない場面も。現代では理解されづらい女性像を心情一本で見せたい』と語っておられたが、この段、美事、その思いを顕現なさっておられる!!!)

 

――伏見屋北国屋の段――京都――

 身代り 義理 呉服屋十兵衛

㊅ 奇計     和田志津馬     あがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

㊄ 奇計☞看取り 瀬川(お米)

㊃ 謀略☞ 失敗 桜田林左衛門    あがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

㊂ 奇計・共謀  池添孫八・池添孫六 ☞孫八はあがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

㊁ 仇討言挙げ  唐木政右衛門    あがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

〔手紙読上・目薬〕

 まずは梗概を述べる。

 京都伏見船宿北国に眼病養生のために逗留する若い男女は志津馬と瀬川、その隣室に部屋をとっているのは桜田林左衛門である。志津馬・瀬川の元にやって来る按摩は家来池添孫八。林左衛門が志津馬の治療に訪れる医師竹中贅宅を買収、毒薬を点眼させると、志津馬は俄かに激痛に見舞われて倒れ伏す。そこに押し入った林左衛門は正体を明かして志津馬を足蹴にしつつ首でも縊ってくたばれ、と言い放って、股五郎もともに逗留している事実を明かす。するとまた俄かに志津馬は居直る。この志津馬の病いは機略の仮病で、買収した贅宅はこれ、実は孫八の兄孫六というどんでん返し。遁れる林左衛門を追おうとすると、股五郎への義理から呉服屋十兵衛が現われて前を遮ったため、志津馬は勢いで十兵衛を斬ってしまう。十兵衛は虫の息の中、股五郎が伊賀越えをして伊勢へ抜けようとしていることを告げ、漸く現れた政右衛門に父平作への思いと妹の瀬川と志津馬の契りを懇請しつつ、息絶える。一行は遂に直近に捉えた股五郎一味を追って夜道を急ぐのであった。

 本段に対しては、私は幾つかの大きな不満を持った。

 まず大きいのは劇作の構成上の問題点で、浄瑠璃特有の全部やらせであったというステロタイプのエピソード・オチは、一作の中でここまで何度も繰り返されてしまうと、少々飽きが来るのである。特に本段のように大団円の直前で、準主役級の志津馬が、見え見えの仮病に見え見えの毒殺未遂、しかも贅宅は宅悦で、お岩よろしく眼病で毒盛りくるし(但し、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」自体の初演はずっと後年の文政八(一八二五)年)、前半、上手の部屋で林左衛門が按摩痃癖(けんぺき)実は孫八に揉まれながら盗み聴きをするシチュエーションが並列して観客の笑いを確信犯で誘うのだが、私は何だか如何にもという気がして、寧ろ、そのシーン、流れ自体の陳腐さに少々失笑してしまったというのが本音である。

 期待したお米(瀬川)の贔屓の一輔なのであるが、記憶に残る第一部の蓑助のお米の神技とどうしても比較してしまうと、あの沼津の段の、衣服の下のしなやかな女体の感触が如何せん、まるで伝わってこない。但しこれは、場面が場面(舞台構造に無理があって左右にギュウ詰めで全体に観客に強いる「みなし」もし難い。しかも、どうも原作では隣りの部屋ではなく二つの旅宿という設定になっているらしいから、そうなっていたらと思うと、もうこれ、慄っとするほど狭くなるのである)、狭い部屋の中であるために極端に動きが少ないせいにもある。しかし、目の前であっという間に現われて、あっという間に去ってゆく(冥途に)瞼の兄の死をお米が悲しんでいない。お米の――「頭(かしら)」ではなく――その「体」が悲しんでいるようには残念ながら見えなかったのである。前の万歳の才蔵を一輔が如何にものびのびと爽快に遣っていただけに、この閉塞感と動きのなさ・硬直感・手狭には、正直、本日の日本三ガッかりの一、という気がした。

 十兵衛登場という設定も、あまりといえばあまりに唐突で、出たとたんに斬られて、そこにまた突如政右衛門がぬっと登場して……これ、吉本興業のお笑いパフォーマンスかと見まごう出方である。狭い部屋の中はもう人形と遣い手でごっちゃごちゃだ。この舞台では末期の十兵衛の思いを伝えるには無理がある。私はまさにそこを期待していたのだが、やはり何だか裏切られた感じであった。

 この段、まずは思い切った舞台構成の原作改変刷新が望まれるように思われる。そうすればもっとコーダを盛り上げるいい舞台になる気がする。このままでははっきり言って逆に感興を殺いでしまっていると言わざるを得ない。

 

――伊賀上野敵討の段――あがり伊賀上野鍵屋の辻――

 負け 討死 桜田林左衛門・沢井股五郎一党☞「貧乏農場」ならぬ無間地獄へ

㊀ 勝ち    和田志津馬         ☞「億万長者の土地」ならぬ鳥取へ

㊁ 勝ち    唐木政右衛門        鳥取へ

㊂ 勝ち    池添孫八          鳥取へ

㊃ 勝ち    石留武助          鳥取へ(以下の私の語注を参照)

㊄                     ☞降りだしに戻る

〔馬・名刀正宗(叙述はないが志津馬が遣うはこれでなくてはなるまい)〕

 ここはもう床本を引くに若くはなし――「伏見北国屋の段」の末尾から示す(前段最後の政右衞門「さらば」志津馬「さらば」の発声者は推定)。

   *

……唐木が勇める力足

手負ひを跡に三つ瀬川

三途の瀨踏みは敵の魁(さきがけ)

政右衞門「さらば」

志津馬「さらば」

を夜嵐に、聲吹き分くる海道筋、跡を慕ふて

 

伊賀上野敵討の段

 

 急ぎ往く

されば唐木政右衞門、股五郎を付け出だし、夜を日に繼いで伏見を出で、伊賀の上野と志し、心も急(せ)きに北谷(きただに)の四つ辻にこそ入り來たる

政右衞門聲をかけ

政右衞門「ヤアヤア志津馬、目指す敵は只一人(いちにん)。孫八、武助(ぶすけ)は我に構はず志津馬を圍み油斷すな。たとへ助太刀幾十人あるとも、我一人にて引き受けん。最早來るに間もあるまじ、一世の晴れ業(わざ)、心得たるか」

と言葉に

各々勇み立ち、目釘合して待ち懸けたり

程もあらせず股五郎、惡黨ばらに前後を圍はせ一番手は林左衞門、さゞめき渡り我(われ)一と、小田町筋へと打ち通る

かくと見るより和田志津馬、木陰より飛んで出で、向こうに立つて大音(だいをん)上げ

志津馬「ヤアヤア澤井股五郎、和田行家(ゆきえ)が一子同苗(どうみやう)志津馬、この處に待ち受けたり。イザ尋常に勝負せよ、勝負々々」

と聲掛くれば

續いて唐木政右衞門

政右衞門「ホヽウ久しや櫻田林左衞門、郡山にて眞劍の勝負を望みしその方、今日に至つたり。サア覺悟せよ」

と呼ばはつたり

林左衞門「心得たり」

と林左衞門、馬上よりひらりと飛び下りるを

政右衞門「どつこい、やらぬ」

と政右衞門、仁王立ちに突立てば

林左衞門「邪魔ひろぐな」

と打ちかくる

政右衞門「心得たり」

と受け流し、付込む所を

身を開き

飛ぶよと見えしが林左衞門

唐竹割に切伏せたり

後は助太刀銘々に拔き連れ拔き連れ切結ぶ

此方は必死一騎と

一騎、股五郎相手に和田志津馬

手利きと

手利きの晴れ勝負、いづれ拔け目はなき所へ

政右衞門は韋駄天走り

政右衞門「ヤアヤア志津馬、未だ討たぬか、助太刀の奴ばらたつた今一人殘らず討ち捨てしぞ。殘るはそやつ只一人、ソレ踏み込んで討ち止めい」

と聲の助太刀百人力

よろめく所を

付け入つて肩先ざつぷと切り付けたり

さしもの澤井たじたじたじしどろになるを

疊み掛け鋭き一刀大地へどつさり、起こしも立てず乘り掛かり

志津馬  「年來の父の仇」

政右衞門 「舅の敵」

孫八・武助「主人の仇」

一度に晴るゝ胸の内、空に知られし上野の仇討ち、武名は世々に鳴り響く、伊賀の水月(すいげつ)影淸き、今に譽れを殘しけり

   *

[やぶちゃん語注:「水月」は水面に映る鮮やかな月影の意以外に、兵法に於ける陣立ての一つ、水と月が相い対するように、両軍が接近して睨み合う意を掛けた(因みに余談ながら「水月」は人体の鳩尾の別称でもある)

「石留武助」モデルは渡辺数馬の助っ人の一人で荒木又衛門の門弟川合武右衛門(池添孫八のモデル岩本孫右衛門も実際には数馬の家来ではなく又衛門の門弟である)。彼は実際には孫右衛門とともに桜井半兵衛を相手をしていた。そこへ又右衛門が加わって討ち果たした際、不運にも斬られて命を落としている。]。

(以上、第二部観劇 2013年9月23日(日) 於東京国立小劇場)

   *   *   *

 天明三年四月。大坂竹本座前。

 折しも近松半二と近松加作の外題「伊賀越道中飛び双六」の人形芝居が跳ねた直後である。

藪八 「面白(おもろ)かったなあ!!」

野治郎「ほんまに。……せやけど何や、喉に引っかかるようなもんがある……」

直吉 「どこがじゃ!? 政右衛門格好えかったやないか! なぁ、御隠居?」

史元斎「ムヽ。野治郎や、何が魚の骨か、云うてみい。」

野治郎「ヘェ。……その……お谷はんやちっこい巳之助がなんや、こう、酷(ひど)う哀れで……」

直吉 「われは非力で女子どもが大の好みやからなあ! アハヽヽヽヽ! 大方、十何人も死んでもうた芝居にびびったんやろが!?」

藪八 「……マア……そうやなぁ、わても哀れに思わなんだわけでもないが……やっぱし、これは仇討ちに突き進むところの話を楽しむんが芝居の妙味じゃて。」

野治郎「せやけど……わてが政右衛門やったら……あないなこと……とてものことに出来まへん。……好いた女を棄て目(めえ)に入れても痛(いと)うない子(こお)を対面(たいめ)のその間に首掻っ切るなんど……。それに……人でなしの股五郎を思うて刀を喉(のんど)に突き立てた鳴見のおっ母さんや……腹に脇差ぶっ刺した平作の爺さんにも……それにあのやさ男の十兵衛もわざと志津馬はんに斬られるどっせ?!……とても、なれまへん……あんたら、なれまっかいなッ?!」

(藪八、野治郎、直吉、押し黙る。)

史元斎「ムヽヽヽ 野治郎の謂いは一理ある。……儂らは武士でのうて良かったの。……普通は仇討ちなんどと申すしがらみから遠く離れて生きておられるからの。……仇討に巻き込まれたお武家は……これ……股五郎と同じように、どこかで――人でなし――にならねば本懐を遂げることは出来んのやな。巳之助は武士の子(こお)に生まれたが因果……されど、仇討ちという宿命をかの者たちは生き生きと生きたとも言えようの。……さても、確かに平作や十兵衛は町人じゃの。……あの者たちまでもがなぜ死んでゆかねばなんらぬのか。……これもまた、義理のためじゃが、そこには実は、孰れもお米への愛憐のあればこそじゃった。……儂は鳴見殿の老母の死にまず心打たれ、また、平作の切腹の場に至っては……これ、図らずも涙致いた。……按ずるに……義理はこれらの人々のように、愛を伴(ともの)うてこそ美しいものじゃとは――これ、思わんか?……」

(藪八、野治郎、直吉、皆、ちんまりとなって、しおらしく合点する。)

史元斎「ハヽヽヽヽ さても今日は二十二夜、女どもは皆、月待であろ。一つ皆して、鍵屋の辻の頃を偲びながら、おのちと亡き巳之助のために一つ、塩饅頭を肴に一献と参ろうかの?」

(藪八、野治郎、直吉、皆、急に元気になって、激しく合点。)

   *   *   *

……「生きると言うことはそのプロセスを楽しむことである」

とは、昔、中一の私が作文に書いた言葉であった。中年の独身の女性国語教師が痛く褒めて評釈付きで文集に載せて呉れたのを思い出す。

 私にとっては今も人生はそうしたものとしてあるように思う。

 成果やら結末やらに価値はない。

 そこに至る過程に於いて生ずる精神と感情と肉体のエネルギの交換によって生ずる「現象」にこそ我々は「常に生きていると感じている」のである。

 それは「生きている」という「錯覚を実感する」――謂わば「幻想を実相として誤認する」――ことに過ぎぬのかも知れない。

 私はそれでよいと思う。

 あらゆる文芸のドラマとは、皆、そうした「幻覚のみなし」のエッセンスの、濃厚な抽出と圧縮に他ならない――に過ぎない。だからこそ

 たかが芝居――されど芝居

なのである。(完)

 

五月雨や御豆の小家の寢覺がち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   五月雨(さみだれ)や御豆(みづ)の小家の寢覺がち

 

「五月雨や大河を前に家二軒」といふ句は、蕪村の名句として一般に定評されて居るけれども、この句はそれと類想して、もつとちがった情趣が深い。この句から感ずるものは、各自に小さな家に住んで、夫々の生活を惱んだり樂しんだりして居るところの、人間生活への或るいぢらしい愛と、何かの或る物床しい、淡い縹渺とした抒情味である。

 

なお、この「御豆」は蕪村の句では「美豆」で淀川水系の低湿地帯の地名。現在の京都郊外伏見区淀の水垂附近と思われる。清水哲男氏の「増殖する俳句歳時記」の与謝蕪村句」の評釈によれば、この『周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである』とある。なお、朔太郎は知られた「五月雨や大河を前に家二軒」については、不思議なことに「郷愁の詩人與謝蕪村」では評釈していない。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(5) 夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききゐる

夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききゐる

 

[やぶちゃん注:歌稿「小笠原紀行」歌群の「夕の椰子の歌」の草稿。この手帳には句の別案として、

 

夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききたり

 

が示されている。決定稿の歌形はこれを元にしており、

 

夕されば孤島に寄する波の音岩の上にしてひとり聞きたり

 

である。]

朝の波 大手拓次

 朝の波
   ― 伊豆山にて ―

なにかしら ぬれてゐるこころで
わたしは とほい波と波とのなかにさまよひ、
もりあがる ひかりのはてなさにおぼれてゐる。
まぶしいさざなみの草、
おもひの緣(ふち)に くづれてくる ひかりのどよもし、
おほうなばらは おほどかに
わたしのむねに ひかりのはねをたたいてゐる。

[やぶちゃん注:「伊豆山」〈いづさん(いずさん)〉は静岡県熱海市伊豆山(湯河原と熱海の間)にある海縁りの温泉地。これは当地の高みにある古社伊豆山神社からの眺めと読みたい。大手拓次の詩の中に固有地名が出現するのは極めて例外的で具体な眺望をもとにした叙景という点でもすこぶる特異な詩と言えよう。]

鬼城句集 秋之部 崩簗/放生会

崩簗    赤犬のひたひたと飮むや崩簗

 

[やぶちゃん注:「崩簗」晩秋の季語。簗は河川の両岸又は片岸から列状に杭や石などを敷設して水流を堰き止めて流水に導かれてきた魚類を最後の流路で塞いで捕獲する漁具や仕掛けで、この場合、秋も深まって使われなくなった、落ち鮎を捕らえるのに設けられてあった下(くだ)り簗が、風雨にさらされ、押し流されたりして崩れてしまった状態をいう語。ものさびた侘びしさを既にして顕現する優れた季語と言えよう。]

 

放生會   放生會二羽の雀にお經かな

 

[やぶちゃん注:「放生會」「はうじやうゑ(ほうじょうえ)」は供養のために事前に捕らえてある魚や鳥獣を池や野に放してやる法会。殺生戒に基づくもので奈良時代より行われ、神仏習合によって神道にも取り入れられている。収穫祭・感謝祭の意味も含め、春又は秋に全国の寺院や宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡社で催される。正確には八幡社では陰暦八月十五日の祭祀とされ、特に京都の石清水八幡宮や福岡の筥崎宮(ここでは「ほうじょうや」と呼ぶ)が有名。典拠としては「金光明最勝王経」の「長者子流水品」に釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちが三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が載り、「梵網経」にも同種の趣意因縁が説かれている。かつては寺社の近隣の河川で橋番などが副業として日常的に行われていた商売で、亀屋から客が買って川に放した亀をその亀屋が再び捕獲してまた新たな客に売るという商売としても行われていた。現在でも台湾・タイ・インドでは放ち亀屋や放ち鳥屋といった商売が寺院の参道で盛んに店を開いている(ここまでは主にウィキの「放生会」を参考にした。昔、タイの寺院の参道で雀や鳩のそれを実見したが、当時のガイドによれば鳩はそのまま売り手の主人の鳩小屋に戻って呉れるので一番手間いらずとのことであったが、雀も飼い馴らしてあってやはり餌を播くと戻ってくるのだと言っていた)。これは放ち雀であるが、江戸の風物では放ち亀・放ち泥鰌・放ち鰻(屋台で糸で亀を吊るして売ったり、桶の中に亀や泥鰌やめそ鰻(鰻の幼魚)を桶に入れて売った)・放ち鳥(本邦では専ら句にある雀を複数の鳥籠に入れたものを天秤棒で前後に担いで売り歩いた)。]

2013/09/25

易水に根深流るる寒さ哉かな 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   易水に根深(ねぶか)流るる寒さ哉かな

 

「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭々として易水寒し。壯士一度去つてまた歸らず。」の易水である。しかし作者の意味では、そうした故事や固有名詞と關係なく、單にこの易水といふ文字の白く寒々とした感じを取つて、冬の川の表象に利用したまでであらう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取つて、原意と全く無關係に、自己流の詩的技巧で驅使してゐる。

  この句の詩情してゐるものは、やはり前の「葱買て」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れて居る裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々とした侘びを感じて居るのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(對象)を敍することによつて、作者の主觀する人生觀(侘び、詩情)を咏嘆することにある。單に對象を觀照して、客觀的に描寫するといふだけでは詩にならない。つまり言えば、その心にを所有してゐる眞の詩人が對象を客觀的に敍景する時にのみ初めて俳句や歌が出來るのである。それ故にまた、すべての純粹の詩は、本質的に皆「抒情詩」に屬するのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。太字部分は底本では傍点「●」。引用は「史記」の中でも最も知られた「列傳卷八十六」の「刺客列傳第二十六 荊軻」で、始皇帝暗殺のための死の覚悟を込めて彼が詠む詩、「風蕭蕭兮易水寒、壯士一去兮不復還」に基づく。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(4) 中島敦の謎めいた恋愛悲傷歌群

宵々の家になりはひ憎とふ君をし思へば心苦しも

 

[やぶちゃん注:私はこの歌から「かの宵」での恋歌十一首には、現在知られていない中島敦のある秘密が隠されていると確信する。その秘密とは、宵闇に浮ぶ団欒の燈火を見て連れの男に「憎し」と呟く女はどんな存在の女性かを考えて見れば、お分かり戴けるものと思う。]

 

心迫りスコップ捨てゝ立ちにけり花を植ゑゐる心にあらず

 

[やぶちゃん注:庭に本格的に根付かせる花を植えるというのは妻も子もある家庭人である。しかしこの一家の主人は茫然とし、その心はここならぬ彼方へあくがれ出でて呆けているではないか。その魂のあくがれ出でる先は明らかに恋する女の元であることは言を俟たぬ。そしてそれは無論、この庭のある家庭の幸せな妻とは異なる女性であるとしか考えられまい。]

 

今はたゞあはまほしさにねに泣きて伏してをるてふ言のかなしさ

 

[やぶちゃん注:これはこの女性が敦に逢うことが出来ない、逢いたいのに逢うことが許されていない、禁じられているということを容易に連想させる。そしてそれを「言のかなしさ」は同時に敦自身もこの女の元へ逢いに行くことは叶わない、逢いたいが逢うことは許されていないからこそ、愛(かな)しいのである。]

 

いたつきに伏すとふ君が手に持てる紙かよこれのふみぞ愛(かな)しき

 

[やぶちゃん注:逢えないのは「いたつき」(病い)だからなどと解釈してならない。寧ろ、逢うことが許されていない彼女が、逢いたい一心を以って「いたつき」を口実(無論、その真偽を考証する必要は逆にない)に思いの丈を語った恋文なのである。仮に病いが本当ならば、それを見舞いに行って当然である。しかし、敦は行かない、行けないのである。そのような女性は誰か、どのような女性か、どのような状況下で生じた関係とその結果かを類推することは、それほど難しいことだとは思われない。]

 

せむすべをしらに富士嶺をろがみつ心極まり涙あふれ來

 

丘行けば富士ケ嶺見えつする河野の朝を仰ぎて君と見し山

 

昏のまゆの市場の裏路のまゆの匂もなつかしきかな

 

[やぶちゃん注:この嗅覚的回想の叙景吟も、実はその匂いと黄昏の繭市場を歩む男女の景と結びつく抒情歌であることは最早、疑う余地がない。ここに無縁な叙景歌を一首だけを敦がここに投げ込む必然性は皆無である。この繭の匂いには何か性愛的な匂いさえ私は感じているくらいである。]

 

かの宵の松葉花火の火の如く我は沿えなむ今はたへねば

 

[やぶちゃん注:「かの宵の松葉花火」「松葉花火」は線香花火のことである。私が現在、電子化注釈を進めている中島敦の昭和十一年の手帳の中に、次のような詩の一節が現われる。

 

  はかなしや 空に消え行く

  花火見し 宵のいくとき

  花模樣 君がゆかたに

  うちは風 涼しかりしか

 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や

 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

 

敦は自身を「しれ人」(痴れ人)としている。この恋は紛れもなく「痴人の愛」なのである(因みに中島敦は谷崎潤一郎の愛読者であった)。]

 

するが野の八月の朝はつゆしげみ君がす足はぬれにけるかも

[やぶちゃん注:この素足のクロース・アップの画面のただならぬ妖艶さを見よ。]

 

君が文人目を繁み公園の藤棚の下によめば悲しも

 

[やぶちゃん注:「繁み」は「しげみ」は上代の用法で、形容詞「しげし」の語幹に原因理由を示す副詞的用法を持つ接尾語「み」がついたもので、「多いので」「うるさいので」の意である。この恋文は誰にも見られてはならないものなのである。]

 

かの宵の君が浴衣の花模樣まなかひにしてもとな忘れず忘らへぬかも

 

[やぶちゃん注:「まなかひ」目の当たり。「もとな」副詞で、切に、の意。やはり、昭和十一年の手帳の中に次のような詩の一節が現われる。

 

  なにしかも 君がゆかた

  花模樣 忘れかねつる

  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな

  歩みつる 野遽の草花

  そをつみし 君が白き手

  一夏の たゞかりそめを

  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ

  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

 

この昭和十一年の手帳のこの詩を再度、全文を引いて示す。

 

  はかなしや 空に消え行く

  花火見し 宵のいくとき

  花模樣 君がゆかたに

  うちは風 涼しかりしか

 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や

 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

 

  別るゝと かねて知りせば

  なかなかに 逢はざらましを

 

  なにしかも 君がゆかた

  花模樣 忘れかねつる

  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな

  歩みつる 野遽の草花

  そをつみし 君が白き手

  一夏の たゞかりそめを

  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ

  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

 

これらは手帳に書かれたもので、行空きは改頁を示す。中間部(二連目に見えるもの)の二行は、事実は、この女性と敦とが別れた、引き裂かれたことを意味している。

 この十一首の恋愛悲傷歌群とこの相聞歌風のそれはどう考えても仮想された恋愛詩歌などでは決してない。

 これは「ゆかた」すがたの「うちわ」を持った「君」とある「夏」に「花火を見た」「松葉花火」一緒にして眺めた、その「一夏のたゞかりそめ」の燃え上がった恋、時が経った今以って「忘れ得ぬ」その思い出を詠っているのである。

 そして――その「君」とは結局「別」れなければならない運命にあるということが「かねて知」っていたならば、「逢は」なかったものを――私は何という「しれ」者であったことか――と激しく悔やむ、現にその一人の乙女に今も恋い焦がれている――その「一夏の」「たゞ」「かりそめの」恋を決して「忘れ得ぬ」敦のやるせない熱情にふるえる恋歌なのである。

 しかも――それは――どう好意的に考えても――現実の妻たか――ではない――のである。]

ふりつづく思ひ 大手拓次

   みづのほとりの姿

 ふりつづく思ひ

みづのうへにふる雪のやうに
おもひはふりかかり ふりかかりするけれど
ながれるもののなかに きえてゆく。
たえまなく ふりつづくおもひは またしても
みづのおもてに おともなくうかんでは きえてゆく。

鬼城句集 秋之部 送火/踊

送火    送火や僧もまゐらず草の宿

 

      送火や迎火たきし石の上

 

踊     學問を憎んで踊る老子の徒

 

[やぶちゃん注:老子は「老子」の二十章で「絶學無憂」(学學を絶てば憂ひなし)と断じている。]

 

      草相撲の相撲に負けて踊かな

2013/09/24

平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」劇評 或いは 「義死」の「死の舞踏」が絶対ルールとなる武士道スプラッター満載の究極の「人生ゲーム」の蠱惑 或いは 心朽窩主人謹製「伊賀越道中飛び双六」 その1(は以下に移動しました)

平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」劇評 或いは 「義死」の「死の舞踏」が絶対ルールとなる武士道スプラッター満載の究極の「人生ゲーム」の蠱惑 或いは 心朽窩主人謹製「伊賀越道中飛び双六」(全)を2013年9月26日にブログに公開した。第一部はここに前置いたものに大幅な加筆を加えてある。総字数2万字を越えてしまったのでお読みになる際は、ご覚悟を。

耳嚢 巻之七 退氣の法尤の事

 退氣の法尤の事

 文化元年麻疹(はしか)流行なして、死する者も多かりしが、番町邊の御旗本の奧方麻疹にて身まかりしが、其隣御旗本の妹容色もよかりしと、無程(ほどなく)世話する者のありて後妻に呼(よび)迎へしに、度々先妻の亡靈出て當妻本心を失(うしなひ)し。色々の療治すれど快驗なく、山伏又は僧を賴み祈禱抔なせども聊(いささか)印なし。外の者の目には見へず、只當妻(たうさい)のみ見へけるとなり。此事を或人聞(きき)て、中々一通りの者祈禱してはきくまじ、牛込最勝寺の塔頭(たつちゆう)德林院の隱居を賴み可然(しかるべし)と言ける故、彼(かの)德林院へ至りしかじかの事語りければ、我が祈禱にて可利有(きくべくあり)とも思はれねど、此地藏の御影(みえい)を持行(もちゆき)古(ふる)位牌へ張付(はりつけ)、佛壇へなりと枕元へなりと置(おき)て、佛器に一盃の茶を入與(いれあた)へけるにぞ、則(すなはち)立歸り其通りなしけるに、其夜よりたへて怪異なかりしと也。繪に畫(かけ)る地藏の奇特(きどく)とも思はれず、彿器の茶は何爲(なんのため)に與へける、是の事にきくに、あらず、此老僧はさる者にて、退氣(たいき)の手段(てだて)をなしけるなり。彼(かの)後妻隣家なれば、先妻息才の節より通じけるや。たとへ通ぜずとも、不幸間もなく再緣せし事故、先妻は何とも思はぬとも、當妻恨みもせんと思ふ心より靈氣呼(よび)たるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:霊異譚で連関。但し、こちらは頗る現実的な解釈、後妻の前妻に対する罪障感に基づく強迫神経症的幻覚と断じている(と私は読む)。心理学者根岸鎭衞に快哉!
・「退氣」陰陽五行説及び九星学や気学に於いて、相生(吉)の中で自分が生み出す子星(勤勉や他人を助ける星)を意味するものらしい。
・「文化元年」西暦一八〇四年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「麻疹」通常の麻疹(はしか/ましん)は一週間程度で治るが、大人の場合、現在でも風邪と勘違いして治療が遅れると、肺炎や約一〇〇〇人に一人の割合で脳炎が合併症として現われ、その場合は十五%が死に至る。
・「牛込最勝寺」底本の鈴木氏注に、『済松寺の誤。前出。』とある。これは「耳嚢 卷之五 濟松寺門前馬の首といふ地名の事」に出る。以下、私の注を転載しておく。「濟松寺」東京都新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。開山の祖心尼は義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた人物である。
・「置て、」底本ではこの読点の右にママ注記がある。鈴木氏は前に「古位牌へ張付」とあるのと齟齬を覚えられたためであろう。私は護符は複数枚あったものと考える。その方がプラシーボ効果が高まるからである。
・「退氣(たいき)の手段」占いの方はよく分からんし、その深遠な哲学にも興味はないので――根岸もそうした陰陽道みたような厳密な意味でこれを用いているとも思われないので――現代語訳では半可通のまま、「退気」を使用させて貰った。謂わば、前に述べた如く、自身の側にある種の罪障感があって、それが昂じて重い強迫神経症を引き起こし、霊の幻覚を見た、そうした新妻の病的な心理状態を緩和させるための地蔵の護符というプラシーボ(偽薬)による心理療法を施したという意味で私は採る。
・「息才」底本には右に『(息災)』の訂正注がある。以下の部分、訳にホームズ根岸の推理を補強するような翻案部をワトソン藪野が追加しておいた。

■やぶちゃん現代語訳

 退気(たいき)の法の尤もなる効果の事

 文化元年、麻疹(はしか)が流行(はや)り、死する者も多く御座った。
 番町辺りの御旗本の奧方、この麻疹にて身罷って御座った。
 さて、その隣りの、やはり御旗本の家に妹子(いもうとご)が御座って、容色もよいとのことにて、ほどのう世話する者のあって、隣りの御旗本の後妻に呼び迎えた。
 ところが、たびたび先妻の亡霊が出現致いて、新妻の後妻、これ、心神を喪失致すことがたび重なったと申す。
 いろいろと療治致いたものの一向にようならず、山伏やら僧やらを頼んでは、祈禱なんども致いたものの、これ、聊かも効果が、ない。
 この先妻の亡霊なるものは、しかし、他の者の目には見えず、ただ、その新妻ののみに見えるとのことで御座った。
 このことをある御仁が聴き、
「……それは……なかなか、一通りの者の祈禱にては効くまいぞ。……我の知る、牛込済松(さいしょう)寺の塔頭(たっちゅう)徳林院の御隠居を頼むが、よろしかろう。」
と申したによって、主人の命を受けた家人が、その徳林院へと至り、しかじかの由、語ったところが、その僧、使いの者にその妻を亡くした御旗本、その隣家の御旗本及びその妹子のことなど、詳しく質いた後、何か思い当ったところがあったように、徐ろに何枚かの御札を取り出だいて、
「――我が祈禱にて効験(こうげん)これあるとは、思われませぬが――ここはまあ、一つ、こちらの地蔵の御影(みえい)を持ち行かれ、亡き妻女の位牌へと一枚を張り付け、また仏壇へなりと枕元へなりと、これを置きて、また、仏さまにお供えする器(うつわ)に、一杯の茶(ちゃあ)を入れて、奉ずるが、よろしかろうぞ。――」
と申した。
 されば家人はすぐに立ち帰り、主人に申し上げて、その通りになしたところが――
――その夜より
――きっぱりと
――新妻は、かの霊の出来(しゅったい)に慄(おのの)くこと
――これ、一切なくなったと申す。
   *
 按ずるに、これ、絵に描いた地蔵の奇特(きどく)とも思われず――また、供養の仏器に淹れし茶は何のための供えかも、これ、分明でない。
 この御旗本の周辺の事情や、かの徳林院の僧につき、私が少しく聴き及んだところによれば――地蔵の奇特――にては、これ、ない。
 この老僧、まっことの智者にして、言わば
――退気(たいき)の手段(てだて)――
を成したものに、他ならぬ。
 そもそも、かの後妻はまさに隣家の者であったによって、先妻が息災であった頃より、実は姦通致いて御座ったのではなかろうか?
 憚りのあれば、具体には申さぬものの、私の調べたところによれば、そのような事実を強く疑わせるようなことがあった――
とのみ、ここに申し述べておくに留めよう。
 いや、百歩譲って、たとえ、そうした密通の事実がなかったとしても――だいたい先妻の不幸のあって、ほんの間もなく致いて、早々に再縁致すと申す、これ、世間一般の通念から致いても、すこぶる芳しからざることなれば――「先妻の霊」は、これ、何とも思はぬと致いても――当の新妻自身が、
『先妻の亡魂が恨みをもお持ちではなかろうか』
と按ずる心の生ずること、これもすこぶる道理なれば、まさに
――ありもせぬ「霊気」――
をも呼び出だいては、それを「見た」ものに相違あるまい。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 6 宿屋の子らとのお絵描き遊び

 旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。即ち私は日本の紙に日本の筆で蟾蜍(ひきがえる)、バッタ、蜻蛉(とんぼ)、蝸牛(かたつむり)等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。

葱買て枯木の中を歸りけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   葱買て枯木の中を歸りけり

 枯木の中を通りながら、郊外の家へ歸つて行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何といふ沁々とした人生だらう。古く、懷かしく、物の臭ひの染みこんだ家。赤い火の燃える爐邊。臺所に働く妻。父の歸りを待つ子供。そして葱の煮える生活!
 この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調して居る。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懷かしく愛して居るのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接實感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(3)

緋にもゆる胸毛にくちをさし入れてあうむうつくねむりてゐるも

くびをまげ翼の脇に嘴(くち)を入れてあうむうつくねむりてゐるも【全抹消】

眼をとぢて目にぬくもれる緋あうむの頰の毛脱けていたいたしげりなり

[やぶちゃん注:「目」には底本にママ注記がある。「日」の字の敦の誤記と思われる。「いたいたしげなり」の後半の「いた」は底本では踊り字「〱」。]

いにしへのだるま大師もなが如く緋衣ひきて物思ひけむ

娼婦(たはれめ)の衣裳(きぬ)をまとへる哲學者あうむは眼をとぢ物を思ふ

緋衣の大嘴鸚鵡我を見て、又ものうげに眼をとぢにけり

[やぶちゃん注:「大嘴鸚鵡」は「おおはしあうむ」と訓じていよう。]

靑い吹雪が吹かうとも 大手拓次

 靑い吹雪が吹かうとも

おまへのそばに あをい吹雪が吹かうとも
おまへの足は ひかりのやうにきらめく。
わたしの眼(め)にしみいるかげは
二月の風のなかに實(み)をむすび、
生涯のをかのうへに いきながらのこゑをうつす。
そのこゑのさりゆくかたは
そのこゑのさりゆくかたは、
ただしろく 祈りのなかにしづむ。

曼珠沙華 北原白秋

   曼珠沙華   北原白秋

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 何處(どこ)へゆく

赤い、御墓(おはか)の曼珠沙華(ひがんばな)、

曼珠沙華(ひがんばな)、

けふも手折りに來たわいな。

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 何本か。

地には七本、血のやうに、

血のやうに、

ちやうど、あの兒の年の數(かず)。

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 氣をつけな。

ひとつ摘(つ)んでも、日は眞晝、

日は眞晝、

ひとつあとからまたひらく。

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 何故(なぜ)泣くろ。

何時(いつ)まで取っても、曼珠沙華(ひがんばな)、

曼珠沙華(ひがんばな)、

恐(こは)や赤しや、まだ七つ。

 

(「思ひ出」(明治四四(一九一一)年)より。「ゴンシヤン(ゴンシャン)」は柳川方言で「良家のお嬢さん」をいう語。……この歌はマザー・グースのような翳を持った詩で、古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされたのであった。……)

つきぬけて天上の紺曼珠沙華 誓子

つきぬけて天上の紺曼珠沙華 山口誓子

曼珠沙華抱くほどとれど母戀し / 父若く我いとけなく曼珠沙華   中村汀女

曼珠沙華抱くほどとれど母戀し

父若く我いとけなく曼珠沙華   中村汀女

鬼城句集 秋之部 相撲/糸瓜忌

相撲    相撲取のおとがひ長く老いにけり

[やぶちゃん注:「相撲」が秋(初秋)の季語とされるのは、奈良・平安時代、宮中で行われた相撲の起源である相撲節会(すまいのせちえ)が毎年陰暦七月に行われていたことに拠る。]

 

糸瓜忌   糸瓜忌や俳諧歸するところあり

 

      糸瓜忌や秋はいろいろの草の花

 

[やぶちゃん注:「いといろ」の後半は底本では踊り字「〱」。正岡子規の忌日糸瓜忌は九月十九日。]

曼珠沙華逍遙

昨日、アリスの散歩でいつも行く裏のお寺の赤い曼珠沙華の大きな群落が一斉に花を開いていた……

赤い曼珠沙華の花言葉は……
 
「情熱」
「独立」
「再会」
「あきらめ」
「悲しい思い出」
「また会う日を楽しみに」
「想うはあなた一人」…………


帰り道、ぽつんと一つ、大輪の白いそれが孤高に山門の脇に咲いているのを見つけた……
白い曼珠沙華の花言葉は……

赤のいいとこどりだった……

「また会う日を楽しみに」「想うはあなた一人」…………

アリスよ……

「想うはあなた一人」はおまえということにしておこうなぁ……



何となく彼岸花(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata )を調べて見たくなった――


〇曼珠沙華の葉を花期に見ないのは何故か?

ヒガンバナの葉は花が終わる頃に出るから。以下に詳しい。http://www2.tokai.or.jp/seed/seed/mijika13.htm
田畑の畔のや墓地に多いのは何故か?

実用的民俗によれば、二つの理由がある。


「彼岸花 雑感集」(愛知工科大学電子制御・ロボット工学科教授野中登氏著)
http://www.aut.ac.jp/・・・/nonaka/12.html


のページより引用する。

『彼岸花が墓地や田の畦、土手に多く見られるのにはそれなりの理由がある。土葬の頃、ネズミや獣が土葬の死体荒らしをしていたようで、その対策に毒のある彼岸花を墓地に植えたようである。また、田の畦や土手にはネズミやモグラが穴をあけて困るので、その防止に植えたようである』。

 

〇彼岸花(曼珠沙華)の地方名
 
イッポンカッポン・オオスガナ(和歌山)
カジバナ(群馬・福井)
カブレノカッポン(和歌山)
カブレバナ(山口)
カラスノマクラ(岐阜・岡山)
ジイジンバナ(新潟)
シタマガリ(三重)
シビトバナ(和歌山) 
ジュズカケバナ(新潟)
ジュズバナ(愛媛)
ソウシキバナ(福井)
チョウチンバナ(福井・山口・愛媛)
テグサレ・ドクホウジ(和歌山)
ハカゲ(墓蔭)・ノアサガオ(和歌山)
ハコボレ(静岡)
ハミズハナミズ(福井)
ハモゲ・ハモゲバナ(大分)
ヘソビ(三重)
ヒビノハナ・ヘビバナ(静岡・山口)
ホゼバナ(愛媛)
ホトケバナ(茨城)
ボンボラボン(静岡)
ミチワスレグサ(群馬)
ユウレイバナ(群馬、福井)
ドクバナ(神奈川・埼玉・群馬・静岡・岐阜・富山・奈良・大阪・鳥取・島根・岡山・山口・愛媛・高知・大分・熊本・宮崎・鹿児島)
セキリバナ(山口)
ドクユリ(群馬・茨城・山口・高知)etc.
(大塚敬節「漢方と民間薬百科」(主婦の友社昭和41(1966)年刊)に拠ったとある。こちら
http://homepage1.nifty.com/TUTIYA/colm17.htm
及び
熊本国府高等学校PC同好会の
ヒガンバナの「別名」とその分布「都道府県」(強烈!)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/hign_namek.html
のページから。後者にはもっと恐るべきフリーク蒐集による総数1023(中国・韓国・英米・学名を入れて1054)の
ヒガンバナの別名(方言)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higan_name.html
がある!)
 
因みに、神奈川ではドクバナの他に以下のような異名がある。データは後者。漢字表記と名の考証はやぶちゃんの勝手であるから真偽はご自身でご判断あれ。
オシーレン(?)
オボンバナ(お盆花)
カジノハナ(火事の花か)
シイレ・シイレバナ(死入・死入花。納棺時に最初に記した理由から納めた。若しくは「死人花」の「死人」を忌んで「死入」とし、その音で呼んだものかも知れない)
シイレン(前者の転訛か)
シガンバナ(此岸花か。私は死龕花をもイメージした)
シビセン(痺せむ?↓)
シビレン(痺れん(む)か。根茎の強毒アルカロイドであるリコリン由来)
ジュズダマ・ズズダマ・スズダマ(数珠玉。但し、私(鎌倉生)は「ジュズダマ」と聴くと大型のイネ科のジュズダマ Coix lacryma-jobi である。因みにヒガンバナは単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata である)
スベリグサ(滑り草?)
チョウチンバナ(提灯花)
チョコバンバー(? 何かお菓子の名前みたいで面白い)
チンチロリン・チンチンポンリン・チンリンボウリン・チンリンポーリン(最初のものは感覚的には分かる。後はその音変化であろう)
トウジンハナ(唐人花か)
トーローバナ(燈籠花であろう)
ハコボレ(葉零れであろう)
ハッカケバナ・ハッカケババア・ハッカケバンバ(葉欠け花の転訛が歯欠け婆になったものか)
ハモゲ(葉捥げであろう)
ヒッチャカメッチャカ(! これ最高だわ!)
ボンバナ・オボンバナ(盆花)
ヤンメシッツコ・ヤンメショッコ・ヤンメヒョッコノハナ(? 「やんめ」は幼児語で「止め」「辞す」の意であるから、葬送の忌詞かとも思ったが、後部が分からないのでダメ)

以下、ウィキの「ヒガンバナ」に載るもの。

キツネバナ(狐花)
ジゴクバナ(地獄花)
カミソリバナ(剃刀花。しかしこれは別種の同ヒガンバナ属のキツネノカミソリ Lycoris sanguinea に相応しい)
ステゴバナ(捨子花)

因みに、同ウィキには『日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。日本での別名・方言は千以上が知られている』とあり、『「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、日本では「葉見ず花見ず」とも言われる。韓国では、ナツズイセン(夏水仙)を、花と葉が同時に出ないことから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼ぶが、同じ特徴をもつ彼岸花も相思花と呼ぶことが多い』とあり(但し、最後の部分には要出典要請がかけられている)、『学名のLycoris(リコリス)は、ギリシャ神話の女神・海の精であるネレイドの一人 Lycorias からとられた』とある。因みに、『地下の鱗茎(球根)に強い毒性を有する有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた』こともよく知られる。詳しい詩に至る場合もある毒成分については、同ウィキを参照されたい。

2013/09/23

耳嚢 巻之七 公開分一括公開

サイト版「耳嚢 巻之七」を作成、既にブログで公開した分を一括公開した。

冬ざれや北の家陰やかげの韮を刈る 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   冬ざれや北の家陰やかげの韮(にら)を刈る

 

 薄ら日和の冬の日に、家の北庭の陰に生えてる、侘しい韮を刈るのである。これと同想の類句に

 

     冬ざれや小鳥のあさる韮畠

 

  といふのがある。共に冬の日の薄ら日和を感じさせ、人生への肌寒い侘びを思わせる。「侘び」とは、前にも他の句解で述べた通り、人間生活の寂しさや悲しさを、主觀の心境の底で嚙みしめながら、これを對照の自然に映して、そこに或る沁々とした心の家郷を見出すことである。「侘び」の心境するものは、悲哀や寂寥を體感しながら、實はまたその生活を懷かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫あいぶしてゐる心境である。「侘び」は決して厭世家(ペシミスト)のポエジイでなく、反對に生活を愛撫し、人生への懷かしい思慕を持つてる樂天家のポエジイである。この點で芭蕉も、蕪村も、西行、すべて皆樂天主義者の詩人に屬してゐる。日本にはかつて決して、ボードレエルの如き眞の絶望的な悲劇詩人は生れなかつたし、今後の近い未來にもまた、容易に生れさうに思はれない。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。「韮(にら)」は「菲(にら)」であるが、誤字として訂した。「對照」はママ。この最後の附言は日本文学の原理の抉出として鋭い。私も正しくそう思うからである。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(2) チンドン哀歌

上州は国定村の親分の口上くちびる靑くふるへたりけり

[やぶちゃん注:取消線は抹消を示す(以下、本注を略す)。これ以下、六首はチンドン屋の嘱目吟と思われる。後群ではそれが明白であるが、「くちびる靑く」で明らかに冬の戸外で、二句後の初句の「俠客」は明らかにチンドン屋の定番、この国定忠治(と私は勝手に思っているのだが)である。横浜には今も残る大衆演芸のメッカ三好演芸場があるが、画面は直近であり、舞台とは思われない。]

とりおひのバチもつ右手の手甲の雨にぬれつゝうごきゐるあはれ

俠客と、とりおひと竝ぶ口上のこゑ寒々と雨にぬれゐる街はしぐるゝ

まだらなる白粉の下ゆのぞきゐるけはしかる生活のかほをわが見つるかも

まだらなる白粉の下ゆのぞきゐるこゝだけはしき生活のかほ

[やぶちゃん注:「ここだ」副詞「幾許」で、程度の甚だしいさま。大層。]

歳末の大うり出のチンドンヤ氷雨ニヌレテハナヒリニケリ

シグレヒサメフル師走の町にチンドンヤの口上きけばうらさむしもよ



「チンドン哀歌」は僕のキャプションで原典にはない。チンドン屋の醸し出す不思議なペーソスを美事に映し得て素晴らしい。僕はチンドン屋という命題の真をかくも素朴に剔抉し得た短歌を、他に知らない。

おまへの息 大手拓次

   おまへの息

こひびとよ、
おまへの息(いき)のかよふところに
わたしはびつしよりとぬれてゐたい。
おまへの息(いき)は
はるの日の あさのすずかぜ、
また うつろひのかげをめぐる
うすむらさきのリラのはな。
こひびとよ、
あをい花のやうに とけるここちの おまへの息(いき)は
かぎりない絲をつないで めぐります、
また 鏡(かがみ)のやうに わたしのこころをうつします。

鬼城句集 秋之部 花野/ 人事 秋耕/燈籠

花野    鞍壺にきちかう挿して花野かな

[やぶちゃん注:「きちかう」は「桔梗」で「桔梗(きけう)」の別音、キキョウの別名。]

 

  人事

 

秋耕    秋耕や馬いばり立つ峰の雲


      秋耕や四山雲なく大平


燈籠    燈籠提げて木の間の道の七曲り


      草庵や繩引張つて高燈籠

[やぶちゃん注:「燈籠」は「とうろ」と訓じているか。]

2013/09/22

耳囊 卷之七 恩愛奇怪の事 / 本日これにて閉店

本日 文楽 「伊賀越道中双六」第二部に参るによって これにて閉店   心朽窩主人敬白



 恩愛奇怪の事

 

 神田明神前よりお茶の水へ出る所は、船宿(ふなやど)ありしが、文化三年六歲に成りし娘有し。彼(かれ)貮三歲の時より筆取(とり)て物を書(かく)事成身(せいしん)の者の如く、父母の寵愛大かたならず。いつしか船宿をも仕𢌞(しまはし)て兩國邊へ引越しけるが、彌(いよいよ)彼娘の手跡(しゆせき)人も稱讚せし處、文化三年流行の疱瘡を愁ひ以の外重く、父母は晝夜心も心ならず介抱看病なしける、其甲斐なく身まかりしとかや。母は歎きの餘り色々の事にて狂氣の如く口說(くどき)歎きしに、彼娘こたへて神田へ參り候て又逢可申(あひまうすべし)、あんじ給ふなといへるを、母はうつゝの如く其言葉たがへずとかこちけるが、扨しもあらねばなきがらを野邊の送り抔して、唯ひれふし歎きくらしけるよし。神田の知人共に立かわりけるに有が中、彼娘と同年くらいの娘を持(もち)ける者ありて、彼娘兎角兩國へ參り度(たし)と申(まうす)故、召連(めしつれ)て右の船宿へ尋(たづね)しに、召連し娘何分宿へ歸るまじ、此所に差置(さしおき)給へと言(いふ)故、いかなる事にてと尋しに不思議成哉(なるかな)、今迄筆とりたる事もなき娘、物書(ものかく)事死に失せし娘と聊(いささか)違ひなければ、何れも不思議成(なり)と驚き、神田なる親も召連れ歸らんといへど彼娘、我は爰許(ここもと)の娘なり、歸る事はいたすまじきとて合點せず。無據(よんどころなく)兩國に差置(さしおき)實親は歸(かへり)しと、專ら巷ありと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。直近の都市伝説霊異譚で五つ前の文化二年の「幽靈を煮て食し事」と直連関(但し先のものは擬似霊異譚)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな噂話である。


・「神田明神前よりお茶の水へ出る所」湯島聖堂があった現在の外神田二丁目の神田川の外堀通り沿いに当たろう。

・「神田の知人共に立かわりけるに有が中」底本では「有が中」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 神田の知る人共に立代(たちかは)り尋(たづね)けるに、あるが中

となっている(正字化し読みも歴史的仮名遣に変えた)。これで訳す。

・「巷あり」底本では右に『(說脫カ)』と注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版『巷説』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 恩愛が奇怪なる現象を引き起こした事

 

 神田明神前よりお茶の水へ出ずる所に、船宿(ふなやど)があった。

 文化三年、当年とって六歳になる娘が御座った。

 この子は二、三歳の時より、筆を執ってはいろいろと書写致すこと、これ、大人の者のそれの如き素晴らしき能筆にて、父母の寵愛は、それはもう、大かたならざるもので御座った。

 いつしか、船宿をも移転致いて、両国辺りへ引っ越したと申す。

 いよいよ、かの娘の手跡(しゅせき)は人も神童なりと称賛致いた御座ったが、ちょうど文化三年に流行致いた疱瘡を患(わずろ)うたが、これ、以ての外の重き病いにして、父母は昼夜を分かたず、心痛致し、親身に介抱看病を致いたものの、その甲斐ものぅ、これ、身罷ったとか申す。

 さても臨終の間際、母は歎きのあまり、いろいろと叫びたて、それはもう、狂気致いた者の如くにて、娘の生死につきて、訳の分からぬことを、あれやこれやと口走っては歎いて御座ったと申す。

 すると、かの娘は熱にうなされながら、

「……懐かしい神田へ参りまして御座います……さればこそ……また……お逢い申すことが叶いましょう……ご案じなさいますな……」

と答えたと申す。

 母は、それを聴くと、夢うつつのうちに、

「――その言葉、よもや、たがえること、ないな?!……」

と歎き叫んで御座ったとも申す。

 さても、最早、息を引き取って後、野辺の送りなんども済ましたが、両親はただただ、ひれ伏し、歎き暮すばかり。
 神田に住まう旧知の人どもも、入れ替わり立ち代わり、弔問に参ったが、その中に、かの娘と同い年ほどの娘を持ったる者が御座って、その娘がしきりに、


「……両国へ……参りとう御座います……」

と申すゆえ、ちょうど、弔問にもと思うて御座ったゆえ、かの亡き娘の両親のおる船宿へと訪ねて参ったところが、同道した娘は、

「……もう決して――神田へは帰りませぬ――ここに――どうか、おいて下さいませ!」

と言い出す。孰れの親も、吃驚致いて、

「……い、如何なる訳か?……」

と、質いたところが、

――不思議なことじゃ!

――今まで筆なんど執ったこともなきその娘が、

「筆を!――」

――ときっぱりと申したによって

――筆を執らしてみたところが

――そのさらさらと書き記す手跡

――死に失せし娘のそれと

――聊かの違いも

――これ

――御座いない!

 両家の親もこれまた、

「……な、なんとも不思議なることじゃ!……」

と吃驚仰天、神田の実の両親が、これを無理に連れ帰らんと致いたものの、かの娘は、

「――妾(わらわ)はもともと茲許(ここもと)の娘で御座いまする! 帰ることは――とてものこと、叶いませぬ!」

と、これまたきっぱりと申しは、いっかな、合点致さなんだ。

 よんどころなく、両国にその娘をさしおいたまま、実の親どもは取り敢えず引き上げざるを得なんだと申す。……

……とは、専らの巷説として今も噂致いて御座る。

……とは、知れる人の語ったことにて御座る。

……これ、後のこと知りたや……

 

飛驒山の質屋とざしぬ夜半の冬 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   飛驒山の質屋とざしぬ夜半の冬

 冬の山中にある小さな村。交通もなく、枯木の林の中に埋つて居る。暖簾(のれん)をかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまつたので、萬象寂(せき)として聲なく、冬の寂寞とした闇の中で、孤獨の寒さにふるへながら、小さな家々が眠つてゐる。この句の詩情が歌ふものは、かうした闇黑、寂寥、孤獨の中に環境してゐる、洋燈のやうな人間生活の侘しさである。「質屋」といふ言葉が、特にまた生活の複雜した種々相を考へさせ、山中の一孤村と對照して、一層侘しさの影を深めて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。「闇黑」は「闇墨」であるが、誤字として訂した。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(1)

[やぶちゃん注:以下は、底本の「手帳」の部の「昭和十二年」に出現する多量の歌稿草稿。抹消された箇所は取消線で示したが、歌全体が抹消されているものについては読み易さを考え、末尾に【全抹消】という注記を附した。各歌間(私の注を含め)は一行空けとした。底本にある改頁記号は総て省略した。]
       
人間の叡智も愛情(なさけ)も亡びなむこの地球のさだめ悲しと思ふ【全抹消】

人類のほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり【全抹消】

我はなほ人生を愛す冬の夜の喘息の發作苦しかれども【全抹消】

おしなべて愚昧(くら)きが中に燦然と人間のチエの光るたふとし【全抹消】

あるがまま醜きがままに人生を愛せむと思ふ他にみちなし【全抹消】

[やぶちゃん注:……敦よ、その君が「たふと」いと言ったはずの知恵が、君がかく詠んで直ぐに原子力を作り出すのだ……それは君の最初の二首にフィード・バックして響き合う……人間の叡智も愛情も亡びなむこの地球のさだめ悲しと思ふ……人類のほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり……さ、歩こう、預言者――]



……歌の出来不出来とは違う何かが、私にはこの抹消には感じられてならない。……彼は公私ともにこういう歌を詠みたいと思いながら……しかし封印し続けた――し続けねばならなかった――のではあるまいか?……

落葉のやうに 大手拓次

 落葉のやうに

わすれることのできない
ひるのゆめのやうに むなしさのなかにかかる
なつかしい こひびとよ、
たとひ わたしのかなしみが
おまへの こころのすみにふれないとしても、
わたしは 池(いけ)のなかにしづむ落葉(おちば)のやうに
くちはてるまで おもひつづけよう。
ひとすぢの髮の毛のなかに
うかびでる はるかな日(ひ)のこひびとよ、
わたしは たふれてしまはう、
おまへの かすかなにほひのただよふほとりに。

鬼城句集 秋之部 刈田/初汐

刈田    藪寺の大門晴るゝ刈田かな

初汐    初汐や磯野すゝきの宵月夜

[やぶちゃん注:「初汐」「はつしほ(はつしお)」は陰暦八月十五日の大潮のこと。陰暦二月の春潮(しゅんちょう)とともに干満の差が最も激しい。葉月潮。今年は過ぎし三日前の九月十九日、来年(二〇一四)年はずっとずれ上って九月八日に当たる。既にニュース等で報じられているように、「十五夜」とグレゴリオ暦の激しいずれはこれからずっと続き、二〇一二年になるまで(同年九月二十一日が陰暦八月十五日となる)文字通りの仲秋の名月は八年の間、見られない。それまで、随分、御機嫌よう。]

2013/09/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 5 馬車で逢った婦人と(附 やぶちゃんが昔イタリアでおばさんたちにモテた話)

 このうえもなく涼しい日に、このうえもなく楽しい旅を終えて我々は宇都宮に着いた。目新しい風物と経験とはここに思い出せぬほど多かった。六十六マイルというものを、どちらかといえば、ガタピシャな馬車に乗って来たのだが、見たもの、聞いた音、一として平和で上品ならざるはなかった。田舎の人々の物優しさと礼譲、生活の経済と質素と単純! 忘れられぬ経験が一つある。品のいいお婆さんが、何マイルかの間、駅馬車内で私の隣に坐った。私は日本語は殆ど判らぬながら、身振りをしたり、粗末な絵を描いたりして、具合よく彼女と会話をした。お婆さんはそれ迄に外国人を見たこともなければ、話を交えたこともなかった。彼女が私に向って発した興味ある質問は、我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向かってなすであろうものと、全く同じ性質を持っていた。

[やぶちゃん注:最後の部分、実は底本では「我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向かってなすであろうと、全く同じ性質を持っていた」となっている。日本語としてこなれない。参考にさせて頂いている(実際には底本が異なっていて、省略変更箇所が多過ぎるために結果としてはあまり加工データとしては使用していないが)網迫氏の「網迫の電子テキスト乞校正@Wiki」の「第二章 日光への旅」には「なすであろうものと」と正しくなっている。これを採用させて貰った。

 ……モースが体験したのと同じ気分を私は二十二年前の妻と二人のイタリア旅行で何度も味わったことを思い出す。……シエナやアレッツオ、田舎へ行けば行くほど、宿の女将や夕涼みの婦人たち、コンパートメントで隣り合った老修道女までもが、私に親しく話しかけてきたものだった(無論、イタリア語は全く話せない)――ただその代り、一切の支払いを妻がしていたために男性からはテッテ的に嘲笑された。無論、所謂、古風なタイプの顔立ちの妻は私を嘲弄するイタリア野郎には逆にモテモテであった――未だ三十四歳で、少しはスマートだった……何人ものイタリアのおばさんたちは私のことを“giapponese Bambino! ”と呼んで抱きつき、キス攻撃を受けた……ああ、またイタリア、行きたいなあ……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 4 旅つれづれ その二

 我々が休憩した宿屋の部屋部屋には、支那文字の格言がかけてある。日本人の通弁がその意味を訳そうとして一生懸命になる有様は中々面白い。我々として見ると、書かれた言葉が国民にとってそれ程意味が不明瞭であることは、大いに不思議である。読む時に、若し一字でも判らぬ字があると、通弁先生は五里霧中に入って了う。接続詞が非常にすくなく、また文脈は役に立たぬらしい。今 Penny wise pound foolish――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。この格言が初めてである場合、若し四字の中の一字が判らないと、全体の意味が更に解釈出来なくなる。つまり…… penny wise……foolish とか、……wise pound foolish とか(外の字が判らぬにしても同様である)いう風になって、何のことやら訳が判らぬ。我々の通弁が読み得た文句は、いずれも非常に崇高な道徳的の性質のものであった。格言、古典からのよき教え、自然美の嘆美等がそれである。このような額は最も貧弱な宿屋や居酒屋にでもかけてある。それ等の文句が含む崇高な感情を知り、絵画の優雅な芸術味を認めた時、私は我国の同様な場所、即ち下等な酒場や旅籠(はたご)屋に於る絵画や情趣を思い浮べざるを得なかった。

[やぶちゃん注:「今 Penny wise pound foolish――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。」原文は“Let us suppose the proverb, "Penny wise, pound foolish," written in four Chinese characters.”。ここのみ、石川氏の割注をそのままの形で示した。]

 

 田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前のきれいに掃かれた歩道、家内にある物がすべてこざっぱりとしていい趣味を現わしていること、かわいらしい茶呑み茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これらの美しい品物はすべて、あたりまえの百姓家にあるのである。

[やぶちゃん注:「鏡板」は「かがみいた」と読み、壁や天井などに張る、平らで滑らかな一枚板のこと。原文は“panels”。

「木質のきのこ」原文“woody fungus”。硬質の担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum の類の加工品か。しかし私は寧ろ、モースの質問答えた通弁の言葉を何か取り違えた(例えば茸が採れる木とか、茸を生やすために切り出した材木とか)のではなかろうかと疑っている。]

 

 この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――きわめて些細なことにでも――で示されている。子どもが誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、奇麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我国ではこわれた窓硝子を古い帽子や何かをつめこんだ袋でつくろうのであることを思い出した。

 

M38
図―38

 

 穀物を碾(ひ)く臼は手で回すのだが、余程の腕力を必要とする。一端を臼石の中心の真上の桷(たるき)に結びつけた棒が上から来ていて、その下端は臼の端に着いている。人はこの棒をつかんで、石を回転させる(図38)。稲の殻を取り去るには木造で石を重りにした一種の踏み槌が使用される。人は柄の末端を踏んで、それを上下させる。この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見るとシナではすくなくとも二、○○○年前からあるのである。この米つきは東京の市中に於てでも見られる(図39)。搗(つ)いている人は裸で、藁繩で出来たカーテンによって隠されている。このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通りぬけ得るから、誠に便利である。帳として使用したらよかろうと思われる。

M39

図―39

 

[やぶちゃん注:図39は言わずもがなであるが、唐臼(からうす)である。

「藁繩で出来たカーテン」原文“a curtain consisting of strands of straw rope”。石川氏は直下に『〔縄のれん〕』と割注する。]

中島敦短歌拾遺(3)

  相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を提げて來しかな

  送らうといへば手を振り「いや」といふかつては「ノン」といひてしものを

[やぶちゃん注:底本の「手帳」の部の「昭和十二年」の十一月七日の日録の中に出現する二首。「南南豆」はママ。無論、「南京豆」の誤記。年譜には、まさにこの年のこの『十一月から十二月にかけて「和歌五百首」成る』とあり(「和歌五百首」とは全集第二巻所収の「歌稿」群を指す)、この日よりも前の部分にその雰囲気が伝わってくる記載があるので、この日までを以下に示す。

十一月三日(水)何トナク和歌ガツクリタクナル/作リ出スト20首程タチドコロニデキル
十一月四日(木)又、歌三〇首ほど
十一月五日(金)約三十首
十一月六日(土)約二十首
十一月七日(日)朝天氣ヨシ/吉村氏來、avec 南京豆

として、二首が載る。但し、一首目には「提げて」を「持ちて」とする別案のメモが示されているので別案を復元しておく。

  相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を持ちて來しかな

「吉村氏」吉村睦勝。横浜高等女学校の同僚で友人。後に金沢大学教授(物理学)。旧全集には例外的に(友人・知人書簡は極めて少ない中で)彼宛の書簡は十通も掲載されている。書簡番号五五同昭和一二年十一月九日附吉村宛(『横濱市中區本郷町三ノ二四七』発信で宛先は『神奈川縣秦野町乳牛二三九一井上方』)には、

 一昨日は南京豆を難有う、話の巧い羊毛宣傳家は高橋六郎氏、アドレスは京橋區槇町一ノ五城邊ビルディング、日本羊毛普及會内 紙芝居の方も判り次第知らせる
 只今、喘息につての切拔到着、御親切にありがたう
   九日

とある。]

日の光今朝や鰯の頭より 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   日の光今朝や鰯の頭より

 正月元旦の句である。古來難解の句と稱されて居るが、この句のイメーヂが表象してゐる出所は、明らかに大阪のいろは骨牌であると思ふ。東京のいろは骨牌では、イが「犬も歩けば棒にあたる」であるが、大阪の方では「鰯の頭も信心から」で、繪札には魚の骨から金色の後光がさし、人々のそれを拜んでゐる樣が描いてある。筆者の私も子供の時、大阪の親戚(舊家の商店)で見たのを記憶して居る。或る元日の朝、蕪村はその幼時の骨牌を追懷し、これを初日出のイメーヂに聯結させたのである。この句に主題されてゐる詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懷かしい追憶であり、母のふところを戀ふる郷愁の子守唄である。蕪村への理解の道は、かうした子守唄のもつリリカルなポエジイを、讀者が自ら所有するか否かにのみかかつて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

夜の光の日向の花 大手拓次

 夜の光の日向の花

よるのひかりのひなたの花、
おほくの窻窻(まどまど)に ひそかに脣(くちびる)をつける。
つねに わたしの思ひの裏(うら)にある
よるのひかりのひなたの花、
みづくろひする心を撫でて遠吠(とほぼ)えし、
はぢらひを かなたにかくして
銀のなげきの ささやきをこもらせる。

鬼城句集 秋之部 出水/秋の水

出水    出水や牛引き出づる眞暗闇

 

      出水して雲の流るゝ大河かな

 

      出水や鷄流したる小百姓

 

      泥水をかむりて枯れぬ芋畑

 

秋の水   秋水に孕みてすむや源五郎虫

 

[やぶちゃん注:「源五郎虫」は「げんごらう(げんごろう)」と訓じていよう。]

 

      秋水に根をひたしつも疊草

 

[やぶちゃん注:「疊草」(たたみぐさ)は単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ(藺草) Juncus effusus var. decipens のこと。]

 

      秋水や生えかはりたる眞菰草

 

[やぶちゃん注:「眞菰草」(まこもぐさ)は単子葉植物綱イネ目イネ科マコモ(真菰)Zizania latifolia。河川や湖沼の水辺に生育し、成長すると人の背丈ほどにもなる。葉脈は平行。花期は夏から秋で雌花は黄緑色、雄花は紫色を呈する。参照したウィキの「マコモ」によれば、肥厚した新芽の根元部分をマコモダケとして食用とする。また近年、スロー・フードとして見かけるようになった褐色を帯びたワイルド・ライス(カナディアン・ライス、インディアン・ライスとも呼称する)も本種の近縁種アメリカマコモ Zizania aquatica の種子である。その他『日本では、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子をマコモズミと呼び、お歯黒、眉墨、漆器の顔料などに用い』てきた、とある。]

2013/09/20

藪入の夢や小豆の煮えるうち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   藪入の夢や小豆の煮えるうち

 

 藪入で休暇をもらった小僧が、田舍の實家へ歸り、久しぶりで兩親に逢あつたのである。子供に御馳走しようと思つて、母は臺所で小豆を煮にてゐる。そのうち子供は、炬燵にもぐり込んで轉寢をして居る。今日だけの休暇を樂しむ、可憐な奉公人の子供は、何の夢を見て居ることやら、と言ふ意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、單にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘しい思慕を、遠い郷愁のやうに懷かしんでる情想の主題(テーマ)を見るべきである。かうした郷愁詩の主題(テーマ)として、蕪村は好んで藪入の句を作つた。例へば

 

    藪入やよそ目ながらの愛宕山

    藪入のまたいで過ぬ凧の糸

 

 等、すべて同じ情趣を歌つた佳句であるが、特にその新體風の長詩「春風馬堤曲」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄であるところの、遠い時間への懷古的郷愁を咏嘆して居る。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあつたに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあつたことを、讀者は特に注意して鑑賞すべきである。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺 (2) 昭和八年手帳から 「尾瀬の歌」は実は昭和8年のものではなく、昭和9年のものではないか?

[やぶちゃん前注:底本の「手帳」の現存する最古の「昭和八年」から。]

 

 秋近み高原の空は山欅の木の梢を洩れて眼に沁みきたる

 

[やぶちゃん注:本歌群の詠唱時期は八月と推定される(後注を必ず参照のこと)。

「山欅」は通常は「やまにれ」又は「あきにれ」と読むが、「歌稿」の「Miscellany」歌群に、この草稿の三首目の決定稿が載るが(後注参照)、そこで「山毛欅」と書いて「ぶな」とルビを振っており、明らかに敦はここでは「木欅」と書いて「ぶな」誤訓していることが分かる。ブナ目ブナ科ブナ Fagus crenata である。因みに正しい「山欅」はイラクサ目ニレ科ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia の異名である。名前は同ニレ属の中で唯一、秋に開花することに由来する。アキニレは「ネバの木」とも呼ばれ、カブトムシやクワガタが好む、とウィキの「アキニレ」にある。従って、この一首は、

 あきふかみ/たかはら(又はかうげん)のそらは/ぶなのきの/こずゑ(又はこぬれ)をもれて/めにしみきたる

と訓ずるものと思われる。私は「たかはら」で読みたい。]

 

大淸水にて、

 たまきはるいのち愛しも山深き空の碧を眺めてあれば

 

[やぶちゃん注:「大淸水」群馬県利根郡片品村戸倉にある尾瀬の群馬側登山口。標高一一八〇メートル。尾瀬探勝では鳩待峠から入り、最後にこの大清水へ下るルートがよく利用される。]

 

 さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風にうら葉かへすも

 

[やぶちゃん注:「さらさら」の後半は底本では踊り字「〱」。「山欅の大木は」は「ぶなのおほきは」と訓じていると思われる。

 この一首は「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「大淸水にて」の前書で一首載るものの草稿であるが、そこでは(踊り字はここと同じ)、

 さらさらと山毛欅(ぶな)の大木は高原の朝(あした)の風にうら葉かへすも

となっている。さらに「手帳」には二箇所について別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。

 さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風にうら葉かへすも

 さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風に木の葉かへすも

 さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風に木の葉かへすも

本来の句形でよいように(短歌には暗愚であるが)私には思われる。]

 

 山欅わたる風の冷たさこのあさけ高原は秋となりにけらしも

 

[やぶちゃん注:「山欅」は前に注した通りで「ぶな」(以下、この読みで通すので注記は略す)。この一首、「冷たさ」を「寒さよ」とする別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。

 山欅わたる風の寒さよこのあさけ高原は秋となりにけらしも

また、「けらしも」には「けり/ける/けらしも」という別案(?)附記があるらしいが、これは音数から見ても「けらしも」を引き出すまでの推敲メモのように思われる。]

 

水山欅の梢もれくる空の靑草にいねつゝわが仰ぎけり

 

[やぶちゃん注:本歌は表記通り、抹消されている(以下、取消線は注に至るまで同様)。「水山欅」は「みづぶな」と訓じているのであろう。この「水」は「瑞」で、瑞々しい・麗しいの謂いである。言わずもがなであるが「空の靑(あを)/草(くさ)にいねつゝ」で切れる。]

 

尾瀨へ、

 いつしかに會津境もすぎにけり、山欅の木の間ゆ尾瀨沼靑し、

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の一首目の草稿であるが、そこでは、

 いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅(ぶな)の木の間ゆ尾瀨沼靑く

となっている。確かに「靑く」の方が余情を加えてよい。]

 

 水芭蕉の茂れる蔭ゆ褐(かち)色の小兎一つ覗きゐしかも

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の二首目の草稿であるが、そこでは、

 水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも

とある。この草稿の存在によってこれが「かちいろ」と訓じていることが分かる。

 なお「手帳」草稿では「覗きゐしかも」の「ゐる」を「たる」とした「覗きたるかも」とするかと思われる別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。

 水芭蕉の茂れる蔭ゆ褐(かち)色の小兎一つ覗きたるかも

決定稿が画像がしまっていてよい。]

 

 兎追ひ空しく疲れ草に伏しぬ山百合赤く咲けるが上に

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の掉尾であるが、そこでは、

 兎追ひ空しく疲れ草に臥(ふ)しぬ山百合赤く咲けるが上に

とある。]

 

 白々と白根葵の咲く沼邊、岩魚下げつゝ我が歸りけり。

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の二首目の草稿であるが、そこでは、

 しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚(いはな)下(さ)げつゝ我が歸りけり

となっている(「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」)。

 「白根葵」はそこでも注したが、キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]

 

 じゆんさいの浮ぶ沼の面、月に光り、燧の影はゆるぎだにせず、

 

[やぶちゃん注:「燧」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。]

 

 熊の棲む會津よろしと、燧山、尾瀨沼の上に神さびせすも

 

[やぶちゃん注:「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「神(かみ)さび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。

 「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の一首目の草稿であるが、そこでは、

 熊の棲む會津よろしと燧岳(ひうちだけ)尾瀨沼の上に神(かん)さびせすも

となっている。私は個人的に「ひうち」は「たけ」でないとしっくりこない山屋なので、決定稿がよい。]

[やぶちゃん後注:本歌群が尾瀬で詠まれたものであることは疑いようがないのであるが、現在の年譜上(底本全集版の)の知見では、敦は、横浜高等女学校の同僚と昭和九(一九三四)年の五月に乙女峠、八月に再び尾瀬・奥日光に遊んでいるとあって、この前年の「昭和八年」には年譜にはそうした記載はない。ところが試みに彼の現存する数少ない書簡を繰ってみると、昭和八年の八月十九日附橋本たか宛絵葉書(底本旧全集第三巻「書簡Ⅰ」内番号二七)が現在の群馬県利根郡みなかみ町にある法師温泉から発信されており、そこには(下線やぶちゃん)、

 

 天幕をかついで、四五日ぶらついて、此處まで來た。こゝは越後と上州の國境、山の中の電燈もない、淋しい温泉場だ、

もうすゝきが奇麗に穗を出してゐる。中々いゝ。

 一寸東京や横濱へは歸る氣がしない

 そちらへ行くとすれば九月近くになるだらう。

 世田谷(小石川)のが、今度職があつとめたため大連に行つたよ、皆さんによろしく

 

とあり、また続く八月二十九日附橋本たか宛書簡番号二八(封筒欠であるが恐らくは独居先であった横浜市中区山下町一六九同潤会アパートと思われる)では、

 

 山からは一週間程前に歸つて來た。まだ中々あついね。

 

 今月もやつと、これだけしか送れない。それに、これだけ送ると、もう、そちらへ行く汽車賃もないんだ。僕は、考へたんだがね。これだけにしろとにかく送るのと、そちらへ僕が行くだけで、何も金を置いてこられないのと、どつちが良いかつて。結局、金を送つた方が(實際的には)何といつても役に立つだらうと、きめたんだ。

 

 婿姻とゞけは(そちらに判をおしていたゞくために)二三日中に送る。あるひはもう、うちから送つたかもしれない。判を押していたゞいて、それから又、世田ケ谷の家へおくりかへして〔貰〕いたゞくのだ。

 

 それから、お前にだけ内證にきくのだが。

 新地において貰つて、氣づまりだつたり、辛かつたりすることが多くはないかい?

 それに何時頃まで置いていたゞけるのだい?

 それから、もし、東京へお前とチビとが來て間借でもするとすれば、大體、月いくら位で、あがるだらうね?

 右の返事をきかせてくれ。

                       敦 

 

 皆さんに殘暑御見舞を申上げておくれ、』

とあるのである(この二八書簡は中島敦の新妻への率直な思いや当時の状況をよく伝えて微笑ましい)。この「橋本たか」とは、文面からお分かりになった通り、敦の「妻」である。年譜では二人の結婚は昭和七(一九三二)年三月の大学在学中であり、しかもこの昭和八年の四月にたかは既に「チビ」、長男桓(たけし)を郷里(愛知県碧海(へきかい)郡依佐美(よさみ)村。現在の安城市の一部と刈谷市の一部)で産んでいるのであるが、二人は未だ同居をしておらず、いわば一種の妻問婚状態、単身赴任状態(同年四月の横浜高等女学校奉職以降)にあった。しかも年譜には書かれていないが、二八書簡に見る通り、何とこの時点でも正式な婚姻届は未だ出されていなかった事実も判明するのである(桓君の出生届けはどうなっていたのでしょう? 後からわざわざ中島姓に変えたんですかねえ。戸籍にべたべたと追加記載が張られる上に、しかも私ならとても面倒だと思うんですがねえ……つまらないことが気になる、僕の悪い癖!……)。前の書簡の「小石川」は同書簡番号十九・二十に出る(二十には「皐さん」とある)が、これは敦の親戚である中島皐(かう)という人物である(大叔父の息子で父田人の甥に当る)が、どうも文面から見るに、彼はたかの橋本家とも相当に親しい関係(婚姻届がここを経由しているように二八書簡で読めるのは何らかの姻族関係が強く疑われる)にあったものらしい。「新池」は依佐美村高棚新池で橋本家実家の地名である。

 補注が長くなった。

 この二つの書簡によって、昭和八年の八月十五日前後から八月二十二日前後までの間(最長八日から九日ほど)に、彼が尾瀬周辺を逍遙していた可能性が非常に高い確率であるということが分かった。寧ろ、翌九年の尾瀬行は、もしかするとこの時に踏破した思い出の場所を同僚たちに彼が勧め、実現した再山行ではなかったろうか? そうしてこの歌稿草稿や「歌稿」の「尾瀨の歌」を見渡すと、高原に佇んでいるのは彼独りであることが見えて来るのである。我々が(少なくともさっきまでの私が)この歌群の映像が年譜上の記載から(実は彼の書簡を読んだの今回が初めてである)昭和九年の同僚たちとのわいわいがやがやの尾瀬行だ、と無批判に思い込んでいたのは大いなる愚であったと思い始めているのである。]

中島敦短歌拾遺 (1) 「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」草稿

中島敦短歌拾遺

[やぶちゃん注:以下は既に電子化注釈を終了した筑摩書房昭和五七(一九八二)年増補版「中島敦全集」第二巻所収の「歌稿」以外に同全集第三巻の「ノート・斷片」「手帳・日記」に見出せる短歌及び歌稿草稿と思しいものを拾い集めたものである。]

見まく欲り來しくもしるく山手なる外人墓地の秋草の色

秋風もいたくな吹きそ若き日の聖クラヽが三人歩める

我も見つ人にも告げん元町の增德院の二本銀杏

あさもよし

元町の

あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな

踊子は縞のショールを買ひてけり秋の夕は秋の風吹く

夕されば   踊子の亜麻色の髪に秋の風吹く

眺めつゝ淋しきものか眉描きし霧の夜頃の踊子の顏

あるぜんちんのたんごなるらしキャバレエの窓より洩るゝこの小夜ふけに

うかれ男に我はあらねど小夜ふけてブルース聞けば心躍る

[やぶちゃん注:「ノート・斷片」の「斷片」の、底本編者が「十四」とする短歌草稿群。「夕されば」の後の三字空きはママ。これらは明らかに先に掲げた「歌稿」の「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の草稿である。以下、煩を厭わず、決定稿と並列させてみる。最初に本稿の歌稿●、次に〔 〕で当該決定稿の所収歌群(前書のテーマ)を示して決定稿◎を示す(添書のあるものはそれも示した)。

●見まく欲り來しくもしるく山手なる外人墓地の秋草の色
〔「於外人墓地」の巻頭〕
◎見まく欲(ほ)り來(こ)しくもしるし山手なる外人墓地の秋草の色

●秋風もいたくな吹きそ若き日の聖クラヽが三人歩める
〔「街頭スケッチ」の十二首目〕
◎秋の風いたくな吹きそ若き日の聖クララがうけ歩みする (若き尼僧は天主教の黑衣を纏へり)
[やぶちゃん注:「うけ歩みする」の推敲は画面のエッジが切れるように鋭くなって美事なものである。]

●我も見つ人にも告げん元町の增德院の二本銀杏
〔「ひげ・いてふの歌」巻頭〕
◎我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏(ふたもといてふ)

●あさもよし
〔「街頭スケッチ」の十八首目〕
◎(?)あさもよし喜久屋のネオンともりけり山手は霧とけぶれるらしも

●元町の
◎(なし)
[やぶちゃん注:これを初句とする短歌は存在しない。没草稿の一つか。或いは、「歌稿」で「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」に先行する「Miscellany」歌群に含まれる、元町を詠み込んだ(以下の二箇所の「まち」は「街」と「元町」のルビで、ルビを振った状態で「(元町)」が丸括弧表記でルビの附いた「街」に続いている、かなり表記としては苦しいものである)、

拙なかるわが歌なれど我死なは友は街(まち)(元町(まち))行き憶ひいでむか

に類したものを詠じようとしたものか。因みに元町の詠歌多いが、「元町」を歌の中に詠み込んだものは「歌稿」ではこの一首のみである。]

●あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな
〔「踊り子の歌」巻頭〕
◎あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな

●夕されば   踊子の亜麻色の髪に秋の風吹く
〔同じく「踊り子の歌」三首目〕
◎夕さればルムバよくする踊り子の亞麻色の髮に秋の風吹く
[やぶちゃん注:二句目の推敲の素晴らしさがよく分かる。]

●眺めつゝ淋しきものか眉描きし霧の夜頃の踊子の顏
〔同じく「踊り子の歌」五首目〕
◎眺めつゝ寂しきものか眉描きし霧の夜頃の踊り子の顏

●あるぜんちんのたんごなるらしキャバレエの窓より洩るゝこの小夜ふけに
〔同じく「踊り子の歌」七首目〕
◎亞爾然丁(あるぜんちん)のタンゴなるらしキャヷレエの窓より洩るゝこの小夜更(さよふ)けに

●うかれ男に我はあらねど小夜ふけてブルース聞けば心躍るも
〔同じく「踊り子の歌」七首目〕
◎浮かれ男に我はあらねど小夜ふけてブルウス聞けば心躍るも

以上から分かるように、これに限って見れば、敦の短歌は殆んど天然の形がそのまま決定稿に生きていることが分かる。また、彫琢部分も実に鋭い。歌人としての中島敦を我々は積極的に見直すべきであると私は感じている。]

煙のなかに動く幻影 大手拓次

 煙のなかに動く幻影

ひかりは おとをたて
みえない きこえない しはぶきをうみおとし、
みだれををさめる叢林(さうりん)のうちに羽ばたき、
鳥はひといろのかぎろひをそばだて
はるかに 現(うつつ)のかなたに なみだつ死をかざる。

鬼城句集 秋之部 秋の雲/霧/秋霞

秋の雲   秋雲や見上げて晴るゝ棚畑

霧     霧晴れてはてなく見ゆる泥田かな

      川霧や鐘打ちならす下り舟

秋霞    秋霞芋に耕す山畑



これをもって「天文」の部を終わる。

2013/09/19

「伊賀越道中双六」第一部冒頭「和田行家屋敷の段」の襖に書かれた漢詩について(参考資料)

 「伊賀越道中双六」第一部について、どうしも先に一つだけ申し上げておきたいことがある。
 最初の「和田行家屋敷の段」で襖に大きな字で五言律詩が書かれている。教師時代の哀しい性(さが)で、どうしてもそれを訓読しないと僕自身が承知しない。ところが最後の一句の訓読と意味がどうも自信がなく、それが気になって、この段、冒頭なのに、やや芝居に集中出来なかった嫌いがあった。解説書にも何にも書かれていない(私が編者なら詩の作者と題名ぐらいは解説するけどなあ。そもそもあの漢詩は原作者が舞台道具に指示したものなのか。それともそうでないのか――後の大道具の才覚なのか――も実は分からぬのである)。
 ざっと管見したところでは、劇評でこの詩を採り上げておられる方も見当たらない(見当たらないのが不思議な気がする。皆、あの漢詩の意味が分かったのか? 気になる人はいなかったのか? 僕はどうしても気になったのだ)。
 これから第一部を見ようというお方が、僕の様にならぬとも限らぬので一つ、以下にあの漢詩と評注を示しておこうと思う。
 あれは知られた「唐詩選」や「全唐詩」に所載する盛唐の詩人

高適(こうせき)

の五律

「送劉評事充朔方判官賦得征馬嘶」
 劉評事(りゅうひょうじ)が朔方(さくほう)の判官(はんがん)に充(あ)てらるるを送る 征馬嘶(せいばし)を賦(ふ)し得たり

である。遠い大学二年の時に読んでいるはずなのだが(底本の文庫には「1976.11.10」の読了クレジットが記してある)、最後の句の意味は結局、ついさっき、本書を開いてやっと分かったという体たらくであった。
 なお、訓読中の読みに限っては若い読者のために現代仮名遣で示した。語釈には岩波文庫一九六二年刊の前野直彬注解「唐詩選」を一部参考にしたが、自分の読みを大事にし、現代語訳は私の全くのオリジナルである。

 送劉評事充朔方判官賦得征馬嘶   高適

征馬向邊州
蕭蕭嘶不休
思深應帶別
聲斷爲兼秋
岐路風將遠
關山月共愁
贈君從此去
何日大刀頭

 劉評事が朔方の判官に充てらるるを送る 征馬嘶を賦し得たり   高適

征馬 邊州に向ひ
蕭蕭として嘶(いなな)きて休(や)まず
思ひの深きは 應(まさ)に別れを帶びたればなるべし
聲の斷ゆるは 秋を兼(か)ぬるが爲(ため)なり
岐路(きろ) 風と將(とも)に遠く
關山(かんざん) 月と共に愁ふ
君に贈る 此れより去らば
何れの日か 大刀頭(だいとうとう)

●語釈
・劉評事:不詳。官名の評事は地方の司法行政(特に刑獄に関わる事務)を巡察する「司直」の下官。
・朔方判官:「朔方」は現在の中華人民共和国内モンゴル自治区南部のオルドス市。黄河が北に大きく屈曲した地点の内側(南部分)に当るオルドス高原に位置する。「判官」はその朔方節度使の属官。
・征馬嘶:ここでは送別会の席での詩題。「征馬嘶」(旅行く馬が嘶く)の意。
・賦し得たり:宴会などで大勢が詩を作り合う際、古い詩文の一句や一字若しくは詩題を配当したり、引き当てたりすることを指している。この時は送別の宴席で高適が「征馬嘶」という詠題を与えられて作った送別の贈答詩であることを言っている。
・辺州:国境近くの州。朔方を指す。ここは長安からは険しい山岳を挟んで直線でも五〇〇キロメートル以上離れている。
・蕭蕭:馬の物悲しい嘶きの形容。
・不休:これは「全唐詩」の表記。「唐詩選」では、

 未休

とし、その場合は、

 蕭蕭として嘶きて未だ休(や)まず

と訓ずることになる。
・帶別:別離の深い哀調を帯びている。
・兼秋:陰暦七~八月の秋三月(みつき)の異称。ここの訓読は対句性を伝える古来のものに従ったが、私は自分が中国音で読めない以上、妙に調子を合わせた意味の取りづらい訓読をするくらいなら、いっそ、

 聲の斷ゆるは 兼秋(けんしゅう)たればなり

と訓ずればよいのに、と私は思うものである。
・岐路:追分。分かれ道。
・関山:関所のある山。「伊賀道中双六」の「竹藪の段」と関わってくる。
・大刀頭:これは漢詩にしばしば見られる音通による隠語で「還る」の意。古楽府にある「何當大刀頭、破鏡飛上天大刀」(何(いつ)か當(まさ)に大刀頭して、破鏡飛びて天に上るべき)に基づくもの。この「大刀頭」は、文字通り、大きな刀の柄頭(つかがしら)のことで、中国の場合はそこに環(わ)が附いている。その「環」を同音の「還」に掛けて言ったのである。「伊賀道中双六」では「正宗の太刀」が重要なアイテムとなり、また、「何時、帰ってくるのだろう」という言葉は準主役の青年剣士和田志津馬が、最後に美事父の敵討を果たして帰参することを暗示することにもなっているのだと私は思うのである。

■やぶちゃん現代語訳

 劉評事が朔方の判官に充てられることになって見送る その際に「征馬嘶(せいばし)」という詩題を得て詠んだ詩(うた)   高適

旅人を載せて行く馬は――辺境の地へと向かい――
ものさびしく響くその嘶(いなな)きは――一向に已(や)む気配がない……

その嘶きの思いが深いのは――まさに別離の憂愁に満ちているからに外ならず――
その嘶きの声が虚空に消えてゆくのは――まさに士の哀しむ秋だからに他ならぬ――

君を送るこの岐路(わかれみち)――風とともに遠い彼方へと君は去ってゆくのだ……
辺境の砦の山の上――そこにさし昇る月の光とともに私はこの別離を哀傷する……

君に贈ろう――「……ここから……君が去ってしまったら……
一体何時(いつ)、僕のもとへと……帰って来てくれるんだ?」と。……


【追記】同外題公演の完全劇評はこちら

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 3 旅つれづれ

 道路に添って立木に小枝の束が縛りつけてあるのを見ることがある。これは人々が集め、蓄え、そして、このようにして乾燥させる焚きつけなのである。

 

 ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醱酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸(ぼろ)のひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。一セントの十分一にあたる小銭は、このような場合最も便利である。ある店で六セント半の買物をして十セントの仮紙幣を出した所が、そのおつりが片手に余る程の、いろいろな大きさの銅貨であった。私は後日ここに来るヤンキーを保護するつもりで、貰ったおつりを非常に注意深く勘定する真似をしたが、あとで、そんなおつりを勘定するような面倒は、全く不必要であると聞いた。

[やぶちゃん注:「仮紙幣」原文は“a ten-cent scrip”。確かに“scrip” 緊急時に発行される臨時紙幣及び占領軍等が発行する軍票のことも言うが、ではここでモースが用いた十銭紙幣がそうした性質の仮の紙幣であったかというと、以下に見るようにそうではない。従ってこれは誤訳であると私は思う。そこで更に“scrip”を調べると、実はこれは以前にアメリカで発行されていた一ドル未満の紙幣の名称であり、そこから集合的ニュアンスで一ドル未満のお金の意を示す語としてもあることが分かった。ここはまさにモースは一ドル(=一円)以下のセント(=銭)の紙幣という意味で用いているのであるから、「仮紙幣」ではなく「紙幣」でよいのである。さてこの紙幣であるが、これは明治通宝と呼ばれる明治初期に発行された政府紙幣(不換紙幣)で、本邦初の西洋式印刷術による紙幣として著名なもので、当初はドイツのフランクフルトにあった民間工場で製造されたことから「ゲルマン札」の別名も持つ、「仮」ではない正式な紙幣である。以下、参照したウィキの「明治通宝」によれば(数字の半角を全角にし、記号の一部を省略した)、『戊辰戦争のため新政府は軍事費の出費の必要があり大量の紙幣が発行されていた。しかし紙幣といっても江戸時代の藩札の様式を踏襲した多種多様の雑多な紙幣、すなわち太政官札、府県札、民部省札、為替会社札など官民発行のものが流通しており、偽造紙幣も大量にあった。そのため近代国家のためにも共通通貨「円」の導入とともに近代的紙幣の導入が必要であった』。『当初日本政府はイギリスに新紙幣を発注する予定であったが、ドイツからドンドルフ・ナウマン社による「エルヘート凸版」による印刷の方が偽造防止に効果があるとの売込みがあった。そのうえ技術移転を日本にしてもいいとの条件もあったことから、日本政府は近代的印刷技術も獲得できることもあり1870年(明治3年)10月に9券種、額面5000万円分(後に5353万円分を追加発注)の発注を行った』。『翌年の1871年(明治4年)12月に発注していた紙幣が届き始めたが、この紙幣は安全対策のため未完成であった。そのため紙幣寮で「明治通宝」の文言や「大蔵卿」の印官印などを補って印刷し完成させた。なお当初は「明治通宝」の文字を100人が手書きで記入していたが、約1億円分、2億枚近くもあることから記入に年数がかかりすぎるとして木版印刷に変更され記入していた52000枚は廃棄処分された。明治通宝は1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた』。『しかし、流通が進むにつれて明治通宝に不便な事があることが判明した。まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったためか損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった』。『その後、当初の契約通り技術移転が行われ印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった』。『デザインは縦型で、鳳凰と龍をあしらったものであった。10銭券は1887年(明治20年)6月30日、それ以外の券も1899年(明治32年)12月31日をもって法的通用が禁止され廃止された』とあり、券種額面は百円・五十円・十円・五円・二円・一円・半円・二〇銭・一〇銭の九種類、一〇銭紙幣の寸法は87ミリ×53ミリメートルで、ドイツでの製造枚数は七千二百二万六千百四十三枚、後の国産製造分は五千四百六十二万千百三十七枚とある。外国人旅行者にエクスチェンジされたものであるから恐らく新しい国産の分であろう。サイト「MEIJI TAISHO 1868-1926: Showcase」の新紙幣(明治通宝)十銭札」で実物の画像(裏表)が見られる(これは明治五年発行とあるからドイツ製造分であろう。89×54とウィキの記載とはサイズが異なるのがやや気になるが、国内生産分では少し小さくなったのかも知れない)。]

 


M33
図―33

 

 午前八時十五分過ぎには十五マイルもきていた。我々の荷物全部――それには罐詰のスープ、食料品、英国製エール一ダース等も入っている――を積んだ人力車は、我々のはるか前方を走っていた。而も車夫は我々と略(ほぼ)同時に出立したのである。多くの人々の頭はむき出しで、中には藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類のムギわら帽子も見受けられた。水田に働く人達は、極めて広くて浅いムギわら帽子をかぶっていたが、遠くから見ると生きた菌(きのこ)みたいだった(図33)。

[やぶちゃん注:「十五マイル」約24キロメートル。浅草起点で現在の埼玉県越谷を過ぎた辺りである。

「英国製エール」原文“English ale”。上面発酵で醸造されるビールの一種。大麦麦芽を使用し、酵母を常温で短期間に発酵させたもの。殆んどのエールはホップを使用して苦味と香りを与え、麦芽の甘味とバランスを取る(上面醗酵は発酵中に酵母が浮き上がって層ができることに由来し、イギリス産や日本でも地ビールに多く、フルーティーな香りがある。我々の飲みなれたラガーは低温性酵母を使って六度~十五度の低温で発酵させて長期間熟成させた下面発酵である)。]

 

 目の見えぬ娘が.バンジョーの一種を弾きながら歌を唄ってゆっくりと町を歩くのをよく見たし、またある場所では一人の男がパンチ・エンド・ジュディ式の見世物をやっていた。片手に人形を持ち、その頭をポコンポコン動かしながら、彼は歌を唄うのであった。

[やぶちゃん注:瞽女(ごぜ)と傀儡師(くぐつ)である。

・「パンチ・エンド・ジュディ」原文“Punch and Judy”。石川氏は直下に『〔操り人形〕』と割注されている。ウィキの「パンチとジュディ」によれば、イギリスの人形芝居とそのキャラクターを指し(童謡「マザー・グース」の同題の一編をも指す)、起源は十四世紀のイタリアの伝統的な風刺劇「コメディア・デラルテ」(「パンチ」は、この劇がイギリスに伝わった際、劇に登場する道化師“Pulcinella”(プルチネッラ)が“Punchinello”と綴られ、それが後に“Punch”に縮められたもの)。人形劇「パンチとジュディ」のイギリス初演は一六六二年五月のロンドンのコヴェント・ガーデンで、十七世紀に活躍したイギリスの官僚サミュエル・ピープスの日記に記されているという。演者により多少ストーリーの変更はあるものの、基本はパンチが赤ん坊を放り投げ、ジュディを棍棒で殴り倒し、その後も犬や医者・警官や鰐などを殴り倒して、死刑執行人を逆に縛り首にし、最後に悪魔を殴り倒す、というプロットである。マザーグース好みの、残酷さを持ちながら、その荒唐無稽なドタバタ喜劇は現在でもイギリス国民の人気を集めており、夏の海岸やキャンプ場など人の多く集まる場所でよく演じられる他、毎年十月最初の日曜日には「パンチとジュディ・フェスティバル」がコヴェント・ガーデンで開かれている、とある。]

 

 艶々(つやつや)した鮮紅色の石榴(ざくろ)の花が、家を取りかこむ濃い緑の木立の間に咲いている所は、まことに美しい。

 

 街道を進んで行くと各種の家内経済がよく見える。織(おりもの)が大部盛に行われる。織機はその主要点に於て我国のと大差ないが、紡車(いとぐるま)を我々と逆に廻すところに反対に事をする一例がある。

 


M34
図―34

 

 路に接した農家は、裏からさし込む光線に、よく磨き込まれた板の間が光って見える程あけっぱなしである。靴のままグランド・ピアノに乗っかる人が無いと同様、このような板の間に泥靴を踏みこむ人間はいまい。家屋の開放的であるのを見ると、常に新鮮な空気が出入していることを了解せざるを得ない。燕は、恰度我国で納屋に巣をかけるように、家のなかに巣を営む(図34)。家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の真下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。蠅はすこししかいない。これは馬がすくないからであろう。家蠅は馬肥で繁殖するものである。

[やぶちゃん注:「馬肥」は「うまこえ」と読み、馬糞である。原文“the manure”は広く肥料・有機質肥料の謂いであるが、後者にあっては特に動物の排泄物を指す。]

 


M35
図―35

 

 床を洗うのに女は膝をついて、両手でこするようなことをしないで、立った儘手を床につけ、歩きながら雑巾を前後させる(図35)。こんな真似をすれば我々の多くは背骨を折って了うにきまっているが、日本人の背骨は子供の時から丈夫になるように育てられている。

 


M36

図―36

 

 窓硝子の破片を利用して、半音楽的なものが出来ているのは面白かった。このような破片のいくつかを、風が吹くと触れ合う程度に近くつるすと、チリンチリンと気持のいい音を立てるのである(図36)。

 

 我々が通過した村は、いずれも小さな店舗がならぶ、主要街を持っていた。どの店にしても、我々が立ち止ると、煙草に火をつける為の灰に埋めた炭火を入れた箱が差し出され、続いて小さな茶碗をいくつかのせたお盆が出る。時として菓子、又は碌に味のしないような煎餅若干が提供された。私は段々この茶に馴れて来るが、中々気持のよいものである。それはきまって非常に薄く、熱く、そして牛乳も砂糖も入れずに飲む。日本では身分の上下にかかわらず、一日中ちょいちょいお茶を飲む。

M37

図―37

 この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々がおそろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででも我々が立ち止ると同時に、老若男女が我々を取り巻いて、何をするのかとばかり目を見張る。そして、私が小さな子どもの方を向いて動きかけると、子どもは気が違ったように泣き叫びながら逃げて行く。馬車で走っている間に、私はいく度か笑いながら後を追ってくる子供達を早く追いついて踏段に乗れとさしまねいたが、彼等は即時(すぐ)真面目(まじめ)になり、近くにいる大人に相談するようなまななざしを向ける。遂に私は、これは彼等が私の身振りを了解しないのに違いないと思ったので、有田氏(一緒にきた日本人)に聞くと、このような場合には、手の甲を上に指を数回素早く下に曲げるのだということであった。そのつぎに一群の子供達の間を通った時、私は教わった通りの手つきをやって見た。すると彼等はすぐにニコニコして、馬車を追って馳け出した。そこで私は手真似足真似で何人かを踏み段に乗らせることが出来た。子どもたちが木の下駄をはいているにもかかわらず――おまけに多くは赤坊を背中にしょわされている――敏捷に動き廻るのは驚く可き程である。上の図(図37)は柔かい紐が赤妨の背中をめぐり、両腋と足の膝の所を通って、女の子の胸で結ばれて有様を示している。子供はどこにでもて、間断ない興味の源になる。だがみっともない子が多い。この国には加答児(カタル)にかかっている子供が多いからである。

[やぶちゃん注:「有田氏」不詳。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」は同行者はマレーの名しか載せない(同書の人名索引にも有田姓はない)。英語を解せる人間でなくてはならないから、冒頭にある「文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる」とある人物かとも思われる。

「加答児(カタル)」原文“catarrh”。病理学ではカタル(日本語のそれはオランダ語の“catarrhe”及びドイツ語の“Katarrh”由来)は滲出性の粘膜炎症疾患で、粘液分泌が盛ん起こり、上皮剥離や充血を病態として示すものを広く指すが、“catarrh”が俗語で「洟(はなみず)」のことをも指すように、ここは鼻炎のことである。懐かしい水っ洟の子供らの映像である(なお、カタルの語源はギリシャ語の、“kata-”(下へ)+“rhen”(流れる)+形容詞語尾“-ous”=“katrrous”(浸出性炎症)がラテン語化したもの)。]

 

 日本を旅行する、先ずどこにでも子供がいることに気がつくが、次に気がつくのは、いたる所に竹が使用してあることである。東屋(あずまや)の桷(たるき)、縁側の手摺、笊、花生け、雨樋から撥釣瓶(はねつるべ)にいたる迄、いずれも竹で出来ている。家内ではある種の工作物を形づくり、台所ではある種の器具となる。また竹は一般に我国に於る唾壺(だこ)の代用として使用されるが、それは短く切った竹の一節を火壺と一緒に箱に入れた物で、人は慎み深く頭を横に向けてこれを使用し、通常一日使う丈で棄てて了う。

[やぶちゃん注:「唾壺(だこ)」原文“cuspidor”。米語で「痰壺」のこと。あちらでは灰皿にも用いると辞書にはある。駅に痰壺があるのを日常的に見知っている世代は私ぐらいまでか。]

 

 田舎を旅しているとすぐ気がつくが、雌鶏の群というものが見あたらぬ。雌鶏と雄鶏とがたった二羽でさまよい歩く――もっともたいていはひっくり返した笊の内に入っているが――だけである。鶏の種類は二つに限られているらしい。一つは立派な、脚の長い、距(けづめ)の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏で、もう一つは莫迦げて大きな鶏冠(とさか)と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏である。

[やぶちゃん注:「立派な、脚の長い、距の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏」ニワトリの品種の一つであるオナガドリ(尾長鳥・尾長鶏)。♂の尾羽が極端に長くなるのが特徴。高知県原産で現在は日本の特別天然記念物に指定されている。明治時代に外国にも輸出されて世界的にも“yokohama”(輸出された横浜港に由来)として知られる(ウィキの「オナガドリ」に拠る)。

「莫迦げて大きな鶏冠と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏」所謂、日本在来種である地鶏。現在の「地鶏」の規定は日本農林規格(JAS)によれば、在来種由来の血液百分率が五〇%以上の国産銘柄鶏の総称だそうである(ウィキの「地鶏」に拠る)。鶏が東南アジアで家畜化されたのは古墳時代の少し前と考えられているが、その後、明治維新までの千数百年間、西欧からの外来種の交配を受けずに成立したものを特に日本鶏と呼称し、実際にはモースの言う二種ではなく、現在は十七種が天然記念物に指定されている(こ詳細はこの部分で参照した中央畜産会公式サイト内「畜産ZOO鑑」の「日本鶏」へ)。]

 

 歩いて廻る床屋が、往来に、真鍮張りの珍しい箱を据えて仕事をしている。床星はたいていは大人だが(女もいる)どうかすると若い男の子みたいなのもいる。顔はどこからどこ迄剃って了う。婦人でさえ、鼻、顔、その他顔面の表面を全部剃らせる。田舎を旅行していると、このような旅廻りの床屋がある程度まで原因となっている眼病の流行に気がつく――白内障、焮衝(きんしょう)を起した眼瞼、めっかち、盲人等はその例である。

[やぶちゃん注:「珍しい箱」既に電子化した「第七章 江ノ島に於る採集」の理髪業の携帯道具入の図183を参照されたい。

「白内障、焮衝(きんしょう)を起した眼瞼(まぶた)、めっかち、盲人等はその例である。」原文は“cataract, inflamed eyelids, and loss of one eye are seen as well as many blind people.”である。「焮衝」は身体の一局部が赤く腫脹し、熱をもって痛むこと、炎症の謂いである。英語の“inflamed eyelids”というのは確かに「炎症起こした瞼」の謂いであるが、これは所謂、ものもらいのような症状を指すことになる。確かにそれでも納得出来るが、私はこの時期の日本人に蔓延していた眼病としては結膜炎(conjunctivitis)やトラコーマ(trachoma)が自然であり、それをモースはかく表現(但し、「充血した目」は一般的には英語で“inflamed eyes”である。しかし、これらの眼疾患は悪化すれば当然の如く瞼も腫れぼったくなる。特にトラコーマでは重症化すると上眼瞼が肥厚し、遂には角膜潰瘍を引き起こし、そこに重感染が生ずると失明に至ることもある)したものではなかったかと思う。大方の御批判を俟つ。なお、このモースの原因説は床屋への冤罪であるように思われる。確かに細菌性結膜炎やウイルス性結膜炎、クラミジア・トラコマチス(Chlamydia trachomatis)を病原体とするトラコーマのその感染源としてはあり得ないことはないが、それらに加えて不可逆的な病変や失明の主因の一つを、かくも糾弾するのは、私には科学者らしからぬ暴挙としか思えないのであるが、如何?]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ティボオを聴く 三首 中島敦 / 中島敦歌稿 了

      ティボオを聽く

 

カデンツァの纖(ほそ)き美しさ聞きゐればジャック・ティボオは佛蘭西の人

 

心にくき典雅さなれやモツァルトもティボオが彈けばラテンめきたり

 

喝采に應(こた)へてはゐれどティボオの顏やゝに雲れり鬚押へつゝ

 

[やぶちゃん注:敦の昭和一一(一九三六)年の手帳に、

 

五月二十九日(金) Jacques ThibaudSymphonie Espagnole

 

と記されている。下線はママ。先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、『五月二十六、二十九、三十日、六月一、二日と五囘の公演のうちの第二夜で、演奏の曲目は Veracini;Sonate, Mozart;Sonate la majeur, Lalo;Symphonie Espagnle, Chausson;Poè,Saint-Saëns;Rondo Capricioso の五曲であつた。ラロの「スペイン交響曲」はピアノの伴奏によつたものらしい』とある。
 以上、見て来たように、この年は二月六日のシャリアピン、(この間、三月二十三~二十八日の小笠原旅行、四月二十五日に三度目の母の死去があった)四月十五日にケンプ、同二十一日にゴールドベルクとクラウスのデュオ、五月十二日には二回目のケンプ、そしてその十七日後にこのティボーの公演に足繁く出向いている。その後、八月八~三十一日には中国旅行を敢行、その旅行中に「朱塔」歌群を完成させ、しかも現存する原稿に記入されている日附によれば十一月十日には「狼疾記」を、年も押し迫った十二月二十六日には「かめれおん日記」を脱稿しているのである。中島敦満二十七歳、この年は彼にとってすこぶる濃密な年であったことがこれらの事実から窺われるのである。(……私は私の二十七当時を今思い出して、その哀しいまでの精神的な貧しさと飲んだくれの日々に、身の凍る思いがしたことを告白しておく……)

「ティボオ」ジャック・ティボー(Jacques Thibaud 一八八〇年~一九五三年)はフランス出身のヴァイオリニストでクライスラーと並び称された。ボルドー市の音楽教師の息子として生まれ、八歳でリサイタル、十三歳からパリ音楽院に学び、一八九六年に首席で卒業、コロンヌ管弦楽団に招かれ、以後たびたび独奏者として活躍して名声を高める。一九〇五年アルフレッド・コルトー・パブロ・カザルスとともにカザルス三重奏団を結成した。大正一二(一九二三)年初来日、昭和一一(一九三六)年に二度目の来日を果たし、この折り、日本ビクター東京吹込所で録音を行ったほか、JOAK放送局からラジオ放送の生演奏を行った。敦の本歌群はこの時の公演である(前注参照)。第二次世界大戦中はフランスに留まって、ドイツでの演奏を拒否した。昭和二八(一九五三)年、三度目の来日途中、乗っていたエール・フランスのロッキード・コンステレーションがニースへのファイナル・アプローチの最中に、バルスロネット近郊のアルプス山脈に衝突、逝去した。彼が愛用していた一七二〇年製ストラディヴァリウスはこの事故で失われた(以上はウィキの「ジャック・ティボー」に拠った)。この最後の歌でティボーの表情に浮ぶ曇りは何だったのだろう。……この時、既にドイツではナチスが政権を掌握し、この年に日本は日独防共協定を締結している。……

「カデンツァ」“cadenza”(イタリア語)は楽曲の終結部で独唱者又は独奏者の演奏技巧を発揮させるために挿入される華美な装飾的楽句をいう音楽用語。]



以上を以って筑摩書房版全集第二巻所収の「歌稿」パートの全電子化と注釈を終えたが、同全集の第三巻に所収する「手帳」の中には多くの歌稿を見出すことが出来る。その拾い出しをここで続けて行おうと考えている。また、今回の注で示した昭和十一年の手帳も、後半に小笠原での興味深い有意な分量のメモが含まれており、この手帳の電子化も是非行いたいと考えている。

柳散り淸水かれ石ところところ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   柳散り淸水かれ石ところところ

 秋の日の力なく散らばつてゐる、野外の侘しい風物である。蕪村はこうした郊外野望に、特殊のうら悲しい情緒を感じ、多くの好い句を作つて居る。風景の中に縹渺する、彼のノスタルヂアの愁思であらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」の掉尾。]

癡愚 大手拓次

 癡愚

さけびのなかにいろどられ
ほのほを銀のうぶげのやうにはやす
わびしれた くせものよ、
のろひは つきのひかりをよぢて
ぎざぎざに 幕をおとす。

鬼城句集 夏之部 天の川/稲光/稲妻

天の川   小舟して湖心に出でぬ天の川

 

稻光    稻光しつゝ晴れたる三十日かな

 

      草庵や隈なく見えて稻光

 

      稻光芋泥坊の二人ゐぬ

 

      稻光低くさがりてふけにけり

 

      稻光雲の中なる淸水寺

 

稻妻    稻妻の射こんで消えぬ草の中

本日 旧暦 十五夜 月の出 17:22

東京

月の出  17:22
南中時  23:36
月の入   4:53

国立天文台情報センターによる)

2013/09/18

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ズィムバリストを聴きしこと 三首 中島敦

    ズィムバリストを聽きしこと

 

帝劇の三階にしてこの人のアヴェ・マリア聞きぬ十年(ととせ)前のこと

 

其の夜われ切符は買ひしが金(かな)なくて夕食(ゆふげ)たうべずひもじかりしよ

 

アンダンテ・カンタビレの音(ね)しみじみとすき腹にこたへ今も忘れず

 

[やぶちゃん注:「ズィムバリスト」はロシア人ヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist ロシア語名エフレム・アレクサンドロヴィチ・アロノヴィチ・ツィンバリスト Ефре́м Алекса́ндрович Аро́нович Цимбали́ст 一八八九年~一九八五年)。指揮者や作編曲も手掛けた。ロシアのロストフ・ナ・ドヌにてユダヤ系音楽家の家庭に生まれ、指揮者であった父親の楽団で八歳になるまでにヴァイオリンを弾き始めた。十二歳でペテルブルク音楽院に入学、卒業後はベルリンでブラームスの協奏曲を弾いてデビュー、一九〇七年にはロンドンで、一九一一年にはボストン交響楽団と共演してアメリカ合衆国でもデビューし、その後はアメリカに定住した。大正一一(一九二二)年初来日して以降、四度に亙って来日している。参照したウィキエフレム・ジンバリストには、『古い時代の音楽の演奏によって、大いに人気を博した』とある。

 他のサイトの情報で彼の二度目以降の来日は大正一三(一九二四)年・昭和五(一九三〇)年秋・昭和七(一九三二)・昭和一〇(一九三五)年であることが分かった。一首目で「十年前のこと」とあり、本歌群の完成が昭和一二(一九三七)年であること(有意に八年前の昭和五年の方が自然である)、大正一三年(敦満十五歳)には朝鮮の京城にいたことから、昭和五年の来日公演の嘱目吟と推定する。貧窮の中で公演を聴きに行っている状況は、まさに敦のシュトルム・ウント・ドランクとも言うべきこの、東京帝国大学一年生満二十一歳であった昭和五年の秋の可能性がすこぶる高いように思うからである(昭和七年満二十四歳では六年前で「十年前」とドンブリで言うには無理があることと、この時期の敦が三月にたかと結婚、秋に朝日新聞社の入社試験を受験するも身体検査で不合格になったりと責任ある家庭人社会人の面影が強く、本歌の飢えた青年のイメージとはそぐわないと感じるからでもある)。

 なお、この昭和五年秋の来日の際、満十歳の一人の少女がジンバリストに面会し、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏してジンバリストを驚嘆させ、メディアは挙ってこの天才ヴァイオリン少女を喧伝したが、この少女こそ昨年亡くなられたヴァーチュオーソ諏訪根自子さんである。

 三首目に詠まれたチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番ニ長調作品十一の第二楽章「アンダンテ・カンタービレ」(Andante cantabile)はジンバリストの得意としたものらしく、SP音源で本邦で録音されたものが残っている。この冒頭の旋律は私の物心ついた頃からの子守唄であった懐かしい曲である。

 最後に〆の注。往年の人気テレビドラマ「サンセット77」の主役の探偵スチュアート・ベイリー役や、同じく私もよく見たドラマ「FBI」の主役ルイス・アースキン捜査官役のエフレム・ジンバリスト・ジュニアという甘いマスクの男優は彼の息子である。]

謎のやうな 大手拓次

 謎のやうな

おほきな謎のやうなひかりをもつて、
おまへは このしづかなまよなかに
まへぶれもなしに わたしの身のなやみのなかへはひつてきた。
謎のやうなひかりをもつて
いんうつな鶺鴒(せきれい)のやうに
わたしのほとりへ あるいてきた。

鬼城句集 秋之部 立待月/待宵 ――今日から毎日月を見ようと思う……

立待月   立待月かはほり飛ばずなりにけり

[やぶちゃん注:この「かはほり」、蝙蝠は昔は「あぶらむし」と呼ばれた、本邦では最も一般的なコウモリである哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus であろう。彼等コウモリ類は無論、夜行性ではあるが、必ずしも一晩中活動し続ける訳ではなく、実際に観察してみると分るが、だいたい日没後の二時間ぐらいに最も活発に飛翔する。「立待月」は旧暦十七日の月、狭義には陰暦八月十七日の月及び月の出を指すので、試みに今年二〇一三年の陰暦八月十七日相当を調べると新暦二〇一三年ではブログでのこの項の公開である今朝九月十八日から四日後の九月二十一日で、月の出は神奈川県横浜で18:35である(私の御用達サイトページ」による)。]

 

待宵    待宵やすゝきかざして友來る

 

      待宵や土間に見えたる芋の莖

 

      待宵としもなく瓦燒くけむり

 

[やぶちゃん注:「待宵」は「まつよひ(まつよい)」で、翌日の十五夜の月を待つ宵の意から陰暦八月十四日の夜の月、月の出、小望月(こもちづき)のことで、前と同様にページ」で計算してみると、偶然であるがこの項の公開である今日九月十八日が陰暦八月十四日に相当し、月の出は16:45である。]

2013/09/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 2 田舎の寺子屋・鳥居


M31


図―31

 

 我々は水田の間を何マイルも何マイルも走ったが、ここで私は水車が潅漑用の踏み車として使用されているのを見た。図31は例の天秤棒で水車と箱とを運んで路を歩いて来る人を示している。同じスケッチで、一人の男が車を踏んで水を溝から水田にあげつつある。先ず箱を土手に入れ、車を適宜な凹に落し込むと、車の両側の泥に長い竿を立てる。人はこの竿につかまって身体の平衝を保ちながら、両足で車をまわすのである。

[やぶちゃん注:私はこの絵を見るまで、水揚げ水車は常時設置されていたものと勘違いしていた。考えて見れば納得の一齣である。]

 


M32


図―32

 

 我々が通った道路は平でもあり、まっすぐでもあって、ニューイングランドの田舎で見受けるものよりも、遙かによかった。農家は小ざっぱりと、趣深く建てられ、そして大きな葺(ふ)いた屋根があるので絵画的であった。時々お寺や社を見た。これ等にはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大な萱(かや)葺屋根をもつ大きな堂々とした建築物に至るあらゆる階級があった。これらの建築物は、あたかもヨーロッパの寺院(カセードラル)がその周囲の住宅を圧して立つように、一般市民の住む低い家々に蔽いかぶさっている。面白いことに日本の神社仏閣は、例えば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかいうような、最も絵画的な場所に建っている。聞く処によると、政府が補助するのをやめたので空家になったお寺が沢山あるそうである。我々は学校として使用されている寺社をいくつか見うけた(図32)。かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行なわれている最中に、我々は段々の近くを歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。そのお寺は大きな木の柱によって支持され、まるで明け放したパヴィリオンといった形なのだから、前からでも後からでも素通しに見ることが出来る。片方の側の生徒達は我々に面していたので、中にはそこに立ってジロジロ眺める我々に、いたずららしく微笑(ほほえ)むものもあったが、ある級は背中を向けていた。見ると支柱に乗った大きな黒板に漢字若干、その横には我々が使用する算用数字が書いてある。先生が日本語の本から何か読み上げると、生徒達は最も奇態な、そして騒々しい、単調な唸り声で、彼の読んだ通り繰り返す。広い石の段々の下や、また段の上には下駄や草履が、生徒達が学校へ入る時脱いだままの形で、長い列をなして、並んでいた。私は、もしいたずらっ児がこれらの履き物をゴチャまぜにしたら、どんな騒ぎが起こるだろうかと考えざるをえなかったが、幸にして日本の子供たちは、嬉戯にみちていはするものの、もの優しく育てられている。我国の――男の子は男の子なんだから――という言葉――わが国にとって最大の脅威たるゴロツキ性乱暴の弁護――は日本では耳にすることが決してない。

[やぶちゃん注:「政府が補助するのをやめた」明治維新後に成立した新政府が慶応四年三月十三日(グレゴリオ暦一八六八年四月五日)に発した太政官布告(通称で神仏分離令・神仏判然令)及びその後の明治三年一月三日(同一八七〇年二月三日)に出された大教宣布の詔書などの政策を指し、それと同時に吹き荒れたおぞましき廃仏毀釈の影響である。

「パヴィリオン」直下に石川氏は『〔亭(ちん)〕』と割注なさっている。

「男の子は男の子なんだから」原文は“boys will be boys”。「若い男には若い男の特性がある」という諺。人間の生得特性を許容する謂い。男の子は乱暴なもの、若者は常に腹をすかせ、とかく羽目を外したがるといった意味で、同様の表現としては“God's lambs will play.

(神の子羊たちは戯れるもの。)、“Young colts will canter.”(子馬は駆けるもの。)、“A growing youth has a wolf in his belly.”(育ち盛りの若者の胃袋の中には狼がいる)、“Youth must have its fling.”(若者は羽目を外さないと承知しない)といったものがある(安藤邦男「英語ことわざ教訓事典」に拠った)。]

 

 所で、これ等各種のお社への入口は“tori-i”と称する不思議な門口、換言すれば枠形(フレーム)(門(ゲート)はないからこう云うのだが)で標示されている。この名は「鳥の休息所」を意味するのだそうである。これが路傍に立っているのを見たら、何等かのお社が、あるいは林のはるか奥深くであるにしても、立っているのだと知るべきである。この趣向はもと神道の信仰に属したものであって何等の粉飾をほどこさぬ、時としては非常に大きな、白木でつくられたのであった。支那から輸入された仏教はこの鳥居を採用した。外国人が措いた鳥居の形や絵には間違ったものが多い。日本の建築書には鳥居のある種の釣合が図表で示してある。一例をあげると上の横木の末端がなす角度は縦の柱の底部と一定の関係を持っておらねばならないので、この角度を示すために点線が引いてある。鳥居には石造のもよくある。これ等は垂直部もまた上方の水平部も一本石で出来ている。肥前の国には大きな磁器の鳥居もある。

[やぶちゃん注:「肥前の国には大きな磁器の鳥居もある」私は見たことがないが、佐賀県西松浦郡有田町大樽に鎮座する八幡宮、陶山(すえやま)神社に奉納された有田焼の鳥居を指すか(社名は俗に「とうざん」とも音読される)。但し、今ある国の登録有形文化財となっている当神社の巨大な磁器製鳥居は明治二一(一八八八)年竣工のものであり、この時にはない(その磁器製鳥居は、おにぎり太郎氏のブログ「九州大図鑑」の陶山神社の磁器製鳥居で見られる)。同神社が江戸時代に当時の有田の統治と有田焼及び陶工に関する管理を行っていた鍋島藩の皿山代官所(肥前有田皿山は地名)の指示により造営されたと伝わり、有田焼陶祖の神として陶工たちの崇敬を集めていたことから(ここまでウィキ神社(有田町)を参考にした)、恐らく現在のものよりももっと小振りながら、既に陶器で出来た鳥居が存在していたとは想像出来る。識者の御教授を乞いたい。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(9)

  游江島   松延年
妙音祠廟倚丹丘。
相海登臨萬里秋。
多少瑤臺連蜃氣。
參差琪樹挿鼈頭。
日升雲霧披三島。
天濶波濤織十洲。
御得長風從此去。
神仙何處不同遊。

[やぶちゃん注:松延年(まつのぶ とし)は水戸藩侍医。藤田東湖(文化三(一八〇六)年~安政二(一八五五)年)と親交があったらしい。弘道館入口にある「尊攘」の掛軸は彼の筆だそうである。以下の訓読、最後の二句は訓読も怪しく、意味もよく分からない。識者の御教授を乞う。

  江の島に游ぶ   松延 年
妙音の祠廟 丹丘に倚り
相ひ海して登臨す 萬里の秋
多少の瑤臺(やうだい) 蜃氣に連なり
參差(しんし)の琪樹(きじゆ) 鼈頭(べつたう)に挿す
日升(のぼ)りて 雲霧 三島を披き
天濶(ひろ)くして 波濤十洲を織る
得長風を御(ぎよ)し 此(ここ)より去って
神仙 何處(いづく)にかある 不同の遊

「丹丘」中国で仙人が住むとされる場所。ここは江の島を譬えた。
「登臨」高い所に登って下方を眺めること。
「瑤臺」玉で飾った美しい御殿。玉の台(うてな)。玉楼。
「参差」長短不揃いで入り交じるさま。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 1 イントロダクション

 第二章 日光への旅

 日光への旅行――宇都宮までの六十六マイルを駅馬車で、それから更に三十マイル近くを人力車で行くという旅――は、私に田舎に関する最初の経験を与えた。我々は朝の四時に東京を立って駅馬車の出る場所まで三マイル人力車を走らせた。こんなに早く、天の如く静かな大都会を横切ることは、まことに奇妙なものであった。駅馬車の乗場で、我々は行を同じくする友人達と顔を合わせた。文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる外に、日本人が二人、我々のために料理や、荷ごしらえや、荷を担ったり、その他の雑用をするために同行した。我々の乗った駅馬車というのは、運送会社が団体客を海岸へ運ぶ為に、臨時に仕立てる小さな荷馬車に酷似して、腰掛が両側にあり、膝と膝とがゴツンゴツンぶつかる――といったようなものであった。然し道路は平坦で、二頭の馬――八マイルか十マイル位で馬を代える――は、いい勢で走り続けた。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に(同書七九頁)、『モースは文部学監マレーに誘われ、六月二十九日に東京を出発して日光に向った。浅草から宇都宮までは数箇月前に開通したばかりの馬車、ついで日光までは人力車。東照宮を拝観したのち、中禅寺湖、男体山、湯ノ湖などを回って、貝や昆虫を採集したり、湖や温泉の温度を測定したりした。七月七日に日光鉢石を発ち、野渡(現栃木県野木町)まで人力車、それから利根川を小舟でくだり、翌七月八日に帰京した』とあり、更に、『当時外国人が遊歩地域(居留地より一〇里以内)外に旅行するときには旅行免状が不可欠で、御雇い教師などは旅行後に文部省から太政大臣』(当時は三条実美。彼は日本歴史最後の太政大臣でこの後、太政官制は廃止されて内閣制度が発足、明治一八(一八八五)年十二月二十二日を以って一二〇〇年以上に亙った太政大臣の官職は消滅、三条は内大臣に転じている)『への届け出も必要だった。このときの文部省届は明治十年七月十四日付で出されている』とあって、その届け出(「太政類典」二編八一巻より)が以下に記されてある。雰囲気を味わうために正字に直して以下に掲げておく。

文部省雇學監米人ドクトル、ダビット、モルレー氏儀理學研究ノ爲、奧州街道宇都宮ヲ經テ日光及ビ下野國足尾近邊ノ銅山ニ到リ、尚例幣使街道通リ壬生ニ到リ、夫(ソレ)ヨリ歸京致度旨申出候ニ付、外務省ヘ照會旅行免状付與候處、六月二十九日發程本月八日歸着到候。此段上申候也

なお、磯野先生はこの後に『足尾には行った気配がない』と記されておられ、本書にもそれらしい記載はない。ともかくも、この僅か十日間(移動に時間がかかっているから実質は八日程度)の旅がモースに強烈な印象を与えたことは、本書がこの旅を本章と次の「第三章 日光の諸寺院と山の村落」丸々の二章プラス「第四章 ふたたび東京へ」の前半分まで費やして書かれていることからも明白である。では、我々もモース先生とともに136年前の日光の旅に赴くこととしよう。
「六十六マイル」約106キロメートル。前注した出発地浅草(現在の東武伊勢崎線浅草駅とした)から宇都宮の日光街道が直角に西に曲る追分、宇都宮宿で最も栄えた町の一つである伝馬町までの直線距離は94・8キロメートルであるが、現在の国道4号に沿って計測してみるとズバリ、106キロメートル近くになる。これは地図上の単純な直線距離でなく、走行距離で算出されたものであることが分かる。
「三十マイル」約48・3キロメートル。現在の宇都宮市伝馬町から日光街道を辿ってみると、約40キロ弱であるが、高度があるから範囲内である。
「三マイル」約4・8キロメートル。新橋から浅草までの最短コースにぴったり一致する。
「八マイルか十マイル位」13~16キロメートル。ネット上の記載を見ると、実用馬の場合は無負荷の並足で20~40キロ程度の走行が可能、馬車の場合は時速10キロ程の速度で40キロ(4時間)の連続走行で馬を交換して、一日90キロ程走行していたようであるという記載を見つけた。ここでは相応に複数の乗客を乗せる二頭立ての大型の馬車(モースが比較で言っているのは横浜港で団体の船客を居留地と船着き場間を移動させるために仕立てられた特殊な馬車のように思われる)と思われ、しかも初夏であるから、馬の交換が早いのは納得出来るように私には思われる。なお、後に日光街道には千住から馬車鉄道が敷設されるが、それは明治二二(一八八九)年のことである。]

 朝の六時頃、ある町を通過したが、その町の一通りには籠や浅い箱に入れた売物の野菜、魚類、果実等を持った人々が何百人となく集っていた。野天の市場なのである。この群衆の中を行く時、御者は小さな喇叭(ラッパ)を調子高く吹き鳴らし、先に立って走る馬丁は奇怪きわまる叫び声をあげた。この時ばかりでなく、徒歩の人なり人力事に乗った人なりが道路の前方に現われると、御者と馬丁とはまるで馬車が急行列車の速度で走っていて、そしてすべての人が聾(つんぼ)で盲ででもあるかのように、叫んだり、怒鳴ったりするのである。我々にはこの景気のいい大騒ぎの原因が判らなかったが、ドクタア・マレーの説明によると、駅馬車がこの街道を通るようになったのはここ数ヶ月前のことで、従って大いに物珍しいのだとのことであった。

 この市場の町を過ぎてから、我々は重い荷を天秤棒にかけて、ヨチヨチ歩いている人を何人か見た。大した荷である。私は幾度かこれをやって見て失敗した。荷を地面から持ち上げることすら出来ない。しかるにこの人々は天秤棒をかついで何マイルという遠方にまで行くのである。また一〇マイルも離れている東京まで歩いて買物に行く若い娘を数名見た。六時半というのに、子供はもう学校へと路を急いでいる。時々あたり前の日本服を着ながら、アメリカ風の帽子をかぶっている日本人に出喰わした。薄い木綿の股引きだけしか身につけていない人も五、六人見た。然し足になにもはかない人も多いので、これは別に変には思われなかった。
[やぶちゃん注:「一〇マイル」約16キロメートル。浅草起点で16キロ地点は埼玉県草加市の北当りに相当する。]

「通し狂言 伊賀越道中双六」劇評について(予告)

今回の15年ぶりの通し狂言――従って次回見られるのも十数年後である可能性が高い。この後、大阪公演もあるので、可能なら今回見ておくことを強くお勧めする――「伊賀越道中双六」の劇評は来週、第二部を見た後に書こうと思うが一言――僕は多分、昨日、初めて文楽で泣いた。――

【2013年9月19日追記】一つだけ申し述べておきたいことを追記した。

「伊賀越道中双六」第一部冒頭「和田行家屋敷の段」の襖に書かれた漢詩について(参考資料)

検索で同外題の検索で来られた方は、是非、お読みくださると幸いである。

三徑の十歩に盡きて蓼の花 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   三徑の十歩に盡きて蓼の花

 十歩に足らぬ庭先の小園ながら、小徑には秋草が生え茂り、籬(まがき)に近く隅々には、白い蓼の花が侘しく咲いてる。貧しい生活の中に居て、靜かにぢつと凝視(みつ)めてゐる心の影。それが即ち「侘び」なのである。この同じ「侘び」は芭蕉にもあり、その蕉門の俳句にもある。しかしながら蕪村の場合は、侘びが生活の中から泌み出し、葱の煮える臭ひのように、人里戀しい情緒の中に浸み出して居る。尚この「侘び」について、卷尾に詳しく説くであらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。「三徑」は三逕とも書き、中国漢代の蒋詡(しょうく)が、幽居の庭に三筋の径(こみち)を作って松・菊・竹を植えた故事に基づく、庭に設けた三本の小道。転じて隠者の庭園や住居を指す。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ケムプを聴く 七首 中島敦

    ケムプを聽く

 

大いなる翼ひろげしピアノの前ケムプしづかに心澄ましゐる

 

      新響とのコンチェルトなりければ

 

管絃樂(オーケストラ)今か終らむ第一指を下(おろ)さんとするゆゝしき構へ

 

まなこ閉ぢべートーベンを彈(たん)じゐるケムプの額(ひたひ)白くして廣き

 

いく年(とせ)を專(もは)ら彈けばかその顏もべートーベンに似たりけらずや

 

フォルティスィモ ケムプ朱を灑(そそ)ぎ髮亂れ腕打ちふりて半ば立たむとす

 

      Mozart Klavier Konzert, D minor

 

若き日のモツァルトの夢華やかに珠玉(たま)相觸れてロマンツァに入る

 

オーボエとヴィオラの間(ひま)を隱れ縫ひピアノ琳々(りんりん)と鳴りの高しも

 

[やぶちゃん注:「ケムプ」ドイツのピアニスト・オルガニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff 一八九五年~一九九一年)。ベルリン音楽大学でピアノと作曲を学び(彼は作曲家を自身の本来の仕事と考えていた)、さらにベルリン大学で哲学と音楽史を修めた。一九一七年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、一九一八年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番で協演、シュトゥットガルト音楽大学学長を務めた後(一九二四年~一九二九年)、一九三二年、ベルリンのプロイセン芸術協会正会員となってドイツ楽壇の中心的役割を担うようになったが、第二次世界大戦中のナチス協力の経歴から戦後は一時期、活動を自粛したが、再活動後は特にベートーヴェンの演奏録音で知られる。同時代の音楽家アルフレート・ブレンデルやフルトヴェングラーはケンプを非常に高く評価しているが、ドイツ本国でよりも日本に於いての賞讃が格段に高い(かくいう私もファンである)。彼自身、親日家で昭和一一(一九三六)年のドイツ文化使節として初来日して以来、来日は十回に及んだ。バッハ「目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ」のケンプによるピアノ編曲版はよく知られている(私の偏愛する曲である。以上の事蹟は一部ウィキヴィルヘルム・ケンプを参考にした)。敦の昭和十一年の手帳を見ると、

 

四月十五日(水) W. Kempff,Beethoven’s Concerto 3. 5.

 

という記載と(この間、次の項の「四月二十一日(火)」には『Goldberg, KlausBeethoven’s Sonata 4,5,2,10』とあり、ベートーヴェンへの敦の傾倒ぶりが分かる。因みにこれはヴァイオリニストのシモン・ゴールドベルクとピアニストのリリー・クラウスのデュオである)、

 

五月十二日(火) W.KempffBeethoven Concerto 1 & 5Mozart Concerto in improvisation

 

という記載があって、二回に亙ってこの初来日のケンプの演奏会に行っていることが分かる(孰れも日比谷公会堂)。但し、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、一回目の記載は四月十五日(水)の項に記載されているが、『その前日の十四日に演奏された方を聽きに行って』いるとあり、また四月二十一日(火)の分については、『Lili Kraus のピアノ伴奏による Simon Goldberg の「ベートーヴェン・・ヴァイオリン・ソナタ全十曲連續演奏會」おことで、四月十九日に第三・第六・第七、四月二十日に第一・第九・、四月二十一日に第四・第五・第二・第十番のソナタが演奏された。會場はいづれも日本靑年館であつた』とある。

「新響」は大正一五(一九二六)年に発足した日本最初の本格的な交響楽団である「新交響楽団」で、これは現在の同名の楽団とは別で、現NHK交響楽団の前身である。当時の指揮者はヴァイオリニストでもあった貴志康一(明治四二(一九〇九)年~昭和一二(一九三七)年)で、十四年下の貴志とは深い友情で結ばれた。後、昭和二九(一九五四)年に再来日したケンプは毎日新聞紙上で「私の思い出の中にある悲しみをともなって居ます。この前私が日本を訪問した時、ともにベートーヴェンの曲を演奏した才能ある日本の指揮者貴志康一氏が、余りにも若く死んでしまったからです。彼はたしか大阪の人でした」と語っている(以上は大阪市都島区役所公式サイトの「都島区ゆかりの人物」の貴志康一の日本活躍」ページの記載に拠った)。

Mozart Klavier Konzert, D minor」モーツァルトが最初に手掛けた短調のピアノ協奏曲第二十番ニ短調 K.466。「ロマンツァ」はその第二楽章「ロマンツェ」変ロ長調のこと。ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」のエンディングに使われたあの曲である。ケンプとカラヤン指揮のベルリンフィル(一九五六年録音)が(陽之大瀬氏のアップ)で聴ける。]

うつくしい脣 大手拓次

 うつくしい脣

ふるへるぼたんのやうに
おまへのくちびるはひそひそと、
ひとめをはばかるおとをきき、
とほくのもののすがたをひきよせる。

鬼城句集 秋之部 露

露     土くれにはえて露おく小草かな

 

      露草弓弦はずれてむぐら罠

 

[やぶちゃん注:「むぐら罠」不詳であるが、中句から考えると熊などを捕獲することを目的としてアイヌの人々やマタギが山林に仕掛けた罠の一種である、仕掛け弓を言ったものか。アイヌの仕掛け弓クワリ(アイヌ語で「ク」は「弓」、「アリ」は「置く」)については、簡便に知るならば、北海道沙流(さる)郡平取町(びらとりちょう)二風谷(にぶたに)にある平取町立二風谷アイヌ文化博物館の公式サイト内のクワリページを、詳細を知りたい向きは宇田川学術論文「アイヌ自製――仕掛弓・罠」(PDFファイル)がよい。]

 

野分    せきれいの波かむりたる野分かな

 

      野分すや吹き出されて龜一つ

 

      山川の水裂けて飛ぶ野分かな

 

      野分して蜂吹き落す五六疋

 

      野分して早や枯色や草の原

 

      山川に高浪たつる野分かな

2013/09/16

本日これにて閉店

嵐の中、妻が文楽に行くと言ってきかない。これにて閉店と致す。

   心朽窩主人敬白

甲斐ヶ嶺や穗蓼の上を鹽車 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   甲斐ヶ嶺や穗蓼の上を鹽車

 高原の風物である。廣茫とした穗蓼の草原が、遠く海のやうに續いた向ふには、甲斐かいの山脈が日に輝き、うねうねと連なつて居る。その山脈の道を通つて、駿河から甲斐へ運ぶ鹽車の列が、遠く穗蓼の隙間から見えるのである。畫面の視野が廣く、パノラマ風であり、前に評釋した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」などと同じく、蕪村特有の詩情である。旅愁に似たロマンチツクの感傷を遠望させてる。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。本文中の『前に評釋した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」』の句は、評釈の前にも冒頭の総論「蕪村の俳句について」でも、他五句とともに掲げて以下のように述べている。

     陽炎(かげろふ)や名も知らぬ蟲の白き飛ぶ
     更衣野路の人はつかに白し
     絶頂の城たのもしき若葉かな
     鮒鮓や彦根が城に雲かかる
     愁ひつつ岡に登れば花いばら
     甲斐ケ嶺(ね)や穗蓼(ほたて)の上を鹽車

 俳句といふものを全く知らず、況んや枯淡とか、洒脱とか、風流とかいふ特殊な俳句心境を全く理解しない人。そして單に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだらう。何となれば、これらの句には、洋畫風の明るい光と印象があり、したがつてまた明治以後の詩壇に於ける、歐風の若い詩とも情趣に共通するものがあるからである。
 僕が俳句を毛嫌ひし、芭蕉も一茶も全く理解することの出來なかつた靑年時代に、ひとり例外として蕪村を好み、島崎藤村氏らの新體詩と竝立して、蕪村句集を愛讀した實の理由は、思ふに全くこの點に存して居る。即ち一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古來日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であつたやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだつた。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる、一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的靑春性を指してゐるのである。

「穗蓼(ほたて)」のルビの「て」、「理解しない人。」の読点はママ。先行する「夏の部」に現われる評釈は、

   鮒鮓や彦根の城に雲かかる

 夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴイジヨンを浮べたのである。鮒鮓を食つたのではなく、鮒鮓の聯想から、心の隅の侘しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」といふ言葉、その特殊なイメーヂが、夏の日の雲と対照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀れた技巧を見るべきである。島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と、どこか共通した詩情であつて、もっと感覺的の要素を多分に持つて居る。

を指す。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) エルマンを聴く 五首 中島敦

    エルマンを聽く

 

冬の夜の心にしみて侘しきはエルマンが彈く詠嘆調(アリア)なりけり

 

エルマンか若(も)しはバッハかG線の上に顫へて咽び泣きゐる

 

潤ほへる音(ね)の艷けさよエルマンもわれとみづから聞き惚れてゐる

 

エルマンが光る頭をふり立つるスプリング・ソナタうらぐはしもよ

 

アダヂオに入るやエルマン眼を細め心しみじみ謠ひ出(いだ)しぬ

 

[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では踊り字「〲」。

「エルマン」ウクライナ出身のヴァイオリニスト、ミハイル・「ミッシャ」・サウロヴィチ・・エルマン(Михаил (Ми́ша) Саулович Э́льман Mikhail 'Mischa' Saulovich Elman 一八九一年~一九六七年)。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。参照したウィキの「ミッシャ・エルマン」によれば、『キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった』。『オデッサの官立音楽学校に入学』『後、サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院』へ入る。1904年の『ベルリン・デビューではセンセーションを巻き起こした。1905年のロンドン・デビューは、グラズノフのヴァイオリン協奏曲の英国初演で飾った。1908年のカーネギー・ホールにおけるアメリカ・デビューにおいても、聴衆を圧倒している。1911年からは単身アメリカ合衆国に移住。ロシア革命後は、ロシアに残った一家をアメリカ合衆国に呼び寄せ、1923年に市民権を得た。1921年に初来日』、『1937年には2度目の来日』、戦後の『1955年には3度目の来日を果たしている』とあることから、昭和一二(一九三七)年の手帳を調べると、

 

一月二十七日(水)健脚會、岡村天神、/弘明寺、/Elman 7.30 日比谷/encore Ave Maria (S. )  Zigeunerweisen.

 

とある。「岡村天神」は現在の横浜市磯子区岡村二丁目の岡村天満宮で、これは位置から見ても「健脚會」(マラソン大会)の立ち番位置ではないかと思われる。推測であるが、健脚会は午前で終わり、午後、学校から下った弘明寺でその慰労会が開かれたのではなかろうか。エルマンの演奏会のアンコール曲が記されている。「(S. )」は Schubert の頭文字であろう。“Elman plays AVE MARIA (Schubert)で実際の、それも一九二九年のエルマンの演奏が聴ける。「Zigeunerweisen」はサラサーテの管弦楽伴奏附ヴァイオリン曲「ツィゴイネルワイゼン」(一八七八年作)である。なお、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、この『獨奏會は、一月二十一、二十二、二十五、二十六、二十七日の五日間ひらかれ、その第五夜の演奏曲目は、Vivaldi;Concerto G-minor,Beethoven;Sonata F-major (Spring), Vieuxtemps;Concerto D-minor, Chopin-Sonate;Nocturne, De Falla;Spanish Dance, Wieniawaski;Souvenir de Moscou の六曲で』あるとあり、演目の中にバッハはない。アンコールのメモにもないものの、二首目に『「G線の上に」とあるのは、おそらく同日アンコール曲に「G線上のアリア」』が含まれていたものであろう、という推測が附されてある。

「スプリング・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番ヘ長調 Op.24 の愛称。]

そらいろの吹雪 大手拓次

 そらいろの吹雪

この ふかまりゆく憂愁の犬のまへに
こころをふるはせ、
わたしは 季節のまばたきにやせてゆく。
おもふひとのすがたは、
うすい そらいろの吹雪のやうに
なきしづむ 心の背(せ)にたはむれる。

鬼城句集 秋之部 秋雨/秋風

秋雨    秋雨やよごれて歩く盲犬

 

      御佛のお顏のしみや秋の雨

 

      秋雨や柄杓沈んで草淸水

 

      秋雨や鷄舍に押合ふ鷄百羽

 

      秋雨や眞顏さみしき狐凴

 

[やぶちゃん注:「狐凴」は「きつねつき」である。「凴」は「凭」と同字で、狐の霊がよる・よりかかる・もたれるの意で、「憑」の誤字ではないと私は考える。大方の御批判を俟つ。]

 

      秋雨や賃機織りてことりことり

 

[やぶちゃん注:「ことりことり」の後半は底本では踊り字「〱」。「賃機」は「ちんばた」或いは「ちんはた」で機(はた)屋から糸などの原料を受け取って賃金を貰って機を織ること。]

 

      秋の雨一人で這入る風呂たてぬ

 

[やぶちゃん注:鬼城先生に不遜だが、私なら「たてね」とするであろう。]

 

      秋雨に聖賢障子灯りけり

 

[やぶちゃん注:「聖賢障子」は「せいけんしやうじ(せいけんしょうじ)」と読む。賢聖障子(げんじょうのしょうじ)。内裏の紫宸殿の母屋と北廂を隔てるために立てられていた障子(襖)。九枚あり、中央には獅子・狛犬と文書を負った亀を、左右各四枚には中国唐代までの聖賢名臣を一枚に四人ずつ計三十二人の肖像を描いたもの。ウィキ賢聖障子によれば、現存最古の賢聖障子は狩野派の絵師狩野孝信が慶長一九(一六一四)年『に描いたもので、現在仁和寺が所蔵し重要文化財に指定されている』とある。]

 

      秋雨や石にはえたる錨草

 

[やぶちゃん注:「錨草」モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ Epimedium grandiflorumウィキイカリソウ」によれば、花は赤紫色で春に咲き(従って本句の映像にはない)、四枚の花弁が距(きょ:植物の花びらや萼の付け根にある突起部分で内部に蜜腺をもつ。)を突出して錨のような特異な形状を成しているため、『この名がある。葉は複葉で、1本の茎に普通1つ出るが、3枚の小葉が2回、計9枚つく2回3出複葉であることが多い。東北地方南部以南の森林に自生し、園芸用や薬用に栽培されることもある』とある。]

 

秋風    秋風や子を持ちて住む牛殺し

 

      山畑や茄子笑み割るゝ秋の風

 

      秋風に忘勿草の枯れにけり

 

      街道やはてなく見えて秋の風

 

      秋風や犬ころ草の五六本

 

      秋風に大きな花の南瓜かな

未明……台風……蟬……生殖の眩暈……

4時に目醒めた。
嵐の雨風の中、がたがたと小刻みに顫える窓と隙間風の向こうに、ずっと聴こえているのは向いの山の林の必死の蟬の声ではないか。
生殖の眩暈の焦燥――
君は眠らない限り夢を見る――

2013/09/15

さんざめく生殖の豊饒の虫達の音よ――

さんざめく生殖の豊饒の虫達の音よ――もう――ああっ、僕の左耳には永遠にとどかない……

交換日記

「何故、君はそんなになってしまったのか」

返事
「どうして、あなたはそんなに変わってしまったの?」

そういえば……確かに……そうだったではないか…………

交換日記

僕はさっき……何故か……自分がかつての恋人と「交換日記」を「していた」ことを……ふと……思い出したのだった……
互いの思いを、夜、ノートに綴っては、翌日それを彼女に渡す、正真正銘の手書きの「交換日記」であった……
高校一年の終わりから高校三年まで、1973年から74年までのほぼ丸二年――
多分、分厚いノートを三冊以上書いたように記憶している――
北の外れの淋しい漁師町の誰もいない夕暮れの文房具屋の――
何種類もありはしないノートを――
彼女と一緒に――
……あれがいい……これはだめ……と……小一時間も選んでは楽しんだ……
……そんな40年も前のことを……思い出した……

破局が訪れた時――

彼女の涙のあとが――
その日記の文面に大きな雨粒のように染みてあったのを忘れない……

「交換日記」……

これはもう……

永遠の死語(詩語)である……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 27 ~第一章 了

 日本人が集っているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼等が皆同じような顔をしていることで、個々の区別はいく月か日本にいた後でないと出来ない。然し、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリー及び他のヨーロッパ人を含む我々が、皆同じに見えたというのを聞いて驚かざるを得ない。どの点で我々がお互に似ているかを尋ねると、彼等は必ず「あなた方は皆物凄い、睨みつけるような眼と、高い鼻と、白い皮膚とを持っている」と答える。彼等が我々の個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。同様にして彼等の一風変った眼や、平な鼻梁や、より暗色な皮膚が、我々に彼等を皆同じように見させる。だが、この国に数ヶ月いた外国人には、日本人にも我々に於ると同じ程度の個人的の相違があることが判って来る。同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頰骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼はほがらかに微笑し哄笑する。荒々しく拒絶した所で何等の変りはない、彼は依然微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる。

 外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ケ日の間ある田舎の宿やに泊っていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。
[やぶちゃん注:「我国社交界の最上級に属する人」領事クラスの人物であろうが、惜しいかな、モースは引用元を明らかにしていない。識者の御教授を乞うものである。
「下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て」日本語の意味がよく分からない。原文は“After a polite concession to some of our mistakes by one of the maids,”。ここは
――下女の一人が、私たちが原因で生じた幾つかのゆゆしい間違った行動に対して、後から、実に礼儀正しい形で、まことに気持ち良く容認してくれたのを見て――
という意味であろう。具体には分からないが、単なる一般的な和式の礼儀作法から外れた行為であったばかりでなく、もしかするとその女性たる下女個人に対して、はなはだ非礼無礼に当るような行為が含まれていたというニュアンスを感じないか? 私が「容認」と訳した真意はそこを想定して選んでみた。シチュエーションとしては――モースらが自分たちの犯した失態に対して下女に恐縮し、“sorry”を繰り返したのに対し、彼女は逆に笑顔で「どう致しまして。外人さんは不慣れで御座いますから私が至りませんで、お気の毒さまで御座いました。」といったように慇懃な挨拶をされた――ということであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 26 ゴミなき美しき東京

 バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所等を稀な例外として、我国に於る防海壁に沿う無数の地域には、村落改良協会や都市連合が撲滅を期しつつあるような状態に置かれた納屋や廃棄物やその他の鼻持ちならぬ物が目に入る。全くこのような見っともない状態が、都鄙(とひ)いたる所にあればこそ、このような協会も出来たのである。汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。我国の静かな田園村落の外縁で、屢々見受ける、灰や蛤(はまぐり)の殻やその他の大きな公共的な堆積は、どこにも見られない。優雅なケンブリッジに於て二人の学者の住宅間の近道は、深い窪地を通っていた。所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたってしゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、目につかぬように埋めたり焼いたり利用したりする。いずれにしても卵の殻、お茶の澱滓(かす)、その他すべての家の屑は、奇麗にどこかへ持って行って了うので、どこにも見えぬ。日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物(ウェースト)を処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済(ウェースト)である。我国で有産階級は家のあたりを清潔にしているが、田舎でも都市でも、貧民階級が不潔な状態の大部分に対して責任を持つのである。

[やぶちゃん注:「バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所」原文は“With rare exceptions, such as Bar Harbor, Newport, and places of that standing,”。“Bar Harbor”はモースの生まれたアメリカ東部のメイン州にある街。同州北東部のカナダとの国境にも近いマウントデザート島にあって、大西洋岸に面した漁師町。古くからリゾート地として知られ、二十世紀初頭にはロックフェラー2世等の大富豪の避暑地として著名になり、多くの別荘開発が行われた(英文ウィキ“Bar Harbor, Maineなどを参考にした)。“Newport”はアメリカ東部のロードアイランド州南東部、州都プロビデンスの南約48キロメートル、ボストンの南約100キロメートルの地点にある港湾都市で、ロードアイランド州に深く切り込んだナラガンセット湾(Narragansett)に浮かぶ大きな島アクイドネック島(Aquidneck、別名ロード・アイランド)の先端に位置し、湾の対岸とはニューポート・ブリッジという吊り橋を含む長大な海上道路で結ばれている。港湾のほかにも保養地や別荘地としても名高く、十九世紀末以降に建てられた豪邸が街の南の風光明媚な海岸に並んでいる。また、アメリカ海軍戦略大学(United States Naval War College)・海軍水中戦センター(Naval Undersea Warfare Center)その他アメリカ海軍の訓練施設などが立地あり、黒船を率いて日本や琉球などを訪れたペリー提督など、海軍所縁の出身者も多い土地柄である(ウィキニュポートロードアイランド州を参照した)。「及びその階級に属する場所」ここは――及びそのような(景勝のリゾートや海防上の要衝地といった)例外的な立地条件を持った場所――を稀な例外として、の意。「階級」というのはこなれない訳語である。

「ケンブリッジ」底本では直下に『〔ハーヴァード大学所在地〕』という石川氏の割注は入る。モースは一八五九年から二年余りの間、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の学生助手を務めている。

「所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたってしゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。」“This land was so disfigured by a certain type of rubbish that for years it was facetiously called the "tin canyon"!”“tin”はブリキ缶、“canyon”はキャニオンで米南西部やメキシコに多いグランド・キャニオンで知られるようなああした峡谷のこと。ラテン語の「管」を意味する“canna”由来のスペイン語“cañon”、峡谷をパイプに擬えた語に由来。「ティン・キャニオン」「ブリキ渓谷」。石川氏は原文のモースの悪戯っ子テンションを抑え、エクスクラメンション・マークを、モースが讃えた節制深き日本人として穏やかに傍点に代えるという「洒落」た訳をなさっている。

「日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物(ウェースト)を処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済(ウェースト)である。」原文は“In our extravagant way of living in contrast to the simple life of the Japanese we have much waste to dispose of and it is truly waste.”。“waste”には名詞で浪費・空費・無駄使い、の意の外に廃棄物の意がある。その意を掛けてモースは“truly”(本当に)と洒落た。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 25 子供達の天国たる日本

 いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人人なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅(うるさ)く愚図愚図(ぐずぐず)いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。爾(なんじ)の父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。子供達は赤坊時代を過ごすと共に、見た所素直げに働き始める。小さな男の子が往来でハケツから手で水を撒いているのを見ることがある。あらゆる階級を通じて、人々は家の近くの小路に水を撒いたり、短い柄の箒で掃いたりする。日本人の奇麗好きなことは常に外国人が口にしている。日本人は家に入るのに足袋以外は履いていない。木製の履物なり藁の草履なりを、文字通り踏み外してから入る。最下層の子供達は家の前で遊ぶが、それにしても地面で直(じ)かに遊ぶことはせず、大人が筵を敷いてやる。町にも村にも浴場があり、そして必ず熱い湯に入浴する。
[やぶちゃん注:これらの至高の賛辞を読みながら……ここのところ、毎日のように繰り返し報道される親の子への虐待や殺害事件の報道を目にするにつけ……私は日本人としてモース先生に恥ずかしい気がして来るのである……。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 24 緡

M30


図―30

 我国の人々は、丸い其銀製で中央に四角な穴のあいている支那の銭をよく知っている。日本にも同様なものや、またより大きく、楕円形で中心に四角な穴のあいたものもある。我々は屢々この穴が何のためにあるのかと不思議に思った。これは人が銭を南京玉のように粗末な藁繩で貫いたり、木片の上に垂直に立つ小さな棒に通して横み上げたりする為らしい(図30)。
[やぶちゃん注:所謂、緡(さし)である。モース先生の天馬空を翔(ゆ)くが如き好奇心の変化自在――とっても楽しくて――とっても羨ましい――。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 23 出っ歯の多い日本人

 日本人の多くが美しい白い歯を見せる一方、悪い歯も見受ける。門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると。日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう。日本は泰西科学のどの部門よりも医学に就いて最も堅実な進歩を遂げて来た。医学校や病院は既に立派に建てられている。外国から輸入されるすべての薬が純であるかどうか分析して調べるための化学試験所はすぐ建てられた。泰西医療術の採用が極めて迅速なので、皇漢法はもう亡びんとしている程である。宗教的信仰に次いで人々が最も頑固に固執するのは医術的信心であって、それが如何に荒唐無稽で莫迦げていても容易に心を変えぬ。支那の医術的祭礼を速に合理的且つ科学的な泰西の方法に変えた所は、この国民があらゆる文明から最善のものをさがし出して、それを即座に採用するという著しい特長を持っていることの圧倒的実例である。我々は他の国民の長所を学ぶことが比較的遅い。我々はドイツやイングランドには我国のよりも良い都市政制度があり、全ヨーロッパにはよりよき道路建設法があることを知っている。だが我々は果してこれ等の制度を迅速に採用しているであろうか。

[やぶちゃん注:「門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると」「門歯」は哺乳類の歯列の内、中央(前方)に上下二~六枚ずつある物を嚙み切る働きをする切歯。前歯のこと。即ち、ここは日本人には禪師が激しく突出した出っ歯の人がしばしば見られ、それらは(やはりエルドリッジ辺りからの請け売りか)、幼児の離乳が欧米人に比して遙かに遅い、おっぱいをいつまでもちゅぱちゅぱ吸い続けていた結果、歯根がまだ安定していない前歯が前へ突き出てしまい、出っ歯になる日本人が多いからとされる、というのである。こんなとんでもないこと――と思ったら――ウィキ出っ歯」には、以下のようにあった。『日本人の人類学的形質が縄文時代から現代に至る間に大きく変化した事が、第2次世界大戦後に鈴木尚(東京大学名誉教授 医学博士 形質人類学)らによって、主として関東地方から出土した人骨資料を基に明らかにされた。先に述べたように縄文時代人は鉗子状咬合であり、出っ歯はなかったが、弥生時代から次第に鋏状咬合が現われ、古墳時代には多くが鋏状咬合となったうえ、歯槽側面角も減少し70度以下になったため、出っ歯が多くなった。鎌倉時代では歯槽側面角が60度近くにまで落ち、著しい出っ歯状態になっている。以後はあまり大きな変化はなかったが、江戸時代中期頃から少しずつ歯槽側面角の増大が始まり、明治時代以降は急速に増大している。現代日本人の歯槽側面角は』76・4度『で、まだ突顎の範疇であるが、明治時代以前から見ると大きくなっており、出っ歯は見られなくなりつつある』。『日本人の歴史で見られたこのような変化がなぜ起こったのかはわかっていない。乳幼児期のおしゃぶりの過使用や口呼吸、爪噛みなどが歯列の乱れを引き起こすという説はあるが、大きな時代的変化との関係は考えられない。日本人を含めた黄色人種は一般に白色人種や黒色人種に比べて相対的にも絶対的にも歯牙が大型で(藤田恒太郎『歯の話』岩波新書 1965年、その他)、従って歯列も大きくなる可能性が考えられ、出っ歯になりやすいと見られるが、時代によって変化が生ずる原因は不明である』とあって、このトンデモ学説はしっかり生きていた。フロイトなら口唇期固着を指摘して、日本人の喫煙習慣やアルコール依存症の高さ、爪嚙み行為などの頻出などと連関させた論をぶち上げそうだ。

「日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう」同じくウィキ出っ歯」には、歯列矯正の文化誌が記されている。以下、引用しておく。『日本においては、第2次世界大戦終結頃までは、日本人の形質として歯槽側面角が小さい事による出っ歯の発現頻度が大きく、出っ歯が普通に見られたため、特に問題視や矯正される風潮はなかった。日本人の国民性として歯並びに無関心であったことも影響していると考えられる。アメリカでは、出っ歯が対象ではないにしても矯正歯科が20世紀初頭には行なわれていたのに対し、日本では第2次世界大戦後になってからの事であった(日本臨床矯正歯科医会の歴史)。西洋人はキスなど口による愛情表現が多いが、日本人にはそうした習慣がないので、その影響も考えられる(藤田恒太郎『歯の話』岩波新書1965年)。戦後の日本人には歯槽側面角の増大が目立ち始め、全体として出っ歯の個体は減少し、それに伴い目立つようになり、またアメリカ文化の強い影響下に入った結果、白人の引き締まった口元が美的優位となったため、それらに伴う美的見地から恥ずべき特性とみなされ、歯列矯正が行なわれるようになった。それでも日本では、歯科医学において歯列の歪みである不正咬合の一つとされて治療(歯列矯正など)の対象とはなるものの、口蓋裂を伴うような重篤な場合を除いて疾患とは判断されず、国民健康保険は適用されない』。しかし『容貌が重要視される俳優・女優等の中にも、歯列矯正を受けた人が少なくないらしいと、インターネット上のサイトやブログで取り沙汰されているが、日本人の歯並びに対する関心が時代と共に変化している事が示されている』とある。百科事典ではまずお目にかかれない記述だ。嬉しいね、ウィキペデイア!

「皇漢法」「こうかんぽう」と読む。原文は“the empirical Chinese practice”。皇漢医学。中国伝来の漢方医学、漢方のことで、漢法とも書く。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 22 ドクター・エルドリッジによる明治初年の衛生白書

 有名なアメリカの医師で数年間日本で開業し、ここ二年間は東京医科大学に関係しているドクタア・エルドリッジは、彼自身が日本人を取扱ったことや、他の医師(中には十六年も、日本に滞在した人がある)の経験に就いて、私にいろいろなことを教えてくれた。日本の気候は著しくよいとされている。従来必ず流行した疱瘡は、政府が一般種痘のために力強い制度を布き、その目的のために痘苗製造所を持つに至って、今や制御し得るようになった。この事に於て、他の多くに於ると同様、日本人は西洋の国民よりも遙かに進歩している。猩紅熱は殆ど無く、流行することは断じてない。ジフテリヤも極めて稀で、これも流行性にはならぬ。赤痢か慢性の下痢とかいうような重い腸の病気は非常にすくなく、肺結核は我国の中部地方に於るよりも多くはない。マラリア性の病気は重いものは稀で、軽い性質のものも多くの地方には稀である。急性の関節リューマチスは稀だが、筋肉リューマチスは非常に一般的である。腸窒扶斯(チフス)及び神経熱はめったに流行しない。殊に後者はすくない。再帰熱は時々見られる。皮膚病、特に伝染性のものは多い。話によると骨の傷害や挫折の治癒は非常に遅く、而も屢々不完全だそうである。米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。

[やぶちゃん注:「ドクタア・エルドリッジ」ジェームズ・スチュアート・エルドリッジ(James Stuart Eldridge(一八四三年~明治三四(一九〇一)年)はアメリカ人医師。フィラデルフィア生。ジョージタウン大学で学び、明治四(一八七一)年に開拓使顧問ケプロンの書記兼医師として来日、翌年函館医学校の教官、外科医長となったが、明治八年に横浜に移って開業、翌年には横浜一般病院院長、同七年からは横浜十全病院の治療主任を兼ね、亡くなる前年の明治三三(一九〇〇)年には慈恵成医会副会長でもあった。『近世医説』の発刊(著者和名依児度列智(エルドリッチ)とする)や日本在留欧米人の疾病統計といった業績も残しており、故国に日本の解剖模型を送るなど、日米医学交流に尽くした。現在の横浜外国人墓地に眠っている。(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「十六年も、日本に滞在した人がある」これは幕末から明治維新にかけて日本で医療活動に従事したイギリス人医学博士でお雇い外国人のウィリアム・ウィリス(William Willis 一八三七年~一八九四年)のことである。一八三七年アイルランド生。スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ後、文久元・万延二(一八六一)年に箱館領事館第二補佐官兼医官に任用され、江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃している。ハリー・パークスの下で医官として働き、文久三(一八六三)年の薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療に当たっている。元治元・文久四(一八六四)年、元公使館医官グリフィス・R・ジェンキンズと横浜で最初の薬局を開業、慶応二(一八六六)年、医官を務める一方、首席補佐官兼会計官に昇進、駐日英国公使パークスの鹿児島・下関・宇和島訪問に同行、横浜では大火に遭遇している。翌慶応三年には兵庫開港準備に伴う人事で江戸副領事及び横浜副領事に昇進した。明治元・慶応四(一八六八)年、兵庫のイギリス領事フレデリック・G・マイバーグが急死したため、大坂副領事代理を兼任(鳥羽・伏見の戦いの勃発・幕府軍の敗北・慶喜の大坂城脱出を間近に見聞する)、幕府から各国外交団保護不可能の通達を受け、兵庫へ移ったが、戦病傷者治療という名目で当時、日本語書記官になっていたアーネスト・サトウとともに大坂・京都に赴く。江戸に戻った後は横浜で彰義隊討伐作戦の負傷兵などを治療、北越戦争での戦傷者の治療にあたるため、越後路への旅している(この時、江戸(東京)副領事に復帰)。明治二(一八六九)年、明治新政府の要請でイギリス外務省員の身分のまま、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授に就任、大病院の指導に当ったが、翌三年に新政府がドイツ医学採用の方針を採用したため、自発的に東京医学校教授を退職、イギリス外務省員も辞職して、西郷隆盛や医師石神良策の招きによって鹿児島医学校長(鹿児島大学医学部の前身)及び附属病院長に就任した。翌明治四(一八七一)年前後に鹿児島県士族江夏(こうか)十郎の娘である八重と結婚した。モースが来日した明治一〇(一八七七)年に西南戦争避けて東京に戻るまで鹿児島への医学の普及に貢献した。ここまででエルドリッジの言う通り、来日からぴったり十六年である。イングランドへの帰国は明治一四(一八八一)年とあるから、足掛け二十年に及ぶ滞在であった(以上の事蹟は主に詳細を極めるウィキの「ウィリアム・ウィリス」の記載を参照した)。

「疱瘡」原文“Smallpox”。天然痘。ウィキの「天然痘」によれば、十八世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が一七九八年に天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった(ジェンナーが我が子に接種して効果を実証したとする逸話があるが、実際には彼は使用人の子に接種している。因みに、本邦では医学界ではかなり有名な話として、ジェンナーに先だって日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔がジェンナーの牛痘法成功に遡ること六年前の寛政四(一七九二)年に秋月の大庄屋天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して成功させている)。日本で初めて牛痘法が行われるのは文化七(一八一〇)年のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、三年後の文化一〇(一八一三)年にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰って、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、まったく信じて貰えなかったという普及阻害の事実がある。その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永二(一八四九)年に佐賀藩がワクチンを輸入してからで、足守藩士の蘭方医で適塾を開いた近代医学の祖緒方洪庵が治療費を取らずに牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったのを濫觴とする。同年には日野鼎哉が京都に、緒方洪庵が大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開いた(洪庵の天然痘予防の活動は安政五(一八五八)年四月に幕府公認となり、牛痘種痘施術が免許制となっている)、江戸ではやや遅れて。安政五(一八五八)年に蘭方医八十三名(そこには杉田玄白の曾孫杉田玄端(げんたん)や漫画家手塚治虫の曾祖父手塚良仙の名も見える)の資金拠出により神田松枝町(現在の東京都千代田区神田岩本町)の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」(エルドリッジが言う「痘苗製造所」。ここは東京大学の前身の一つでもある)が設立された。江戸末期には毎年のように流行したが、特に安政四(一八五七)年十二月のパンデミックが有名である。確かにモースの来日に先立つ三年前の明治七(一八七四)年には文部省から「種痘規則」及び「種痘心得」が出されてはいるが、国民に完全に定着する(エルドリッジの言う「制御し得る」と言い切るには)明治四二(一九〇九)年の種痘法まで今少し時間が必要であった。

「猩紅熱」“Scarlet fever”。小児に多い発疹性伝染病。「いちご舌」という舌の鮮紅腫脹の症状で知られ、永く法定伝染病として恐れられていたが、現在は抗生物質によって容易に治療が可能となったため、一九九八年の法改正によって法定伝染病から除外された。以下、同様に病名の原語を示しておく。

「ジフテリヤ」“diphtheria”。ジフテリア菌の感染によって起こる主として呼吸器粘膜が冒される感染症。小児に多く、心筋や末梢神経が冒されて重篤に陥ることもあるが、予防接種の普及で減少した。

「赤痢」“dysentery”。下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症。従来、赤痢と呼ばれていたものは、現代では赤痢菌による細菌性赤痢とアメーバ性赤痢(寄生虫症に分類)に分けられる。前者の国内患者は激減しているが、海外渡航者の帰国後発症はしばしば見れる。かくいう私の妻もかつて一緒に行ったトルコで Shigella sonneiD群赤痢菌・ソンネ赤痢菌)1相に罹患し、しっかり鎌倉の額田病院に隔離された。

「慢性の下痢」“chronic diarrhoea”。「ダッリィア」はギリシャ語「流れ通ること・貫流」の原綴りで、現在は“diarrhea”の綴りの方が一般的。

「肺結核」“phthisis”。明治初期までは労咳と呼ばれた。ただ「我国の中部地方に於るよりも多くはない」というのはどうか? 明治期には国民病と呼ばれ、まさに結核が、あらゆる近代の文学・芸術・文化全般に影響を及ぼした。

「マラリア性の病気」“malarial diseases”。かつては本邦にも土着のマラリアが存在したが、現在では絶滅している。

「急性の関節リューマチス」“acute articular rheumatism”。体の各所の関節に炎症が起こり、関節が腫れて痛み、進行すると関節の変形や機能障害や廃用化が起こる。現在、人口の0・4~0・5%、30歳以上の人口の1%に当たる人がこの病気に罹患するとされる。特に30~50歳代での発病が多く、男性より女性に有意に多く見られ、約3倍に相当する(公益財団法人リウマチ財団公式サイト「リウマチ情報センター」の「関節リウマチ」に拠った)。

「筋肉リューマチス」“muscular rheumatism”。現在、相当する狭義の病名はリウマチ性多発筋痛症(polymyalgia rheumatic ; PMR)である。原因不明の肩や腰周囲が筋肉痛を起こす病気で、六十五歳以上の高齢者に多く、寝返りが痛くてうてないといった愁訴を特徴とする。但し、リウマチ性多発筋痛症は関節リウマチの十分の一以下と考えられており、アメリカでは、人口10万人当り18・7~68・3人、特に50歳以上の人口10万人当りでは年間50人もの発病があるとされるのに対し、少なくとも現在の日本人では欧米人よりもずっと発症は少ないとされていると公益財団法人リウマチ財団公式サイト「リウマチ情報センター」の「リウマチ性多発筋痛症」にはあり、エルドリッジのこの謂いはやや解せない。これは全くの想像であるが、エルドリッジは西洋人には殆んど見られない「肩こり」を実は「筋肉リューマチス」と表現しているのではなかろうか? 大勢に於いて体型の大きく、頭部の重さを比較的支え易い欧米人は「肩凝り」という概念を永く持っていなかったため(パソコンの使用頻度が急激に増えた昨今は“have a stiff neck”「首が凝る」という表現が欧米でも現われているらしい)、エルドリッジはその肩凝りや四十肩・五十肩という日本人に多くみられる愁訴を、総て「筋肉リューマチス」と断じたのではなかったかという推理である。大方の御批判を俟つものである。

「腸窒扶斯(チフス)」“typhoid”。発音すると「タィフォイド」。腸チフス・疑似チフス。本邦では「チフス」と呼ばれる疾患は腸チフス・パラチフス・発疹チフスの三種類を含む。このうち腸チフスはチフス菌(Salmonella enterica var enterica serovar Typhi) によって、パラチフスは同じサルモネラに属する菌株パラチフスA菌(Salmonella serovar Paratyphi A)によって引き起こされる感染症であるが、発疹チフスはリケッチアの一種である発疹チフス・リケッチア(Rickettsia prowazekii)による疾患である(次注参照)。但し、これらの疾患は以前、同一のものであると考えられ、いずれもチフスと呼ばれていた。腸チフスは菌に汚染された水や食物によって起こる消化器系感染症で、四〇度超える高熱が持続して全身が衰弱するほか、腹部や胸部にバラ疹と呼ばれるピンク色の特有の斑点が現われ、腸出血を併発する場合もある。日本では近年減少した(以上は主にウィキ腸チフス」に拠った)。

「神経熱」“typhus”こちらが実は発音すると「タィフェス」で、日本語の「チフス」の語源はこれである。これが前注に示した発疹チフス(typhus fever)でリケッチア・プロワツェキイ(Rickettsia prowazekii)がシラミの媒介によって感染することで起こる疾患である。一〇~十四日間の潜伏期を経て、高熱と全身性の細かな発疹及び意識混濁や譫妄などの重い脳症状を示すのを特徴とする。本邦では第二次世界大戦中から戦後にかけて流行したが、昭和三〇(一九五五)年以降、国内病原による患者の報告はない。

「再帰熱」“relapsing fever”。回帰熱。シラミやダニが媒介するスピロヘータの一種ボレリア(Borrelia)に感染症することで起こる疾患で、名前は発熱期と無熱期を数回繰り返すことに由来する。高熱・悪寒・皮膚黄変などの症状を呈するが五~七日で消失し,約一週間の無症状期の後、再び前の症状が再帰、これを繰り返す。本邦では昭和二五(一九五〇)年以降、国内病原による患者の報告はない。

「骨の傷害や挫折の治癒は非常に遅く、而も屢々不完全だそうである。米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。」原文は“It is said that injuries and fractures of the bones heal very slowly and often imperfectly. Rice has but half the ash material of wheat, and the water does not supply sufficient inorganic matter necessary for the bones.”。「灰分」(the ash)は食品成分として含まれる鉱物質カルシウム・鉄・ナトリウムなどのミネラルを指す。後半部は本邦の水の殆んどがカルシウムイオンやマグネシウムイオンなどの金属イオンの含有量が少ない軟水であるから、骨形成や修復が遅い、と言っているのであるが、硬水を飲むと骨密度が高まるというのはどう考えてもおかしい。しかし、これはエルドリッジの御高説であったのだろうから、こういうトンデモ解釈が平然とまかり通っていたのであろう。その点では一三六年の科学的認識の落差を感じさせる部分である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 21 正直な日本人・酒と盃・物静かで礼節なる日本人

 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂(かんぬき)も戸鈕も――いや、錠をかける可き戸すらも無いことである。昼間は、辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明け得る程弱いのである。

[やぶちゃん注:「大外套」原文“ulster”。アルスターとは両前仕立てのベルト附き防寒用長コートのこと。

「条約港」不平等条約によって開港を規定された港湾。開港場ともいう。嘉永七(一八五四)年三月三日(グレゴリオ暦三月三十一日)に締結された日米和親条約で下田と函館が開港されて以降、安政五(一八五八)年の日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約及び同第三条をはじめとする明治二年(一八六九)までの十五ヶ国との条約に基づき、長崎・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)の四港が新たに条約港に指定され、その一方で下田が指定を解除された。これ以降、約五年の運用期間に留まった下田を除く五つの港を以って「開港五港」という通称が用いられるようになった。条約港では治外法権をもつ租界や外国人居留地が設定され、欧米列強の半植民地的支配の拠点となったが、その反面、条約港を中心として近代文明が導入された一面もあった。なお、この「開港」という許可規定は現在も生きており、外国貿易のために開放された港として関税法(昭和二九(一九五四)年法律第六十一号。旧関税法(明治三二(一八九九)年法律第六十一号を改正したもの)の規定に則って指定された港を指す。現在、全国の港湾のうち一一九港が指定されており、それ以外の港を「不開港」という(以上は主にウィキの「条約港」の記載に基づいて記載した)。

「戸鈕」原文は“buttons”。ドアや窓などの戸締り用の蝶形をした締め具のこと。]

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図―29

 

 ある茶店で私は始めて日本の国民的飲料である処のサケを味った。酒は米から醸造した飲料で、私の考ではラーガー・ビヤより強くはなく、我々が麦酒(ビール)に使用する半リッタア入りの杯の代りに日本人は酒を小さな浅い磁器の盃から畷(すす)る(図29は酒の盃実物大)。酒は常に熱くして飲むのである。私は冷たい儘をよりよしとなして数杯飲んだが一向に反応を感じなかった。確かにクラーレットよりも強くない程である。全体として私は酒をうまいものだと思った。私が今迄に味ったワインやリキュールのどれとも全く異っていて、ゼラニウムの葉を思わせるような香を持っている。今日までの所では、千鳥足の酔漢は一人も見ていない。もっとも夜中、時々歌を唄って歩く者に逢うが、これは飲み過ぎた徴候である。日本人はあまり酒をのまぬ民族と看做(みな)してよかろう。日本人が物静かな落着いた人々である証拠に、彼等が指でコツコツやったり、口笛を吹いたり、手に持っている物をガタガタさせたり、その他我々がやるような神経的であることの表現をやらぬという事実がある。昨夜東京から帰りに私は狭い往来を口笛を吹きながら手で昆虫箱をコツコツ叩いて歩いた。すると人々はまるで完全な楽隊が進行でもしているかのように、明けはなした家から外を見るのであった。日本人は決して疳癪を起さないから、語勢を強める為に使用する間投詞を必要としない。「神かけて云々」というような超請(オース)はこの国には無い。非常に腹が立った時、彼等が使う最も酷い言葉は、莫迦と獣とを意味するに止る。而もジェントルマンはこのような言葉さえも口にしない。

[やぶちゃん注:「クラーレット」原文“claret”。主に英米に於いてフランスのボルドー産赤ワインを通称する語。クラレ。

「ゼラニウムの葉を思わせるような香」ゼラニウムはフウロソウ目フウロソウ科テンジクアオイ属 Pelargonium の園芸栽培されるものの総称と総称(但し、参照したウィキの「テンジクアオイ属」によれば、『紛らわしいことに、ゼラニウムとは同じ科のゲンノショウコなどが含まれるフウロソウ属(Geranium)のことでもある。この2つの属に属する植物は元は Geranium 属にまとめられていたが、1789年に多肉質の Pelargonium 属を分離した。園芸植物として栽培されていたテンジクアオイ類はこのときに Pelargonium 属に入ったのであるが、古くから Geranium(ゼラニウム、ゲラニウム)の名で親しまれてきたために、園芸名としてはゼラニウムの呼び名が残ったのである。園芸店などでも、本属植物の一部をラテン名で ペラルゴニウム(Pelargonium)で呼び、その一方で本属植物の一部を「ゼラニウム」と呼んでいることがあり、これらは全然別の植物のような印象を与えていることがある。ペラルゴニウムとゼラニウムを意識的に区別している場合は、ペラルゴニウム属のうち一季咲きのものをペラルゴニウム、四季咲きのものをゼラニウムとしているようである』とある。ただここでモースは今の我々のイメージする広義のゼラニウムを想起している、と一応とっておく。なお、属名“Pelargonium”はギリシャ語の「こうのとり(pelargo)」に由来し、果実の錐状の突起がコウノトリの嘴に似ることに由来する)。同記載にはゼラニウムの『葉は普通対生または螺旋状につき、単葉で、掌状もしくは羽状の切れ込みや鋸歯のあるものが多く、無毛のものと有毛のものがあり、強いにおいのあるものが多い。青臭いようなこのにおいは、西洋人には好む人が多いが、日本人では嫌う人のほうが多い』とあり、ネット検索をかけると、薔薇に似ているとか、カメムシのような濃縮された青臭さであるとか、銅のようなな金属臭であるとか、花も含めて毀誉褒貶甚だしい(その成分の快いものを改良品種したものが最近は多いらしく、アロマ系の記載にも多出する)。蚊除けに葉の汁を肌に塗るとよいという叙述も見受けられ、調べてみるとゼラニウムの持つ成分の約1/3はシトロネロールという昆虫が忌避する成分であるらしい。ネットでは流石に匂いは嗅げない。残念。

「神かけて云々というような超請(オース)はこの国には無い」原文は単に“an oath is unknown”で、石川氏は分かり易く語を添えている。“oath”とはこの場合、“God damn you!”のような呪いや罵詈雑言などで用いられる神名の濫用を指す。

「莫迦と獣」原文“fool and beast”。「馬鹿野郎!」と「畜生!」。]

うら枯や家をめぐりて醍醐道 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   うら枯や家をめぐりて醍醐道

 畠の中にある田舍の家。外には木枯しが吹き渡り、家の周圍には、荒寥とした畦道が續いて居る。寂しい、孤獨の中に震へる人生の姿である。私の故郷上州には、かうした荒寥たる田舍が多く、とりわけこの句の情感が、身に沁しみて強く感じられる。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) シュメーを聴く 六首 中島敦   

    シュメーを聽く

 

女めかぬ音の強さやシュメー今腕をあらはにひた彈きに彈く

 

美しき腕にはあれどアレグロを彈きゐる見れば逞しと思ふ

 

日本のヷイオリニストのだらしなさシュメー聞きつゝしみじみと思ふ

 

盲人(めしひびと)宮城道雄の手をひきて禮(ゐや)するシュメー女(をみな)なりけり

 

「春の海」の琴にあはせて彈くシュメーなほ宮城氏をいたはるが如し

 

いさゝかに益良雄めけど立派なる顏とは見ずやシュメーの顏を

 

[やぶちゃん注:「シュメー」フランスのヴァイオリニストのルネ・シュメー(Renée Chemet 一八八八年~?)。これは恐らく昭和七(一九三二)年に来日した際のもので、この時、シューメは宮城道雄の「春の海」(昭和五(一九三〇)年歌会始の勅題「海辺の巖」に因み前年に作曲)を聴いて非常に気に入り、一夜でヴァイオリン合奏に編曲、そのSP版を録音している(日本ビクター原盤で後に米・仏でも発売されて世界的な名声を得た)。当時のシュメーの演奏について、小説家野村胡堂(音楽評論家「あらえびす」名義)は『シュメーのヴァイオリンは、そのフランス人らしい豊満な美貌と同じほどに妖艶なものであった。媚態という言葉は不穏当だが、少くともシュメーの演奏に接するものは、なんかしら、むずむずするような、極めて官能的な感銘を受けたものである。(中略)宮城道雄の琴と合奏した『春の海』は宣伝ほどは面白いものでない。この曲はむしろ、宮城道雄の琴に、吉田晴風の尺八で合奏したレコードの方が遥かに面白い。』(あらえびす「名曲決定盤」中央公論社、昭和一四(一九三九)年)と記している(Loree 氏のブログ「酒・女・歌」の春の海(宮城道雄/シュメー編曲)より孫引き)。その演奏と録音についてはピアニスト吉田秀晃氏のブログの宮城道雄(シュメー編):春の海に詳細を極める。同リンク先でも聞けるが、同氏がアップした最も正統なる同SPの非常にクリアーな全曲を宮城道雄:春の海 シュメー Chemetで聴くことが出来る。なお、この来日時にシュメーは四十四歳(因みに宮城道雄(明治二七(一八九四)年~昭和三一(一九五六)年)は三十八歳)であったが、その帰国後の消息は不明とする記事が多く、フランス語でフランスのサイト検索しても纏まった記事が見当たらない(四十四歳で事故死したかのように書かれたものもある)が、吉田氏の記事の中に、戦後の昭和三一(一九五六)年十一月三日附『読売新聞』の作家村松梢風の書いた本記SP録音に纏わる記事の中に昭和二八(一九五三)年に『パリでシュメーと宮城は再会し、懐かしい昔話をした』という記載があると記されてあるという(宮城は同年夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧している)、これが正しいとすればシュメーは少なくとも六十五歳までは健在であったことが分かる。彼女の写真はアメリカのヴァイオリニスト Emily E. Hogstad 嬢のサイト“Song of the Lark”の“women composersを。このエミリー嬢のキャプションを見るとシュメーは「フランスのクライスラー」とも称された事実が分かる(なお、私は妻が宮城流の琴を弾く関係上、苦手な邦楽の中でも宮城道雄は例外的な思い入れがあることを述べておきたい。このシュメーの注も、ただのネット検索のパッチ・ワークなんどではなく、そのような確かな興味関心の産物として書いたものと――私は普段の如何なる注でもそのような安易な思いでは注していないという点に於いても――お考え戴きたいということである)。]

あをい馬 大手拓次

 あをい馬

なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
わたしの身を うしろからつきうごかす
よわよわしい しのびがたいちからのやうでもある。
さうして 不安から不安へと、
砂原(すなはら)のなかをたどつてゆく
わたしは いつぴきのあをい馬ではないだらうか。

鬼城句集 秋之部 後の月/秋空

後の月   後の月唐箕の市に二三人

 

[やぶちゃん注:「唐箕」は「たうみ(とうみ)」と読み、穀粒を選別する農機具のこと。箱形の胴につけた羽根車で風を起こし、その力を利用して秕(しいな:殻ばかりで中身のない籾)や籾殻・ごみなどを吹き飛ばして穀粒を下に残す装置。]

 

      後の月に破れて芋の廣葉かな

 

      橋の上に猫がゐて淋し後の月

 

      後の月を寒がる馬に戸ざしけり

 

[やぶちゃん注:「後の月」十三夜・栗名月・豆名月とも言い、旧暦八月十五日の月見をした後に旧暦九月十三日にも望月から少し欠けたものを月見をする習慣をいう。十五夜では月見団子(十五夜は十五個で餡で、十三夜は十三個で黄粉で食す区別があったともいう)の他に里芋を神棚に供える(芋名月の由来)のに対し、十三夜では栗や枝豆を供える。一般に十五夜の月見と十三夜のそれは組となっており、十五夜だけで十三夜の月見をしないと「片月見」といって忌まれたという。月見自体は中国伝来であるが、十三夜は日本独自の風習で、一説に宇多法皇が九月十三夜の月を愛でて「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の延喜十九(九一九)年に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われているが、以上の記載の参考の一つにしたあい氏の「いろはにお江戸」の「江戸の四季」にある後の月によると、江戸吉原では八月十五日に登楼した客は片月見を言い立てられて九月十三日にも必ず登楼することを約束させられたとあり、しかも『片月見の習俗は、ほぼ江戸に限られており、地方にはあまり浸透していないことから、案外吉原の方が勝手に都合のいいことを言い出したのが、江戸に広まったのではないかという説もある』とも記されてある(雲上から亡八までというのが如何にも面白い)。因みに、今年二〇一三年の旧暦の十五夜は今日から四日後の九月十九日、十三夜は十月十七日である(大阪市立科学館のデータに拠る。で二〇二〇年までの両夜が確認出来るので来年以降も参照されたい)。]

 

秋空    秋空や日落ちて高き山二つ

 

      秋空や逆立ちしたるはね釣瓶

2013/09/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 20 市場探訪記


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図―24


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 旅行中の国の地方的市場を訪れることは、博物学の興味ある勉強になる。世界漫遊者は二つの重大な場所を訪れることを忘れてはならぬ。その土地の市場と、ヨーロッパでは土地の美術館とである。市場に行くとその地方の博物を見ることが出来るが、特にヨーロッパでは固有の服装をした農民達を見ることが出来るばかりでなく、手製の箱、籠等も見られる。横浜の市場訪問は興味深い光景の連続であった。莚を屋根とし、通路の幾筋かを持つ広い場所には、私が生れて初めて見た程に沢山の生きた魚類がいた。いろいろ形の変った桶や皿や笊を見る丈でも面白かったが、それが鮮かな色の、奇妙な形をした、多種の生魚で充ちているのだから、この陳列はまさに無比(ユニーク)であった。縁(ふち)よりも底の方が広い、一風変った平な籠は魚を入れるのに便利である。こんな形をしていれば、すべっこい魚とても容易に辷り出ないからである(図24)。いろいろな種(スペシス)の食用軟体動物(色どりを鮮かに且つ生々と見せるために、水のしぶきが吹きかけてある)を入れた浅い桶には、魅せられて了った。我国の蒐集家が稀貴なりとする標本が、笊の中にザラザラと入って陳列されている。男の子が双殻貝の小さな美しい一種をあけていたが、中味を取って見殻は惜気もなく投り出して了う。浅い桶に、我国の博物館では珍しいものとされている最も非凡な形をした大小のクルマエビや、怪異な形状で、奇妙な姿のカニが、ここにはいくつとなくある。大きな牡蠣に似た生物が一方の殻をはがれて曝されているが、心臓が鼓動しているのはそれが新鮮で生きている証拠である。真珠を産する貝 Haliotis カリフォルニア沿岸ではabalone といい、ここでは「アワビ」というものが、食品として売り物に出ている(図25。浅い竹籠に三つずつ貝を入れたのを売っていたが、その貝殻には美しい海藻や管状の虫がついていて、さながら海の生物の完全な森林を示していた。私が最も珍しく思ったのは頭足類で、烏賊(いか)も章魚(たこ)(図26)もあり、中には大きいのもあったが、生きたのと、すぐ食えるように茹(ゆ)でたのと両方あった。

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図―26

 

[やぶちゃん注:「双殻貝」原文“bivalve”。“bi-”(2の)+“valve”(殻)で二枚貝、斧足類のこと。

「大きな牡蠣に似た生物が一方の殻をはがれて曝されているが、心臓が鼓動しているのはそれが新鮮で生きている証拠である」これは悔しいことに分からない。六月という季節から考えれば岩ガキであろうが、「心臓が鼓動している」というのはおかしい(せいぜい刺激を加えると外套膜が縮む程度である)。その他の海鼠や海鞘(ほや)などの可動しそうなものを考えてみてもナマコならモースはナマコと表現するし、当時の東京や横浜で普通にホヤが売られていたとは思われないし、第一、はっきりと「大きな牡蠣に似た生物が一方の殻をはがれて曝されている」とあって、シャミセンガイ(彼等は貝ではないが)を専門とするモースが二枚貝以外のものをかく誤認した可能性は極めて低い。とすれば何か? マグロ等の魚類の心臓は極めて顕著に動くのを観察出来るが、やはり色と「大きな牡蠣」が合わない、新鮮なタイラギの殻の一方を外してディスプレイすると目立つが、貝柱が目立ってどう転んでも「大きな牡蠣に似」ているとは言えない。……やはりイワガキなのであろうか?……実は分らないことが無性に癪なのだが……どなたかこれ以外の生物の可能性をお教え願えると、これ、幸いである。

Haliotis」原文は斜体“Haliotis”。“Haliotis”は腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis(但し、図鑑などではアワビ属を Nordotis とするものも多い)。

abalone」原文は斜体“abalone”。「アヴァロウニィ」は英語でアワビ一般を指す語。]

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図―27

 

 これ等各種の生物はすべてある簡単な方法によって生かされている。即ち低い台の上にのせた大きな円い水槽に常に水を満たし、その水槽から所々に穴をあけた長い竹の管が出ていて、この穴から水がかなりの距離にまで噴出するのである。槽に入れる水は人が天秤棒(てんびんぼう)の両端に塩水を入れた重いバケツをぶら下げて、海と市場とを往復するのであるが、私はこのようにして数マイルも海岸を距った地点にある市場へ海水を運ぶ人を見たことがある。噴き出す水を受けるのは洗い桶で、それには生魚が入っている。このようにして新鮮な海水が魚に与えられるばかりでなく、その水は同時に空気を混合される(図27)。食料として展観される魚の種妖の数の多さには驚かざるを得ない。日本には養魚場が数箇あり。鮭は人工的に養魚される(*)。

[やぶちゃん注:「数マイル」1マイルは約1・6キロメートル。「数」は2~3から5~6までの漠然とした数字を示すから約3・2~9・6キロメートルとなる。

 (*)は底本では「養魚される」の「る」の右に小さく附す。次の原注は底本では全体が一字下げのポイント落ちである。原注の前後に一行空きがあるので、私の注も含めて前後に二行空けた。]

 

 

* 合衆国漁業委員会最初の委員長ベアド教授の談によると、我国の近海にも日本の海に於ると同程度に沢山の可食魚類がいるのだが、我々が単に大量的に捕え得る魚のみを捕えるのに反して、日本の漁夫は捕った魚はすべて持ち帰り、そしてそれを市場で辛棒強くより分けるのである。

[やぶちゃん注:「合衆国漁業委員会最初の委員長ベアド教授」原文“Professor Baird, the first Director of the United States Fish Commission”。スペンサー・フラトン・ベアード(Spencer Fullerton Baird 一八二三年~一八八七年)はアメリカの生物学者。ペンシルバニア生まれ。一八四〇年にペンシルバニアのディキンソン・カレッジを卒業、医学を学ぶためにニューヨークのコロンビア大学に進学するが、二年後にペンシルバニアのカーライルに戻り、一八四五年からディキンソン・カレッジで教え始めた。この間、盛んに動植物の採集旅行を行い、一八四八年、スミソニアン協会のペンシルバニアのボーンケーブの調査と博物学的調査に雇われ、精力的に標本採集に努めた。一八四〇年代にアメリカ合衆国北西部から中央部の各地をしばしば歩いて旅し、一八四二年だけでも三〇〇〇キロメートルを踏破している。一八五〇年、スミソニアン協会の最初の学芸員として雇われ、アメリカ科学振興協会の常任事務局員(Permanent Secretary)に、アメリカ科学振興協会にも三年間務め、重複した標本を他の博物館で重複した標本と交換することで収蔵品を確実に増やしていった。後、副事務局長となり、出版と各国の会誌の流通を促進、各国の研究者に便宜を齎した。一八五六年にはディキンソン・カレッジから博士号を受ける。休暇時はマサチューセッツの海岸の町ウッズ・ホールで過ごし、そこで魚類学に興味を持つようになり、一八七一年には米国魚類委員会委員長に任命され、水産資源の調査に貢献し、ウッズ・ホールを世界の海洋生物研究の中心地に育て上げた人物である。一八七二年にはアメリカ国立博物館のマネージャーとなった。後、スミソニアン協会の副事務局長、一八八三年にアメリカ鳥学会の創立メンバーともなっている。一八五〇年に六〇〇〇だったスミソニアン博物館の標本を彼は没した時点で二〇〇万にまで増やしている(以上はウィキの「スペンサー・フラトン・ベアード」に拠った)。“United States Fish Commission”は正確には“The United States Commission of Fish and Fisheries”(魚及び漁業に関わる米国委員会)であるが一般的に“the U.S. Fish Commission”(米国魚類委員会)と呼称されている(以上は英語版ウィキの“United States Fish Commissionに拠る)。]

 

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図―28

 市場の野菜部は貧弱である。外国人が来る迄は極めて少数の野菜しか知られていなかったものらしい。ダイコンと呼ばれるラデイッシの奇妙な一種は重要な食物である。それは長さ一フィート半、砂糖大根の形をしていて、色は緑がかった白色である。付合せ物として生で食うこともあるが、また醸酵させてザワクラウトに似たような物にする事もある。この後者たるや、私と一緒にいた友人の言をかりると、製革場にいる犬でさえも尻尾をまく程臭気が強い。往来を運搬しているのでさえも判る。そしてそれは屑(ごみ)運搬人とすれ違うのと同じ位不愉快である。トマトは非常に貧弱でひどく妙な格好をしているし、桃は小さく固く、未熟で緑色をしている。町の向う側で男の子が桃を嚙る音が聞える位であるが、而も日本人はこの固い、緑色の状態にある桃を好むらしく思われる。梨はたった一種類しかないらしいが、まるくって甘味も香りもなく、外見と形が大きな、左右同形のラセットアップルに似ているので、梨か林檎か見分けるのが困難であった。果実は甘さを失うらしく、玉蜀黍(スイート・コーン)は間もなく砂糖分を失うので数年ごとに新しくしなければならぬ。莢(さや)入りの豆は面白い形をした竹の筵に縫いつけられて売物に出ている(図28)。鶏卵は非常に小さい。我々が珍しいものとして保存するものを除いては、今迄に見たどの鶏卵よりも小さいのが、大きな箱一杯つまっている所は中々奇妙に思われた。

[やぶちゃん注:「ダイコン」我々には馴染みの、本邦産のビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科ダイコン Raphanus sativus var. longipinnatus (原ダイコンの原産地は地中海地方や中東で、紀元前二二〇〇年の古代エジプトで現在のハツカダイコン(次注参照)に近いものがピラミッド建設労働者の食料とされていたのが最古の栽培記録とされ、その後ユーラシアの各地へ伝わった)の原種ははっきりしていない。染色体はn=9で、アブラナ属の多くの野菜と同様に自家不和合性を持ち、交雑しやすい。遺伝学的研究から日本のダイコンはヨーロッパ系統・ネパール系統とは差が大きく、中国南方系統に近いことが確認されている。日本には弥生時代には伝わっており、平安時代中期の「和名類聚抄」の「卷十七 菜蔬部」には、園菜類として「於保禰」(おほね)が挙げられている。ちなみにハマダイコンまたはノダイコンと見られる「古保禰」(こほね)も栽培され、現在のカイワレダイコンとして用いられていた。江戸時代には近郊の板橋・練馬・浦和・三浦半島などが既に特産地となっており、その中でも練馬大根は特に有名であった。農林水産省野菜試験場育種部一九八〇年発行の「野菜の地方品種」野菜試験場によれば、全国で一一〇品種が記録されている。二〇一〇年度の生産量は全国で一一七万トンで日本のダイコン生産量は世界一である(以上はウィキの「ダイコン」に拠った)。

「ラデイッシ」原文“radish”。ダイコン属ダイコン変種ハツカダイコン Raphanus sativus。原産はヨーロッパで、日本には明治時代に伝来し、すこぶる近年になってから人気が出るようになった(私も大好物であるが、大きさと個数の割に高いと常々思っている)。英名はラテン語 “rādix”(ラディクス:根。)に由来する。

「一フィート半」45・7センチメートル。

「砂糖大根」ナデシコ目アカザ科フダンソウ属テンサイ亜種テンサイ Beta vulgaris ssp. vulgaris var. altissima。見かけはダイコンやアブラナ属のカブに似るが、御覧の通り、ダイコンとは全くの別種である。ビートの砂糖用品種群でサトウキビと並ぶ砂糖の主要原料であり、根を搾ってその汁を煮詰めることで砂糖を採取する。葉と搾り滓(ビートパルプ)は家畜の飼料として利用され、全世界の砂糖生産量の内の約35%をテンサイが占めている。日本では北海道を中心に栽培されており、テンサイから作られた砂糖は甜菜糖(てんさいとう)と呼ばれ、国内原料による日本の砂糖生産量の約75%、日本に於ける砂糖消費量の25%がテンサイによるものである。本邦における甜菜糖業はモースの来日の二年後の一八七九年に官営工場が北海道内二箇所(現在の伊達市および札幌市)に建設されたことに始まる(テンサイは寒さに強い寒冷地作物で中・高緯度地域に於いて栽培される)。これらの工場は明治三四(一九〇一)年には閉鎖されたが、大正八(一九一九)年に北海道製糖(現在の日本甜菜製糖)が帯広市郊外に製糖工場を建設、その後、ホクレン農業協同組合連合会と北海道糖業を加えた二社一団体体制で現在に至っている(以上はウィキの「テンサイ」に拠った)。

「醸酵させてザワクラウトに似たような物にする」これは続く文の臭気の記載からお分かりの通り、沢庵漬けのことを指している。

「ラセットアップル」原文“russet apples”。底本には直下に『〔朽葉色の冬林檎〕』という石川氏の割注が入っている。“russet”とは、黄褐色・赤褐色・薄茶色・茜色・朽葉色で、まさに一般に我々が思い浮かべる梨の色をした赤リンゴの一種である。リサ氏のブログ「旬のイギリス」の「【ナショナルトラスト】 Russet appleの記事によれば、この“russet”という語には「皮に粉が吹いた状態」を指す意があるそうで、『これだけでもかなりの種類があ』り、一七〇〇年代『に盛んに作られていた古種なのだそう』である。写真を掲げられて彼女も『色が梨みたいですよね』とある。

「果実は甘さを失うらしく、玉蜀黍(スイート・コーン)は間もなく砂糖分を失うので数年ごとに新しくしなければならぬ。」原文は“The fruit seems to lose its sweetness, and sweet corn has to be renewed every few years, as it soon loses its sugar.”。底本には直下に『〔外国から苗種を輸入した植物のことであろう。玉蜀黍は数年ごとに直輸入の種子を蒔かぬと、甘さが減じて行くのであったろう。〕』という石川氏の非常に長い割注が入っている。単子葉植物綱イネ目イネ科トウモロコシ Zea mays は本邦への伝来が遅く、1579年にポルトガル人から長崎または四国に伝播されたもののこれは食用・家畜用飼料・工業用原料に主に使用される極めて硬い硬粒種(フリントコーン)で、本格的に栽培されるようになったのは、明治初期にアメリカから北海道にスイートコーン・デントコーンが導入されてからである。なお、我々が普段用いている「スイートコーン」(甘味種)や「ポップコーン」(爆裂種:文字通り、菓子のポップコーン用を作るのに使用するもの)という語は単に種子の性質による分類であって品種名とは異なる。則ち、スイートコーンという品種は存在しない(以上はウィキの「トウモロコシ」に拠る)。]

耳嚢 巻之七 疝氣妙藥の事

 疝氣妙藥の事

 

 狩野友川(かのういうせん)咄し。同人疝氣にて兎角腰痛致常(いたしつね)に苦しみけるが、或人西國米を日々五粒づゝ用ゆるは奇功あると語りしに、藥種屋にて求めて不絶(たえず)用ゆ。右の疝氣忘るゝ如く快くて、文化三年予許(よがもと)へ來りて、畫(ゑ)かきける時咄しぬ。右西國米は黄(わう)はくの實(み)也といふ人あれど、名□唐藥也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、河童の呪歌による河童被害から逃れる法はこの民間療法シリーズに当時にあっては大真面目に内包されるものと思われ、私などにはスラーのように自然に続いて読める。以前にも述べたが根岸は疝気持ちであった。なお、年記載から本話が極めてアップ・トゥ・デイトな記録であることが分かる(以下の「狩野友川」の注の終わりを参照のこと)。

・「狩野友川」絵師狩野寛信(安永六(一七七七)年~文化一二(一八一五)年)。別号、融川(友川)後に青悟齋。浜町狩野家(江戸幕府御用絵師御三家の一つで公的に認定され世襲で旗本扱いであった)五代目当主であったが将軍徳川家斉の時、朝鮮王へ贈る近江八景の屏風絵を描くよう命ぜられたが、老中(底本の鈴木氏注では『阿部豊後守』とするが、文化一二年当時の老中には該当者がいない。阿部姓だと書画をよくした阿部正精(まさきよ)ならいるが、彼は対馬守・備中守である上に彼が老中になるのは文化一四(一八一七)年であるから全く合わない)にその画の金砂子のタッチが薄く少ないと指摘された。寛信は、近景は濃くし、遠景は薄いものであり直す必要はないと主張したが、老中は補修を命じたため、寛信は憤慨、よき画家というものは俗世間の要求に屈服しかねるとして、城から下がる途中の輿の中で割腹(一説に服毒)して果てた。享年三十八歳(以上は、鈴木氏注以外に個人ブログ「夜噺骨董談義」の「忘れさられた画家ーその5 太公望 狩野融川筆」を参考にさせて戴いた)。親しかった青年絵師(「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから当時の「狩野友川」は未だ満二十九歳で、根岸は四十九歳であった)の非業の死を根岸はどう感じたであろうか。但し、根岸の死も同じ文化一二年の十一月四日のことではあった。

・「腰痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『服痛』とあり、長谷川氏が「服」の右に『〔腹〕』と訂しておられる。疝気であれば確かに服痛の方が自然ではある。ただ疝気は特に女性に多くみられる服痛や男性の睾丸痛を指す語であるので、部位として「腰痛」という表現は必ずしもおかしくない。

・「西國米」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『四国米』とする。実は「西国米」はある。これで「せーかくーびー」「しーくーびー」と読み、一つは沖縄宮廷料理に用いる澱粉で作った米粒状のものを茹でて砂糖水に浮かせて供するものを指し(沖縄の「料亭那覇」の公式サイトのここを参照した)、またネット検索で沖縄方言では現在そうした伝統料理に酷似したタピオカのことをかく言うことも分かった。なおタピオカは植物名ではなく、料理(デザート)名で、バラ亜綱トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ Manihot esculenta の根茎から製造したデンプンで、ご存知の通り、菓子の材料や料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎとしても用いられるものである。参照したウィキの「タピオカ」に、我々がしばしば中華料理のデザートで見る球状のタピオカについて、以下のように記述がある。『糊化させたタピオカを容器に入れ、回転させながら雪だるま式に球状に加工し、乾燥させたものは「スターチボール」、「タピオカパール」などと呼ばれ、中国語で「粉圓」(フェンユアン fěnyuán)と呼ぶ。煮戻してデザートや飲料、かき氷、コンソメスープの浮身などに用いられる。黒、白、カラフルなタイプとさまざまな色が着けられた製品がある』。『従来より、サゴヤシのでん粉で作られ、「西穀米」(中国語 シーグーミー、xīgǔmǐ)、「西米」(シーミー、xīmǐ)と呼ばれていたが、現在は安価なタピオカに切り換えられているものが多く、「西米」という呼称も避けられている。また、大きい粒には食感調整のために甘薯(さつまいも)デンプンが加えられていることが多い』。『このタピオカパール、スターチボールをミルクティーに入れたタピオカティー(珍珠奶茶)は、発祥の地である台湾はもとより、現在では日本や他の東南アジア、欧米諸国などでも広く親しまれている』。『中華点心では小粒のものを煮てココナッツミルクに入れて甘いデザートとして食べる。他に、ぜんざいのように豆類を甘く煮た汁と合わせたり、果汁と合わせたりもする。台湾や中国とつながりが深い沖縄では、「西穀米」の福建語読みが語源と思われる「シークービー」または「セーカクビー」という呼び方で、伝統的に沖縄料理のデザートとして利用してきた』。乾燥状態で直径五ミリメートル『以上の大きな粒の場合、煮戻すのに2時間程度かかる。また、水分を少なめにして煮ると粒同士が付きやすくなるので、型に入れて冷やし、粒々感のあるゼリーの様なデザートを作ることもできる。欧米では、カスタード風味のタピオカプディングがよく知られている』とあり、この記載から実はこの狩野が飲んだ「西國米」(せいかくーびー)はサゴヤシである可能性が高い。サゴヤシはマレー語・インドネシア語の“sagu”の英語化した“sago”と椰子の合成語で、樹幹から現地で「サゴ」と呼ぶ食用デンプンが採取出来るヤシ科やソテツ目の植物の総称である。参照したウィキの「サゴヤシ」によれば、『サゴはヤシ科のサゴヤシ属(Metroxylon)など11属から採れるほか、ソテツ目のソテツ属(Cycas)など3属からも採れる。英語ではサゴが採れるソテツ属の植物も sago palm と言うことがある』とあり、『サゴヤシは東南アジア島嶼部やオセアニア島嶼部の低湿地に自生する。サゴヤシの植物学的な研究は発展途上であり、原産地は未だ解明されていない』。『東南アジアではイネの導入以前に主食の一端を占めていたと考えられている。南インドでも食べられている。パプアニューギニアでは現在でもサゴヤシのデンプンを主食とする人々がおよそ30万人いる。一方、ミクロネシアやポリネシアではほとんど食べない』。『ソテツ属のソテツから取るデンプンは琉球列島や南日本でも食用とされていた』と「分布・地域誌」を述べ、続く「歴史」の項では『文献記録上最も古い言及は、マルコ・ポーロの旅について書かれた13世紀の『東方見聞録』ではないかと言われている。文中に「スマトラには、幹に小麦粉が詰まった喬木がある。木の髄を桶に入れて大量の水を注ぎしばらく置くと、底に粉が沈殿する。この粉で作ったパンは、大麦のパンに味が似ている」との記述がある』とする。そして「利用法」の項の記述の中に『キャッサバの芋から取るデンプンのタピオカを加工して作られる球状のタピオカパールと同様に、サゴからもサゴパールが作られる。サゴから作ったパールの方がタピオカパールよりもずっと歴史が長く、東南アジアからヨーロッパ、中国、台湾、琉球王国などにも輸出され、中華圏では「沙穀米」や「西穀米」、琉球では「セーカクビー」などと称された』と出、しかも本「耳嚢」の記載より遙か昔の、天正一九(一五九一)年に明の高濂(こうれん)によって編纂された百科全書「遵生八牋」(じゅんしゅはっせん)巻十一にも「沙穀米粥」の調理法について記載がある(篠田統「中国食物史」柴田書店による)と記してあるのである。

・「黄はく」底本には右に『(黄檗カ)』と補注する。ムクロジ目ミカン科キハダ Phellodendron amurense で、「黄檗」「黄膚」「黄柏」とも書く。この樹皮を乾燥させた黄檗(オウバク)は生薬として有名であるが、実は聞かない。ウィキの「キハダ」の「生薬」の項によれば、『樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれている、また黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』と記した後に、『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とあるから、食用が可であること、されば本邦の民間薬として用いられた可能性が高いことが窺われる。

・「名□唐藥也」底本には「□」の右に『(詮カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はこの部分、前文から続いて、以下のように一度切れて、続く。

 ……といふ人あれどたしかならず。唐薬なり。

バークレー校版で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疝気の妙薬の事

 

 御用絵師狩野友川(かのういうせん)殿の話。

 同人は私同様、疝気持ちであられ、とかく刺すような腰の痛みが常に致いて、大いに苦しんで御座ったとのことであったが、ある御仁が、

「西国米(せいかくーびー)を日々五粒ずつ服用致さば、奇効、これ、御座る。」

と語ったによって、薬種屋にて求めて、欠かさず服用致いたと申す。

 すると、かの執拗(しゅうね)き疝気、これ、忘るる如く、快癒致いたと申す。

 文化三年、私の元へ参られ、絵を描いていただいた折りにお話し下された。

 この西国米と申すは黄檗(おうばく)の実(み)のことである、と申す者もあるが、これ今一つ、分明ではないようである。ともかくも、中国渡りの薬ではある。

うら枯やからきめ見つる漆の樹 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   うら枯やからきめ見つる漆の樹

 木枯しの朝、枝葉を殘らず吹き落された漆の木が、蕭條として自然の中で、ただ獨り、骨のやうに立つて居るのである。「からきめ見つる」といふ言葉の中に、作者の主觀が力強く籠こめられて居る。悲壯な、痛々しい、骨の鳴るやうな人生が、一本の枯木を通して、蕭條たる自然の背後に擴がつて行く。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) シゲッティを聞く 三首 中島敦

     シゲッティを聞く

我が好む曲にあらねどこの人のクロイツァ・ソナタ心に沁むよ

この國の花柳作家にあらねどもまごころをもてシゲッティは彈くか

髮うすき額の汗をぬぐひゝ禮するシゲッティの顏の眞面目さ

[やぶちゃん注:太字「まごころ」は底本では傍点「ヽ」。

「シゲティ」ハンガリー出身のヴァイオリニストであるヨゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti 一八九二年~一九七三年)。二十世紀を代表するヴァイオリン奏者の一人。参照したウィキの「ヨゼフ・シゲティ」によれば、『歴史的演奏家の中ではハイフェッツらとともに来日歴が多く、日本では親日派の巨匠として知られる』とあり、調べてみると、初来日は昭和六(一九三一)年(中島敦満二十二歳で未だ帝大二年生)、二度目が翌七年で(三度目は戦後)、敦はこの孰れかの公演を実見しており、その記憶に基づく短歌である。

「クロイツァ・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調作品47。フランスのヴァイオリニストであったロドルフ・クレゼール(Rodolphe Kreutzer ドイツ語読みではロドルフ・クロイツェル)に捧げられたため、『クロイツェル・ソナタ』(Kreutzer Sonata)と呼ばれる。

「この國の花柳作家」と言えば近代なら永井荷風や泉鏡花であろうが、これは特定の花柳小説の作者を指すのではなく、その正統的源流である井原西鶴・近松門左衛門に代表される江戸の浮世草子や浄瑠璃作家から近代の花柳小説作家の、身を売る女の物語或いは身を売った女と男の交情を描くことを節とした花柳情話の作家たちの思い、真心を以って悲劇の男女の情を捉えようとする気構えを指しているように私には思える。大方の御批判を俟つ。]

道化服を着た骸骨 大手拓次

 道化服を着た骸骨

この 槍衾(やりぶすま)のやうな寂しさを のめのめとはびこらせて
地面のなかに ふしころび、
野獸のやうにもがき つきやぶり わめき をののいて
颯爽(さつさう)としてぎらぎらと化粧する わたしの艷麗な死のながしめよ、
ゆたかな あをめく しかも純白の
さてはだんだら縞の道化服を着た わたしの骸骨よ、
この人間の花に滿ちあふれた夕暮に
いつぴきの孕(はら)んだ蝙蝠(かうもり)のやうに
ばさばさと あるいてゆかうか。

鬼城句集 秋之部 月/十六夜

月     とく見よや門前月の出るところ

 

      庵の窓にまだ月のある二十日かな

 

      小百姓の醉うってねむるや月の秋

 

      月出でゝつんぼう草も眺めかな

 

[やぶちゃん注:「つんぼう草」キク目キク科タンポポ亜科タンポポ連アキノノゲシ Lactuca indica の異名で聾草(つんぼぐさ)のこと。タンポポの綿毛を小さくしたような種子がタンポポ同様、耳に入ると聾になるという迷信による。]

 

      名月や海につき出る利根の水

 

      月の戸やありあり見ゆる白馬經

 

[やぶちゃん注:「ありあり」の後半は底本では踊り字「〱」。「白馬經」享保一一(一七二六)年刊の俳諧作法書「芭蕉翁廿五箇条」。芭蕉撰とされるが各務支考の偽作疑惑が濃厚。蕉風俳諧の付合(つけあい)作法を説いたもの。「貞享式」とも呼ぶ。]

 

      飼猿や巣箱を出でゝ月に居る

 

      二三尺月に吹きあげる吹井かな

 

      山月や影法師飛んで谷の底

 

十六夜   甥の僧とさみしう酌みぬ十六夜

 

      十六夜ひとりで飮んで醉ひにけり

 

[やぶちゃん注:前句の組句になってこそ面白い句である。]

 

      月さして古蚊帳さむし十六夜

2013/09/13

耳嚢 巻之七 川狩の難を遁るゝ歌の事

 川狩の難を遁るゝ歌の事

 

 上總國夷隅郡岩和田村半左衞門と言(いへ)る方へ、其村の船頭の來り、此程よるよる河童來り怖しき由語りければ、半左衞門家に夢承相の歌とて持(もち)傳へしを書(かき)てあたへければ、其後は河童來りても其儘逃去(にげさり)しとや。其古歌は、

  ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら

 右のひよふすべといふは、川童(かはわろ)の由、官神の緣のよしといふも疑(うたがは)し。土人の物語也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、五つ前の「河怪の事」と同じ夷隅郡しかも川の怪奇譚で強く連関する(その前後も上総が舞台の民話・世間話)から、これも当該話の話者である七都(なないち)がニュース・ソースであったか。

・「岩和田村」現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田。網代湾の東北部分の臨海地区であり。直近の河童が棲息しそうな川は、網代湾奥から御宿町を蛇行しながら縦断する清水川と考えられる。

・「夢承相」意味不明。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『菅丞相(かんしょうじょう)』(歴史的仮名遣では「くわんしようじやう」)とあり、これなら菅原道真の異称で後に出る呪歌の伝承ともうまく一致する。これで採る。

・「ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら」「ひふすべ」は後に記される「ひよふすべ」で、これは河童の一種とされる妖怪の名である。他にもひょうすえ・ひょうすぼ・ひょうすんぼ・ひょうすんべ等とも呼び名する。以下、ウィキの「ひょうすべ」によれば、佐賀県や宮崎県を始めとする九州地方に伝承されるもので、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるものの、実際には河童よりも古くから伝わる呼称ともされる。元の起源は古代中国の水神・武神であった兵主神(ひょうしゅしん)が秦氏ら帰化人と共に伝わったともされ(「ひょうしゅ」が「ひょうず」「ひょうす」「ひょうすべ」と転訛したということであろう)、それが本邦では専ら食料の神として習合して信仰され、現在でも滋賀県野洲市・兵庫県丹波市黒井などの土地では兵主(ひょうず)神社の祭神として祀られているという。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。中でも尤もらしい起源説を含む伝承は、例えば佐賀県武雄市のもので、嘉禎三(一二三七)年に武将橘公業(きみなり)が『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』というものや、『かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』とある。前者は本話の呪歌とも関係が深いもので、『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』とある。他にも道真絡みの伝承が福岡県の北野天満宮に伝わり、実際に「河伯の手」と呼ばれる河童(ひょうすべ)の手のミイラが残るが、これは九〇一年に大宰府に左遷させられた道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、若しくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる(この部分はウィキの「河童」に拠った)。因みに、ひょうすべの特徴を纏めておくと、河童の好物が胡瓜といわれることが多いのに対し、ひょうすべの場合は茄子を好物とするという。人間に病気を流行させる妖怪との説もあって、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するともいい、茄子畑を荒すひょうすべを目撃した女性が全身が紫色(茄子の色であると同時にひょうすべの体色ででもあるのかも知れない)になって死んだという話もあるとする。ひょうすべは一般に毛深いことが外観上の特徴とされ、その体毛や浴びた湯水には毒性があり、触れた馬が死んだ、ひょうすべ自体が馬を殺すという伝承もあるようである(河童駒引きと同話である)。

 「飼置せし」「かひおきせし」と読むのであろう。道真が契約によって彼らを保護使役(飼いおく)したことというニュアンスであろうか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの歌、

  ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら

で後で見るように、この句形の方が知られており、しかも分かりがよい。今回、訳ではこの句形を採用することとした。

 「川立おとこ」泳ぎの上手い男。

 底本で鈴木氏はこの歌に、『これとほぼ同じ歌は河童除けの呪歌として各地に伝えられている。たとえば『諸国俚人談』には肥前国諫早の例として、『中陵漫録』には豊後の例として出ている。『物類称呼』には九州で川下りをする時に、「古の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」と唱えるとある。かつて河童が菅原氏の人に糾明せられて、助命と引換えに今後は人間にわるさをせぬと約束したという説話がこれに伴うべきであろう』と注されておられるが、まさに先の北野天満宮の、道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童が逆に道真に手を切り落とされ、普遍的な河童の詫び状伝承に見られるようにそれと引き換えや謝罪のために、万能の霊薬の製造法や言質状を差し出すというパターンである。なお、鈴木氏の挙げた和歌を含むものを仔細に見ておくと、

「諸国俚人談」(俚は里とも書く)は「卷之二 四 妖異部 河童歌 肥前」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第二期第24巻を用いたが、恣意的に正字化した)。

   〇河童歌

肥前國諫早の邊に河童おほくありて人をとる。

    ひやうせへに川にたちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

此歌を書て海河に流せば害をんさずとなり。ひやうすへは兵揃にて所の名なり。此村に天滿宮のやしろあり。よつてすがはらといふなるべし。〇又長崎の近きに澁江文太夫といふ物、河童を避る符を出す。此符を懷中すれば、あへて害をなさずと云。或時、長崎の番士、海上に石を投て、其遠近をあらそひ賄(うけもの)して遊ぶ事はやる。一夜澁江が軒に來りて曰、此ほど我栖に日毎石を投けおどろかす。是事とゞまらずんば災をなすべしとなり。澁江驚きこれを示す。人皆奇なりとす。

「賄(うけもの)」とは賭けのことであろう。「投け」はママ。この話柄はもしかすると本来は、石投げをやめさせて呉れる交換条件に、河童自身が害を避ける霊符を澁江なる侍に伝授したという原型をも連想させるように思われる叙述である。そうすると霊符の出所も由縁もすっきりして納得出来る伝承となるように私には思われるが、如何であろう。さらに「中陵漫録」は「卷之六」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第三期第3巻を用いたが、恣意的に正字化した)。

   〇河太郎の歌

河太郎の人を害する事希にあり。怪しき川に入り水を浴し、又魚を釣るべからず。奥州には此害なけれども、西土には時々此害に逢ふ。此爲に豊後の某、河太郎を禁る事を知て靈符を出す。若し獵に行、或は怪しき水を渡りし時は、此歌三遍祝すべし。其害を防ぐ事、信にしかりと云へり。

    ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

「禁る」は「いさめる」、「信に」は「まことに」と訓じていよう。

 さて、以上を綜合して考えると、この歌は

――ひょうすべどもよ、お前らが人に悪さを致さぬと私と約束したことを忘れるな! ひょうすべなんど、物の数ではない、何層倍も泳ぎの達者なその男の氏(うじ)は「菅原」だってことを、な!――

という、史上最大級の御霊のチャンピオン、道真由来の呪歌の、かなり、ステロタイプな一つであることがよく理解されるのである。

・「官神」底本では右に『(菅神)』という訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 川漁の際に河童の難を遁るる歌の事

 

 上総国夷隅郡(いすみのこおり)岩和田村の半左衛門と申す者の元へ、その村の船頭が来たって、

「……実はこの頃、夜の漁(すなど)りに出ずるに、夜な夜な、河童らしき妖怪(あやかし)が現われては、脅かすによって、怖しゅうてなりませぬ。……」

と語ったによって、半左衞門は『菅丞相(かんしょうじょう)の歌』とて、代々家に伝わって御座る呪(まじな)いの和歌を書いて与えたところが、その後は河童が舟近くに現われても、何もせず、そのまま逃げ去るようになったとか申すことで御座った。

 その古歌と申すは、

  ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら

と申す一首なそうな。

 この和歌の「ひよふすべ」と申すは、川童(かわわろ)、河童のことを言う由にて、その呪文は菅公天神さまの縁(えにし)によるもののなりと申すも――これは、まあ、疑わしきものでは御座る。

 地(じ)の者の物語った話で御座る。

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 三 單爲生殖(3)ミツバチの例 /了


Mitubatiseisyokunou


[雌の蜜蜂の腹部の内臟を左側から見た圖

圖の中央から左當り米粒を竝べた如くに見えるものは卵巣

卵巣から出てゐる管は輸卵管

輸卵管の上に見える球形の小嚢受精嚢]

 

 以上はいづれも個體の數を速に增加させるための單爲生殖であるが、他の場合には單爲生殖か兩親生殖かによつて生まれる子に雌雄の差の生ずる例がある。その有名なものは蜜蜂であるが、蜜蜂の一社會には卵を産む雌はたゞ一疋よりない。これが所謂女王である。雄はこれに對して數百疋もあるが、實際雌と交尾するものは、その中でたゞ一疋よりない。しかして女王がこの雄と交尾するのは一生涯中にたゞ一囘で、それから後卵を産むに當つては、卵に精蟲を加へることも精蟲を加へずして卵のみを産み出すことも、女王の隨意である。交尾すればむろん雄蜂から女王の體内に精蟲が入り込むが、女王の生殖器にはこれを受け入れるための受精嚢があるから、まづその中へ收めて置き、後に至つて産卵するとき、この嚢の口を開いて精蟲を出すことも出來れば、それを閉ぢて精蟲を出さぬようにも出來る。されば女王の産んだ子には父のあるものと父のないものとがあるが、父のあるものはすべて雌になり、父のないものはすべて雄になる。そして雌は生まれてからの養育のしかたにより、或は働き蜂ともなりまたは女王ともなる。かやうな次第で雄蜂は母から生まれ、母には夫があるが、これはたゞ義理の父とでもいふべきもので、眞に血を分けた父ではない。同じ母から生まれた兄弟でありながら、姉や妹には皆父があつて、兄や弟には父がないといふのは、動物界でも他に餘り類のない例で、これにはまた何か種族の生存上に都合のよい點が必ずあつたのであらうと思はれるが、今日の所ではまだ確な理由はわからぬ。

[やぶちゃん注:二文目の最初の「蜜蜂」は底本では「蜂蜜」。錯字なので訂した。この段落に解説されたミツバチの性決定のシステムは半倍数性(単倍数性)と呼ばれるものである。以下、ウィキの「倍数性」によれば、ハチ類(ハチ・アリ)の一部及び甲虫類の一部(キクイムシ)に見られる性決定の様式で、このシステムにおいては性染色体は存在せず、染色体数によって性が決定される。丘先生のおっしゃるように、未受精卵から生じる一倍体(半数体)の個体は雄となり、受精卵から生じる二倍体の個体は雌となるのである。『雄のミツバチの遺伝子は母親である女王バチに完全に由来する。女王バチの染色体は32本、雄バチの染色体は16本である。雄バチの遺伝子は次代の雄に伝わらず、従って雄バチには父がなく、雄の子もない。雌である働きバチの遺伝子は半分が母親に、半分が父親に由来する。このため、女王バチが単一の雄と交配した場合、生まれる働きバチから抽出した任意の2個体は平均3/4量の遺伝子を共有する。二倍体である女王バチのゲノムは染色体の乗換えの後に卵細胞に分配されるが、父親のゲノムは変化せずに受け継がれる。従って雄バチの産生する精子は遺伝的に同一』なものとなるのである。恐らくはここにミツバチがこうしたシステムを採る戦略の企図が隠されているように思われる。]

無限の彼方へ向うグールドのバッハ

ああ……遂にあのグレン・グールドの弾くバッハの平均律第1巻第1番が恒星間空間の彼方へと響いてゆく……

Glenn Gould plays Bach Prelude in C Major

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 19 倉・竹箒・ミシン・人力車・箸

 東京の町々を通っていて私はいろいろな新しいことを観察した。殆どすべての家の屋梁(やね)の上に足場があり、そこには短い階段がかかっている。ここに登ると大火事の経過がよく判る。まったくこの都会に於る火事は、その速さも範囲も恐る可きものが屢々(しばしば)ある。人の住いはたいてい一階か二階建ての、軽い、見た所如何にも薄っぺらなものであるが、然し、かかる住宅の裏か横かには、厚さ二フィート、あるいはそれ以上の粘土か泥の壁を持つ防火建築がある。扉や僅かな窓の戸も、同じ材料で出来ていて非常に厚く、そして三つ四つの分離した鋸歯がついている点は、我国の金庫の扉と全く同じようである。家と家とは近接していはするが、一軒一軒離れている。大火事が近づいて危険になって来ると、この防火建築の重い窓の戸や扉を閉じ、隙き間や孔を粘土でふさぐ。その前に蠟燭数本を床の安全な場所に立てて点火するのは、かくて徐々に酸素を無くし引火の危険を減ずるためである。日本人は燃焼の化学を全然知らぬものとされているが、実際に於ては彼等その原理を理解し、且つ私の知る限り、他の国ではどこでやっていないのに、その原理を実地に応用しているではないか。このような建物は godown と呼ばれる。これはインド語である。日本では「クラ」という。商人や家婦が大急ぎで荷物をかかる倉庫に納め、近所の人達もこのような保護を利用する。大火事の跡に行って見ると、この黒い建物が、我国の焼跡に於る煙突のような格好で立っている。焼け落ちた蔵を見ると、我国で所謂耐火金庫のある物で経験することを思い出す。

[やぶちゃん注:「godown」原文は“godowns”。この単語は「ゴーダウン(ズ)」と読み、インド及び東南アジアなどに於いて倉庫や貯蔵所を意味する英語として古くから用いられてきた単語である(マレー語の“goding”に由来するという)。「日本人の住まい」(斎藤正二・藤本周一訳・八坂書房一九九一年刊)にも「第一章 家屋」の総説の台所について解説する中で、モースは『中流以上の阿井給が住む家屋の場合には、堅牢なつくりの、厚壁の、平屋(ひらや)もしくは二階建ての、倉 kura と呼ばれる耐火構造の建物が付随している。この倉は、火災が発生したとき、家具家財など動産一切をそのなかに格納するのである。外国人の目には〝倉庫(ゴーダウン)〟として知られているこの種の建物は、小窓が一つ二つあるほか、一つの入り口があり、たいへん重い厚手の開閉扉(シャッター)で鎖(とざ)されている』とある。]

 

 日本及び他の東洋の国々を訪れる者が非常に早く気づくことは、殆ど一般的といってもよい位、ありとあらゆる物品に竹を使用していることである。河に沿って大きな竹置場がいくつもあり、巨大な束にまとめられた竹が立っている。竹製品の一覧表を見ることが出来たらば、西洋人はたしかに一驚を喫するであろう。私は道路修繕の手車から、小さな石ころが粗末な竹の耨(ホー)でかき出されるのを見た。一本の竹の一端を八つに裂いてそれを帯のようにひろげると、便利な、箒に似た熊手(レーク)が出来る。これは一本で箒(ブルーム)、熊手(レーク)、叉把(ピッチ・フォーク)の役をする。

[やぶちゃん注:後半部の原文を総て示すと、“I have seen rude hoes of bamboo with which small stones were being hoed out of a cart for road repair; a serviceable, broom-like rake is made from a single piece of bamboo, one end being split into eight pieces spread apart broom-like. It was used as a broom, a rake, and a pitchfork.”で、“hoe”は土を起こしたり、除草する際に用いる長い柄のついた西洋鍬(ぐわ)・ホーのこと、“rake”は干し草や落葉などをかき集める際に用いる熊手や土を均(なら)すための馬鍬・レーキのこと、“broom”は箒・長柄のブラシであるが特にカーリングで用いているものをイメージされたい。“pitchfork”は干し草用の長柄の三叉(みつまた)や肥料を扱う際に用いる熊手で、しばしば戯画化した悪魔が持っているあれである。]

 

 不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。

 

 大学を出て来た時、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に馳けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異った麦藁を四本ひろい、そして籤(くじ)を抽(ひ)くのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の轂(こしき)にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言(ばりぞうごん)とを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して疳癪を超したり、虐待したりするのは見たことが無い。口小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を――もっとも私は常に注意深く観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。

[やぶちゃん注:「轂」原文“the hub”。ハブ。人力車の車輪の中央の太い部分で、放射状に差し込まれた輻(や)の集まっている部位。その中心を車軸が通る。]

 

 箸という物はナイフ、フォーク、及び匙の役をつとめる最も奇妙な代物である。どうしてもナイフを要するような食物は、すでに小さく切られて膳に出るし、ソップはお椀から直に呑む。で、箸は食物の小片を摘むフォーク、及び口につけた茶碗から飯を口中に押し込むショベルとして使用される。この箸の思いつきが、他のいろいろな場合に使われているのを見ては、驚かざるを得ない。即ち鉄箸では火になった炭をつかみ、料理番は魚や菓子をひっくり返すのに箸を用い、宝石商は懐中時計のこまかい部分を組み立てるために緻細な象牙の箸を使用し、往来では紙屑拾いや掃除人が長さ三尺の箸で、襤褸(ぼろ)や紙や其他を拾っては、背中に負った籠の中にそれを落し入れる。

[やぶちゃん注:「三尺」原文は“three feet”。孰れも約90センチメートルであるから問題はない(が石川氏は他では一貫してフィート表示をしているから、やや違和感があるといえば言える)。]

 

 往来を歩いていると、目立って乞食のいないことに気がつく。不具者のいないことも著しい。人力車の多いのには吃驚(びっくり)する! 東京に六万台あるそうである! これは借用出来ぬ程の数である。あるいは間違っているのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:ウィキの「人力車」によれば、人力車は和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎の三名が東京で見た馬車から着想を得て明治元(一八六八)年に人力車を完成させたとし、発明者として明治政府から正式に認定されているとあり(それへの疑義の論争も当時あったがそれはリンク先を参照されたい)、『当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段にな』り、明治三(一八七〇)年に『東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている』。その後、明治五(一八七二)年『までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した』。明治九(一八七六)年には東京府内で2万5038台と記録されており(明治九年東京府管内統計表による)、十九世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという(Powerhouse Museum, 2005; The Jinrikisha story, 1996、ほかいくつかのウェブサイトより)、とあるから、一年後の明治十年に「六万台」というのは誇張された数値としか思えない。「東京都鍍金工業組合」の公式サイトの「めっきの歴史」の開国から明治の展開には(コンマを読点に変え、一部のコンマを省略した)、『明治15年に、東京の人力車の台数は2万5000台、車夫が2~3万人。それが10年後にはさらにふえ、営業人力車の数は6万台,うち4万台はたえず動いていた。もちろん東京市の人口も88万~150万人にふえている』という記載があることから、「六万台」になるには十五年後の明治二五(一八九二)年を待たねばならなかったようである。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ハイフェッツを聴く 三首 中島敦

     ハイフェッツを聽く

 

颯爽とさても颯爽と彈くものかな息もつかせずツィゴイネル・ワイゼン

 

長安の街に白馬(はくば)が驕(おご)るとよハイフェッツ聞けばその句思ほゆ

 

      Mendelssohn Concerto in E minor vivace について

もろ人の彈くこの曲は聞きたれど斯く速きものと未だ知らなく

 

[やぶちゃん注:「ハイフェッツ」ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetz 一九〇一年~一九八七年)ロシア出身のアメリカのヴァイオリニスト。三歳でヴァイオリンを始めて神童と呼ばれ、サンクトペテルブルク音楽院を経て、十二歳でアルトゥール・ニキシュに招かれてベルリンデ・ビュー、同年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と協演、十代のうちにヨーロッパの主要都市を演奏訪問、一九一七年にはカーネギー・ホールでアメリカ・デビューを果たした。同年のロシア革命勃発と同時に亡命、以後はアメリカを本拠として世界的に演奏活動を続け、一九二五年にはアメリカ市民権を取得した。二十世紀前半を代表する巨匠の一人で、超絶技巧家として主情的に過ぎる従来のヴァイオリンの奏法を排し、俊敏で強靱なスタイルを確立、『ハイフェッツ時代』を築いた(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキヤッシャ・ハイフェッツに拠った。以下の引用は後者から)。『ボウイングの特徴として弓速が速いことが挙げられる。しかし弓の返しや先弓での粘りは、非常に丁寧で等速的にゆっくりである。特徴的な音色は、このボウイングに依るところが大き』く、『演奏のテンポは概して速く、晩年になっても遅くなることはほとんどなかった』とある。彼は親日派の巨匠として知られ、演奏家としては(彼は大正五年(一九一七年)初夏のアメリカへの亡命途中に横浜に二週間滞在している)震災後の大正一二(一九二三)年に初来日(中島敦は未だ十二歳で、この時は中学教師であった父の勤務の関係で朝鮮京城市に住んでいた)、二度目は昭和六(一九三一)年であるから、敦が実際に聴いたとすれば、後者しかあり得まい。

「長安の街に白馬が驕る」は盛唐の崔國輔「少年行(長樂少年行)」の承句に基づく。

 

 少年行

遺卻珊瑚鞭

白馬驕不行

章臺折楊柳

春日路傍情

 

遺卻(ゐきやく)す 珊瑚(さんご)の鞭(むち)

白馬 驕りて行ゆかず

章台(しやうだい) 楊柳を折る

春日 路傍の情

 

・「遺卻」遺却。遺失。置き忘れる。

・「驕不行」嘶いて首を立て、すっかり昻奮していきり立ってしまい、いっかな、前進しようとしない。

・「章臺」漢代の長安の町名で遊廓であった。

・「路傍情」娼家から白馬の貴公子と語らう遊び女の思いを指す。

 

Mendelssohn Concerto in E minor vivace」「Mendelssohn Concerto in E minor」はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64(Violinkonzert e-moll op.64)。「Vivace」は音楽速度標語「ヴィヴァーチェ」で、アレグロ(allegro)よりも速いことを示すが、ここは同曲の第三楽章「アレグレット・ノン・トロッポ〜アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ」(ホ短調から主部でホ長調へ転調した部分)を指す。“Heifetz plays Mendelssohn Violin Concerto - Third Movementでまさにそのハイフェッツの超絶演奏を聴くことが出来る(0:40辺り)。]

小鳥來る音うれしさよ板庇 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   小鳥來る音うれしさよ板庇

 渡り鳥の歸つて來る羽音を、爐邊に聽きく情趣の侘しさは、西歐の抒情詩、特にロセツチなどに多く歌はれて居るところであるが、日本の詩歌では珍しく、蕪村以外に全く見ないところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥來る」の句などは、日本の俳句の範疇してゐる傳統的詩境、即ち俳人の所謂「俳味」とは別の情趣に屬し、むしろ西歐詩のリリカルな詩情に類似して居る。今の若い時代の靑年等に、蕪村が最も親しく理解し易いのはこの爲であるが、同時にまた一方で、傳統的の俳味を愛する俳人等から、ややもすれば蕪村が嫌はれる所以でもある。今日「俳人」と稱されてる專門家の人々は、決してこの種の俳句を認めず、全くその詩趣を理解して居ない。しかしながら蕪村の本領は、却つてこれらの俳句に盡くされ、アマチユアの方がよく知るのである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。本文中の『前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」』は先行する「夏の部」に現われる。以下に示す。

   愁ひつつ丘に登れば花茨

「愁ひつつ」といふ言葉に、無限の詩情がふくまれて居る。無論現實的の憂愁ではなく、靑空に漂ふ雲のやうな、または何かの旅愁のやうな、遠い眺望への視野を持つた、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主觀の情愁に對象されてる。西洋詩に見るやうな詩境である、氣宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れて居る。

「氣宇」は器宇とも書き、心の持ち方(特にその広さ)・気構え・度量の意。]

戀さまざま願の糸も白きより 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) 《注を追加したリロード》

   戀さまざま願の糸も白きより

 古來難解の句と評されており、一般に首肯される解説が出來ていない。それにもかかはらず、何となく心を牽かれる俳句であり、和歌の戀愛歌に似た音樂と、蕪村らしい純情のしをらしさを、可憐になつかしく感じさせる作である。私の考へるところによれば、「戀さまざま」の「さまざま」は「散り散り」の意味であろうと思ふ。「願の糸も白きより」は、純潔な熱情で戀をしたけれども――である。またこの言葉は、おそらく蕪村が幼時に記憶したイロハ骨牌か何かの文句を、追懷の聯想に浮べたもので、彼の他の春の句に多く見る俳句と同じく、幼時への侘しい思慕を、戀のイメーヂに融かしたものに相違ない。蕪村はいつも、寒夜の寢床の中に亡き母のことを考へ、遠い昔のなつかしい幼時をしのんで、ひとり悲しく夢に啜泣いていたやうな詩人であつた。戀愛でさへも、蕪村の場合には夢の追懷の中に融け合つて居るのである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。「心を牽かれる」は「索かれる」であるが、初出の「郷愁の詩人與謝蕪村四」(『生理』5・昭和一〇(一九三五)年二月)によって訂した。なお、初出では、評釈が終わった後に一行空けて、

 附記。或る人々の解説によれば戀の本質はだれも同じ白色だが、樣式の相違によつて、種々樣々の色彩に變るとの意味だと言ふ。かくの如くば、この句は單なる理屈であり、誌も情趣もない無味乾燥の駄句にすぎない。

とある。また、この評釈については、「蕪村俳句の一考察」(『句帖』第二巻第九号・昭和一二(一九三七)年九月号所収)という附言評釈がある(リンク先に前掲済)。]

夕暮の會話 大手拓次

 夕暮の會話

おまへは とほくから わたしにはなしかける、
この うすあかりに、
この そよともしない風のながれの淵に。
こひびとよ、
おまへは ゆめのやうに わたしにはなしかける、
しなだれた花のつぼみのやうに
にほひのふかい ほのかなことばを、
ながれぼしのやうに きらめくことばを。
こひびとよ、
おまへは いつも ゆれながら、
ゆふぐれのうすあかりに
わたしとともに ささめきかはす。

鬼城句集 秋之部 天文 名月/無月

  天文

 

名月    今日の月馬も夜道を好みけり

      十五夜やすゝきかざして童達

      小百姓の屛風持ちけり今日の月

      十五夜や障子にうつる團子突

[やぶちゃん注:「團子突」団子突きは団子刺しともいい、これ自体が十五夜、秋の季語となるもので、十五夜に供えられた月見団子を村落の子供たちが盗んで回る風習を指す。全国的に見られるもので、参照した「お話歳時記」の「九月ー重陽の節句とお月見」によれば、『盗んで食べた子どもは長者になるとか、七軒盗んで食べたら縁が早いとか、子のない人が食べると子ができる、などと言われ』、『盗まれた家でも「十五夜団子は盗まれるほどいい」と言ってかえって歓迎し』た。『このことは、供えたものがなくなったのは神がそれを食べたことを意味し、願い事がかなったのだとする一方、神に供えたものをたくさんの人で分け合って食べれば、神様も喜んでくれると解釈したからで』ある、とある(これは一種の神人共食や童子神(童形神性)であろう)。『また、十五夜の夜だけは他人の畑の果物や作物などを盗んでもかまわないという風習』も各地にあって、『秋田県仙北郡に伝わる「片足御免」他人の畑でも片足だけ入れて取るのは許される)、「襷(タスキ)一ばい」(襷で結わえられるだけは許される)』とった例が挙げられている。最後に『しかし、学校教育が普及するにつれて盗むという行為はよくないとされ、現在ではほとんど行われなくなりました』という記載が運命共同体としてのムラの崩壊や近代化が簒奪してゆく民俗社会を語って何やらん、淋しい思いがする。]

      十五夜の月にみのるや晩林檎

[やぶちゃん注:「晩林檎」「おそりんご」と読むか。]

      十五夜の月に打ちけり鱸網

[やぶちゃん注:「鱸網」は「すずきあみ」。河川の景と私は見る。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ Lateolabrax japonicas 及びその近縁種は河川のかなり塩分の低い水域にも進入する(私は柏尾川を戸塚駅付近まで遡上している有意に大きな個体群を見たことがある)。これ自体が秋の季語。]

無月    娼家の灯うつりて海の無月かな

      藻を刈つて淋しき沼の無月かな

      瘦馬の無月に早き足搔かな

      牛追ふや無月を好む牛の性

      川上は無月の水の高さかな

      五六疋牛牽きつるゝ無月かな

      臆病な馬を渡船して無月かな

[やぶちゃん注:「渡船して」はこれで「わたして」と訓じているか。]

2013/09/12

僕の中学校――「伏木中学校の歌」――

僕は富山県高岡市立伏木中学校卒である。
僕は如何なる出身校にも、また教師時代に経巡った6つの高校の孰れにも愛校精神を持たない。
しかし、何故かそれぞれの校歌は覚えている。
覚えているが歌いたいと思うものは少ない。
少ないが忘れ難いある不思議な郷愁を感じるものが一つだけある。
それがこの「伏木中学校の歌」である。
それは校歌ではないのである。
飽くまで「伏木中学校の歌」なのである。
校歌を持たない学校というのは恐らく珍しいのではあるまいか。

作詞は伏木出身の作家堀田善衛、作曲は團伊玖磨である。
その成立経緯については個人ブログ「東急沿線 酒と読書とフロンターレの日々」の「伏木中学校の歌」に詳しい(この方は僕より若い)。

……僕はあのしょぼくれた自分の中学時代の……この前奏歌と後奏歌を持つ、そして何かどこかくすぐったいけれど、妙な郷愁をそそる、この「歌」を何故かどうしても今も……「嫌いになれずに」――いるのである……

追跡妄想夢

今朝の明け方の夢。



砂丘のある海岸の遠足にクラスの生徒を引率している。
仲間外れの一人っきりの女生徒と一緒に二人っきりで歩くと、海に突き出でた丘の上に、立派な角を持った大きな牛が一頭、杭に繋がれている。
それが敵意を持って僕ら二人を凝視めているのが分かる。
危険を感じて傍らの狭いテトラポットの中に二人して逃げ込む。
隙間から牛が覗き込む。
それはあのピカソの描いたミノトールで、充血した眼は爛々と、だらだらと垂れる涎れが――
縄はもう切れてしまったのだ。――
僕は彼女を逃がそうと、ラビリンスのようなテトラポットの中を彼女の手を牽いてひた走りに走る。
後ろからテトラポットに当る鈍い蹄の音が響いてくる。
数段に積み重なったテトラポットの端に出た僕は、彼女を無理矢理、上に押し上げ、「さよなら」を言った――
――振り返ると――
背後から仁王立ちになって襲ってくるのは――
――雄牛ではなくて――
――二メートルもあろうかという白熊であった――
「ああ、これでおしまい……でも……彼女は助かる……」



と思った――ところで目が覚めた。――如何にも残念な気がした。――

フロイト的には分かり易い象徴がすこぶる無数だな――

An Die Musik, Schubert - Dietrich Fischer Dieskau

「楽に寄す」フィッシャー・ディスカウ――僕の古い友へ捧ぐ――

耳囊 卷之七 先細川慈仁思慮の事

 

 

 先細川慈仁思慮の事

 

 先(せん)細川越中守は慈仁にて、世に質人と唱しが、同□の方へ上客に饗應に被參(まゐられ)しに、膳出(いで)候節に至り、右飯の蓋を取被見(とられみ)候處、飯無間(なきあひだ)直(ただち)にふたを致(いたし)、扨尾籠(びろう)ながら小用に罷立度(まかりたちたき)旨を一座に斷(ことわり)、其座を被立(たたれ)小用所へ被相越(あひまかりこされ)、手水(ちやうづ)を持(もち)候家來に耳へ寄(より)、斯々(かくかく)の事也、あらはに言はゞ配膳其外の者に不調法にあらん。座に戾らば飯の加減も冷(ひえ)し候迚、引替へ可然(しかるべし)と被申(まうされ)候故、難義由にて其家來より内々相通じ、一座の膳も引替(ひきかは)りしが、其事を見聞(みきく)者ども難有(ありがたき)仁慈なりと、いと賞しける。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:大名家逸話で連関。粋な男だねえ、この頃の細川さんは、ね。

 

・「先細川越中守」細川重賢(しげかた 享保五(一七二〇)年~天明五(一七八五)年)は熊本第六代藩主・細川家第八代。第四代藩主宣紀(のぶのり)五男。兄宗孝の仮養子であったが、延享四(一七四七)年に宗孝が江戸城で旗本板倉勝該(かつかね)に斬られて不慮の死を遂げ(勝該は日頃から狂疾の傾向があり、今でいう禁治産者と見做され、板倉家本家の板倉勝清が勝該を致仕させて勝清の庶子に後を継がせようとしていた。勝該はそれを恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたのだが、板倉家の九曜巴紋と細川家の九曜星紋が似ていたため、背中の家紋を見間違え、細川宗孝に斬りつけてしまった誤認謀殺事件であったとされる)、俄かに封を継いで藩主となった。当時の熊本藩は連年の財政難にあり、参勤交代や江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであったが、重賢は藩主に就任後、宝暦二(一七五二)年には堀勝名を大奉行に抜擢して藩政改革を行い(宝暦の改革)、綱紀粛正・行政機構整備・刑法草書制定・財政再建に向けての地引合(じびきあわせ:検地の一種。)による隠田摘発・櫨(はぜ)や楮(こうぞ)の専売・蠟生産の藩直営化と製蠟施設の設立などを敢行し、宝暦年間末頃(宝暦は一四(一六七四)年まで)には藩財政の好転が始まった。また、同宝暦年間より飢饉に備えてての穀物備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済に当たっている。一方で、藩校時習館を建てて人材の育成を図り、今で言う奨学金に相当する制度も制定、農商人の子弟でも俊秀の者には門戸を開放した日本最初の学校とも言うべきものに成し上げた。紀州藩第九代藩主徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった(平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「細川重賢」や同「板倉勝該」を参照した)。なお、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年の藩主は第八代藩主細川斉茲(なりしげ)である。重賢嫡男(次男)で第七代藩主となった細川治年は三十で夭折、同人実子長男の細川年和も早世していたため、支藩の宇土藩主細川立礼(たつひろ。改め斉茲)が養子に入って跡を継いでいる。因みに、これによって細川玉(ガラシャ)の血統は細川本家では絶えることとなった(ここはウィキの「細川治年」に拠った)。なお、重賢は根岸より十七歳年上なだけであるから、この話柄自体は根岸が重賢の生前にアップ・トウ・デイトに聴いた話であったとしてもおかしくはない。

 

・「慈仁」情け深いこと。

 

・「質人」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賢人』とする。当然、「賢人」を採る。

 

・「同□の方へ」底本は『(卿カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『同席』とする。「同席」を採る。

 

・「難義由」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『難有(ありがあき)由』とする。「難有」で採る。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 先(さき)の細川家御当主慈仁(じんじ)思慮の事

 

 

 二代前の細川越中守重賢(しげかた)殿は、情け深きお人柄であられ、世に賢人と称せられた御方であられた。

 

 さる御同役の御屋敷に上客として饗応をお受けになられたところが、さても、膳が一通り出だされた砌り、その飯の蓋をお取遊ばされてみたところが――椀の中には――これ――飯どころか――何も――入って御座らんだ――と申す。

 

 と、越中守殿、柔和なるお顔のまま、さっと蓋を戻さるると、

 

「――さても――まっこと、尾籠(びろう)なること乍ら――ちと、小用に罷り立ちたく存ずればこそ――」

 

とて、一座の方々に無礼を謝し、その座をお立ちになられ、ゆうゆうと厠(かわや)へと参られ、これまた、ゆるりと尿(すば)り遊ばされたと申す。

 

 厠よりお出にならるると、厠の外にて手水(ちょうず)を持って控えて御座った御自身の御家来衆を物蔭に手招きなされて、やおら、耳打ちなされたことには、

 

「……かくかくの次第で御座った故、の。このこと、あからさまに申さば、御当家の配膳その外の者どもの、これ、忌々しき不調法ということにもなろうほどに。……我ら、これより、また座にゆるりと参る。……戻ったならば、そなた、御当家の者に、ここは一つ、

 

『我が主(あるじ)の不調法によって、時も暫く経って御座いましたにゆえ、皆様の御前に、折角、お出し下された温かき飯の加減も、これ、大層冷えてしもうて御座いましょうほどに。相済みませぬが、ここは一つ、ために飯の椀をお取り替え下さるるが、これ、よろしいかと存ずる。』

 

と申し上ぐるがよかろう。」

 

と仰せられたによって、一切の御意(ぎょい)を察した御家来衆は、

 

「はッ! あり難きお心遣いに御座いまする!」

 

と肯んじ、その御家来衆より、御当家の配膳の者にだけ、内々に相い通じ、一座の方々の膳の飯も総て引き替えられて御座ったと申す。

 

 後に、このことを、その折りの重賢殿を饗応なさった御当家の内輪方々で、見き聞きして察した者どもは皆、

 

「――何とまあ――あり難き御仁慈(じんじ)で御座ろうか……」

 

と、大層、讃仰申し上げたとのことで御座る。

 

博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE の “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!

本ブログは、多様なフォントや記号・リンクを使用しているため、和文を明朝で作成した私の原稿をそのままで載せる。明朝の嫌いな向きには悪しからず。



■9 
“JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載

 

STRANGE FOODS

 

Our dredging has been very successful, and we have bought many interesting specimens from the fishermen who peddle their products through the village. The natives seem to eat anything and everything that comes from the sea. I am over one hundred miles from Hakodate and from bread-and-butter, and having no meat or other articles of food which I had at Hakodate I have finally resigned myself to the Japanese food of this region and to consider my stomach as a dietetic laboratory which will assimilate the necessary nutritive elements from the material offered. And of all places to start such an experiment is this village! It required some courage and a good stomach to eat for dinner the following : fish soup, very poor; bean paste, which was not so bad; eggs of sea urchin, which were served raw and were fairly good-tasting; and holothurian, or sea cucumber, tough as rubber, doubtless nutritious, but by no means agreeable. It was eaten with Japanese sauce, shoyu, which renders everything more or less palatable.

I had for supper marine worms, — actual worms, resembling our angleworms, only slightly larger, and judging from the tufts about one end they probably belonged to the genus Sabella. They were eaten raw and the taste was precisely as seaweed smells at low tide. I ate a large plateful and slept soundly. I have also had served and have eaten a gigantic ascidian belonging to the genus Cynthia. I often eat Haliotis, the abalone of California. The scallop is very good. I have mentioned in this enumeration articles of food the names of which I know. I am also eating things that I do not know and cannot even guess what they are. On the whole, I am keeping body and its animating principle together, but long for a cup of coffee and a slice of bread-and-butter. I am the only outside barbarian in town. The children crowd around me and stare, but the slightest attempt at making friends with them sends them screaming away in terror.

 

 

□やぶちゃん注(★は本テクスト及び注の眼目)

 筆者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は “apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。

 引用原本 “Japan Day by Day” は、三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版したものである(1917,BOSTON AND NEW YORK; HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)。

 原文はInternet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある電子データに拠り(の最後)、同書のPDFファイルの原本画像を視認して補正した。因みにこれは“CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND”の掉尾に当たる。

 日本語訳は石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳した、「日本その日その日」(一九七〇年平凡社刊)の「2」の「第十二章 北方の島 蝦夷」を用いたが、同訳は原本見開きの右ページ欄外にある小見出し(この場合は“STRANGE FOODS”)は省略されているので「奇妙な食べ物」と私が挿入しておいた)。因みに私は現在、この石川欣一氏訳の「日本その日その日」(東洋文庫版全三巻)の私のオリジナル注釈附電子テクスト化をこのブログで行っているが、今のところ電子化を完了したのは第五章から第八章及び第一章の途中までで、引用した当該章「第十二章 北方の島 蝦夷」に至るまでには未だ道程が遠い。前文をお読みになられたい向きには、悪しからず、石川氏の当該書を御購入なされたい。

 本記載は磯野直秀氏の偉大なる博物学者モースの生涯を綴った名著「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「19 北海道・東北旅行」にある、当時同行した「新体詩抄」で知られる植物学者矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年:明治一〇(一八七七)年に東京大学初代植物学教授(日本初号)となり、東京植物学会の創立者。)の残した「北海道旅行日誌」の中の記載(一九〇頁)によって、明治一一(一八七八)年七月二十六日に上陸した小樽での記事(この食事風景はまさにその当日若しくは翌二十七日の夕食孰れかである。彼は二日後の小樽滞在は二十九日の朝には札幌に向かっている。引用箇所の最初にドレッジ成功の話がある辺りから考えると、その成功を祝っての二十七日の夜のことであったかも知れない)。なお、これを博物学古記録と謳うことに異論を持たれる向きもあるやに思われるが、明治といっても一八七八年は今から実に百三十五年前の記録であり、現在、ここで示されるようなゴカイ食の食文化が知られなくなりつつある中では、古記録と称して私は問題ないと考えている。

・“one hundred miles”約161キロメートル。函館―小樽間の直線距離とぴったり合致する。

・“consider my stomach as a dietetic laboratory which will assimilate the necessary nutritive elements from the material offered.”パンもバターもないここで最早、好き嫌いやゲテモノなどとは言っていられないモースが――ここで提供され得る限りの材料から、生きるために必要な栄養となるかもしれない要素を、何としても自分のものとして吸収すべく――、“consider my stomach as a dietetic laboratory”――私の異袋を何でも試みるための窮余の食物の実験室と見做す――こととした、というである。

・“such an experiment is this village!”これより前の叙述から、モース一行は海岸近くの元旅籠屋(兼恐らくは妖しげな茶屋)の、恐ろしく汚いしもた屋を実験所兼宿泊所としたことが分かる。

・“fish soup, very poor”魚のアラ汁、それも如何にもぞんざいなとあるから、透明な潮汁であろう。

・“bean paste”単なる直感に過ぎないが、モースの恐るべき食物適応から考えると、これは納豆を言っているのではあるまいか? 大方の御批判を俟つものである。

・“eggs of sea urchin”ホンウニ(エキヌス)目ホンウニ亜目オオバフンウニ科キタムラサキウニ Strongylocentrotus nudus か、オオバフンウニ科バフンウニ Hemicentrotus puicherrimus 或いはエゾバフンウニ Strongylocentrotus intermedius の生若しくは軽く塩をしたものと思われる。

・“holothurian”ナマコ類。

 

★“I had for supper marine worms, — actual worms, resembling our angleworms, only slightly larger, and judging from the tufts about one end they probably belonged to the genus Sabella. They were eaten raw and the taste was precisely as seaweed smells at low tide. I ate a large plateful and slept soundly.”この“our angleworms”という謂い方に着目すると、この場合のミミズは、我々が日常見慣れている、やや太いミミズ類(補注*)ではなく、もっと小型の普通の釣りに用いるようなツリミミズ科 Lumbricidae に属する体長6~10センチメートルのミミズを指しているものと思われる。そこから“slightly larger”(やや大きい)という風に読むべきである(これは本種の同定との関連で必要な注と考えている)。

(補注*)太いミミズ類:環形動物門貧毛綱フトミミズ科 Megascolecidae に属するミミズで、例えば最も知られるヒトツモンミミズ Pheretima hilgendorfi は体長8~20センチメートルになる。因みに、この種小名は最初に本種を函館で採集した第一大学区医学校(東大医学部の前身)のドイツ人御雇教師F.M.ヒルゲンドルフに因む(彼の来日はモースに先立つ四年前の明治六(一八七三)年から翌九年まで)。序でに申し上げておくと、彼は江の島で生きた化石オキナエビスガイ Mikadotrochus beyrichii Hilgendorff, 1877 の殻を入手した人物としても有名であり、さらに、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この時のモースの北海道旅行に同行した一人である教育博物館動物掛波江元吉はヒルゲンドルフの通訳をしながら動物学を修めた人物であった(後、帝国大学動物学教室助手。本邦脊椎動物学の草分け)。

 “the tufts about one”は当該個体の一方の端の総状の器官を指し、これが本種同定の大きなポイントになる。これは当該生物の頭端に鰓糸(さいし)が房状に並んだ鰓冠があることを示しているからである。そしてモースはこれをその特徴的な鰓冠から、恐らくは“genus Sabella”と判定するに至るのである。このサベラ類とは環形動物門多毛綱ケヤリムシ目 Sabellida のケヤリムシ科 Sabellidae の類を指していると思われる(フサゴカイ目 Terebellida にもカンムリゴカイ科 Sabellariidae と名づく類がいるが採らない。以下の石川氏の割注はそれで採っている)。

 以上の叙述と形状、そしてそれが食用に供されるという事実を綜合すると、私はここでモースが何と“a large plateful”(大皿山盛り)を平らげて、しかも(消化不良や吐気及び何の精神的不快感も一切残さずに)熟睡出来たとさえ言うところの、外見上は見るもおぞましく、食い物には見えなかった“STRANGE FOOD”とは――定在性ゴカイの一種である多毛綱ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata ――と断ずるものである。

 以下、ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata について詳述する。まず、平凡社「世界大百科事典の記載(アラビア数字を漢数字等に、一部記号を変更した)。

   《引用開始》

エラコ【Pseudopotamilla occelata

多毛綱ケヤリ科の環形動物。俗にカワカムリ、マテという。北海道から東北地方に分布し、干潮線付近の岩盤の隙間などに多くの管がひと塊になって群生している。虫体は長さ六~一〇センチメートルで、体節数一一〇~一四〇。頭端には四五~五〇本の鰓糸(さいし)が房状に並んだ鰓冠があり、管の入口より水中に広げて呼吸したり、微小な餌をとらえて食べる。体色は黄褐色で小さい斑点がある。管は薄い膜の表面に細かい砂粒をぎっしりつけていて硬いが、体を棲管(せいかん)の中に引き込むと先端部は内側に巻き込まれてしまう。

   《引用終了》

 次に、保育社平成七(一九九五)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」の記載(同様にアラビア数字を漢数字等に、一部記号を変更した)。

   《引用開始》

エラコ

Pseudopotamilla  occelata  Moore

 鰓冠を除いた体長六~一〇センチメートル。開いた鰓冠の直径約二センチメートル。鰓冠の左右の基部の内背部に一つずつ切れ込みがあり、各鰓糸には五~六個の眼点がある。胸部は八剛毛節よりなる。本州中部以北の岩礁性海岸の潮間帯付近に棲息し、しばしば群棲し、虫体は釣餌に利用される。北米西岸にも分布する。

   《引用終了》

 さて、私は遠い昔、本書を読んだ際、ここでモースが食べた海産「蠕虫」はエラコに違いないと考えていた(だから後掲するように石川氏が挙げた学名がエラコのものでないことも大いなる不審の種であった)。それはエラコを食用とすることを私はかなり以前から知っており、一度は食べてみたいと思っているからである(文末が現在進行形なのは実現していないからである)。最初にその記載に出逢ったのは二十九の頃(二十三年前)で、翻訳物の南洋文化誌を綴ったものを読むうちに、サモアなどの西太平洋域に於いて多毛綱イソメ科の太平洋パロロ(Palola siciliensis 英名 Pacific palolo)を食用とするとあった(その本からの膨大な抜書きを恐らく今もどこかに所持しているはずなのだが見当たらない。発見したら追記したい)。その後、何かの機会に同じくエラコという定在性ゴカイの一種を本邦でも食用とすること何かの記載で知り(その最初の情報源は残念なことに失念した。本ではなく雑誌だったかも知れない。信じ難い方は個人ブログ「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」をお読みあれ。そこには『バターで炒めるのが定番らしい。海水の塩味が効いていて意外とうまい』とある)、この「エラコ」というウルトラ怪獣みたような名がいたく気に入ってしまい、エラコのことを少しく調べたりした。

 その結果、エラコを食べたことや、もう食べないまでも釣りの餌として採取するのだが、漁民の間では釣り餌用に個虫を引き出す作業を続けていると「エラコに負ける」と言って、この「エラコが刺す」という記載(この最初の情報源も失念した。これは例えば、ここでもそのように――この筆者がエラコが本当に刺すと思っておられるかどうかは留保するとしてもそのように読めてしまうことは事実である――記載されている。ただこの記事は食用の記載もあって見逃せない記事ではある)に遭遇した。

 この種のゴカイの仲間がクラゲのように刺す(炎症を起こす)としか読めない記述であったが、ここで大事なのは咬傷ではないという点で、大型のイワムシ類は咬傷の危険性をちゃんと示唆する図鑑もあるが(私も実際にその昔、釣り餌に使用していたイワムシになら「咬まれた」ことがあるし、不衛生な状況でのイワムシによる咬傷後に適切な処置を施さずにいれば炎症や化膿を引き起こす可能性があることは言うまでもない)、エラコにそのような有意に危険な顎棘や毒針・刺胞があるとはとても思われず、これは如何にも解せない、何かの間違いだろう、と調べるうち、実は刺すのは個虫のエラコではなく、エラコの棲管開口部に選択的に附着共生する刺胞動物門ヒドロ虫綱淡水クラゲ目エダクダクラゲ科ニンギョウヒドラ(エダクダクラゲ)Proboscidactyla flavicirrata の群体の刺胞に刺されるのであるという事実を知ったりして溜飲が下がったりした(私はクラゲ・フリークでもある。なお今回、それを研究している学生の方を紹介したブログ「生態研究室日記」の「卒論奮闘記8~林くんの場合~」を見つけたのでリンクしておこう)。

 以上の既知総てを目から鱗で確認出来たのが、一九九三年刊の小学館ライブラリー「白戸三平 野外手帳」の中の「エラコの汐だき」の一章であった(この私の偏愛する本はかの「カムイ伝」の漫画家白土氏のエッセイなのだが、毒キノコとして知られるベニテングダケは美味で、生は一日一本を限度とする、などという驚天動地の記載が現われる凄い本である。但し、試すのは自己責任で。白土氏も個人差があると注されている)。本書は白土氏の住む千葉県房総地方の消えゆく伝統文化を美事に活写しているのであるが、それによれば、まず本文で『昔、東北の三陸沿岸では、五月の端午の節句に陸の方かの人々が海岸でエラコを求め、神棚に供えてから酒の肴や飯の菜にしたという』と記される。『エラコは、イガイなどや海藻のついている潮間帯の磯に固まって付着しているので、大潮の干潮時に簡単にとれる。大シケの時に海藻と一緒に浜へぶちあげられたのを拾うのもよい』と具体的な採集法が示さる(こういうマニュアルはまず活字化されない)。「エラコの汐だき」の調理法は、『とったエラコをサヤからはずして海水でゆでる。浮いてきたアクをすくい、ゆっくりと1時間ほど海水がなくなるまでゆでる。そのまま食べてもよいし、さらに手を加えれば種々の料理が生まれるだろう。ムスビの菜や酒の肴にピッタリである』とある(このマニュアルも極めて貴重)。そして私が先ほど書いた「エラコに負ける」に関わる記載が出現するのである。棲管を剝いて中身を出す際、『時々、かせて手が赤くはれあがり時がある。「エラコに負けたら、シドケ(モミジガサ)塗れ」と漁師たちはいう』『漁師たちは「シドケ」(山菜のモミジガサ)とエラコをあえると、「エラコが太くなって食べるとあたるから」とか、「エラコを餌にして魚を釣るから、シドケを食べるときには魚はくわね」という。釜石の保健所の話ではそんな心配は全くないといっているがどうだろうか?』と記されている(採集マニュアルからここまでの記載は本文ではなく調理や実際のエラコ料理を写したカラー写真のキャプションである。同書一六六~一六七頁)。因みに、「モミジガサ」はキク目キク科キク亜科コウモリソウ属モミジガサ Parasenecio delphiniifolius で、春、茎先の葉がまだ開いていないものを山菜として食用とし、「しどけ」「しどき」とも言う。和名は葉の形が「もみじの葉」に似ているから「モミジガサ」ことに由来し沢筋の斜面や杉林の近くに植生する。ほろ苦さがあるが、独特の強い香りと歯触りを有し、タラの芽と並んで山菜の王様と称される(なお、モミジガサはアコニチンなどのアルカロイドを含有する世界最強の有毒種として名高いキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属ヤマトリカブト Aconitum japonicum と、特に若芽の頃、よく似た形態を示すので山菜取りには注意が必要である。識別法は「東京都薬用植物園」の「モミジガサとヤマトリカブト(有毒)」を参照のこと)。無論、白土氏はちゃんと調べていて、本文でこの炎症(『赤くはれあがる』)は先に述べたようにニンギョウヒドラの刺胞毒によるものであることを明かしておられ、しかも『このヒドラはエラコという宿主なしでは生活ができないらしく、エラコを管から取り出すとヒドラは衰えて死んでしまうというから、あるいは、エラコとヒドラはある種の共生関係にあるのかもしれない』とも附言しえおられる(私もこれは共生と考える)。肝心のエラコ料理については、漁師の中には沖に魚釣りに行って釣果がない時には、餌の『エラコさ剥(は)いで菜(おかず)にするだよ、ああ生(なま)でだ。うめえもんだよ』という直談を載せた後、一般には汐だきか塩辛、佃煮にするとあり、写真には味噌仕立てのエラコ汁(キャプションには『エラコには味噌が合う』とある)や胡瓜和えが載り、白土氏自身はその胡瓜和えを一番とされている(ホヤと胡瓜の相性がいいのを考えると、ホヤとやや似た味かとも連想出来る叙述ではある)。そうして『エラコは料理をしても色や姿が変わらないので、人によっては尻込みする人もあるかもしれないが、決して食道楽好みのゲテモノ料理ではない』と断言され、続けてかつての日本を襲った幾多の飢饉の際には、『磯でとれるエラコやイガイは貴重な蛋白源になった』はずと推測され、内陸との往復には有意な時間がかかったはずであるから、『腐りやすい魚貝よりも日持ちの良いエラコは得がたい海産物であったはずで』、『端午の節句にエラコを食べると中風にかからないといういい伝えは、エラコが一時の単なる救荒食物ということではなく、行事食として定着していたということで興味深い』と、鋭い民俗学的見解を示しておられ、全く同感である。

 ところがその後に読んだ「エラコの味」記載は意外なものであった。広島県宮島町立宮島水族館元副館長山下欣二氏(惜しくも故人となられた)のぶっ飛びの異食習慣股旅物「海の味 異色の食習慣探訪」(八坂書房一九九八年刊)である。ここで山下氏は「エラコの塩辛」を食すのだが、その先は青森県八戸市陸奥白浜であった。そのイントロによれば、『昭和四〇年代までは、この食習慣』(『生や煮炊きして食糧にし、さらに保存食として塩辛にした』と直前にある)『は北海道南部から東北地方にかけて広く残っていたが、浅虫(あさむし)水族館の神正人さんの調査によると、もうエラコを食べる人はほとんどおらず、ただ八戸市周辺の漁村の古老が昔をしのんで塩辛を作り、みずから食べているにすぎないということだった』とある(下線はやぶちゃん。小樽でモースが食した記載を裏付けるものである)。さて、そこ(さる保養所である。以下の氏の感想が強烈なので名称を出すのは何となく憚られる。同書を確認されたい)で出された「エラコの塩辛」は大根おろしを別皿で添えた、『濃緑色』の『毒々しい』ものであった。そこでその塩辛を製造しているご主人との会話となり、現地でも『昔はみんなエラコを食べていたけれど最近ではほとんど食べる人がいなくなってしまったこと、エラコの刺身を用意できなくて残念だったこと』などを聴き取る(ここでも我々はエラコの生食が行われていたことを確認出来、またこのご主人は高い確率でエラコの刺身が美味いことを意識されての発言であることを知る)。一人になった山下氏がやおら、「エラコの塩辛」を食す。――ところが――箸一つまみを口に入れると――『何とも形容しがたい強烈な味』で、『さらに大きくひとかたまりを食べて歯でかんでみると、これが人間の食うものかと叫びたくなるようなどう猛な味。あえて表現するならば、えぐくて、しぶくて、くせがあって、しつこくて、あくが強い、さらにこのすべての形容詞に濁点をつけたくなるような味である』とされ、遂には『私は辟易した』とまで記されるのである。氏は残すわけにはいかないので、大根おろしに醬油をかけ、それを「エラコの塩辛」にかけて、『目をつぶって一気に飲み込んだ』とあり、その『くせのある味がしつこく口中に残』って、膳に並んだ如何にも美味そうな料理も『エラコの味に支配されてうまくもなんともなくなってしまった。食後にご主人が塩辛の樽を持ってきて見せてくれた。ぞっとするほどびっしりとエラコが樽につまっている。味はどうだったかの質問に、私はただ力なくにが笑いするだけであった』とある。「エラコの塩辛」のコーダは翌朝のシーンとなり、朝食に出てきた殻付きの『ウニを一口食べて、あっこの味だと思った』、『エラコの塩辛の味は、ウニのくせを極端に強くしたものだったのだ』と締め括っておられる。『食いものには人一倍好奇心の強い』山下氏が、ゴカイには流石に懲りたことは言うまでもない。因みに、私はその後に読んだ「海の味」の更に上をゆくゲテモノ・レベルと言ってよい海産生物食の本――書斎のどこかにあるはずなのだが見当たらない。発見し次第追加する――で、最高ランクの味でアオイソメ(生食)を挙げているのを読んだ(因みに、ネット検索で見つかるイソメ食を高評価とする「ゲテモノ食大全」という本ではないことは確かである。また確か、その本で反対に最悪の味だったのはフナムシであったと記憶している)。だから私はエラコもアオイソメも「まだ食べるぞ!」という意欲を持っていることは宣言しておきたい。

 以上から、私はモースが大皿一杯に盛られたものをぺろりと食したのは多毛綱ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata に間違いなく、しかもモースが何の抵抗もなく、食後の不快も訴えていないことから考えると、通常は西洋人が抵抗感を持つ完全な生(刺身)ではなくて、白土氏の言う汐だきを施したもの(若しくは採取したての新鮮なエラコを軽く湯がいたもの)ではなかったかと推測するものである。

 最後にエラコの形状の美事なグロテスクさを確認して戴くために、グーグル画像検索の「エラコ」画像検索Pseudopotamilla occelataによる画像検索は何故か不思議なことにあまりいいものがない。これは世界的に見て本種の専門的研究があまり進んでいないことの証左なのかも知れない)で満喫出来る。但し、自己責任でご覧あれ。

 最後に、石川氏は訳本底本では「Sabella の属」と訳された直下に『〔環形動物毛足類多毛目サベラリア・アルべオラタ〕』と割注を入れておられるが、ここで氏がわざわざ学名まで示されているそれは、現在の多毛綱フサゴカイ目カンムリゴカイ科アリアケカンムリゴカイ属に属する Sabellaria alveolata  Linnaeus, 1767のこと(当該種に限っては和名はなく、本邦産のカンムリゴカイは Sabellaria cementarium で、また和名アリアケカンムリゴカイの学名は Sabellaria ishikawai である)で私の同定したエラコとは異なる。確かに個虫の形状に類似点があり、棲管が束になって群棲する点、北海道以北の棲息分布などで本種もモースの描写するものの同定候補とはなり得る。しかしこの石川氏の学術的割注は、原典でモースがgenus Sabella”と綴ったのを厳密に種名の綴りと一致させようとした結果生じた誤認であり、石川氏はそれが食用とされていたかどうか、食用とされるゴカイ類は本邦ではどの種に当たるか(カンムリゴカイの仲間を食用とするという記事には私はまだ巡り逢っていない)ということを確認してはいなかった結果として生じた誤りである、と私は考えている。ただ、前掲の山下欣二「海の味」には、『ゴカイ類の食習慣はこの消えつつあるエラコ以外にはあまり見られない』としながらも、『例えば鹿児島県桜島では全長一メートルにもなるオニイソメ』(多毛綱イソメ目イソメ科オニイソメ Eunice aphroditois)『を焼いて食べるそうだし、山口県宇部市にはイワムシ』(イソメ科 Marphysa sanguinea)『を生で食べる人がいるという』と記してあり(但し、これらは遊在性のゴカイである)、エラコに類似するカンムリゴカイの仲間を食用としなかったと断ずることは出来ない。取り敢えずは大方の御批判を俟つものである。

 

・“I have also had served and have eaten a gigantic ascidian belonging to the genus Cynthia.”広くホヤ類やマボヤを指す英語であるが、ここはわざわざ“gigantic”(巨大な)と述べていることからも尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi と同定してよいと考える(同属のアカボヤ Halocynthia aurantium では私ならこうは表現しない)。“Cynthia”は属名の後部に現われる、ギリシア語の“als”(海)+“cynthia”(月の女神アルテミスの別名キュンティア(英語読み)シンシア)の合成語(但し、何に由来する命名かは不学にして不詳)。

・“I often eat Haliotis, the abalone of California. ”“Haliotis腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis(但し、図鑑などではアワビ属を Nordotis とするものも多い)。アヴァロウニィは英語でアワビ一般を指す語。

・“The scallop is very good.”スキャロップは一般的に斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis を指す英語。

 

■石川欣一氏訳

[やぶちゃん注:見出しは私の訳。前注を参照のこと。また文中の「holothurian 即ち海鼠」の意訳的部分(原文を見ればお分かりの通り、この「即ち海鼠」という原単語を表示しての付随訳は石川氏が日本人向けにした翻案部である)については、底本の訳では斜体であるものの、モースはこれを多分に学術用語としてではなく、一般名詞の「海鼠」として述べて斜体にしていないので、原典の字体に従った。本テクストの主眼たる割注「Sabella の属」の後に配された石川氏の割注は原典を大切にする意味で外して、前の注の「★」に入れてある。]

 

奇妙な食べ物

 

 我々の曳網は大成功であり、また我々は村を歩いて産物を行商する漁夫たちから、多くの興味ある標本を買い求めた。土地の人達は、海から出る物は何でもかでも、片端から食うらしい。私は今や函館と、パンとバタとから、百マイル以上も離れている。そして、函館で食っていた肉その他の食物が何も無いので、私はついにこの地方の日本食を採ることにし、私の胃袋を、提供される材料からして、必要な丈の栄養分を同化する栄養学研究所と考えるに至った。かかる実験を開始するに、所もあろうこの寒村とは! 以下に列記する物を正餐として口に入れるには、ある程度の勇気と、丈夫な胃袋とを必要とした――曰く、非常に貧弱な魚の羹(スープ)、それ程不味くもない豆の糊状物(ペースト)、生で膳にのせ、割合に美味な海胆(うに)の卵、護謨(ゴム)のように強靭で、疑もなく栄養分はあるのだろうが、断じて口には合わぬ Holothurian 即ち海鼠(なまこ)。これはショーユという日本のソースをつけて食う。ソースはあらゆる物を、多少美味にする。

 晩飯に私は海産の蠕(ぜん)虫――我国の蚯蚓(みみず)に似た本当の蠕虫で、只すこし大きく、一端にある総(ふさ)から判断すると、どうやら Sabella の属に属しているらしい。これは生で食うのだが、味たるや、干潮の時の海藻の香と寸分違わぬ。私はこれを大きな皿に一杯食い、而もよく睡った。又私の食膳には Cynthia 属に属する、巨大な海鞘(ほや)が供され、私はそれを食った。私はちょいちょい、カリフオルニヤ州でアバロンと呼ばれる、鮑(あわび)を食う。帆立貝は非常に美味い。私はこの列べ立てに於て、私が名前を知っている食料品だけをあげた。まだ私は、知らぬ物や、何であるのか更に見当もつかぬ物まで喰っている。全体として私は、肉体と、その活動原理とを、一致させていはするものの、珈琲(コーヒー)一杯と、バタを塗ったパンの一片とが、恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である。子供達は私の周囲に集って来て、ジロジロと私を見つめるが、ちょっとでも仲よしになろうとすると、皆、恐怖のあまり、悲鳴をあげて逃げて行って了う。

月天心貧しき町を通りけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   月天心貧しき町を通りけり

 月が天心にかかつて居るのは、夜が既に遲く更ふけたのである。人氣のない深夜の町を、ひとり足音高く通つて行く。町の兩側には、家竝の低い貧しい家が、暗く戸を閉して眠って居る。空には中秋の月が冴えて、氷のやうな月光が獨り地上を照らして居る。ここに考へることは人生への或る涙ぐましい思慕の情と、或るやるせない寂寥とである。月光の下、ひとり深夜の裏町を通る人は、だれしも皆かうした詩情に浸るであらう。しかも人々は未だかつてこの情景を捉へ表現し得なかつた。蕪村の俳句は、最も短かい詩形に於て、よくこの深遠な詩情を捉へ、簡單にして複雜に成功して居る。實に名句と言ふべきである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) シャリアピンを聴く 十八首 中島敦

  Mes Virtuoses My Virtuosi

 

[やぶちゃん注:本歌群は、洋楽の愛好家でもあって足繁く来日したビルトゥオーソ(卓抜した技巧を持つ演奏家、名手の意。元はイタリア語“virtuoso”で、英語“Virtuos”(標題の“Virtuosi”はその複数形)は「ヴァーチュオーソ」と外来語表記されることが多い)の音楽会に足を運んでいた中島敦の、その鑑賞に纏わる歌群である。“Mes Virtuoses”はその(「私の名演奏家」の意の)フランス語表記である。]

 

    シャリアーピンを聽く

 

北國(きたぐに)の歌の王者を聽く宵は雪降りいでぬふさはしと思ふ

 

如月の日比谷の雪を急ぎ行けばティケット・ブロ-カー言ひ寄り來るも

 

眉白く眼(まなこ)鋭どに鼻とがるシャリアーピンは老いしメフィスト

 

[やぶちゃん注:「シャリアーピン」フィヨドール・イワノヴィッチ・シャリアピン(Fyodor Ivanovich Shalyapin 一八七三年~一九三八年)ロシア出身のバス歌手。当初は教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌っていたが、次第に名声を高め、ペテルブルグやモスクワの大歌劇場で歌い、やがて世界的な大歌手として活躍した。一九一七年のロシア革命もソビエト政権への同意を示さなかったことから、一九二一年に亡命を余儀なくされ、以後、逝去までパリに住んで世界公演に出向いた。豊かに響く声と劇的表現に独自のものがあり、イタリア・オペラやフランス・オペラでのバスの役柄も得意としていたが、特に高い評価を得て居たのはロシア・オペラでのバス・パートで、その中でも極め付けはソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」のタイトル・ロールであった。三首目の歌のグノーの「ファウスト」のメフィストフェレス役は彼の当たり役の一つである。来日は昭和一一(一九三六)年で東京・名古屋・大阪で公演した。これは死の二年前であったが公演を重ねるに連れて次第に調子を上げ、クラシック・ファンは勿論のこと、多くの大衆を巻き込んだ一大センセーションを巻き起こしたと言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキフョードル・シャリアピンを参照した)。

 中島敦のシャリアピン讃歌は既に歌群冒頭の「和歌(うた)でない和歌」の中に、

 

纖(ほそ)く勁(つよ)く太く艷ある彼(か)の聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)

 

を見出せる。そこで附した注も再掲しておきたい。

 筑摩書房版全集第三巻の年譜等によれば、中島敦は昭和一一(一九三六)年二月六日にシャリアピンの公演バス独唱会を聴いている(於・比谷公会堂。来日期間は同年一月二十七日から五月十三日)。調べて見たところ驚くべきことに彼は事前に演目を決めず、その日の自分の雰囲気で歌う曲を決めたそうであるが、幸いなことに、同第三巻所収の中島敦の「手帳」の「昭和十一年」の当日の記載に詳細な演目を残し於いて呉れた。以下に示す。

   *

二月六日(木) 7.30 p.m.Chaliapin

 1. Minstrel (Areusky)2. Trepak (Moussorgsky)3. The Old Corporal4. Midnight Review (Glinka)5. Barber of Seville (Rossini)1"An Old Song (Grieg)2"When the King went forth to War.

 1. Don Juan (Mozart)2. Persian Song (Rubinstein)3. Elegie (Massenet)4. Volga Boatman5. Song of Flee (Moussorgsky)1"Prophet (Rimsky-Korsakov)

   *

なお、もしかすると、これは非常に貴重な記録なのかも知れない。ネット上でこの来日時の演目記録を捜したが見当たらなかったからである。       「蚤(のみ)の歌」(ゲーテ詞 ムッソルグスキイ曲)は彼の最も得意とする所

また、底本解題には『最近中島家より、若干の資料が新しく見つかつた』として、この「Mes Virtuoses My Virtuosi)」歌群についての新たに分かった事実(若しくは推定)記載がある。それによれば『シャリアピン獨唱會は、あらかじめ豫定してゐた彼のレペルトワール』(フランス語“rpertoire”レパートリーのこと)『八十八曲のうちから、當日はこの「手帳」に記されてゐるだけが演ぜられた模樣である』こと、『ピアノ伴奏はジョルジュ・ゴッツィンスキイ』であること、曲のうち、“The Old Corporal”(「老いぼれ伍長」とでも訳すか)は Aleksandr Sergeyevich Dargomizhsky(アレクサンドル・セルゲイヴィチ・ダルゴムイシスキー。但し、氏名の英文綴りは現行のネット上のデータで表示した)、『“When the King Went forth to War”の作者は Koenemann、“Song of the Volga Ooatman”も同人の編曲である』とある。「Koenemann」はウィキフョードル・ケーネマンによれば、モスクワ音楽院教授(一九一二年~一九三二年)でピアニストのフョードル・ケーネマン(Фёдор Фёдорович Кёнеман ; Fyodor Keneman 一八七三年~一九三七年)で、彼は二十四年間に亙ってシャリアピンの伴奏者・編曲者でもあった。なおケーネマン編曲のこの「ヴォルガの舟歌」は、皮肉なことにシャリアピンがソヴィエトから亡命した後に外国で有名になって、多くの共産主義者の愛唱歌となったものである。“When the King Went forth to War”(「王様が戦争に行ったとき」)はシャリアピンの素晴らしい歌声を“Шаляпин поет "Как король шел на войну"で聴ける。]

 

 

「蚤の歌」のメフィストが笑ふ大き笑ひ會場狹くとゞろき響く

 

海(わた)の水門(みと)渦卷き(たぎ)ち裂け落ちてまた奔(はし)り出づる聲かとぞ思ふ

 

かにかくに樂しかる世と思はずやシャリアーピンの「ドン・ファン」を聞けば

 

右手(めて)を伸ばし左手(ゆんで)を胸にシャリアーピンが今し「ドン・ファン」を唱(うた)ひ終りぬ

 

故郷(ふるさと)のムッソルグスキイを歌ふ時はシャリアーピン(みづか)も自らに醉ふか

 

蜘蛛の絲(い)の絶えなむとして絶えずまた朗々として滿ち溢れくる聲

 

見上ぐれば六尺(むさか)に餘る長身(たけなが)を身ぶりかろがろとシャリアーピンは歌ふ

 

[やぶちゃん注:「「かろがろ」の後半は底本では踊り字「〲」。「六尺(むさか)」の読み「さか」は「尺」「しやく(しゃく)」に同じ上代語。約一・八メートル。おおたに氏のサイト「海外オーケストラ来日公演記録抄(本館)」にある詳細を極めたシャリアピンが来た(一九三六)昭和十一年)」によれば、『初日、彼が姿を現わすと拍手とどよめきがおきました。シャリアピンのその巨体に驚いた観客が多かったためです。当時の新聞は彼の身長を六尺四寸五分、もしく六尺五分と記していますが』、『彼の背丈がかなりあるということがよくわかると思います。たしかに当時の彼のリサイタルの写真をみると、右手をピアノの上に、そして左手で表情をつけるような仕草をみせている、ぱっと見にはよくある光景なのですが、よーくみると彼の腰がピアノの上あたりにまできているのがみることができます』とあり、これだと一八三~一九五センチメートルとなる(リンク先は当時の様子がこと細かに分かってとても興味深い。必読である)。因みに私は物心ついた頃から家にあった七十八回転のシャリアピンの「蚤の歌」を聴くのが無上の喜びであったのを思い出す。あのシャリアピンの強烈な劇的表現こそが幼児の私をして後に演劇に向かわせる感動の濫觴であったのだと――今気がついた。]

 

      トレパク(死の舞踏)ムッソルグスキイ

 

ひそやかにスラヴの森を死の影が過(よぎ)りしと思ふ「トレバク」の歌

 

わたつ海(み)の潮滿ちくるか澎湃とシャリアーピンの聲の豐けさ

 

[やぶちゃん注:「トレパク」“Trepak”ウクライナ地方のダンスを由来とする舞曲名。一般的なロシア(風)舞曲をかく呼ぶ。チャイコフスキイの「胡桃割り人形」の第二幕第十二曲“Divertissement”(ディヴェルティスマン・登場人物たちの踊り)の四番目“Trépak”(トレパック・ロシアの踊り)が最も有名。]

 

      「預言者の歌」(プーシュキン詞 リムスキイ・コルサコフ曲)

 

天翔(あまかけ)る六(む)つの翼の熾天使(セラフィム)が曠野に呼ばふ豫言の歌ぞ

 

[やぶちゃん注:底本のルビは「セラフイム」であるが、中島敦の外来語の有意な拗音本文表記から考えて元は拗音表記と推定し、かく示した。「バスのための二つのアリオーソ」(一八九七年作)の第二曲「予言者」はサイト「梅丘歌曲会館」の「詩と音楽」の藤井宏行氏訳・解説で印象プーシキンが読める。]

 

天地(あめつち)の果ゆ大河(たいが)と漲(みなぎ)りくる王者の撃と聞かざらめやも

 

舟唄の嫋々(でうでう)として未だ消えずボルガの水面(みのも)を傳ふが如し

 

[やぶちゃん注:私の幼児期の記憶のもう一つの78回転のシャリアピンは、この歌声の神韻たる深さへの感動の沈潜であったことを告白する。]

 

歌ひ終り禮(あや)する見ればこの人は老(お)い人(びと)なりき氣づかざりしかど

 

[やぶちゃん注:当時のシャリアピンは満六十六歳であった。]

 

花束を捧ぐる童女(どうによ)小(ちひ)さければシャリアーピンの腰に及ばず

 

身を折りて童女(どうによ)の額に kiss すれば童女羞(は)ぢらひ喝采止まず

 

[やぶちゃん注:当時のシャリアピンの観客へのサービスの様子は、是非、先に掲げたおおたに氏のシャリアピンが来た(一九三六)昭和十一年)」をお読みになられたい。]

八つの指を持つ妬心 大手拓次

 八つの指を持つ妬心

金屬盤(きんぞくばん)のうへに
遠くおとづれてくる鐘のねをうつしうゑて
まどろみをつのぐませ、
失心した やけただれた妬心(としん)の裸身(はだかみ)を船にのせて彫刻する。
これは 變轉する相(さう)の洪水だ!
微笑の丘(をか)をつらぬく黄金(わうごん)の留針(とめばり)だ!
むらさき色を帶びた八つの指の姿は 馬にのつて
びうびうと 狂ひ咲いてゐる。
さうして 白眼(しろめ)を凝(こ)らした夜(よる)の蛙が
空閒(くうかん)をよぎつて呼吸をしぼりだしてゐる。

[やぶちゃん注:「つのぐませ」「つのぐむ」は「角ぐむ」(「ぐむ」は体言に附いて、その様子が見え始めるという意に動詞化する接尾語)目が角のように出始めるの意。通常は葦・薄・菰(こも)などの鋭利な植物の芽吹きに対して用いる。]

鬼城句集 秋之部 身に入む/行秋/秋雑

身に入む  身に入むや白髮かけたる杉の風

 

[やぶちゃん注:「身に入む」言わずもがなであるが、「みにしむ」と読み、「身に沁む」である。歌語から援用された季語。]

 

行秋    行秋や蠅に嚙み付く蟻の牙

 

      行秋や糸に吊して唐辛子

 

      行秋や沼の日向に浮く蛙

 

秋雜    瘦馬のあはれ機嫌や秋高し

 

      嬉しさや大豆小豆の庭の秋



これを以って「鬼城句集」の「秋之部 時候」を終わる。

2013/09/11

胎内の動き知るころ骨がつき 鶴彬 / 反戦川柳の悲劇の詩人鶴彬(つるあきら)の生涯と作品抄

胎内の動き知るころ骨がつき 鶴彬

鶴彬(つるあきら、明治四〇(一九〇八)年~昭和一三(一九三八)年)
反戦川柳作家。本名、喜多一二(きたかつじ)。石川県河北郡高松町(現かほく市)生。小学校在籍中から『北国新聞』子ども欄に短歌・俳句を投稿、大正一〇(一九二一)年、尋常小学校卒業。師範学校進学を養父に拒まれて断念、高等科に進学。近所の川柳家岡田太一(澄水)に川柳の指導を受け、句作を始めた。工場労働者を生業とする傍ら、プロレタリア川柳へと傾斜するも、多くの川柳誌で続々と掲載拒否の対象となる。昭和三(一九二八)年に「高松川柳会」を設立、プロレタリア川柳を唱導。全日本無産者芸術連盟(ナップ)高松支部を結成するが、喜多一二ら四名検束される。昭和五(一九三〇)年、徴兵検査甲種合格、金沢の第九師団歩兵第七連隊に入隊するも、反軍的行動により軍律違反として重営倉を食らい、昭和六(一九三一)年には『無産青年』所持及び隊内配布等の反戦行動の主犯(七連隊赤化事件)とされて、治安維持法違反の罪で大阪衛戍監獄に収監(刑期一年八ヶ月)。刑期終了後上京。昭和一二(一九三七)年深川にある木材通信社に就職するが、十二月、創作作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕、中野区野方署に留置さる。参照したウィキの「鶴彬」では翌昭和一三年八月、野方署にて赤痢に罹患、豊多摩病院に入院するも手遅れで死去した、とあるが、これは警察発表によるものと思われ、大阪市港区・西区の情報サイトにある三善貞司氏の「わが町人物誌」(鶴彬は大阪衛戍監獄に収監される以前にも大正一五(一九二六)年十七歳の時に此花区四貫島の従兄弟喜多市郎を頼って来阪、一年ほど町工場で働いている)の「鶴彬(三)」の末尾には『リンチのようなむごたらしい取調べを受けて、同年8月29才で死亡しました。警察の発表は赤痢(せきり)による病死だとなっています』とある。

冒頭に掲げた一句は、臨月を迎えた女性が戦死した夫の遺骨を受け取るというシチュエーションを、獄中にて詠んだもので、鶴彬最後の句とされる。

――鶴彬の川柳より(「鶴彬」Wikiquote に拠るが、恣意的に正字化した)

俺達の血にいろどつた世界地圖

飢迫る蟻米倉をくつがへし

軍神の像の眞下の失業者

毒瓦斯が霽(は)れて占領地の屍

血税に上る兵工廠の煙

指のない手に組合旗握りしめ

稼ぎ手を殺し勳章でだますなり

肺を病む乳房にプロレタリアの子

血を喀いて坑をあがれば首を馘り

晝業と夜業夫婦をきりはなし

足をもぐ機械だ手當もきめてある

孫までも搾る地主の大福帳

奪はれた田をとりかへしに來て射殺され

銃劍で奪つた美田の移民村

ふるさとは病ひと一しょに歸るとこ

血を吸ふたままのベルトで安全デー

轉地すれば食へぬ煙の下で病み

嫁入りの晴衣こさえて吐く血へど

ベルトさへ我慢が切れた能率デー

みな肺で死ぬる女工の募集札

吸ひに行く―姉を殺した綿くずを

ざん壕で讀む妹を賣る手紙

修身にない孝行で淫賣婦

待合で徹夜議會で眠るなり

賣った日を命日よりもさびしがり

フジヤマとサクラの國の餓死ニュース

屍のゐないニュース映畫で勇ましい

萬歳とあげて行った手を大陸において來た

手と足をもいだ丸太にしてかへし

ロボットを殖やし全部を馘首する

――「名詩の林」の「鶴彬」で、彼の十三篇の詩が読める。

秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者

 街道筋の居酒屋などに見る、場末風景の侘しげな秋思である。これらの句で、蕪村は特に「酒肆」とか「詩」とかの言葉を用ひ、漢詩風に意匠することを好んで居る。しかしその意圖は、支那の風物をイメーヂさせるためではなくして、或る氣品の高い純粹詩感を、意識的に力強く出すためである。例へばこの句の場合で、「酒屋」とか「謠(うた)」とかいふ言葉を使へば、句の情趣が現實的の寫生になつて、句のモチーフである秋風落寞の強い詩的感銘が弱つて來る。この句は「酒肆に詩うたふ」によつて、如何いかにも秋風に長嘯するやうな感じをあたへ、詩としての純粹感銘をもち得るのである。子規一派の俳人が解した如く、蕪村は決して寫生主義者ではないのである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 於外人墓地 十七首 中島敦 / 霧・ワルツ・ぎんがみ 了

    (以下於外人墓地 十七首)

 

見まく欲(ほ)り來(こ)しくもしるし山手なる外人墓地の秋草の色

 

秋なれば外國(とつくに)びとの墓處(はかど)にも大和白菊供へたりけり

 

敷島のやまとの國のさ丘べに永久(とは)にいねむと誰が思ひけめ

 

愛蘭土(あいるらんど)シャノンの畔(ほとり)キャリックに生(うま)れし子かも今こゝに眠る

 

[やぶちゃん注:「キャリック」キャリック・オン・シャノン(Carrick-on-Shannon)。アイルランド北西部リートリム州の町。シャノン川沿いに位置し、十九世紀、水上交通の要衝として栄えた。現在は釣りの名所として知られ、毎年八月に音楽祭が催される観光地である。]

 

主の御名(みな)は讚(ほ)められてあれと刻みける石碑(いし)の背後(そがひ)の黃なる秋薔薇

 

石碑(いしぶみ)の聖書の文字を誦(ず)しゐれば秋の薔薇(さうび)の花散りにけり

 

妹(いも)死にてやがて二年(ふたとせ)その夫(つま)もあと追ひけりと碑に書きたるを

 

たらちねの母と眠るよ亞米利加の總領事とふジョーヂ・スィドモア

 

[やぶちゃん注:「ジョーヂ・スィドモア」ジョージ・ホーソーン・シドモア(George Hawthorne Scidmore 一八五四年~大正一一(一九二二)年)横浜駐在アメリカ領事。生え抜きの外交官として永く横浜領事や長崎領事を勤めた。一九二二年十一月二十七日逝去、享年六十七歳。墓は山手外人墓地一一区三〇にある。]

 

はゝそはの母を悼むと築(つ)きし墓に子も入りてよりはやも幾年(いくとせ)

 

いと小(ち)さく白き十字架碑を見れば生(あ)るゝとやがて死にしみどり兒

 

いと小(ち)さき墓のほとりに色紅(あか)くヂェラニウムの花咲きにけらずや

 

Sleep on, Beloved. Sleep and take thy rest. (いとし見よ眠れ。やすけく息へよ。)’と刻みたりけり小さき墓石に

 

[やぶちゃん注:「いとし見よ眠れ。やすけく息へよ。」は底本では‘’内の英文のルビ。「‘」は底本では下付き。]

 

何しかも世には生(あ)れ來(き)し汝(し)が親の心しぬべば我はも泣かゆ

 

汝(し)が拳(こぶし)小さくありけむ汝(し)が衣(きぬ)も愛しくありけむと我はも泣かゆ

 

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、以上の五首、敦は直近の昭和一二(一九三七)年一月十三日に生まれて三日後に亡くなった長女正子への思いを重ねて慟哭しているのである。]

 

印度なるマドラスの人ランガンの墓の芭蕉葉秋寂びにけり

 

[やぶちゃん注:「ランガン」不詳。ネット記載に横浜居留地で明治二(一八六九)年一月、最初に四両の馬車を使って路線営業を始めた会社として、居留地百二十三番に店を持っていたランガン商会が挙がっている。この所縁の人物か?]

 

この丘に眠る舶乘(マドロス)夜來れば海をこほしく雄叫(をたけ)びせむか

 

[やぶちゃん注:「こほしく」は「戀(こほ)し」で、「戀(こひ)し」の上代語。]

 

朝曇りこの墓原に吾がゐれば汽笛とよもし船行くが見ゆ

秋一日(いちじつ)――かの中島敦が十七首を携へ、山手外人墓地を逍遙するも、これ、一興ならん――

これを以って味わい深かった「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦」全篇が終わる。

靑い紙の上に薔薇を置く 大手拓次

 靑い紙の上に薔薇を置く

おまへは法體(ほつたい)をした薔薇である、
呼吸をながながとかよはせ、
あらゆる生物(せいぶつ)のうへにとけくづれる。
月のひかりをしりぞけ、
あをくあをく こゑのない吹雪のいただきをもとめる。
みづはなく、
みづはなく、
この世のみちに消されてしまふ。
ただ
あをあをとする薔薇の花。

鬼城句集 秋之部 秋の聲/二百十日

秋の聲   灯を消して夜を深うしぬ秋の聲

 

      秋聲や石ころ二つ寄るところ

 

[やぶちゃん注:「秋の聲」は、もの寂しい秋を感じさせる風雨や木の葉、砧(きぬた)の音(ね)などの音を指す。]

 

二百十日  小百姓のあはれ灯して厄日かな

 

      二百十日の月に揚げたる花火かな

 

[やぶちゃん注:「二百十日」立春から数えて二百十日目で旧暦八月一日頃(新暦九月一日頃。本二〇一三年も九月一日)。二百二十日とともに台風の襲来する厄日とされ、稲の穂ばらみの時期に当り、この日の前後に風害を防ぐ風祭(かざまつり)を行う風習があった。風祭の花火の風習は現在でも、知られた愛知県豊川市にある菟足(うたり)神社の手筒花火を始めとして各所に残る。]

2013/09/10

由比北洲股旅帖 会津――斗南――六ヶ所村

 「中央と地方と原子力行政」 yamachanblog 二〇一三年九月十日

福島會津藩、かの酷き戰爭が後に減封されし斗南藩のありし地は今、忌わしき原子力發電の永遠不稼働なる「再處理」施設たる六ヶ所村なるを幾たりの人か知る。悍ましき北の生贄の血塗られし歷史、これにて知るべし。糞喰らへ。

今日一日 / カラバッジョ「キリストの捕縛」

午前中、妻のために自宅へ向かう階段の手摺の除草と土砂の運搬をした。すっかり疲れて昼食後、あるテキストに取り掛かるも、激しい疲労睡魔に襲われ、結局、夕刻まで横臥した。先程夕食後に酒を飲みながら見た、BBC製作のカラバッジョの「キリストの捕縛」の絵の数奇な運命を語るドキュメンタリーを見、激しい衝撃を受けた。――それで今日の僕の一日は終わった。……

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耳嚢 巻之七 備前家へ出入挑燈屋の事

 備前家へ出入挑燈屋の事

 

 備前家より五人扶持給(たまは)る挑燈や藤右衞門といふ町人有(あり)。右は彼(かの)新太郎少將の節よりの事にて、由井正雪彼新太郎少將うるさく思ひて、是を除く心向(こころむき)に有し哉(や)、又は新太郎名前を借りて惡徒を集(あつむ)るの手段や、右挑燈やへ備前家印の挑燈數多(あまた)あつらへけるを、疑敷(うたがはしく)思ひ彼家へ申立(まうしたて)ければ、一向覺無之(おぼえこれなき)事故、其趣を以斗(もつてはかり)ける由。彼家の申傳へには、其比(ころ)少將夜咄しに外へ被參(まゐられ)、いつも夜に入て歸り給ふを、正雪備前家の供(とも)に似せて迎(むかへ)を拵へ候□りにて右の通り工(たく)みしを、挑燈やの訴(うつたへ)にて其用心あり、供侍等迎申付有(まうしつけあり)て危をのがれ給ふゆへ、今に五口(ごくち)の扶持を與へ、備前家の挑燈を一式に引請(ひきうけ)、當時も不貧(まづしからず)暮しけると、彼家士の内物語也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、夜道のロケーションが続いて不思議に違和感なく続いて読める。

・「備前家」岡山藩池田家。岡山藩は備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩。藩庁は岡山城。殆んどの期間、美濃池田氏池田恒利を祖とする池田氏が治めた。

・「新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)いけだ みつまさ)。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主・岡山藩池田宗家三代。池田利隆長男。新太郎は通称で官位は従四位下左近衛権少将(贈正三位)。寛永九(一六三二)年、叔父の岡山藩主池田忠雄が死去、従弟で忠雄嫡男の光仲は未だ三歳で山陽道の要所たる岡山は治め難しとされて、幕命によって江戸に呼び出され、因幡鳥取藩主から岡山三一万五〇〇〇石へ移封された(以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなる)。熊沢蕃山を招いて仁政に努め、質素倹約の「備前風」を奨励、津田永忠を登用して新田開発を進め、藩校花畠教場(はなばたけきょうじょう)や日本最古の庶民の学校である閑谷(しずたに)学校を開設している。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として徹底したかなり厳格な儒学的合理主義を藩政に於いて実践施行し、水戸藩主徳川光圀及び会津藩主保科正之と並んで江戸初期の三名君の一人と称せれている。一部参考にしたウィキの「池田光政」には、『光政は幕府・武士からは名君として高く評価されていた。慶安の変の首謀者である由井正雪などは謀反を起こす際には光政への手当を巧妙にしておかねば心もとないと語ってい』たと記し、『また由井の腹心である丸橋忠弥は光政は文武の名将で味方にすることは無理』と考え、『竹橋御門で』『射殺すべき策を立てたという』とあり、本話柄の信憑性を高める記事が見出せる。

・「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年〜慶安四(一六五一)年)は軍学者で討幕を計画した慶安の変(慶安四(一六五一)年四月~七月)にかけて起こった事件の首謀者。駿府出身と伝えられ(詳細は不明)、楠木正成の子孫を自称、神田に楠木流軍学塾張孔堂を開き、幕閣批判と旗本救済を掲げて浪人を集め、幕府転覆を画策したが、一味の丸橋忠也の逮捕によってクーデターが事前に露見、駿府茶町(ちゃまち)に宿泊していた正雪は幕府の捕手に囲まれて自刃した。後の黙阿弥作「花菖蒲慶安実記」など、歌舞伎や浄瑠璃の登場人物として広く知られるようになった。また、この事件は、直後、将に四代将軍となった家綱が武断政策を文治政策に転換する契機の一つになったとも言われている(以上は財団法人まちみらい千代田の「江戸東京人物辞典」の記載に拠った)。慶安事件直近と考えると、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、本話柄の主なシーンは一五五年も前の出来事である。

・「□」底本には右に『(積カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はズバリ、『拵へ候積りにて』である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 備前家へ出入りの挑燈(ちょうちん)屋の事

 

 備前家より、何と――五人扶持(ぶち)を給はって御座る――挑燈屋の藤右衛門――と申す町人が御座る。

 この提燈屋は、これ、かの新太郎少将光政殿の御時よりの、岡山藩御用達で御座る。

 かの凶悪の謀略家由井正雪、この新太郎少将がことを、これ、甚だ五月蠅(うるそ)う思い、幕府転覆がためには、何としても光政殿を除かずんば成らず、と思うたものであろうか――または新太郎殿の名を騙り、悪徒を集めんとする手段(てだて)にでも用いんとしたものか、この挑燈屋へ――いや、未だその頃は、池田家の御用達にては御座らなんだ――備前家の家紋の入(い)った挑燈を、これ、数多(あまた)誂えるようにと、注文に参ったと申す。

 提燈屋は、普段、市中(いちなか)にてお見かけするところの礼儀正しい池田家御家中の者とは何か違(ちご)うた、その注文に参った男の風体(ふうてい)や言葉遣いを、これ何となく疑わしく感じたによって、御当家へと参り、

「……かくかくの御用を承りましたれど……その……今一度、数なんど確かめとう存じまして……」

とさりげなく申し立てたところが、家士一同に質(ただ)いても、一向にそんな注文を致いた覚えのある者は、これ、御座ない。されば、

「――いや……当家にては提灯を注文致いたと申す儀は、これ、ないが。」

と答えたところ、

「……やはり!……実はこれこれの風体を致いたる、怪しき男が……」

と訳を話したによって、

「……!……相い分かった!……よくぞ、知らせて呉れた! 礼を申すぞ!」

と役方の者は即座に奥へと参り、この何やらん、不穏なる事態を申し上げたところが、光政殿は、

「――されば――その騙(かた)らんとする意を推し量り、その背後の真意を測って対処致さん。――」

とお答えになられた。

 その提燈屋に代々申し伝えられておる話によれば……

 

……何でもその頃、少将光政殿はしばしば知音(ちいん)の元を、夜、お訪ねになられ、清談なさるることが殊の外多く、いつも夜(よ)も遅うなってお帰りになられた。……かの兇悪なる正雪は、備前家の御供(おとも)の者に似せて、これ、大層な似非(えせ)の迎えを拵え上げ……光政殿が油断なされたところを……一気に弑(しい)せんとする積りにて……先のようなる提燈の注文を企んだところが……御先祖主人の訴えがあったによって……その夜半の御用心、これ、十全に施され、しっかりとした供侍(ともざむらい)などの迎えを、必ず予め申し付けられて御座ったによって、かくなり危難をばお逃れ遊ばされた……によって……今に至るまで、五口(ごくち)の扶持(ふち)をお下しになられ、また、備前家の挑燈一式を我ら、一手に引き請けておる由……

 

「……今も相応に貧しからざる暮しを、この提燈屋、致いて御座いまする。……」

とは、かの池田家御家中の内の、さる御仁の物語りで御座った。

秋風や干魚かけたる濱庇 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

秋風や干魚かけたる濱庇

 海岸の貧しい漁村。家々の軒には干魚がかけて乾してあり、薄ら日和の日を、秋風が寂しく吹いて居るのである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 七首 朝騎(あさのり) 中島敦

    (以下七首 朝騎(あさのり))

 

水莖の岡のあしたの鋪道(しきみち)を外國婦人(とつくにをみな)馬に騎(の)り來る

 

[やぶちゃん注:「水莖」「みづくき(みずくき)」は「岡」の枕詞。]

 

朝を騎(の)る英吉利女(をみな)頰の上の丹色(にいろ)しるしも白き息吐く

 

かの騎(の)る驊騮(くわりう)の駒か朝日子の射しくるなべに嘶えたりけり

 

[やぶちゃん注:「驊騮」周の穆(ぼく)王が天下巡幸に用いた一日千里を走るという駿馬の名。後に転じて名馬のことを指すようになった。]

 

みはろかす港に朝日さしそめぬ丘行く駒の影は長しも

 

革衣(かはごろも)益良雄めけど胸の邊(へ)コスモスの花插しにけらずや

 

新しき拍車鳴るよとわが聞けばすなはち馬はトロットに移る

 

[やぶちゃん注:「トロット」“trot”は馬術用語で跑足(だくあし)・早足(はやあし)・速歩のこと。“walk”(ウォーク・並足)と“canter”(キャンター/カンター・速足・駆歩)との中間の歩調。因みにキャンターの上が全力疾走の“galop”(ギャロップ・早駆け・襲歩)。]

 

鹿毛駒の尾を振り去りしそきへより鋪道(ほだう)斜めに朝日さしくる

 

[やぶちゃん注:「鹿毛」これで「かげ」と読む。茶褐色の最も一般的に見られる馬の毛色。

「そきへ」「退き方」で遠く離れた方。果て。上代語。]

空にひらく花 大手拓次

 空にひらく花

みしらぬ影の そこはかとなくゆれうごき、
すべてのものごとの ただ遠くおもはれる
ゆきゆきて かへらぬことのは。
みじろくものは そばにあり、
空いつぱいにひらく れんげうのはな。

鬼城句集 秋之部 冷/新涼

冷     葬送や跣足冷たき家來達

[やぶちゃん注:こうして見ると、鬼城はこうした遠い過去の、江戸時代辺りに巻き戻った空想の吟詠(こういうのを一般には何というのだろう? 私は仮想詠とか時代詠とか表現するのだが、ネット上には「創作」「空想」「古風」「詠史」「虚構」などとあるが、創作吟や虚構吟などと口にすると、これは何だか生理的に厭な感じがする。識者の御教授を乞う)が意外に多いことに気づく(水原秋桜子なんどは「俳句の作り方」で「空想句を詠まぬこと」などとのたもうているが、そもそもこういう禁止拘束を創作に持ち込んだ瞬間に芸術は鮮やかに芸術でなくなると私は考えている。糞喰らえ)。因みに私は最も時代を溯ったよく出来た仮想吟は服部嵐雪の「其浜ゆふ」に載る「蛇いちご半弓提げて夫婦づれ」であると勝手に思っている。]


      冷やかに住みぬ木の影石の影

新凉    新凉や花びら裂けて南瓜咲く

      新凉や二つ小さき南瓜の實

2013/09/09

栂尾明恵上人伝記 63 承久の乱への泰時に対する痛烈な批判とそれに対する泰時の弁明

僕の「北條九代記」はもうじき、承久の乱に突入する。



 泰時朝臣、此の山中に入來す。法談の次に、上人問ひ奉つて云はく、古賢の云はく人多き時は則ち天に勝つ、天定まれば人を破すと云云。しかるに只武威を以て國を傾け給ふと雖も、其の德なくしては、果して禍來らんこと久しからじ。賢聖の詞疑ふべからず。古より和漢兩國に力を以て天下を治めし類、更に長く持てる者なし。忝くも我が朝は、神代より今に至るまで九十代に及びて、世々受(うけ)繼ぎて、皇祚他を雜へず。百王守護の三十番神(ばんじん)、末代と雖もあらたなる聞えあり。一朝の萬物は悉く國王の物にあらずと云ふことなし。然れば國主として是を取られむを、是非に付て拘り惜しまんずる理なし。縱ひ無理に命を奪ふと云ふとも天下に孕(はら)まるゝ類、義を存せん者豈いなむことあらんや。若し是を背くべくんば此の朝の外に出で、天竺・震旦にも渡るべし。伯夷・叔齊は天下の粟(あは)を食はじとて、蕨(わらび)を折りて命を繼(つな)ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰められて、其の理必然たりしかば、蕨をも食せずして餓死したり。理を知り心を立てたる類皆是の如し。されば、公家より朝恩を召し放たれ、又命を奪ひ給ふと云ふとも、力なく國に居ながら惜み背き奉り給ふべきにあらず。然るを剩へ私に武威を振つて、官軍を亡ぼし、王城を破り、剩へ太上天皇を取り奉りて遠島に遷(うつ)し奉り、王子・后宮を國々に流し、月卿・雲客を所々に迷はし、或は忽ちに親類に別れて殿閣に喚(さけ)び、或るは立所(たちどころ)に財寶を奪はれて、路巷(ちまた)に哭する體(てい)を聞くに、先づ打ち見る所其の理に背けり。若し理に背かば冥の照覽(せうらん)天の咎めなからんや。大に愼み給ふべし。おぼろげの德を以て此の災(わざはひ)を償ふことあるべからず。是を償ふことなくんば、禍の來らんこと踵(きびす)を廻らすべからず。なみなみの益を以て此の罪を消すことあるべからず。是を消すことなくば、豈地獄に入らんこと矢の如くならざらんや。御樣を見奉るに、是程の理に背くべき事し給ふべきことにあらぬに、何(いか)にとありけることにやと、拜謁の度には、且は不思議に、且は痛はしく存ずと云々。泰時朝臣こぼれ落つる涙をさらぬ體に押し拭ひて、疊紙(たゝうがみ)を取り出し、鼻かみなんどして押し靜めて、答へ申して云はく、此の事、所存の趣(おもむき)、日來(ひごろ)も委く語り申度く存じ候ひつるを、指して事の次(ついで)でも無く候て、自然に罷り過ぎ候ひき。故將軍、平大相國禪門の一類を亡ぼし、龍顏を休め奉り、萬民の愁を助け、君の爲に忠を盡し、忠の爲に私を忘れ、滋味を嘗(な)めては先君に備へんことを營み、珍しき財を儲けては則ち公に獻ぜんことを專にす。或時は諫め申し、或時は隨ひ奉りしかば、大將の門にありとし在るもの、上一人を重くし奉らずと云ふことなし。此の如きの功を感じ思食しけるにや、官位俸祿日々に添ひ、年々に重なり、大納言の大將に成さるゝのみにあらず、日本國の惣追捕使(そうついほし)を賜はられき。かゝる時は、毎度固く辭し申されて云はく、頼朝、凶徒を鎭めて叡慮を休め、貧しき民を撫でゝ、敕裁を亂らざらんことを存す。是れ若きより性に稟(う)けて願ひ來し所なり。而るに今飽まで官位を極め、恣まゝに俸祿に飽き、且は此の志を汚(けが)すに似たりとて堅く子細を申されけれども、敕定(ちよくじやう)再三に及びければ力なく、敕命背き難きに依りて、泣く泣く領掌(りやうしやう)申されけり。之に依りて、親類・眷屬恩賞に浴する中に、祖父時政・父義時殊に鴻恩(こうおん)に誇る。是れ皆故法皇の御惠みの下を以て榮運を開けり。去れば彼の御子孫に於ては、彌(いよいよ)無二の忠を致し、増々純一の功を勵すべき旨、深く心中に插み候ひき。而るに法皇崩御なり、幕下逝去の後、公家の御政も廢(すた)れ果てゝ、忠あるも忠を失ひ、罪なきも罪を被る輩、勝げて計るべからず。諸國大きに煩ひ、萬民甚だ愁ふ。指(さ)せる誤りなき族(やから)、重代相傳の莊園を召し放たれ、朝に給ふ者は夕べに召され、昨日下さるゝ所は今日改めらる。一郡一莊に三人四人主有りて國々に合戰絶ゆることなし。處々に浪牢(らうらう)の人多くして山賊海賊充ち滿てり。諸人安堵の思ひなく、旅客の通ずること稀なり。さるに付(つけ)ては、飢寒に責めらるゝ者多く、妖亡(えうばう)に遇ふもの數を知らず。此の事兩三年殊に放廣(ほうくわう)の間、關東深く欺き存ずる刻(きざ)み、結句誤りなき關東亡さるべき由、内々洩れ聞え候ひしかども、指したる支證(ししよう)なく候ひし程に、愁へ申すに及ばず、謹みて恐怖せし處に、巳に伊賀判官(はうがん)光末(みつすゑ)に課して、數萬騎の官軍、關東へ發向の由、聞え候ひし間、父義時ひそかに予を招きて語りて云はく、既に天下此の儀に及ぶ、如何か計るべきや、内儀(ないぎ)を能く談じて後、竹の御所に參りて二位家に申し合すべき由申し候ふ間、泰時答へ申して云はく、平平相國禪門、君を惱まし奉り、國を煩はし候ひしに依て、故大將殿御氣色(みけしき)を承つて討ち平げ、上を休め下を治めてより以來、關東忠ありて誤りなき處に、過なくして罪を蒙らむこと、是れ偏に公家の御誤りに非ずや。然れども一天悉く是れ王土に非ずと云ふ事なし、一朝に孕まるゝ物宜しく君の御心に任せらるべし。されば戰ひ申さん事(こと)理に背けり。しかじ頭を低れ手を束ねて各降人に參りて歎き申すべし。此の上に猶頭を刎(はね)られば、命は義に依て輕し、何のいなむ所かあらん。力無き事なり。若し又御優免(ごいうめん)を蒙らば然るべき事なり。如何なる山林にも住みて殘年(ざんねん)を送り給ふべきやと申したりし程に、義時朝臣暫く案じて、尤も此の義さる事にてあれども、其れは君王の御改正しく、國家治まる時の事也なり。今此の君の御代と成りて國々亂れ所々安からず、上下萬人愁(うれひ)を抱かずと云ふ事なし。然して關東進退の分國(ぶんこく)計(ばか)り、聊か此の王難に及ばずして、萬民安穩(あんのん)の思ひを成せり。若し御一統あらば、禍四海に充ち、煩ひ一天に普(あまね)くして、安き事なく、人民大に愁ふべし。是れ私を存して隨ひ申さゞるに非ず、天下の人の歎きに代りて、縱ひ身の冥加(みやうが)盡き命を捨つと云ふ共痛むべきに非ず。是れ先蹤(せんしよう)なきに非ず。周の武王・漢の高祖、巳に此の義に及ぶ歟(か)。其れは猶自ら天下を取りて王位に居せり。是は關東若し運を開くと云ふ共、此の御位(みくらゐ)を改めて別の君を以て御位につけ申すべし。天照太神・正八幡宮も何の御とがめかあるべき。君を誤り奉るべきに非ず。申し進むる近臣共の惡行を罸するまでこそあれ、急ぎ罷り立つべし。此の旨を二位家に申すべしとて坐を立ちしかば、力及ばず。是れ亦一義無きに非ざる上は、父の命背き難きに依て隨ひき。仍て打立て上洛仕り候ひしに、先づ八幡大菩薩の御前にある橋の本にして、馬より下り頭を低れて信心を致して祈り申して云はく、此の度の上洛、理に背かば、忽に泰時が命を召して後生(ごしやう)を助け給ぶべし。若し天下の助けと成りて、人民を安んじ佛神を興(おこ)し奉るべきならば、哀憐(あいれん)を垂れ給へ、冥慮(みやうりよ)定めて照覽(せうらん)有らんか、聊か私を存せずと云々。又二所三島の明神の御前にして誓を立つる事同じ。其の後は偏(ひとへ)に命(めい)を天に任せて、只運の極まらん事を待ちけり。而るに聊かの難無くして今に存せり。若し是れ始の願の果す所か。而るに若し予緩怠(くわんたい)にして佛神を興(こう)せず、國家の政を大に資(たす)けずんば、罪一身に歸すべし。仍て一度食するに、士來れば終へずして急ぎ是を聞き、一度髮(かみ)梳(くしけづ)るにも、士來れば終らざるに先づ是れに逢ふ。一休一寢なほ安からず、士愁(うれひ)を懷きて待たんことを恐る。進んでは深く萬民を撫(な)でん事を計り、退きては必ず一身に光あらん事を思ふと雖も、天性蒙昧にして及ばざる所あらんか。誠に其の罪脱れ難し。今慈悲の仰を承つて、感涙禁じ難しと云々。

[やぶちゃん注:「三十番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で後に日蓮宗で信仰された。

「人多き時は則ち天に勝つ、天定まれば人を破す」人が多く勢力の盛んな折には時として人は一時的に天の理に勝つこともあるが、正しい状態に戻れば天道が必ず人の邪を打ち破るものである、という謂い。父兄の仇敵であった楚の平王の墓を発いて亡骸を三百回鞭打った(「死屍に鞭打つ」の語源)伍子胥に対し、友人申包胥(しんほうしょ)があまりの酷さに咎めた際の言葉(伍子胥は「日暮れて道遠し。故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。これは「自分はすっかり年をとってしまった。だからやり方などは気にしてはおれぬ」の意とも、また自己の非を悔いての「時間はないのに、やるべきことは沢にある。それでつい焦ってしまって非常識な振る舞いをした」の意ともいう)。総て「史記」の「伍子胥伝」による故事である。

「伊賀判官光末」伊賀光季(?~承久三(一二二一)年)の誤り。鎌倉幕府御家人。伊賀朝光長男。母は二階堂行政の娘。姉妹が北条義時継室伊賀の方であったため(泰時義母)、外戚として重用され、建保七(一二一九)年に大江親広とともに京都守護として上洛した。承久三 (一二二一)年の承久の乱では倒幕の兵を挙げた後鳥羽院の招聘に応じず、同年五月十五日、官軍によって高辻京極にあった宿所を襲撃されて子の光綱とともに自害した。後に北条泰時は光季の故地を遺子季村に与えている(以上は一応、ウィキ伊賀光季に拠ったが、同記載には、光季が『後鳥羽上皇の招聘に応じず、「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。再び勅すると、「面勅すべし、来れ」と言った。「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕に入るは臣の知る処にあらず」と言って行かなかった』というまことにリアルな描写があるものの、この直接話法、まず、どこからの引用か分からぬ点、さらに「面勅すべし、來れ」とはどう考えても後鳥羽院の台詞の誤りではなかろうか? 特別な面勅を許したのにも拘わらず、というところか。「官闕に入るは臣の知る処にあらず」というのもよく分からない。欠けている討幕軍の臨時職に就くなどということは天子を守護する幕閣組織の家臣として知るところではないという意味か? 識者の御教授を乞うものである)。]

明恵上人夢記 24

24
一、大盤石有り。高き峯は極り無し。海水、上より流れて、瀧の水の如し。慶ぶべき殊勝之相あり。此に對ひて歡樂すと云々。
[やぶちゃん注:前後の連関は不明。前置きなしに頭から夢記述が始まっている。
「殊勝」この場合は、神々しい様子、心うたれるようなこと、の謂いである。]

■やぶちゃん現代語訳

一、夢を見た。「巨大なしっかりした石がある。その中央部は高い峰になっていて、およそ頂上は見えず、極りがない。突然、海の水が上より流れ下って来て、瀧の水の如くである。夢の中の私はそれを慶ぶべき神々しい象徴と受け取った。そしてこの無限からなだれ下ってくる海水の瀧に対峙して歓喜を覚えた。……」

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 三 單爲生殖(2) ミジンコの例


Mijinkosei


[(い・ろ・は)みじんこ類 (に・ほ・へ)けんみじんこ類]

 

 天水桶などの中に澤山游いで居る「みぢんこ」は「えび」・「かに」などと同じく甲殼類に屬するが、身體は「のみ」程の大きさよりない。これも魚類などに盛に食はれるから、敵に攻められぬ隙に急いで蕃殖せぬと種族の維持がむつかしい。「ありまき」も「みぢんこ」も共に敵に對して身を護る裝置は特に發達せず、その代り蕃殖の方に全力を注いで、幾ら食はれてもなほ殘るやうに努める動物である。即ち旺盛な生殖力を唯一の武器として生存して居る。それ故「みぢんこ」なども「鬼の留守に洗濯」といふ諺の如く、熱い夏の間に頗る盛に蕃殖するが、その方法はすべて單爲生殖による。「みぢんこ」の澤山游いで居る處を掬ひ取つて見ると、大抵は雌ばかりで雄は殆どない。しかもそれが皆子を持つて居る。普通の「みぢんこ」の身體は、恰も羽織か外套を著た如くに、一種の殼で被はれて居て、殼と胴との間には空處があるが、夏盛に生まれる卵は直に親の體からは離れず、暫時この空處に留まつて、その内で速かに發育し、親と同じ形になつて水中へ游ぎ出すのである。「みぢんこ」を度の低い顯微鏡で覗いて見ると、親の背にある殼の内側に幾疋も小さな子が壓し合つて居るが、これは單爲生殖によつて出來た子であるから、一疋として父を有するものはない。秋の末になつて水が冷くなると雄も生まれ、雌は特に殼の厚い大きな卵を産むが、この卵は冬氷が張つても死なずに翌年の春孵化して、その中からまた雌が出て來る。但しこの雌だけには明に父がある。そしてこの雌がまた盛に子を産んで夏の間に無數に殖える。かくの如く水中の「みぢんこ」の生殖の模樣は、大體に於ては陸上の「ありまき」の生殖と相似たもので、雙方ともに速に蕃殖するときには單爲生殖により、冬を越して種族を繼續せしめるに當つては雌雄兩親の揃つた生殖法を行ふのである。「みぢんこ」の中でも「しゞみ」や「はまぐり」の形に似た「介みぢんこ」の類には、冬になつても單爲生殖續け、ために今日まで一度も雄が見いだされぬものもある。

 


Kaimijinko


[介みぢんこ]

 

[やぶちゃん注:「みぢんこ」既注であるが新たに生態を含めて再注しておく。ミジンコは「微塵子」「水蚤」などと書き、水中プランクトンとしてよく知られる微小な節足動物である甲殻亜門鰓脚綱葉脚亜綱双殻目枝角(ミジンコ)亜目 Cladocera 属する生物の総称。形態は丸みを帯びたものが多く、第二触角が大きく発達して、これを掻いて盛んに游泳する。体長〇・五~三ミリメートル前後の種が多いが、中には五ミリのオオミジンコ Daphnia magna Strausや、一センチメートルに達する捕食性ミジンコのノロ Leptodora kindtii などもいる(以上はウィキの「ミジンコ目」に拠った)。ウィキの「ミジンコ」によれば、『ミジンコには、自分とおなじクローンしか産まない単為生殖期と、交配して子孫を残す有性生殖期がある。一般的に、通常(環境の良いとき)はメスを産み、生存危機が迫ったときにだけオスを産んで交配するといわれている。また、エサや水温、日照時間の変化により、休眠卵とよばれる卵を作り、有性生殖期には雌雄による受精卵を作ることもある』とある。

「介みぢんこ」狭義には甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目 Myodocopida に属するもの、広義には貝虫亜綱 Ostracoda に属するものを総称し、種としては推定でも一万から一万五千種が現生すると考えられている。カイミジンコ(英名:Ostracod)は長さ〇・三~五ミリメートル程度(例外的に三〇ミリメートルに及ぶ種もあり)、の小さな甲殻類で深海から汽水・淡水、湿った落ち葉の中などにも棲息する。体は殻で包まれており、背部に蝶番を持つ。一般的には八対の手足を持った複雑な構造を成している。参照させて戴いたRobin J. Smith氏の「Ostracod research at the Lake Biwa Museum(リンク先は邦文ページ)が詳細を極める(素晴らしいページで必見!)。それによれば、『多くの淡水カイミジンコは交尾することなく自分のクローンをつくることによって繁殖します(無性生殖)。これは単性生殖とよばれ卵に感染する寄生バクテリアによって起こります。そのような種はその寄生バクテリアがオスの形成を抑制するためすべての個体がメスで構成されています。 なかには地理的な単性生殖をみせる種もおり(Eucypris virens など)、南ヨーロッパでは有性生殖、他の場所では単性生殖をします』。『短い目で見ると無性生殖には利点があり、例えば、オスをつくったり交尾相手を捜す時間もエネルギーも無駄にすることがなく、新しい個体をつくるのに一つの個体しか必要ありません。したがってそのような種は有性生殖をする種より早く広まっていくことができます。しかしながら、長い目で見ると無性生殖は遺伝的な変異を引き起こし、無性の個体群は死滅していくことになります。全くの無性である種は若く、未来のない短命の種であると考えられます』。但し、『ひとつだけ不可解な例外があります。それは Darwinulidae 科とよばれる淡水カイミジンコです。その化石は、このグループには何百万年も、おそらく2億年もの長い間オスがいなかったことを示しています。現在も Darwinulidae は世界中で生息しており新しい種もいまだに発見されています。しかしすべての無性個体群はメスだけで構成されています。そのようなグループは「古代無性種」とよばれており、最近の研究ではその生存と進化の秘密を解明しようと試みられています』。 ただスミス氏のカイミジンコについてのくべの記載を読むと、カイミジンコの亜科 Cypridoidea は巨大な精子を作るとあって、例えば Propontocypris monstrosa は体長〇・六ミリメートルしかないにも拘らず、体長の十倍の六ミリメートルもの長さの『精子をつくります。このグループのオスは同様にその巨大なサイズに対応するための大きな生殖器をもっており、その精子をメスに送り込むためのゼンカー器とよばれる2つの大きな筋肉質のポンプを持っています。その精子全体が卵に入り込み、殻のすぐ下の卵の中で巻かれます』とあり、他にもスミス氏のリンク先の記載には四億二千五百万年前のカイミジンコ最古の化石種からはペニスが発見されているともあって、丘先生の『今日まで一度も雄が見いだされぬ』(下線やぶちゃん)という謂いは、現在では「殆どの種で」と補正される必要があると思われる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 18 安息日なんて糞喰らえ!

 旧式なニューイングランドの習慣で育てられた者にとって、日曜日は面白い日であった。あらゆる種類の商売や職業が盛んに行われつつある。港の船舶は平日通りに忙しく、ホテルの向いの例の杙打機械は一生懸命に働き、往来には掃除夫や撒水夫がいるし、内国人の店はすべて開いている。私の見た範囲では、日曜を安息日とする例は、薬にしたくもない。この日の午後、私は上野公園の帝室博物館を訪れるために東京へ行った。公園の人夫たちは忙しく働いている。博物館の鎧戸(よろいど)は下りていたが、裸の大工が二十人(いずれも腰のまわりに布をまいている)テーブルや陳列箱の細工をしていた。

[やぶちゃん注:「ニューイングランド」“New England”)はボストンを中心都市としたアメリカ合衆国北東部の六州を合わせた地方名でモースはその中のメイン州ポートランドで生まれた。作家ジェームズ・ジョイスによれば、ニューイングランド気質とは『利己主義に対する絶えざる警戒であり、自己を超えた理念の裏付けがなければ行動を起こせない人々である。分かりやすく云えば、自己を卑下するというのが最大の美徳であって、この世とは神の審判を前にして只管神に感謝し、あらゆる楽しみを断念することであると信じる人々である。断念すると云うよりは、あらゆる楽しみを罪悪視して感じる人々である』(ブログのアリアドネ会修道院図書館のジェイムズの『ヨーロッパ人』――ニューイングランド気質についてより引用させて戴いた)だそうである(なお、現在のポートランドの名誉のために記しておくと、ウィキポートランドメイン州によれば『現代の生活意識調査では、アメリカでも最も住みやすい小都市の一つに挙げられている』とある)。以下、この日曜日にかこつけての描写にはモースのキリスト教嫌い(だからこそダーゥインの進化論の最初の紹介者でもあったのである)が如実に表れている。底本の「1」の巻末にある藤川玄人の解説によれば、『モースの父親は厳格なピューリタン的人物で、生来自由奔放な息子とは肌が合わなかった。父親が教会に行くように命じても、彼には教会が幸せを与え、魂を救ってくれる場所だとは信じることができなかった』とあり、モースは一八九五年三月六日の日記に『「神は我われに、微笑め、と言う。だが教会には陰鬱さが漲(みなぎ)っている。一方、自然は、花は、みな微笑み美しい」と』まで書いている、とある。なお、これは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載によって明治一〇(一八七七)年六月二十四日(日曜日)のことと判明する。なお本邦に於ける曜日の概念の導入は意外なことに、平安初期に遡る。以下、ウィキの「曜日」より引用しておく。『日本には入唐留学僧らが持ち帰った「宿曜経」等の密教教典によって、平安時代初頭に伝えられた。宿曜経が伝えられて間もなく、朝廷が発行する具註暦にも曜日が記載されるようになり、現在の六曜のような、吉凶判断の道具として使われてきた。藤原道長の日記『御堂関白記』には毎日の曜日が記載されている。『具註暦では、日曜日は「日曜」と書かれるほかに「密」とも書かれた。これは、中央アジアのソグド語で日曜日を意味する言葉 ミール(Myr)を漢字で音写したものであり、当時、ゾロアスター教やマニ教において太陽神とされていたミスラ神の名に由来する』。ところが、『その後江戸時代になると、借金の返済や質草の質流れ等の日付の計算はその月の日にちが何日あるか』(旧暦では二十九か三十日)『がわかればいいという理由で、七曜は煩わしくて不必要とされ、日常生活で使われることはなかった』。『現在のように曜日を基準として日常生活が営まれるようになったのは、明治時代初頭のグレゴリオ暦導入以降である』とある。新暦(グレゴリオ暦)の本邦での採用は本記載に先立つ四年前の明治六(一八七三)年一月一日のことであり、この明治十年頃でも日曜休業という感覚は全く以って普及していなかったことが分かる。

「上野公園の帝室博物館」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下の記載がある。

   《引用開始》

 六月二十四日、彼は再度上京して、上野の文部省教育博物館を訪れている。同博物館の前身は湯島の昌平館にあった東京博物館(明治八年四月八日命名)で、明治十年(一八七七)一月二十六日に教育博物館と改称された。また、これに先立って上野への移転が決まり、前年六月に着工、明治十年三月に落成していた。場所はいま東京芸術大学のある辺りである。一般公開は同年八月十八日で、したがってモース訪問時は開館の準備中だったが、東大の誰か、おそらくは教育博物館の館長を兼任していた植物学の矢田部良吉教授の紹介で、開館前の同館を見学することができたのだと思われる。この教育博物館のはるかな後身が現在の国立科学博物館である。なお、これとは別に、日比谷の内山下町には内務省の博物館があった。モースはのちにここも訪れているが、この内山下町博物館がのちの帝室博物館、現在の東京国立博物館の前身である。

   《引用終了》

最後の部分は「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」のシーンに叙述される。因みにこれによって、そこに記載された別な博物館が内山下町にあった内務省管轄の国営博物館であったことが分かる。また、磯野先生はこの直後に『モースはその前後に横浜の魚市場や青果市場を訪れたり、歌舞伎を見たりしている。と同時に、日本人の生活ぶりをますます熱心に観察して、自然を生かした装飾品や簡素な民具、とくにさまざまな竹製品に心を奪われはじめている。日本人が正直で礼儀正しいこと、清潔なことも彼に強い印象を与えたようだ』と記しておられ、この叙述からは先の歌舞伎観劇が横浜でのことであったようには(少なくとも磯野先生は私と同じく横浜と推測なさったという風には)読める。

「まわりに布をまいている」和服で上半身肌脱ぎになって仕事をしているのを見て、こう表現したものであろう。]

 博物館には完全に驚かされた。立派に標本にした鳥類の蒐集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬の大きな蒐集、その他動物各類が並べてある。そして面白いことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。教育に関する進歩並びに外国の教育方針を採用している程度はまったくめまぐるしい位である。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(8)

  游江島   千葉玄之〔字子玄號芸閣〕
金龜孤島鎭關東。
琪樹玲瓏此地雄。
靑壁高懸天女洞。
白波直撼妙音宮。
鰲身堪曝扶桑日。
鵬翼將搏溟渤風。
知是三山應不遠。
樓臺總在彩雲中。

[やぶちゃん注:作者は儒者千葉芸閣(ちばうんかく 享保一二(一七二七)年~寛政四 (一七九二)年 「芸」は正確には(くさかんむり)が切れ、藝の新字体である「芸」とは別字。香草の名で、その葉は書物の虫食いを防ぐのに使われたことから「書物」をいう語である)。秋山玉山に学んで下総古河藩藩主土井利里に仕えたが、中傷を受けて辞して後、江戸駒込に塾を開いた。名は玄之、字は子玄。通称、茂右衛門。著作は「詩学小成」「標箋孔子家語」「重刻荘子南華真経」「官職通解」「唐詩選掌故」など多数。

  江島に游ぶ   千葉玄之〔字は子玄、號、芸閣。〕
金龜の孤島 關東を鎭め
琪樹(きじゆ) 玲瓏として 此の地 雄たり
靑き壁 高く懸けたり 天女の洞
白波(しらなみ) 直ちに撼(うご)かす 妙音の宮
鰲身(がうしん) 曝すに堪ふ 扶桑の日
鵬翼(ほうよく) 將に搏(はばた)かんとす 溟渤の風
知る 是れ 三山 應に遠からざるを
樓臺 總て 彩雲の中(うち)に在り

「琪樹」崑崙山 (中国の西方にあると考えられた仙山で仙女西王母が住むとされる) の北にある宝玉のなる木。ここは島の樹木が美しく茂ることを言った。
「鰲」大きな亀。伝説上の神獣で背に蓬莱山などの仙山を載せているとされる。
「扶桑」中国神話にみえる太陽の昇る木。
「鵬」「荘子」に出る想像上の大鳥(おおとり)。翼長三千里、一度羽ばたけば九万里を飛ぶという(但し、中国古代や現代中国の一里は約五百メートルであるから、三千里は一五〇〇キロメートル、九万里は四五〇〇〇キロメートル)。
「溟渤」果てしなく広い海。大海。]

耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事

 

 幽靈を煮て食し事

 

 文化貮年の秋の事也。四ツ谷のもの夜中用事ありて通行せし道筋に、白き將束(しやうぞく)なせし者先へ立(たち)て行ゆへ樣子を見しに、腰より下は見へず。幽靈と歟(か)いふ者にやと跡をつけて行しが、ふり皈(かへ)りたりし㒵(かほ)大い成(なる)眼ひとつ光りぬれば、拔打(ぬきうち)に切り付(つけ)しに、きやつといふて倒れし。取つておさへ差(さし)殺し見しに、大成(なる)ごひ鷺なればやがてかつぎ返り、若き友達内寄(うちより)て調味してける。是を、幽靈を煮て喰(くらひ)しと專ら巷説なりしと也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:怪談(但し、こちらは「正体見れば」譚)話で連関。ホットな擬怪奇談。私の山の先輩は若い頃に雷鳥を焼いて食ったことがある(美味であった)と聴いたが、サギを食ったという方は知らない。味を御存知の方は、是非、ご一報を。

 

・「文化貮年の秋」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。

 

・「將束」底本では右に『(裝束)』と訂正注を打つ。

 

・「ごひ鷺」コウノトリ目サギ科サギ亜科ゴイサギ Nycticorax nycticorax ウィキの「ギサギ」によると、全長五八~六五センチメートル・翼開長一〇五~一一二センチメートル・体重〇・四~〇・八キログラムで上面は青みがかった暗灰色、下面は白い羽毛で被われる。翼の色彩は灰色。虹彩は赤いく、眼先には羽毛が無く、青みがかった灰色の皮膚が露出する(この形状が闇の中で直近で並んで光に反射すれば、大きな一つ目にも見えぬとは限らぬ)。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色、とある。知らずに闇の中に立って振り返られれば、これは、確かにキョワい!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 幽靈を煮て食った事

 

 文化二年の秋のことで御座る。

 

 四ツ谷の在の者、夜中に用事があって外出致いた道筋に、

 

……白き装束をなしたる……妖しい者が……これ……先へ立って歩く……

 

やに、見えた。

 

……何やらん……その挙措……これ……人とは思えぬ……

 

なればこそ、おっかなびっくりさらに様子を見てみると……

 

……これ……

 

……腰より下は……見えぬ!!

 

『スワっ! こ、これぞ、ゆ、幽霊というものカッ?!』

 

と、恐怖と興味の半ばして、抜き足差し足、跡をつけて行ったところが……

 

……そ奴が! これ!

 

……すくっと止まって!

 

……急にふり返る!

 

……その顔は!

 

……大きなる眼(めえ)が!

 

……ただ一つ!

 

……光っておるばかり!

 

 さればこそ、

 

――ヒエッ!

 

と叫ぶが早いか、

 

『取り殺されんカッ! 最早、これまでじゃッ!』

 

と、抜き打ちに切りつけた!

 

と幽霊、

 

――キャッ!

 

叫んで

 

――バッタ!

 

音を立てて倒れる。

 

 さても手応えあって倒れたによって、男は勇気百倍、幽霊を、これ、捕って押さえ、

 

――ブスッ!

 

と刺し殺いた!……

 

……動かずなったによって近寄ってよう見てみたところが……これ……何のことはない……大きなる五位鷺じゃった……

 

……されば、そのまま担いで長屋へと帰り、近隣の若い衆を招き寄せると、捌いて煮込んで、『いうれい鍋』と洒落て、喰(くろ)うたそうじゃ。

 

 これを『幽靈を煮て喰った』とは、近時専らの巷説となっておる、とのことで御座る。

 

冬近し時雨の雲も此所よりぞ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   冬近し時雨の雲も此所よりぞ

 

 洛東に芭蕉庵を訪ねた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拜し、自分の墓地さへも芭蕉の墓と竝べさせたほどであつた。その崇拜する芭蕉の庵を、初めて親しく訪ねた日は、おそらく感激無量であつたらう。既に年經て、古く物さびた庵の中には、今も尚ほ故人の靈が居て、あの寂しい風流の道を樂しみ、靜かな瞑想に耽つているやうに見えたか知れない。「冬近し」といふ切迫した語調に始まるこの句の影には、芭蕉に對する無限の思慕と哀悼の情が含まれて居り、同時にまた芭蕉庵の物寂びた風情が、よく景象的に描き盡つくされて居る。流石に蕪村は、芭蕉俳句の本質を理解して居り、その「風流」とその「情緒」とを、完全に表現し得たのであった。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。

 「芭蕉庵」は京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派佛日山金福寺(こんぷくじ)内にある。当初は天台宗の寺院であったが、後に荒廃したため、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に円光寺(同所近在にある臨済宗南禅寺派の寺院)の鉄舟によって再興され、その際に円光寺末寺となった。その後、鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京に旅した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ、後年、そこが芭蕉庵と名付けられた。後に荒廃していたものを、彼を敬慕した与謝蕪村とその一門が安永五(一七七六)年に再興したものである。同寺には与謝蕪村筆芭蕉翁像や芭蕉庵再興の際に蕪村とその一門が寄せた俳文「洛東芭蕉庵再興記」が残り、記されている通り、与謝蕪村自身の墓もある(以上はウィキ金福寺」に拠る)。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 秋の最後の雨あがりて 四首 中島敦

    (以下四首 秋の最後の雨あがりて)

海の靑空の碧(みどり)も眼に沁むよ幾日か降りし雨あがりたり

空霽れぬ冬の港に泊(とまり)する石炭船の腹の赤しも

空晴れぬ丘の麓の鋪道(しきみち)を自動車廻りキラリと光る

靑空にはたくと鳴る丘の上の三色旗(トリコロール)は色褪せにたり

雪が待つてゐる 大手拓次

 雪が待つてゐる

そこには雪がまつてゐる、
そこには靑い透明な雪が待つてゐる、
みえない刃(は)をならべて
ほのほのやうに輝いてゐる。

船だねえ、
雪のびらびらした顏の船だねえ、
さういふものが、
いつたり きたりしてうごいてゐるのだ。

だれかの顏が だんだんのびてきたらしい。

鬼城句集 秋之部 夜寒/うそ寒

夜寒    壁土を鼠食みこぼす夜寒かな

      提灯で泥足洗ふ夜寒かな
      軒下に犬の寐返る夜寒かな

うそ寒   うそ寒く嫁菜の花に日のあたる



向後の季節に向って同調させるために、本日より二項仕立ての公開とする。

2013/09/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 17 歌舞伎観劇


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図―21

 

[やぶちゃん図注:図中のキャプションを示して主に現在の歌舞伎舞台用語の当該日本語を示しておいた。比較のために現在の新歌舞伎座の設備との比較も行ってみた(言わずもがなであるがモースが見たのは後注もするように歌舞伎座ではない)。

(最上部)“ACTERS DRESSING ROOMS” 楽屋

(その下の円形部)“TURN TABLE AND STAGE” まわり舞台と舞台

(円形の右)“SCREEN” 定式幕[やぶちゃん注:引幕であるが、後に出るように現在知られた単純な三色縦縞の引幕ではないようである。また、現在の歌舞伎座などを考えると点線位置(引幕の引かれる位置)が稍後ろ過ぎる感じはする。]

(舞台下手客席側)“ORCHESTRA” 下座・黒御簾(くろみす)

(右端)“BOXES ON GALLERY” 二階桟敷席(個室。因みに現在の新歌舞伎座の棧敷席はかく仕切られた個室はない。)

(左中央)“→ ACTORS ENTER →” 花道

(中央下)“GALLERY” 客席・平土間・桝席

(最下部)“SWEET MEATS FOR SALE” 特別同伴予約席?(同じく現在の新歌舞伎座では一階後方に個室になったガラス張りの特別室が三人用と四人用の二室がある)]

 

 日本で出喰わす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。劇場はかかる新奇の一つであった。友人数名と共に劇場に向けて出発するということが、すでに素晴らしく景気のいい感を与えた。人通りの多い町を一列縦隊で勢いよく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景、新しい物音、新しい香い(この最後は必ずしも常に気持よいものであるとはいえぬ)に接する……これは忘れることの出来ぬ経験である。間もなく我々は劇場に来る。我々にとっては何が何やらまるで見当もつかぬような支那文字をべったり書いた細長い布や、派手な色の提灯や、怪奇な招牌(かんばん)の混合で装飾された、変てこりんな建物が劇場なのである。内に入ると、我々は両側に三階の棧敷を持った薄暗い、大きな、粗末な広間とでもいうような所に来る。劇場というよりも巨大な納屋といった感じである。床は枠によって六百フィート平方、深さ一フィート以上の場所に仕きられているが、この一場所がすなわち枡(ます)で、その一つに家族一同が入って了うという次第なのである(図21)。日本人は脚を身体の下に曲げて坐る。トルコ人みたいに足を組み合わせはしない。椅子も腰かけもベンチも無い。芝居を見るのも面白かったが、観客を見るのも同様に面白く――すくなくとも、物珍しかった。家中で来ている人がある。母親は赤ん坊に乳房をふくませ、子供達は芝居を見ずに眠り、つき物の火鉢の上ではお茶に使う湯が暖められ、老人は煙草を吸い、そしてすべての人が静かで上品で礼儀正しい。二つの通廊は箱の上の高さと同じ高さの床で、人々はここ、を歩き、つぎに幅五インチくらいの箱の縁を歩いて自分の席へ行く。

[やぶちゃん注:この芝居小屋はどこだろう。まず、場所が横浜なのか東京なのかが分からない。どうも前後の描写からは私には横浜のように思われてならないが、確定は出来ない(なお、何となく我々がイメージしてしまうところの歌舞伎座の開設は明治二二(一八八九)年で、この頃にはまだない)。ただ次の段落で、その舞台に設置された回り舞台の直径を「二五フィート」(7・62メートル)と記しているから、相当に間口の広い劇場でなければならない。当時の東京で最も規模が大きかったのは新富座(旧江戸三座の守田座)の舞台間口八間(約14・5メートル)であるが、京橋区新富町六丁目にあった新富座はこの前年の明治九(一八七六)年十一月に起こった日本橋区数寄屋町の火災で類焼しており、翌年四月に同町四丁目に仮劇場を設営していた状態にあったとウィキの「新富座」にあるので疑問である(図や記載を見る限りでは仮小屋とは思われない。なお新富座は翌明治一一(一八七八)年六月にはガス灯などを配備した近代劇場を新設、大々的な洋風開場式を行っており、実はモースはこの直後に今度は確かにこのの新富座の杮落としで二度目の歌舞伎観劇をしており、それが「第十一章 六ヶ月後の東京」に詳述されている)。他には浅草猿若町(現在の台東区浅草六丁目)にあった残りの江戸三座の市村座・中村座、及び日本橋久松町にあった喜昇座(現在の明治座の前身)が挙げられる。実は私は歌舞伎が好きではないのでよく分からない、というか、今一つ、積極的に調べようという気が起こらないでいる。識者の御教授を乞うものである。

「桝席」当時の芝居小屋の枡席は一般に七人詰であった。参照したウィキの「桝席」によれば、江戸時代(桝席の出現は明和の初め一七六〇年代後半であった)の料金は一桝あたり二十五匁で、『これを家族や友人などと買い上げて芝居を見物したが、一人が飛び込みで見物する場合には「割土間」といって、一桝の料金のおよそ七等分にあたる』一朱を払って「他所様(よそさま)と御相席(ごあいせき)」という便宜が利いた。『土間の両脇には一段高く中二階造りにした畳敷きの「桟敷」(さじき)があり、さらにその上に場内をコの字に囲むようにして三階造りにした畳敷きの「上桟敷」(かみさじき)があった』が『料金は現在とは逆で、上へいくほど高くなっ』ていた。『やがてそれぞれの枡席には座布団が敷かれ、煙草盆(中に水のはいった木箱の灰皿)が置かれるようになった。枡席にお茶屋から出方が弁当や飲物を運んでくるようになったのもこの頃からである。当時の芝居見物は早朝から日没までの一日がかりの娯楽だったので、枡席にもいくらかの「居住性の改善」が求められたのである』。『明治になると東京をはじめ各都市に新しい劇場が建てられたが、そのほぼすべてが枡席を採用していた。文明開化を謳ったこの時代にあっても、日本人は座布団の上に「坐る」方が居心地が良かったのである。全席を椅子席にして観客が「腰掛ける」ようにしたのは、演劇改良運動の一環として』明治二二(一八八九)年に落成した『歌舞伎座が最初だった。これを境に以後の劇場では専ら椅子席が採用されるようになり、昭和の戦前頃までには、地方の伝統的小劇場を除いて、枡席は日本の劇場からほとんどその姿を消してしまった』とある。

「六百フィート平方」原文は“six feet square”。六フィートの誤り。凡そ1・8平方メートルで前の相撲見物の際の桝席の「六フィート四方位」と一致する。既に述べた通り、因みに現在の相撲の場合の升席は金属パイプで仕切られ、ずっと小さくなって幅1・3メートル/奥行1・25メートルだそうである。

「深さ一フィート以上」30センチメートル以上。]

 

 舞台は低く、その一方にあるオーケストラは黒塗りの衝立によって、観客からかくしてある。舞台の中央には床と同高度の、直径二五フィートという巨大な回転盤がある。場面が変る時には幕を下さず、俳優その他一切合財を乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具方が忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せると共に今迄使っていた場面を見えなくする。観客が劇を受け入れる有様は興味深かった。彼等は、たしかに、サンフランシスコの支那劇場で支那人の観客が示したより以上の感情と興奮をみせた。ここで私は挿句的につけ加えるが、上海に於る支那劇場はサンフランシスコのそれとすこしも異っていなかった。サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネティカット出来の柱時計が、時を刻んでいただけが相違点であった。

[やぶちゃん注:この最後の京劇かとも思われる舞台の演目は何だろう? 時計が小道具としてあるのかミソである。識者の御教授を乞うものである。

「直径二五フィート」7・62メートル。参考までに十一年後に完成する歌舞伎座の場合、舞台は間口十三間(約23・6メートル)・奥行十六間(約29メートル)・高さ十七尺(約5・2メートル)、回り舞台は蛇の目回し(同心円の大小二つの回り舞台が独立して稼働可能な構造をしたかつて存在した回り舞台。幕末期に考案された)で、外回り直径が九間(16・4メートル)・内回り七間(10メートル)もあった。因みに新歌舞伎座に至っては直径六十尺(18・18メートル)で構造物自体の深さは実に約16・5メートルに及ぶ文字通り日本一の廻り舞台である(「歌舞伎座」公式サイトに「建築の現場から」で、今は設置されて見れないその全体の威容を見ることが出来る)。]

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図―22

 

 劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。言語は我々の為に通訳してくれた日本人にとってもむずかしく、彼は時々ある語句を捕え得るのみであった。数世紀前のスタイルの服装をした俳優――大小の刀をさしたサムライ――を見ては、興味津々たるものがあった。酔っぱらった場面は、おおいに酔った勢いを発揮して演出された。剝製の猫が、長い竿のさきにぶら下がって出て来て手紙を盗んだ。揚げ幕から出てきた数人の俳優が、舞台でおきまりの大股(ろっぽう)を踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。その中で最も立派な役者は、子どもが持つ長い竿の先端についた蠟燭の光で顔を照らされる。この子供も役者と一緒に動き回り、役者がどっちを向こうが、必ず蠟燭を彼の顔の前にさし出すのである(図22)。子どもは黒い衣服を来て、あとびっしゃりをして歩いた。彼は見えないことになっている。まったく、観客の想像力では見えないのであるが、我々としては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これがごく最新の設備なので、こんなふうなむき出しのガス口が出来るまでは、俳優一人について子供一人が蠟燭をもって顔を照らしたものである。後見はわが国に於るそれと異り、隠れていないで、舞台の上を故(ことさら)に歩き回り、かわり番に各俳優の後ろにきて(私のテーブルはたった今地震で揺れた。一八七七年六月二十五日、――また震動があった。またあった)、隠れているかのように蹲(うずくま)り、そして明瞭に聞こえるほどの大声で助言する。図23は無体の大略をスケッチしたものである。舞台の上には下げ幕として、鮮やかな色の紙片をたくさんつけた硬い繩がかたまって下がっている。オーケストラは間断なく仕事をした――日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴らすのに持ってって、時々笛が疳高く鳴る。音楽は支那の劇場に於るが如く勢いよくもなく、また声高でもなかった。過去に於る婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(我々は男、あるいは少年が女の役をやるのだ、と教わった)が、常に蹲るような態度をとることに依て知られた。幕間には大きな幕が舞台を横切って引かれる。その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、もっとも巨大な模様が目も覚めるような色彩であらわしてある。すべての細部にわたって劇場は新奇であった。こんな短い記述では、その極めて薄弱な感じしか出せない。

 


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図―23

 

[やぶちゃん注:この記述によってモースの観劇が明治10(1877)年6月25日のことであったことは分かる。やはり、友人たちと人力を仕立てて行って帰ったとすれば横浜の劇場らしいが、今度はこの外題が想像つかない。やはり識者の御教授を乞うものである。「古代のある古典劇を演出したもの」で、「大小の刀をさしたサムライ」の「おおいに酔った勢いを発揮した」「演出」がなされるもの、「剝製の猫が、長い竿のさきにぶら下がって出て来て手紙を盗」む(?)、「揚げ幕から出てきた数人の俳優が、舞台でおきまりの大股(ろっぽう)を踏んで大威張りで」花道を歩く芝居……。そして中の一段の舞台の絵図……どうか、御教授のほどよろしゅうお願い申し上げまする……。

「その中で最も立派な役者は、子どもが持つ長い竿の先端についた蠟燭の光で顔を照らされる」子供はがたいが小さく見える黒子のことで(実際に年少の者がやることも多かったであろうが)。これは「面明(つらあか)り」「差し出し」と呼ばれるもので、芝居の舞台、特に花道に於いて役者の顔をよく見せるために柄のついた燭台を後見が前後からの差し出すもの(通常は従って二人)。

「あとびっしゃりをして歩いた」原文は“walked backward”。(器用に)後退りした。「日本国語大辞典」には「あとじさり」の変化した語として「あとびさり」「あとびっしょり」「あとびっさり」という語を掲げる(特に方言としていない)。なお、この甲州弁にズバリ「あとびっしゃり」というのがある。但し、石川も石川の父千代松も江戸・東京生まれではある。

「三フィート」約90センチメートル。

「後見」原文は“The prompter”で、「後見」という訳はやや問題がある。「プロンプター」は舞台の陰にいて俳優が台詞を間違えたり、つかえたりした際に小声で教える役であるが、歌舞伎に於いてはこの仕事は狂言方(歌舞伎狂言の四、五枚目の下級作者で、立作者の下で台詞の書き抜き〔台本から一人一人の俳優の台詞を別々に書き抜いたもの〕をしたり、幕の開閉などの仕事をした者)がこれを務めることになっており、「後見」と言った場合には演技者の後方に控えて、飽くまで装束の直し・小道具の受け渡し・その他演技の進行の介添えをする者をいうからである。モースが「明瞭に聞こえるほどの大声で助言する」といっているのは謠を誤認したものではなかろうか?

「舞台の上には下げ幕として、鮮やかな色の紙片をたくさんつけた硬い繩がかたまって下がっている」というのはどうも緞帳(その下部にある装飾)ではなく、花を模したありがちな舞台の上縁の飾りのように思われる。

「オーケストラは間断なく仕事をした――日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴らすのに持ってって、時々笛が疳高く鳴る。」原文は“The orchestra was in action all the time — a lazy, absentminded thrumming on the Japanese banjo with now and then a toot of a flute.”。意味は分かる。少しモースの呆れた感じを含んで訳すなら、

 

囃子方は見えない御簾の向こうの暗がりで絶え間なく己が仕事を、ただただし続けている――三味線の、何とも、かったるい感じの、如何にも弛んでしまった弦をぼろんぼろん爪弾いているといった、ダルな楽曲が、これ、延々聴かされるのに持ってきて、その上、時に吃驚するような厭に疳走った高い笛の音が鳴ったりするのである。――

 

といった感じではなかろうか。無論、モースは全体として歌舞伎の新奇を面白がってはいるが、恐らくはこの囃子方には勘弁だったのではないか、と私は秘かに思うのである。なお、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には弟子岩川友太郎の回想を引用し、『先生には観劇といふ趣味』はなかったとあり、またその直後で岩川が『音楽を聴くといふ娯楽もなく』と叙述部分に注されて、『これは岩川の思い違いであろう。モースは音楽が好きで、「セーラムの家には小型のグランド・ピアノがあり、興に乗ずると相当こみ入った曲をひいた」』と石川欣一氏の引用をなさっておられる。私が言いたいのは、少なくともこの時点での歌舞伎の囃子の三味線や横笛を、音楽好きのモースは決して気に入ったようには感じられない、ということなのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 16 製茶場


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図―20

 

「茶を火にかける」建物は百尺に百五十尺、長く低い竈(かまど)の列(竃というよりも大きな釜が煉瓦に取りかこまれ下に火を入れる口がある)があって、中々面白い場所である。これ等の釜の列が広々とした床――それは土間である――を覆っている(図20)。釜は錫か亜鉛に似た合金で出来ていて、火は日本を通じての燃料である所の木炭によって熱を保つ。釜二個に対して人――男、女、娘――一人がつく。彼の任務は茶の葉を焦げぬように手でかきまわすことである。時として横浜の空気がこの植物の繊美な香で充満するということを聞くと、火を入れるために茶が香気を失うのではあるまいかと想像する人もあろう。ここの暑さは息づまるばかりであった。男は犢鼻褌一つ、年取った女の多くは両肌ぬぎ。どの人も茶道具を持っていた。小さなパイプを吸っている者も多かった。大小いろいろな嬰児達が、あるいは竈の列の間を走り廻り、又は煉瓦を組んだ上に坐っていた。母親の背中にいるのもある。子供達は殆ど如何なる職業にも商売にも、両親より大きな子供に背負われてか、あるいは手を引かれるかして、付き物になっている。日本人があらゆる手芸を極めて容易に覚え込みそして器用にやるのは、いろいろな仕事をする時にきっと子供を連れて行っているからだ、つまり子供の時から見覚えているからだ、と信じても、大して不合理ではないように思われる。

[やぶちゃん注:これは特に描写からは焙(ほう)じ茶の製茶場の光景のように思われる。ウィキほう茶」によれば、『葉が赤茶色に変わるまで強火で焙じて作る。日本茶業中央会の定める緑茶の表示基準では「ほうじ茶とは、煎茶や番茶などを強い火で焙って製造したもの」と定義されて』おり、現在の製法は一九二〇年代に『京都において確立されたといわれる』。『製茶業者は専用の大がかりな焙煎器を使用する』とあるから、ここに記されたそれは今日の焙じ茶の製法以前の工法を伝える貴重な図と記載であると思われる(実際、幾ら検索をかけてみてもこの図に示されたような機器は見つからない)。]

 

 輸出向きの茶は、空気が入らぬようにハンダで密封する板鉛の常に納めるにさき立って、先ず完全に乾燥しなくてはならぬ。すこしでも湿気があると黴が生えて品質が悪くなる。内地用の茶は僅かに火を入れる丈であるから、香気を失うことがすくない。その結果最初の煎じ出しに対しては微温湯(ぬるまゆ)さえあればいいので、この点我国の「湯は煮たぎっているに非ざれば……」云々なる周知の金科玉条とは大部違う。

[やぶちゃん注:「湯は煮たぎっているに非ざれば……」原文は“"unless the water boiling be," etc.,”。紅茶の正しい淹れ方は一般に、熱湯を使うこと及び茶葉をジャンピングさせることとあり、この二項は実は不即不離の関係にあって、茶葉をジャンピングさせるには通常では摂氏九十八度以上の温度が必要であると言われていることに由来する。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(7)

  游江島   江忠囿

天女祀前戊巳晨。

詣徒洗目大觀親。

群蜑被髮風洲樹。

豪客褰裳探窟神。

江海高煙人市外。

蛟龍瑞氣含珠津。

鬟童時欲通靈夢。

不断潮聲破睡頻。

 

[やぶちゃん注:作者は江戸の漢学者入江南溟 (いりえなんめい 延宝六(一六七八)年~明和二(一七六五)年)。名は忠囿(ただその/但し、本詩の場合は中国風の漢名であるから「ちうう(ちゅうう)」か「ちういう(ちゅうゆう)」の音読み)字は子園、通称は幸八。南溟・滄浪居士と号した。荻生徂徠に師事、江戸で塾を開いて講説を行った。終生仕えることはなかったが秋田藩士に門人が多く、養子となって跡を継いだ入江北海も秋田藩の出であった。その著述には唐詩を詩体別に分けて注釈を施した「唐詩句解」、「礼記」に載る養老制度を初学者のために分かり易く仮名書きで解説した「大学養老編」などがある。また、同時代の出版物に多くの序・跋文を残しており、その知名度の高さか窺われる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で「鬟」を確定した。

 

  江島に游ぶ   江忠囿

天女 祀前(しぜん) 戊(つちのえ)の巳(み)の晨(あした)

詣徒 目を洗ひて 大觀 親し

群れし蜑(あま)は 髮を被ひて 洲樹に風(うた)ひ

豪たる客は 裳を褰(かか)げて 窟神(くつしん)を探る

江海 高煙 人市の外(ほか)

蛟龍 瑞氣 含珠の津(しん)

鬟(みづら)の童 時に靈夢に通ぜんと欲するも

不断の潮聲 睡を破ること 頻りなり

 

取り敢えず「戊(つちのえ)の巳(み)」と訓じたが不審。年と月を言ったものか。識者の御教授を乞う。]

おのが身の闇より吠えて夜半の秋 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

 

   おのが身の闇より吠えて夜半の秋

 黑犬の繪に讚して咏よんだ句である。闇夜に吠える黑犬は、自分が吠えて居るのか、闇夜の宇宙が吠えて居るのか、主客の認識實體が解らない。ともあれ蕭條たる秋の夜半に、長く悲しく寂しみながら、物におびえて吠え叫ぶ犬の心は、それ自ら宇宙の秋の心であり、孤獨に耐え得ぬ、人間蕪村の傷ましい心なのであろう。彼の別の句

 

     愚に耐えよと窓を暗くす竹の雪

 

 もこれとやや同想であり、生活の不遇から多少ニヒリスチツクになった、悲壯な自嘲的感慨を汲くむべきである。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。「愚に耐えよと」の「え」はママ。仮名遣の誤りである。蕪村の原句でも正しく「愚に耐へよと」である。
 この評釈――『闇夜に吠える黑犬は、自分が吠えて居るのか、闇夜の宇宙が吠えて居るのか、主客の認識實體が解らない。ともあれ蕭條たる秋の夜半に、長く悲しく寂しみながら、物におびえて吠え叫ぶ犬の心は、それ自ら宇宙の秋の心であり、孤獨に耐え得ぬ、人間』萩原朔太郎『の傷ましい心なのであ』る――と置換しても命題として真である。……いや……案外、「月に吠える」とは、この句が秘かなるルーツであったのかも、知れない。――]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦  元町ジェラール邸跡にて 三首 中島敦

    (以下三首 於璽甖※瓴邸趾)[やぶちゃん字注:「※」=「雷」+「瓦」。]

そのかみのヂェラァル翁(おきな)こゝにして赤き瓦を燒きにけむかも

ヂェラァルが瓦燒きけむこの丘に秋草咲けりその名知らなく

秋草の茂みゆ掘りし赤瓦 Gerard(ヂェラァル)の G 沿えてありけり

[やぶちゃん注:「璽甖※瓴」「ヂェラァル」Alfred Gerard。既注済み。事蹟は前の歌群の私の注などを参照されたい。煉瓦製造業で成功した彼のオマージュのために日本名(中島敦が勝手に万葉仮名風に選んだものであろう)も瓦がふんだんに用いられている。煉瓦積みの重厚さを感じさせる。よい漢名和名である(外国人が自分で書くには限界を超えていると断ずるが。私の「藪」の字などは海外でサインした際、字として疑われることがしなしばであったから。)]

齒 大手拓次

 齒

こひびとよ、
おまへの齒は 五月のゆふべの月(つき)しろです。
ちひさな みつばちが
とほくから のぞいてゐますよ、
はねをならしてゐますよ。

[やぶちゃん注:「月しろ」月代・月白で月のこと。別に月の出際に東の空が白んで明るく見えることも言うが、採らない。]

鬼城句集 秋之部 秋の日

秋の日   砂原を蛇のすり行く秋日かな

      本堂に秋の夕日のあたりけり

      秋の日に泰山木の照葉かな

[やぶちゃん注:「泰山木」モクレン目モクレン科モクレン属タイサンボク Magnolia grandiflora。「照葉」は一般には「てりは」と読み、草木の葉が紅葉して美しく照り輝くこと。また、その葉を指す。照り紅葉とも言うが、ここはその意ではないと思われる。何故なら泰山木は常緑樹で目立った黄葉を示さないからである。では何故「照葉」なのかと言えば、これは文字通りの秋の陽に照る葉の謂いであろうと推測するからである。泰山木の葉は葉の表面にかなり強い光沢がある(裏面には毛が密生して錆色に見えるがこれは周年であるから泰山木を親しく詠む人がこれを黄葉と誤認することはあり得ないと考える)。その葉の表面に映え照る秋の陽の謂いであろう。大方の御批判を俟つ。]

2013/09/07

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 15 何でも反対、日本とアメリカ

 この国に来た外国人が先ず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人と我々とが逆であるという事実がある。このことは既に何千回となく物語られているが、私もまた一言せざるを得ない。日本人は鉋(かんな)で削ったり鋸で引いたりするのに、我々のように向こうへ押さず手前に引く。本は我々が最終のページとも称すべきところから始め、そして右上の隅から下に読む。我々の本の最後のページは日本人の本の第一頁である。彼等の船の帆柱は船尾に近く、船夫は横から艪(ろ)を漕ぐ。正餐の順序でいうと、糖菓や生菓子が第一に出る。冷水を飲まず湯を飲む。馬を厩に入れるのに尻から先に入れる。

[やぶちゃん注:石川氏はさりげなくお洒落である。同じ“page”という単語を英語の本のそれでは「ページ」と訳し、和本の際には「頁」と訳している。

「いろいろなことをやるのに日本人と我々とが逆であるという事実がある」逆である直接的文化的理由が分かる訳ではない(むしろルーツを辿れないものの方が多いようだ)がなんでも反対、日本とアメリカの頁が面白く、参考になる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 14 水撒き・桶・ぼてぶり


M18

図―18

 

 街路や小さな横丁等は概して撒水がよく行われている。路の両側に住む人々が大きな竹の柄杓で打水をしているのを見る。東京では水を入れた深い桶を担い棒でかついだ男が町を歩きまわる。桶の底の穴をふさぐ栓をぬくと、水がひろがって迸(ほとばし)り出る。一方男はなるべく広い面積にわたって水を撒こうと、殆ど走らんばかりにして行く(図18)。水を運ぶバケツは、イーストレークがその趣味と実益とを大いに賞讃するであろうと思われる程、合理的で且つ簡単に出来ている。桶板の二枚が桶そのものの殆ど二倍の高さを持って辺の上まで続き、その一枚から他へ渡した横木がハンドルを形づくつている(図19)。

 


M19
図―19

 

[やぶちゃん注:「イーストレーク」フレデリック・ウォーリントン・イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake 一八五六年~一九〇五年)。アメリカ出身の言語学博士で慶應義塾教員。二十三ヶ国語に精通、「博言博士」の名で知られた。日本人女性と結婚し、東湖と号した。ニュージャージー州に生まれ、万延元(一八六〇)年に父ウィリアム・クラーク・イーストレイク(日本の近代歯科医学の父と称せられる歯科医)に伴われて来日。五歳でラテン語・ギリシャ語・フランス語・ドイツ語を、八歳の時には父に従って清国へ行き、スペイン語を学んだ。その後に米国に戻った後、十二歳でドイツのギムナジウムに入学、後にパリに移って医学・法学を修めてベルリン大学で言語学の博士号を得る。さらにアッシリア・エジプトを遊歴して現地の言語を究めた後、香港に渡って三年滞在、その間にインドを訪れてサンスクリット語・アラビア語にも親しんだ。明治一四(一八八一)年二十五歳の時、再び来日、明治一八(一八八五)年には元旗本太田信四郎貞興の娘太田ナヲミと結婚した。当時は外国人が居留地以外に住むことは禁じられていたが、福澤諭吉の好意によって福澤名義で東京の一番町十二番地に家を借りて居を構えた。明治一九(一八八六)年から外国人教師の一員として慶應義塾で英文学講師となる一方、『ジャパンメール』(後に『ジャパンタイムズ』と合併)などの新聞記者や教育者として活躍。妻ナヲミとの間には三男四女を儲けた。明治二一(一八八八)年、英学者磯辺弥一郎とともに国民英学会を設立するが、後に磯辺と不和になり、明治二四(一八九一)年には国民英学会から分裂して日本英学院を設立するも経営に失敗した。そこで明治二九(一八九六)年、斎藤秀三郎と手を組んで正則英語学校を設立して教鞭をとった。日本語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・スペイン語は言文ともに自国語並み、英語は古代・中世・近代英語を三様に語り分けた。「ウェブスター氏新刊大辞書和譯字彙」(三省堂刊)など英語辞書の和訳、「英和比較英文法十講」など英文法書の執筆に寄与した外にも著書「香港史」「日本教会史」「日本刀剣史」「勇敢な日本」などがある。明治三八(一九〇五)年二月一八日、流行性感冒をこじらせて急性肺炎で病没、遺体は青山外人墓地に葬られた。青山外人墓地に墓碑と記念碑がある(以上はウィキフレデリック・イーストレイクに拠った)。このモースの「日本その日その日」は一九一三年の執筆開始であるから、イーストレイクは既に亡くなっている。また、モースの初来日はイーストレイクが日本に定住することになる四年前であるから、この作品叙述内時制では、未だイーストレイクは日本にいない。この叙述は亡きイーストレイクを念頭に置きながらオマージュのように記した一節ということになろうか。原文は“The buckets for lugging water are made on such sound principles and so simply that Eastlake would have highly approved of the taste and utility displayed.”であるから私は「その趣味と実益とを大いに賞讃した程度に」とすべきではないかと思っている。但し、だとすればそう賞讃した記事や記録がなくてはならなくなるが、私はイーストレイクの著作を読んだことがないので確かなことは言われぬ。では、モースがイーストレイクから直接その賞讃を聴いたという可能性はどうであろう? モースは明治一五(一八八二)年にも来日しているから、イーストレイクと邂逅する機会は十分あったようには思われるのだが、残念ながら磯野先生の前掲書末尾の人名索引にはイーストレイクの名前は挙がってはいない。……何となく、逢っていて欲しい気はしているのだが。……]

 

 固い木でつくった担い棒は日本、支那、朝鮮を通じて、いたる所でこれを見る。棒の両端に大きな笊(ざる)を二つ下げている人が、一つには一匹の大魚を、他にはそれとバランスをとるために数個の重い石を入れていることがある! これは精力の浪費だと思う人もあろう。飲用水を入れた深い桶をこのような担い棒にぶら下げたのを見ることもある。桶の中にはその直径に近い位の丸い木片が浮んでいる。この簡単な装置は水がゆれてこぼれるのを防ぐ。また桶板三枚が僅かに下に出て桶を地面から離す脚の役をつとめる、低い、洗い桶もある。この容器には塩水を満し、生きた魚を売って廻る。構造の簡単と物品の丈夫さと耐久力――すくなくとも日本人がそれを取扱う場合――とは、注意に値する。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 13 江戸からの画期的なリサイクル事情の礼讃

 第17図は子供を背中に負う一つの方法を示している。お母さんは背後に両手を廻し、そして赤坊の玩具を手に持っている。
[やぶちゃん注:図―17の子は先に注した芥子坊主に加えて「ごんべい」があるのが分かる。]

M17

図―17

 東京の死亡率が、ボストンのそれよりも少ないということを知って驚いた私は、この国の保健状態について、多少の研究をした。それによると赤痢および小児霍乱(コレラ)は全く無く、マラリアによる熱病はその例を見るが多くはない。リューマチ性の疾患は外国人がとの国に数年間いると起る。しかしわが国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。これは、すべての排出物資が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかもしれない。我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生じる鼻持ちならぬ臭気は公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役にたてる。東京のように大きな都会でこの労役が数百人の、それぞれ定った道筋を持つ人々によって遂行されているとは信用出来ぬような気がする。桶は担い棒の両端につるし下げるのであるが、一杯になった桶の重さには、巨人も骨をおるであろう。多くの場合、これは何マイルも離れた田舎へ運ばれ、蓋のない、半分に切った油樽みたいなものに入れられて暫く放置された後で、長柄の木製柄杓(ひしゃく)で水田に撒布される。土壌を富ます為には上述の物質以外になお函館から非常に多くの魚肥が持って来られる。元来土地が主として火山性で生産的要素に富んでいないから、肥料を与えねば駄目なのである。日本には「新しい田からはすこししか収穫が無い」という諺がある。
[やぶちゃん注:「小児霍乱(コレラ)」“cholera infantum”。狭義に考えれば、幼児では死亡率が高いコレラ菌感染症であるコレラであるが、コレラに似た「米のとぎ汁」のような白い便を排泄することもある、高湿度で人口密度の高い地帯の小児にみられる急性の感染性消化器系疾患(そこには死には至らないものの、まさに病態の類似から「仮性小児コレラ」と称するものも含まれるように思われる。平凡社「世界大百科事典」によれば仮性小児コレラは晩秋から冬にかけて主として離乳期前後(生後六ヵ月から一年半ころ)の乳児がかかる乳児下痢症で、コレラ様の白っぽい下痢便を出すことから冬季白色便下痢症・白痢などとも呼ばれる。仮性小児コレラという病名は明治四三(一九一〇)年に医師伊東祐彦(九州大学医学部初代学部長及び九州医学専門学校初代学長)が命名したものであるが、本邦ではかなり古くから知られていた病気で、日本中どこでも発生するが、その発症は気象・気温と相関があり、全国的にみると北から南へと発生が移っていくように見受けられる、とある)を含むものであろう。
「我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す」原文“With us this sewage is allowed to flow into our coves and harbors, polluting the water and killing all aquatic life;”。海産無脊椎動物の専門家ならではの謂いであることに着目。……おぞましい汚染水を垂れ流して「ダイジョウブだぁ!」と微笑んでいる今の日本を、モース先生が知ったらどう思われるだろう……と、ふと考えた。……
「東京のように大きな都会でこの労役が数百人の、それぞれ定った道筋を持つ人々によって遂行されているとは信用出来ぬような気がする。」原文は“It seems incredible that in a vast city like Tokyo this service should be performed by hundreds of men who have their regular routes.”。私は一部の人間が「それぞれ定った道筋を持つ人々」を差別的なニュアンスで誤読する可能性を危惧する。ここは「……この労役が数百人の」――排泄物の汲み取りを専門とする業者によって、しかもそれぞれがダブることのない周回回収ルートを持った人々によって――「遂行されている……」、しかもそれに洩れる箇所(汲み取りがされない場所)が殆んどないということは、それこそ殆ど「信用出来ぬような気がする」という意味である。]

この国の人々は頭になにもかぶらず、ことに男は頭のてっぺんを剃って、赫々(かつかく)たる太陽の下に出ながら、日射病がないというのはおもしろい事実である。わが国では不摂度な生活が日射病を誘起するものと思われているが、この国の人々は飲食の習慣において摂度を守っている。
[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年の段階では未だ多くの男性が月代を剃っていたことが分かる。]

由比北洲股旅帖 川崎尚之助の痕跡 憎しみの恋文:会えぬ人への反歌

一 「犬の洋服、ペットと快適に暮らす」内「憎しみの恋文:会えぬ人への反歌」以下自一番至四番 二〇一三年九月六日

以下の知られし川崎八重(山本八重子・新島八重子)が會津若松城籠城の最後に壁に簪を以つて鐫りし和歌

 明日の夜は何國(いずこ)の誰か眺むらん
   なれしお城に殘す月影

は誠は相聞の返歌にして元の和歌なるは夫川崎正之助(これぞ我らが愛する彼が正しき名也)の詠みしてふ

 あすの夜は何處のたれか眺むらん
   なれしおう樹に殘る月かげ

と云々。かの八重が鐫るに用ゐし簪は正に正之助が贈りしものなりけり。八重が夫正之助への愛は至誠なり。正之助は孤獨に死せしにあらず。八重が靈と今もともに在りとなむ覺え、しみじみと感じたり。

『大河ドラマ 八重の桜ダイジェスト 第35回「襄のプロポーズ」 』が一分五〇秒を見られたし。我らさる事實(大江健三郎が子息の樂曲に對する差別的談話及び著作權料に係はれる選民的發言に就きてのことなりしが本記載とは無緣のものなりせば詳述を省く)依りて本作の樂を担當せる坂本龍一が人となりに對し嫌惡の情を抱くもその樂曲を好むこと吝かならず、この場面が曲は又殊に好くものなるを自白致すものなり。

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 無題二十首(元町点描) 中島敦

廛頭(みせさき)の羅馬字繁み元街は開化の匂まだに失せぬかも

 

元街は異人往く街吾が愛でてか往きかく往き徘徊(たもと)ほる街

 

[やぶちゃん注:「徘徊(たもと)ほる」「た」は語調を調え強調する接頭語で「もとほる」は「廻(もとほ)る」で、巡る・廻る・徘徊するの意の上代語であるから、同じ所を行ったり来たりする、徘徊するの意となる。]

 

元街は開化のむかし土燒くとムッシュ・ヂェラァル住みにける街

 

[やぶちゃん注:「ムッシュ・ヂェラァル」アルフレッド・ジェラール(Alfred Gerard 一八三七年~一九一五年)はフランス人で、元治元(一八六四)年、二十代で来日、開港間もない横浜で商売を始めた。当初は横浜港に入港する船舶に食料品などを供給する業務をしていたらしいが、明治初期には山手(現在の元町公園のある高台とその斜面)の湧き水に着目、船舶給水業を営むようになる。この水は非常に良質で、当時の船乗りの間では評判だった伝えられる。次いで彼は西洋瓦と煉瓦の製造工場“A Gerard's Steam Tile and Brick Works”を現在の元町プール(後の歌に登場)付近に設立した(それが本歌の「土燒く」の意)。そこで製造される瓦と煉瓦は「ジェラール瓦」あるいは「フランス瓦」と呼ばれて山手居留地の外国人の家や山下町の商館などの建築に広く用いられた。現在でも横浜の旧外国人居留地を中心にこれらの瓦が発掘されることが多い。その後、給水業と瓦製造業の成功によって財産を築き、明治二四(一八九一)年頃、五十代でフランスに帰国した(以上は M.Ogawa 氏の「発祥の地コレクション」の「西洋瓦発祥の地に拠った)。「郷土文化財探訪プロジェクト 葉月」の運営になる画像満載の「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」も参照されたい。]

 

いにしへの逍遙學派(ペリパテテイツク)われと來て秋の山手を往きつ語らな

 

[やぶちゃん注:「逍遙學派(ペリパテテイツク)」正確には英語で“Peripatetic school”。アリストテレスが紀元前三三五年にアテナイに開いた学校リュケイオン(Lykeion)に学んだ弟子の総称。アリストテレスが学校内の屋根附きの散歩道「ペリパトイ(peripatoi)」を逍遙しながら講義したところからペリパトス学派ともいう。形而上学・文学(詩学)・生物学・動物学・修辞学・政治学・論理学など多岐に亙った博物学的哲学の一派である。]

 

たまさかの冬の南の風なれば屋根靑き家も窓を展(あ)けたり

 

[やぶちゃん注:「傾斜(なだり)」「雪崩れる」「傾れる」の古語「なだる」の名詞形で斜めに傾いていること、傾斜、傾斜面をいう。「なだれ」とも。]

 

向つ丘の南傾斜(なだり)の日溜りに赤き家見ゆ靑き家も見ゆ

 

冬日照る丘の傾斜(なだり)に新しき家建ちけらし屋根葺ける見ゆ

 

この坂の疎ら榛の木葉は落ちて朝を靜かに人上(のぼ)り來る

 

[やぶちゃん注:「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii。読みは、ハンノキの古名の「はり」「はん」の二様に考え得るが、ルビを振っていない点では「はん」、中島敦が好んで用いる万葉の言辞とすれば「はり」である。私は後者を採りたい。]

 

葉の落ちし枝のひろごり木末(こぬれ)なる實はすがれたり桐にかあらむ

 

[やぶちゃん注:「木末(こぬれ)」上代語「このうれ」の約。「うれ」は上代語で草木の新しく伸びて行く末端、梢のことであるから、この梢の意味を含める。]

 

大方の草は黄ばみぬさ丘邊に飛行機あぐる子が小さく見ゆ

 

美容院ミミの門邊の眞澄(まそ)鏡われ追行けばわれを映すも

 

[やぶちゃん注:「美容院ミミ」不詳。旧所在地等ご存知の方はご連絡を乞う。

「眞澄(まそ)鏡」上代語で「真澄みの鏡」の約。よく澄んではっきり映る鏡。一種の神鏡であったが、ここでも何か中島敦自身(「われ」)の「影」を映す辺り(「まそかがみ」は「影」の枕詞でもある)、何かそうした神妙夢幻な雰囲気を作者は含ませているように思われる。]

 

蔦の葉の赤らみ著(しる)きファサァドにスコッチ・テリア畏(かし)こ顏(がほ)する

 

蔦匍(は)ひし煉瓦煙突今朝はしも煙吐きたり霜置きければ

 

中つ世のシャルマーニュ攻めし城の如フェリスは立つ夕くろぐろと

 

[やぶちゃん注:「くろぐろ」の後半は底本では踊り字「〲」。

「シャルマーニュ」カール大帝(Karl der Grosse 七四二年~八一四年)。フランク王国の王(在位七六八年~八一四年)にして西ローマ皇帝(在位八〇〇年~八一四年)。フランス語ではシャルルマーニュ(Charlemagne)。カロリング朝のピピン三世の長男で、七六八年の父の死とともに弟カールマン(Karlmann 七五一年?~七七一年)とともにフランク王位を継いで弟の死とともに唯一の王となる(ここまで平凡社「世界大百科事典」に拠る)。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などでも一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。カール大帝の死後のフランク王国分裂後に誕生した神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリア半島等の各国史を見るとき、彼は中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われていることが分かり、特にドイツ史とフランス史にあっては、フランク王国の大きな功績をそのまま継承する国との歴史観が主流で、彼を古代ローマやキリスト教及びゲルマン文化の融合を体現した歴史的人物として評価する傾向が強い。彼の生涯の大半はまさに「攻めし城」と敦が言うように、討伐で占められていた。四十六年の治世の間、実に五十三回もの軍事遠征を行っている(この部分はウィキに「カール大帝」に拠る)。因みに、彼の添名は大きな体軀(身長約一九五センチメートル)に由来し、小肥りで風貌は丸く、無鬚であった(ここは戻って平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「フェリス」現在、横浜市泉区にあるフェリス女学院大学の前身であるフェリス和英女学校。明治三(一八七〇)年にアメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で女子を対象に英語の授業を開始、これが女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の発祥とされる(のちに男子部は明治学院となった)。明治八(一八七五)年にアメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援によって横浜・山手一七八番に校舎・寄宿舎が落成、「フェリス・セミナリー」と名づけられ、フェリス女学院中学校・高等学校の基となった(ウィキの「フェリス女学院大学」に拠る)。]

 

あしびきの山手のプウル水涸れて見る人もなし萩散れれども

 

[やぶちゃん注:「山手のプウル」元町公園の中段に現存する。このプールは関東大震災からの復興記念及び昭和天皇の即位大典(即位の礼は昭和三(一九二八)年十一月十日)を祝っての公園建設に合わせて横浜市青年団が発案、横浜唯一の公式プールとして昭和五(一九三〇)年に建設されたもので、参照した「横浜ジェントルタウン倶楽部」の「元町公園」に、『水屋敷の名のとおり湧き水で冷たいが、夏には涼を取るに人の声が谷間にこだましている』とあって、ジェラールがここに目をつけた湧水が現在も健在であることも分かる。さらに、先の歌に出たその彼の煉瓦工場の跡地でもあったことから、元町『プールの管理棟には発見された当時の瓦に葺き替えられ、由来板と共に昔の面影に浸ることができる』とある。今度、是非、じっくりと見て歩きたいものである。]

 

霜月や山手の丘ゆひさ方の空のはたてに柔毛雲(にこげぐも)見つ

 

[やぶちゃん注:「柔毛雲」綿雲(わたぐも:積雲の別名。)のことか。……私は遠い昔、山手のフランス料理店山手十番館の庭で、これと同じ光景を眺めていたのを思い出した。……]

 

たまくしげ箱根の山の遠白くたゝなはる見ゆ山手に立てば

 

この丘に夕時雨きつ鋪道(しきみち)をヘッド・ライトのひた走り來る

 

夕まけて雨はあがりぬしかすがに敷石道の冷えの著(しる)しも

 

夕まけて雨はあがりぬこの丘のほのに明るき靜けさにをり

 

[やぶちゃん注:「夕まけて」は歌語の「夕方設(ゆふかたま)けて」(名詞「夕方」+動詞「設(ま)く」の連用形「まけ」+接続助詞「て」)の約であろう(但し、各種辞書には載らない。ネット検索をするうちにGLN企画普及室「GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは」の『41d 短歌文法「連語」』で辛くも発見出来た)。「設(ま)く」には、その時期を待ち受ける、待つ、の意がある。夕方を待って、夕方近くなって、の意となろう。]

飛盡す鳥ひとつづつ秋の暮 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

 

   飛盡す鳥ひとつづつ秋の暮

 

 芭蕉の名句「何にこの師走の町へ行く鴉」には遠く及ばず、同じ蕪村の句「麥秋や何に驚く屋根の鷄」にも劣つて居るが、やはりこれにも蕪村の蕪村らしいポエヂイが現れて居り、捨てがたい俳句である。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。朔太郎の芭蕉「何にこの師走の町へ行く鴉」についての評釈は「芭蕉私見」のこの評釈を参照されたい。蕪村の「麥秋や何に驚く屋根の鷄」については先行する「夏の部」で以下のように評釈している。

 

   麥秋(むぎあき)や何におどろく屋根の鷄(とり)

 

 農家の屋根の上に飛びあがちて、けたたましく啼いてる鷄は、何に驚いたのであらう。その屋根の上から、刈入時の田舍の自然が、眺望を越えて遠くひろがつて居るのである。空には秋のやうな日が照り渡つて、地上には麥が實り、大鎌や小鎌を持つた農夫たちが、至るところの畑の中で、戰爭のやうに忙がしく働いて居る。そして畔道には、麥を積んだ車が通り、後から後からと、列を作つて行くのである。――かうした刈入時の田舍の自然と、收穫に忙しい勞働の人生とが、屋根の上に飛びあがつた一羽の鷄の主觀の影に、茫洋として意味深く展開されて居るのである。

 

ただ、私は寧ろ、芭蕉の「何にこの師走の町へ行く鴉」にはやや及ばぬものの、それを如何にも見え透いた形でインスパイアした蕪村の「麥秋や何に驚く屋根の鷄」よりも遙かにこの句の方がよいと思う。「何にこの師走の町へ行く鴉」がワンショットで広角のパンフォーカス、分るか分からないかというスローモーションの長回しであるのに対して、この「飛盡す鳥ひとつづつ秋の暮」はカット・バックで望遠も入り、時に早回しを感じさせるようなフラッシュ・バックもあって、「何にこの」を正しく換骨奪胎して余りある佳品と考えるからである。謂わば、芭蕉の「何にこの」はジョン・フォードか黒沢明の写真であり、蕪村の「麥秋や」はそれを模倣したに過ぎない凡百の現生映画監督のカメラ・ワークに過ぎぬのに対して、「飛盡す」の句は黒沢を尊敬した映像詩人アンドレイ・タルコフスキーのスカルプティング・イン・タイムの映像に類似すると言えよう。]

 

 

お前の耳は新月 大手拓次

 お前の耳は新月

おまへの耳は新月のやうである。
おしろいにいろどられ、
ほのあをく さみしく かなしく
また つつましく 媚(こび)にあふれ、
しめやかに なよなよとして、
みなつきの ゆふべのなかにうかんでゐる。

鬼城句集 秋之部 秋の夜

秋の夜   秋の夜や帙を脱する二三卷

      秋の夜を藥師如來にともしけり

[やぶちゃん注:俳句は「てにをは」が命というが、ここでの格助詞「に」「を」の用い方はまさにそれと言える。]

2013/09/06

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 12 人力車は乗り方にご用心! / 多彩な子供の髪型

 大分人力車に乗ったので、乗っている時には全く静かにしていなくてはならぬことを知った。車を引く車夫は梶棒をかなり高く、丁度バランスする程度に押えている。だから乗っている人が突然前に動くと――例えばお辞儀をする――車夫は膝をつきお客は彼の頭上を越して前に墜ちる。反対に、友人が通り過ぎたのに気がついて、頭と身体とをくるりと後に向け同時に後方に身体をかしげると、先ずたいていは人力車があおむけにひっくりかえり、乗っている人は静かに往来に投げ落される。車夫は恐懼(きょうく)して頭を何度も下げては「ゴメンナサイ」といい、群衆は大いによろこぶ。

 

 日本人の持っている装飾衝動は止るところを知らぬ。赤坊の頭でさえこの衝動からまぬかれぬ。両耳の上の一房、前頭部の半月形、頭のてっぺんの円形、後頭部の小さな尻尾――赤坊の頭を剃るにしても、こんな風に巧に毛を残すのである。

[やぶちゃん注:「両耳の上の一房」頭の左右にのみ髪を残して他を剃る江戸時代の唐子という中国風の子供の髪型。

「前頭部の半月形」月代(さかやき)。

「頭のてっぺんの円形」頭頂部の百会(ひゃくえ)と呼ばれる部分に丸く髪を残す芥子(けし)・芥子坊主と称する江戸時代の子供の髪型。この髪型には水難除けの意味があり、子供が川遊びをするなどして溺れた際に氏神が残した髪を引っ掴んで引き上げてくれるからと伝承されているが、短く前髪を残すものを含め、ここでモースが挙げるような多様な形や剃り方があったのは、何よりも親が自身の子を見分けるというプラグマティクな目的のためであったと考えられる(ここはウィキ芥子坊主を参考にした)。

「後頭部の小さな尻尾」後頭部にほんの一つまみほどの髪の毛を残す子供の髪型。京阪では盆の窪(訛って盆の糞)などと言い、江戸ではごんべい・八兵衛と称したと、サイト「青葉台熟年物語」の「孤老雑言」にある「268.髪結(ヘアースタイルに書かれてある。この髪型は、かの南方熊楠が幼年期になしていた髪型でそれを思い出して描いた南方の絵も残っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 11 団扇屋のディスプレイ / 木の自然美を取り込む日本人の感性

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図―15

 店で売る品物を陳列する方法は多く簡単で且つ面白い。一例として、団扇(うちわ)屋は節と節との問に穴をあけた長い竹を団扇かけとして使用する。穴に団扇をさし込むのである。台所でも同じような物に木製の匙(さじ)や箆(へら)や串等をさし込む(図15)。

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図―16

 人力車に乗って町を行くと、単純な物品の限りなき変化に気がつく。それで、ちょっと乗った丈でも、しょっ中独断なくしていられ、興味深く、また面白がっていられる。二階のある家でいうならば、二階の手摺だけでも格子や彫刻や木材に自然が痕をとどめた物の数百の変種を見せている。ある手摺は不規用な穴のあいた、でこぼこな板で出来ていた(図16)。このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板、それはきのこのためによごれていて、またきのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。
[やぶちゃん注:『このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板、それはきのこのためによごれていて、またきのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。』この最後の部分は訳がちょっと気になる。原文は“one would say, a rude and ungainly object fit only for fire wood, and yet the Japanese enjoy the natural results of nature's caprices : the fungus-stained wood, a plank cut from the outside of an irregular tree-trunk, the holes in the plank being made by the depressions.”である。問題は最後の三つのフレーズで、ここは「然し日本人は例えば」の後は――菌類が付着したために出来たらしい染みのついた木材や、樹木の不規則な外皮から切り出された板、何らかの自然の中での圧迫によって形成された複数の穴をもった材木といった、――『「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。』と訳すべきところではあるまいか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 10 墓地・火の用心・按摩

 我々は散歩をしていて時々我国の墓地によく似た墓地を見た。勿論墓石の形は異っている。我国で見るような、長くて細い塚は見当らず、また石庭の芸術品である所の見栄を張った、差出がましい代物が無いので大いに気持がいい。日本人はいろいろな点で訳の分った衛生的な特色を持っているが、火葬の習慣もその一である。死体の何割位を火葬にするのか私は知らないが、兎に角多い。

 

 夜中に時々、規則的なリズムを持つ奇妙なカチン カチンという音を聞くことがある。これは私設夜警が立てる音で、時間をきめて一定の場所な巡回し、その土地の持主に誰かが番をしつつあることを知らせるために、カチン カチンやるのである。

[やぶちゃん注:「カチン カチン」原文は前が“a clacking sound”、後はそれを受けた“these sounds”に相当。]

 

 また昼夜を問わず、疳(かん)高い、哀れっぼい調子の笛を聞くことがある。この音は盲目の男女が彼等の職業であるところの按摩を広告して歩くものである。このような按摩は、呼び込まれると三十分以上にもわたって、たたいたり、つねったり、こすったり、撲ったりする。その結果、それが済むと、按摩をして貰った人が、まるで生れ更ったかのように感じるような方法でこれを行うのだが、この愉快さを味って、而もたった四セント払えばいいのである! この帝国には、こうやって生活している盲人が何千、何万とある。彼等は正規の学校に通って、マッサージの適当な方法を学ぶ。これ等不幸な人達は疱瘡(ほうそう)で盲目になったのであるが、国民のコンモンセンスが種痘の功徳を知り、そして即座にそれを採用したので、このいやな病気は永久に日本から消え去った。我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。「私は盲です」という札を胸にかけている乞食は一人もいない――第一乞食がいないのである。それから、食物その他を売って歩く行商人の呼び声は、極めて風変りなので、ただちに人の注意を引き、その声を聞くために後をついて行くことさえある。花売りの呼び声は、死に瀕した牝鶏の鳴き声そのままである。

[やぶちゃん注:「疱瘡で盲目になった」後の第七章 江ノ島に於る採集 14 按摩を是非、参照されたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 9 お台場

 汽車に乗って東京を出るとすぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列に並んでいるのが見える。これらの島が設堡されているのだと知っても、別に吃驚(びっくり)することはないが、只どんなに奇妙な岩層か、あるいは浸蝕かが、こんな風に不思議な程対称的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。そこで説明を聞くと、これらの島は人間がつくったもので、而もそのすべてが五ケ月以内に出来上がったとのことである。ペリー提督が最初日本を去る時、五ケ月のうちにまた来るといい残した。そこでその期限内に日本の人達は、単にこれ等五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、さらにある島には大砲を備えつけた。かかる仕事に要した信じ難いほどの勤労と、労働者や船舶の数は、我々に古代のエジプト人が行なった手段と成し遂げた事業とを思わせる。只日本人は、古代の人々が何年か、かかってやっとやり上げたことを、何日間かでやって了ったのである。これらの島は四、五百フィート平方で約千フィート位ずつ離れているらしく見える。東京の公園で我々は氷河の作用を受けたにちがいないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北のほうから、和船で運ばれた石であるとのことであった。

[やぶちゃん注:所謂、品川台場、「お台場」である。以下、ウィキ台場」によれば、嘉永六(一八五三)年にペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫り、これに脅威を感じた幕府は江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に十一基の台場を一定の間隔で築造する計画で、工事は急ピッチで進められ(当時の落首に「つくかねの六つよりいでてお台場の土俵かさねて島となりぬる」が伝えられている。朝早くから突貫工事で台場を建設したことがうかがえる)、およそ八ヶ月の工期で翌年にペリーが二度目の来航をするまでに砲台の一部は完成、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。埋め立てに用いた土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達したが、そのために東海道の高輪通りは昼間、通行止めとなったと言われる。再来したペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台を見て横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになったという。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した(「五つ」としたモースの観察は確かだ。因みに後の第七台場は未完成、第八台場以降は未着手のままに終わり、第四台場は七割ほど完成していたものの中止となり、その後は造船所の敷地となった)。この第四台場の代わりに品川の御殿山の麓にも御殿山下台場が建設され、結局、最終的には計八つの台場が建設された。完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)・会津藩(第二台場。大河ドラマ「八重の桜」でもそのシークエンスが描かれていた)・忍藩(第三台場)の三藩が担った。この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。二度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。モース来日の二年前の明治八(一八七五)年に海上の七つの台場が陸軍省所管となったが、明治中期には東京湾要塞(明治政府によって明治一七(一八八四)年より建造開始された帝都東京の海防を目的とした東京湾周辺の軍事施設集合体で、当初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の侵攻を想定した施設であった。主要な設備は千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸及び浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、そして三つの海堡(かいほう)からなるものであった)の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられていった、とある。]

耳嚢 巻之七 古狸をしたがへし強男の事

 古狸をしたがへし強男の事

 上總國勝浦に山道の觀音坂といふ所有。今は昔大き成(なる)榎木(えのき)ありて、榎木の前を通る者もの兎角して坊主にせし怪有(あり)。彼(かの)地の強勇(がうゆう)の若もの、我彼怪を退治せんと友立(ともだち)にちかゐて、所持の脇差を帶し、深夜をかけて彼榎の本に至り、脇差を拔放(ぬきはな)し、妖怪今や出ると勢ひこんで待(まち)しに何の沙汰もなし。さればこそ臆病樣(ざま)にこそ、怪にもあい抔自讚して、夜明(あけ)ぬれば宿へ歸(かへり)、扨友達に妖怪の沙汰さらになき事と語りしに、御身の天窓(あたま)を見たまへと人々の言に、手をやり見ればいつの間にや法師になりぬ。其邊に居けるおの子是を見て、扨も口おしき事也、我行(ゆき)ためさんと、覺(おぼえ)の一腰を帶(おび)、夜に入(いり)彼所に至り、榎の枝の上に登り今や今やと樣子を見しに、其隣成(なる)者來り、榎のうへはあぶなし、其上御身の妻むしけ付(づき)たれば歸り給へといゝければ、我友達と約束して來りぬ、御身今宵はいか樣成事有(さまなることあり)ても返り難しと、一向に請(うけ)がはねば、せん方無(かたなく)て彼迎(むかへ)の者も返りしが、又暫くありて壹人來(きて)、御身の妻産はすみぬれど難産にて甚だ危し、ひらに歸り給へといゝし。假令(たとひ)妻相果(あいはつ)とも今宵は難歸(かへりがたし)と取合(とりあは)ず。是も詮方なく歸りぬ。暫くも過(すぎ)て名主來り、組下の者度々迎ひに差越共(さしこせども)かへらず、既に妻はみまかりたり、取置(とりおき)の事もあればひらに歸り候へと叱りければ、名主の申さるゝ事にても夜明(あけ)ざる内はかへりがたしとて、更に請(うけ)つけぬゆゑ名主も歸りぬ。又暫くありて火(ほ)の陰(かげ)見えて、棺郭樣(かんかくやう)のものを榎の元へ荷ひ來り、火をかけし躰(てい)也しが、火の中より我(わが)女房髮を亂し現れ出(いで)、我等産にくるしみ殊にはか無(なく)なりしを歸り見ざる恨めしさよと、色々恨み罵り、やがて榎へ登る氣色なれば、帶せる脇差を拔(ぬき)はなし、一刀兩だんに付(つき)はなししかば、きやつといふて下へ落(おち)しゆへ、あたりの木の枝抔へ兼て貯へし火をうつし見れば女房なれば、いか成(なる)事にやと思ひしが、未(いまだ)本性をあらはさず、暫く心をつけて居(をり)しに、其内に夜も明(あけ)て村の者來し故、宿の事を聞(きき)しに、女房産せし事もなし。人を走らせて尋(たづね)しに無事なれば安堵して、彼死骸を改めしに、やがて本性を現(あらは)し大き成(なる)古狸なりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:上総国の怪奇民話譚で直連関。やはり座頭七都(なないち)の語ったものではなかったろうか。
・「上總國勝浦」現在の千葉県勝浦市。千葉県南東部の太平洋に面し、上総地方の南部に位置する。前話の夷隅郡(現在の千葉県いすみ市)とは北東で隣接する。
・「觀音坂」不詳。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。
・「者もの」底本、右に『(衍字カ)』と注する。
・「友立」底本、右に『(友達)』と注する。
・「怪にもあい」の「あい」には、底本では『(ないカ)』と注する。「逢ふ」と「無い」のダブルで訳しておいた。
・「むしけ」は「虫気」で、通常は、主に寄生虫によって引き起こされると考えられた子供の腹痛・ひきつけ・疳の虫などの症状や、広く大人の腹痛を伴う病気(陰陽道や庚申信仰では腹中に潜む三尸(さんし)の虫によって発症すると考えられたもの)を指すが、ここは後文を見てお分かりの通り、産気・陣痛の謂いである。

■やぶちゃん現代語訳

 古狸を成敗致いた剛勇の男の事

 上総国勝浦に観音坂と申す山道が御座った。
 今となっては昔のこととなってしもうたが、そこには大きなる榎があったが――この榎の前を通る者の頭を――誰やらん、知らぬ間に剃って丸坊主に致す――という、怪(あやかし)が御座った。

 ある時、在所の腕っぷし自慢の若者が、
「儂がかの怪(あやかし)を退治したる!」
と友達連中に誓い、所持して御座った脇差を帯びて、深夜になって独り、かの観音坂の榎へと至り、その根がたにすっく立ち、脇差を抜き放って、
「妖怪! 今にも出んかッ!!」
と勢い込んで待ち構えてみたものの、これ、いつまで経っても何も起こらなんだと申す。
「てへッ! 臆病な奴に限って、怪(あやかし)にも逢うというもんじゃわい。怪(あやかし)など、もともと、ないもんじゃい!」
と自画自讃、夜も明けたので村へと帰り、まんじりともせず待って御座った友達連へ、
「妖怪の仕業なんぞ、ヘッ! これ、さらに、ないわいの!」
と意気揚々と語って御座ったが、何故か皆、蒼くなったままおし黙って御座った。
「おい! なんじゃ! 儂の言うことが信じられんのかいッ?!」
と若者が気色ばんだところ、皆、口を揃えて、
「……お前……」
「……そ、それ……」
「……お前さんの……頭……」
「……触ってみぃな……」
と申したによって、かの若者、恐る恐る、手(てえ)を当ててみる……と……
――いつの間にやら
――つんつるてんの
――丸坊主になって御座った。

 丁度その時、近くに住んで御座った〇〇と申す男が、この顛末を見知って、
「さても口惜しき怪(あやかし)ではないか!……かくなる上は――我らが行って試してやるッ!」
と彼らに言上げ致すと、少々覚えのある一腰(いちよう)を佩び、その日の夜になって、かの榎の元へと至り、はたと考え、
「……まずは……迎え討つ立ち位置じゃ――」
と、榎の頂には何もおらぬを見届けた後、高みにある太き枝の上に登り、今や遅しと様子を窺って御座った。

 すると、ほどのうして隣に住む者が木の根がたへとやって参る。
「――〇〇どん! 榎の上たぁ、危ねえよ!……いやいや……それどころじゃあ、ねえんだわ! お前さんの嬶(かかあ)がよ! 産気づいたん、だって! 早(はよ)うお帰り!」
と、申す。
 確かに嬶はそろそろ産み月に近(ちこ)うは御座ったが、男は、
「――我ら、友達らと確かな約束をなして参ったものじゃ。お前さんがこうして知らせくれたは忝(かたじけな)い――忝いが、今宵は如何なること、これ、あっても、帰ることは出来ん!」
と応(いら)え、一向に請けがわぬ。
「……しゃあないなぁ……」
とぼやきながら、詮方なく、この迎えの男は帰っていった。

 さてもしばらく致すと、また別の知り合いが一人やって参り、
「――お前さんの嬶の産は済んだ。……じゃけんど……ひどい難産じゃったで、の!……言っちゃあなんだが……はなはだ、ようないんじゃ! どうか一つ、帰ってやって、くんないッ!」
と、申す。
 ところが、
「――たとい我らが妻――それをもって相い果つるとも……今宵ばかりは――帰るわけには参らぬ!」
と頑として取り合わぬ。
 執拗(しつこ)く説いたものの、この者も遂には呆れ果てて、帰って行ってしもうた。

 さてもそれよりまたしばらく過ぎた後のこと、今度は彼の村の名主がやって参った。
「――配下の者をたびたび迎えにさし越したにも拘わらず、戻らなんだによって、我らが直々に参ったぞ!……のぅ、〇〇よ!……御身の妻女は……これ、既にして……身罷って御座ったぞッ!……かくなっては最早、詮ないことじゃが……葬送のことも、これあればこそ……まずは! さっさと! 戻って御座るがよいッ!……』
と叱りつけた。
 すると男は、
「――名主さまの申さるることにても――夜(よ)の明けざるうちは――これ――決して帰り申さぬ。――」
と覚悟の中(うち)、またしても一向に請けがう素振り、これ、微塵も、ない。
「……あまりに非道な……」
と、名主は涙にくれて呟くと、とぼとぼと坂を下って行った。

 それからまた大分経って、榎の上から見ておると、今度は小さな火影(ほかげ)が一つ、闇の中に浮んだ。
 近づくそれは、何と! 棺桶のようなものを担いだ男で御座った。
 その男は、榎の根がたへと辿り着くと、棺桶をそこに据え置いて、薪を組み、火をかけて、そのまま帰って行った。

――燃え上がる棺桶……
と!
――その火の中から桶の上蓋を破って!
――経帷子を着た男の死んだ女房が!
――これ! 髪を振り乱して踊り出でたかと思うと!
「…………我ラ……産ニ苦シミ……遂ニ儚クナッタニ……オ帰リニモナラデ……一目死ニ目ニモ逢(オ)ウテ下サラナンダ……ソノ恨メシサヨ!…………」
と、烈しき恨み事を罵りつつ、そのまま、
――ズルッ! ズルッ!
と!
――榎に!
――爪から血を噴き出だしながら登って参ろうとする!
と!
 その時、男はやおら、腰に差した脇差を抜き放つと、枝から体を捻って飛び降りざま、
――タァアッ!
の掛け声とともに、幹に齧りついた亡者を、
――これ!
――背中で一刀両断!
――真っ二つ!
「キャッツ!」
と叫んで落ちる榎の根がた……
 されば男は、最初、木に登る前に、辺りの木の又枝の間の洞(うろ)に貯えおいた火種を、枯れ枝に移して死体を検分致いた。
……が……
……これ……紛れもなき……
……己が女房であった。……
……恨みの鬼の形相の儘に……
……カッと、眼を見開いて……
……とうに息絶えて御座った。……
「……こ、これは……一体……如何なることじゃ?!……」
と思うたものの……どうにも、これ――事実とは――何か、合点がいかなんだ。
 さればこそ、
「――未だ正体を現さざるものに相違ない。……今少し……そうじゃ、今少し、夜の明くるを待とう!……」
と気を抜かず、凝っと、女房の血まみれの遺骸から眼を離さず御座った。

 そのうちに夜も明けて、村の者どもがやって参ったゆえ、己が家内の事を訊ねてみたところ、
「……いんやぁ、おかみさんは産気づいてなんぞ……おらんはずやでぇ?」
と申す。
 用心のため、家に人を走らせて確めたところが、やはり妻には何事ものう、無事息災である由なれば、ようよう、男も安堵致いた。
 と、ちょうど、その知らせを受けとった折り、男は、かの遺骸から眼(めえ)を離して御座ったによって、おもむろに振り返って改めて見た。……
……ところが……
……これ、みるみるうちに……
……哀れ、断末魔の面つきの妻の姿であったその死骸は……
……刻一刻……
……形が崩れ……
……そうして……
……何か禍々しき……
……別なる何かに……
……変じて……
……ゆく……
……遂に……
……終いには……
……これ……
――血みどろの大きなる古狸となって、御座った。…………

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 三 單爲生殖(1) アリマキの例

   三 單爲生殖

 

 雌雄異體の動物でも雌雄同體の動物でも、生殖を營むに當つてはまづ卵細胞と精蟲との相合することが必要であるが、若干の動物では精蟲に關係なく卵細胞だけから子が出來ることがある。かやうな場合にはこれを單爲生殖または處女生殖と名づける。昆蟲類の中では植物の芽や枝に群集して液汁を吸ふ「ありまき」、水中に住む動物では魚類の餌になる「みぢんこ」の類などは、常に單爲生殖によつて盛に殖える。その他にもなほ幾つも例を擧げることが出來る。

[やぶちゃん注:「ありまき」既注済みであるが、再注しておく。アリマキは「蟻牧」で、昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科のアブラムシ科 Aphididae・カサアブラムシ科 Adelgidae・ネアブラムシ科 Phylloxeridae に属するアブラムシ類の別称。アリとの共生関係の観察から、古くよりかく呼称された(犬の散歩中に子供らと話していたら、彼らを何かの昆虫の幼虫と勘違いしている者が多いのには吃驚した)。また、ウィキの「アリマキ」によれば、体内(細胞内)に真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科ブフネラ Buchnera 属の大腸菌近縁の細菌を共生させていることが知られ、ブフネラはアブラムシにとって必要な栄養分を合成する代わりに、『アブラムシはブフネラの生育のために特化した細胞を提供しており、ブフネラは親から子へと受け継がれる。ブフネラはアブラムシの体外では生存できず、アブラムシもブフネラ無しでは生存不可能である』とあり、更に二〇〇九年には『理化学研究所の研究によりブフネラとは別の細菌から遺伝子を獲得し、その遺伝子を利用しブフネラを制御している』という恐るべきメカニズムが判明している。是非、以下の理化学研究所の「アブラムシは別の細菌から獲得した遺伝子で共生細菌を制御」という「理研ニュース 二〇〇九年五月号」の記事をお読みになられることをお奨めする。

「みぢんこ」同じく既注であるが、大事な登場人物(アリマキの後で詳述される)なので再注しておく。ミジンコは「微塵子」「水蚤」などと書き、水中プランクトンとしてよく知られる微小な節足動物である甲殻亜門鰓脚綱葉脚亜綱双殻目枝角(ミジンコ)亜目 Cladocera 属する生物の総称。形態は丸みを帯びたものが多く、第二触角が大きく発達して、これを掻いて盛んに游泳する。体長〇・五~三ミリメートル前後の種が多いが、中には五ミリのオオミジンコ Daphnia magna Strausや、一センチメートルに達する捕食性ミジンコのノロ Leptodora kindtii などもいる(以上はウィキの「ミジンコ目」に拠った)。]

 

 「ありまき」には種類がなかなか多いが、いづれも植物の若い莖や枝に止まり、細長い吻をその中にさし入れて液汁を吸ふ。形は小さいが繁殖が盛で忽ち何千にも何萬にもなるから、植物はそのため大害を被るに至る。蕃殖法の詳細な點は種類によつて色色相違があり、中には極めて複雜な關係を示すものもあるが、最も簡單な場合でも他の普通な動物に比べると餘程込み入つて居る。まづ春温くなつた頃に卵から僻化して雌が生まれ出て、植物の汁を吸つて忽ち成熟し、雄なしに卵を産み、その卵からはまた雌が出て、また雄なしに卵を産む。かくして幾代も蕃殖を續けて秋に至り少しく涼しくなつて來ると、こん度は卵から雌と雄とが出て、これが相寄つて前のとは稍々違つた殼の厚い卵を産む。この卵が直には孵らず、そのまゝ冬を越し翌年の春になつて始めて、それから雌が出て、ふたたび同じ歴史を繰り返すのである。以上は最も簡單な場合を示したので、實際はこれよりなほ一層複雜な經過を示すものが多い。また卵生でなく、子の形が出來てから生まれることも常である。夏日「ありまき」が樹に止まつて居るのを見て居ると、腹部の後端から小さな子が續々生まれ出て、直ちに匐ひ廻るのを屢々見かける。されば「ありまき」の類では雌と雄とが揃うて居るのは、一年の中でも或る短い時期に限ることで、その他のときにはたゞ雌ばかりである。しかもその雌は雌雄揃つてあるときの雌とは違つて、各々獨身で子を産み得る特殊の雌である。大抵の「ありまき」では雌ばかりの間は翅がなくて、たゞ遲く匐ふだけであるが、雌雄が揃つて現れる頃には兩方とも翅があつて數多く飛び廻り、遠い處まで自分の種を分布する。「ありまき」と蟻との關係は有名なもので、蟻は「ありまき」の腹部の後端から滴り出る甘い汁を舐める代りに、常にこれを保護して敵から防いでやる。それ故「ありまき」は運動が遲くとも多少安全な場合もあるが、また「ありまき」を食ふことを專門とする昆蟲も澤山にあるから、餘程盛に蕃殖せぬと種切れになる虞がないでもない。そしてそのためには普通の生殖法によらず、單爲生殖といふ手輕な變則法によるのが最も有功であらう。「ありまき」では、殆ど今日吸うた植物の汁が明日は子となつて生まれるのであるから、生殖は個體の範圍を超えた成長であるといふことが、實に適切に當て嵌る。

[やぶちゃん注:ここではアリマキ(アブラムシ)の生殖法が問題になっているので、ウィキの「アブラムシ」から、当該叙述部分を見ておきたい。アブラムシは『春から夏にかけてはX染色体を2本持つ雌が卵胎生単為生殖により、自分と全く同じ、しかも既に胎内に子を宿している雌を産む。これにより短期間で爆発的にその数を増やし、宿主上に大きなコロニーを形成する。秋から冬にかけてはXO型、つまりX染色体の一本欠けた雄が発生し、卵生有性生殖を行う。卵は寒い冬を越し、暖かくなってから孵化する。このとき生まれるのは全て雌である』とあって、丘先生のおっしゃるように雄は秋から冬にかけての限定された時期にしか出現しない(種によって細部が異なり、複雑化していることは丘先生も述べておられる)ことがはっきりと分かる。]

トルコに五輪を取られたら原発株で倍返ししてやるという狂気の発想について

原発事故で五輪招致が危ぶまれている(僕は五輪に興味がないし今の内憂外患にあって招致などする余裕がどこあるとさえ言いたいがそれは問題としないことにする)のに、「東京五輪を逃したときすべき投資法とは?」(「SPA! 」2013年9月5日配信) という記事の中で証券アナリストと称する輩が「原子力発電所の輸出先としてトルコが候補にあがっていますから、」五輪がトルコに決まった場合は、「日本製鋼所や木村化工機などの原発関連銘柄が改めて注目される可能性も」ある、一つ、原発株を買うのが美味しい狙い目と平然と答えたものを、平然と載せている。……これを平然と読み、もしトルコ招致となった暁には即座に平然と原発関連株を買いに走る輩がこの星にはいる……ジョーンズよ、やはり、この星を愛してはいけなかったなぁ……発狂したマスターベーションをやり続けるサルはやっぱり滅ぶしかないのだよ……

秋の燈やゆかしき奈良の道具市 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   秋の燈(ひ)やゆかしき奈良の道具市

 秋の日の暮れかかる燈ひともし頃、奈良の古都の街はずれに、骨董など賣る道具市が立ち、店々の暗い軒には、はや宵の燈火(あかり)が淡く灯つて居るのである。奈良といふ侘しい古都に、薄暗い古道具屋の竝んだ場末を考へるだけで寂しいのに、秋の薄暮の灯ともし頃、宵の燈火(あかり)の黄色い光をイメーヂすると、一層情趣が侘しくなり、心の古い故郷に思慕する、或る種の切ないノスタルジアを感じさせる。前に評釋した夏の句「柚(ゆ)の花やゆかしき母屋の乾(いぬゐ)隅」と、本質において共通したノスタルジアであり、蕪村俳句の特色する詩境である。尚ほ蕪村は「ゆかしき」といふ言葉の韻に、彼の詩的情緒の深い咏嘆を籠こめて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。評釈中の「柚の花や」の評釈を以下に示す。

   柚(ゆ)の花やゆかしき母屋(もや)の乾隅(いぬゐずみ)

 土藏などのある、暗くひつそりとした舊家であらう。その母屋の乾隅(西北隅)に柚の花が咲いてるとも解されるが、むしろその乾隅の部屋――それは多分隱居部屋か何かであらう――の窓前に、柚の花が咲いてゐると解する方が詩趣が深い。舊家の奥深く、影のささないひつそりした部屋。幾代かの人が長く住んでる、古い靜寂な家の空氣。そして中庭の一隅には、昔ながらの柚の花が咲いてゐるのである。この句の詩情には、古い故郷の家を思はせるような、或は昔の祖母や昔の家人の、懷かしい愛情を追懷させるやうな、遠い時間への侘しいノスタルヂアがある。これもやはり、蕪村の詩情が本質して居る郷愁子守唄の一曲である。ついでに表現の構成を分析すれば、「柚の花」が靜かな侘しい感覺を表象し、「母屋」が大きな舊家――別棟や土藏の付いてる――を聯想させ、「乾隅」が暗く幽邃な位置を表象し、そして「ゆかしき」といふ言葉が、詩の全體にかけて流動するところの、情緒の流れとなつてるのである。

太字「ひつそり」は底本では傍点「ヽ」。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 若き日の歌 四首 中島敦

    ――若き日の歌――

マント着けパイプくはへて雪の夜にふらんそあゔいよん購(もと)めてしかな

[やぶちゃん注:太字は総て底本では傍点「・」(中点)である。以下の二箇所の「ゔいよん」も同じ。]

斑雪(はだれ)降る元街の夜にわが誦(ず)するゔいよんの詩(うた)は哀しきろかも

[やぶちゃん注:「斑雪(はだれ)」はらはらと降る雪。「ろかも」は、間投助詞「ろ」+終助詞「かも」で(「ろ」は確実性を示す接尾語とする説もあり)。語調を整え感動の意を添える記紀歌謡にも出る上代の連語。]

Oú sont les nriges d’antan?(去歳の雪今はいづこ)”と誦し行けばわが衣手にはだれ雪降る

[やぶちゃん注:「去歳の雪今はいづこ」は底本では仏文の右に縦書きで附されたルビである。“Oú sont les nriges d’antan?”はフランソワ・ヴィヨン(François Villon)の詩、“Ballade des dames du temps jadis”(古えの美姫へのバラード)の中で、各連のコーダに、“Mais où sont les neiges d'antan!”とリフレインされるもの(原文テキストはウィキ“Ballade des dames du temps jadisで読める)。引用をしようと思ったが、持っているはずの詩集が見つからない。幸い、永嶋哲也氏のサイト「MUNDUS Vocalis Kawasujiensis」の「好事家の物置」に本詩ヴィヨン疇昔の美姫の賦(昔日の美女たちのバラード)」言及ページがあり、そこに鈴木信太郎訳「疇昔の美姫の賦」及び天沢退二郎訳「昔日の美女たちのバラード」が載る。参照されたい。]

毎年(としのは)にゔいよんは讀めど雪降れど我は昔の我にあらなく

夜の脣 大手拓次

 夜の脣

こひびとよ、
おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
その やはらかいぬれたくちびるに
 なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
ものしづかに とぢてゐてください、
こひびとよ、
はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
きれぎれの かげのあつまりである。
おもひは ふかい地のしたにうもれる。

こひびとよ、
わかばは うすあかくひらくけれど、
わたしの さらぼふこころは 地のしたにうもれる。

[やぶちゃん注: 「なんにもつけないでください、」の一字下げはママ。本詩集のここまでの編集コンセプトでは、これは一行で表記が足らなくなった場合に続いている一行であること示すものである。次の行との対句的表現からもここは、

その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、

とするべきところを文選工か植字工が誤ったものではあるまいか。実際、創元文庫版では、かくなっている。なお、創元文庫版では以下に見るように、二連ではなく全体一連で構成されている。

 夜の脣

こひびとよ、
おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
ものしづかに とぢてゐてください、
こひびとよ、
はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
きれぎれの かげのあつまりである。
おもひは ふかい地のしたにうもれる。
こひびとよ、
わかばは うすあかくひらくけれど、
わたしの さらぼふこころは 地のしたにうもれる。

なお、「さらぼふ」は現在の「老いさらばう」の「さらばう」の古語で、風雨に曝され、骨と皮ばかりに瘦せ衰えるの意。
 ところが実は、この詩は思潮社版では、後半の凡そ三分の一が全く異なっている。以下に示す。

 夜の脣

こひびとよ、
おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
ものしづかに とぢてゐてください。
こひびとよ、
はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
おまへのくちびるをつぼみのやうに
ひらかうとして ひらかないでゐてください、
あなたを思ふ わたしのさびしさのために。

この思潮社版は選詩集でありながら編集方針や底本が示されていない非常に困ったものものであるが、これが現在、大勢に於いて正しいと考えられている「夜の脣」の詩形であるものらしい。とのみ述べるに留めておく。]

鬼城句集 秋之部 暮の秋

暮の秋   女房をたよりに老ゆや暮の秋

      蜜蜂のうちかたまりて暮の秋

      暮秋や嚙みつぶしたる長煙管

2013/09/05

二〇一三年九月五日鬼燈松花損塾講義日録

①限目【日本文学史(近代詩史)】 藪野唯至(潜任講師)
使用教材
・「鬼城句集 秋之部 秋の暮」
・大手拓次詩集「藍色の蟇」から「死は羽團扇のやうに」
・中島敦 短歌 「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 於喜久屋 十三首」 
・萩原朔太郎「門を出て故人に逢ひぬ秋の暮 蕪村 評釈」

②限目【宗教史】 明恵老師(特別招聘講師)
「栂尾明恵上人伝記 62 明恵と北条泰時」講読

③限目【日本文学特殊講義Ⅶ(近世)】 根岸鎭衞先生(法務省出向)
「耳嚢 巻之七 河怪の事」評釈研究

④限目【漢文学演習Ⅰ(近世)】 淵藪史(失客陰教授)
『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より「江の島の部 21 先哲の詩(6)」訓読

⑤限目【歴史学演習Ⅷ(近代)】 E.S.モース先生(お雇い外国人教師)
「日本その日その日」(石川欣一訳) 「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 8 モース先生〝レスラーズ〟観戦記」読解

⑥限目【精神分析学実習】
「明恵上人夢記 23」臨床分析

⑦限目【生物学講義Ⅸ】 丘淺次郎教授
「生物學講話」「第九章 生殖の方法 二 雌雄同体 性転換と性的モザイクについて」講義

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 性転換と性的モザイク / 二 雌雄同体 了 


Sarupa


[サルパ]

 

 以上掲げた例はいづれも一生涯を通じて雌雄の生殖器を兼ね備へたものであるが、動物の中には年齡によつて雌雄の性の變化するものもある。例へば深い海に産る「盲鰻」という八目鰻に似た魚は、若いときは雄であるが年を取ると雌となる。また海の表面に浮いて居る「サルパ」と稱する動物は、體が透明で一寸「くらげ」の如くに見えるが、これは生まれた時は雌で後には雄に變ずる。これらは一疋の動物で雌雄を兼ねて居るから雌雄同體と名づけねばならぬが、生殖器官の雄の部と雌の部との成熟するときが違ふから、働からいふと雌雄異體のものと異ならぬ。また昆蟲などには往々左が雌で右が雄といふやうに身體の兩半の性の異なるものが見付けられるが、これは全く出來損じの畸形であつて、決してかやうな特別の種類が定まつてあるわけではない。

 


Gynandromorph


[左右性の異なる蛾]

 

[やぶちゃん注:「盲鰻」これは現在、無顎口上綱ヌタウナギ綱 Myxini ヌタウナギ目ヌタウナギ科ヌタウナギ Eptatretus burgeri に改称されたその標準種及びヌタウナギ綱に含まれる魚類を指す(標準和名メクラウナギが差別和名であるとして二〇〇七年に日本魚類学会により綱以下の名称がヌタウナギへ、種としてのメクラウナギはホソヌタウナギ(細饅鰻)へ変更)。因みに綱名やホソヌタウナギ属 Myxine(二十一種)の「ミクシネ」とはギリシア語の“myxa”(粘液)に由来し、英名は“Hagfish”(ハグフィッシュ:鬼婆魚。漁獲したタラの体内に小さな孔を開けて貫入し、皮と骨のみを残して食害することがままあることに由来。「穴あけ」“borer”という別称もある。ここは一九八九年平凡社刊の荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「メクラウナギ」の記載に拠った)・“Slime eel”(スライムイール:粘液ウナギ。)。一目一科の下、二亜科七属七〇種を含む。但し、「魚類」と記したが、実際にはヌタウナギは脊椎動物として最も原始的な一群に属し、厳密な意味での魚類とは言えず、便宜上、広義に魚類として扱われていると言った方が正確である。参照したウィキの「ヌタウナギ」によれば、ヌタウナギ類は『世界中の温帯域に広く分布し、ほとんどの種類は大陸棚辺縁にかけての深海に生息する。名前にウナギと付いているがウナギ目との類縁関係は遠く』、丘先生がおっしゃるように、『同じ無顎類に属するヤツメウナギと近縁な生物で『生きた化石と呼ばれるグループの一つであり、脊椎動物の起源と進化を考える上で重要な動物である』。無顎類の特徴として顎を持たず、体は細長いウナギ型、皮膚はヌタと呼ばれる粘液に覆われている。体の両側に一~十六対の鰓孔、吻部に三~四対のヒゲを持つ。『骨格を持たず、体は極めて柔軟である。口の周りに歯を持たないが、舌の上に歯状突起があり、大型の魚に吸着し内部を侵食する。鰭は尾鰭のみで、腹鰭・胸鰭などの対鰭を持たない。小脳を欠く。卵巣と精巣を両方持つが、機能しているのはどちらか一つである』。『目は退化的で皮膚に埋没し、外見からは確認できない。眼球には水晶体がなく、特に深い海に生息するホソヌタウナギ属では網膜の発達も悪い場合が多い。目を覆う皮膚は色素に乏しく白みがかって見える。化石種の解析から、ヌタウナギ類の祖先は比較的発達した目を持っており、進化の過程で機能を退化させたものと考えられている』。『一般に腐肉食性で、クジラや他の大型魚類などの死骸に集まる姿がしばしば観察される。鯨骨生物群集としては遷移の初期に見られる。生きた獲物ではゴカイのような多毛類にくわえ、頭足類や甲殻類も捕食していることがわかっている。体側には粘液の放出孔』が七〇~二〇〇個も『一列に並び、ヌタウナギ固有の粘液腺(ヌタ腺と呼ばれる)から白色糸状の粘液を放出する。この粘液は捕食あるいは防御に用いられ、獲物の鰓に詰まらせて窒息させる効果もある』。鱗はない。ただ、いくら調べてもヌタウナギが「若いときは雄であるが年を取ると雌となる」、則ち、♂として成熟して繁殖に参加した後、♀に性転換して繁殖に参加する雄性先熟をしめすという確定記載には巡り逢わなかった。この「若い時は」という限定が気になるが、「年を取ると」ある以上、丘先生の謂いは、若い時分の生殖可能個体に於いては♂であるとしか読めない。ところが性転換する魚類は圧倒的に雌性先熟のものが多く、雄性先熟の性転換を行う魚として知られた種ではクマノミ類が有名であると、ウィキの「雄性先熟」にはある。また、形態上、やや類似性を持つ(但し、分類学上は縁が極めて遠く遙かにウナギに近い)条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属 Monopterus albus が性転換を行うことで知られるが、これは雌性先熟である。識者の御教授を乞いたい。よろしくお願い申し上げる。

「サルパ」サルパ(salpa)は私の好きな生物群で脊索動物門尾索動物亜門尾索(タリア/サルパ)綱サルパ目断筋亜目Desmomyariaに属する原索動物の総称である。暖海性プランクトンで水面のごく表層に浮遊しているが、時に海岸に大量に漂着することもある。世代によって形態が異なり、無性世代では単独個体、有性世代では連鎖個体になって世代交代をする。単独個体は円筒状をなし、体長は二~五センチメートルのものが多いが、中にはオオサルパ Thetys vagina の如く、一個体でも一二~三〇センチメートルに達するものがある。前端に入水孔、後端若しくは後背面に出水孔が開孔する。ウィキタリア綱」には、『近縁種で海底で生活するホヤとは異なり、一生海を漂いながら過ごす。ヒカリボヤ目(Pyrosomida)、ウミタル目(Doliolida)、サルパ目(Salpida)の3つの目に細分される。ヒカリボヤは小さな個虫が総排出腔の周りに集合してコロニーを作っている。総排出腔が開いて個虫から水が排出されると、水の勢いによって前に進む。ウミタルとサルパは生活環上で、個体とコロニーの状態を行き来する。サルパのコロニーは数メートルの長さにもなる。ヒカリボヤと異なり、ウミタルとサルパは筋肉の力によって海中を進む。タリア綱の生物は全て濾過摂食を行う。海中を進みながら、樽の様な形になって水を吸い込み餌を採る』とある。ただ、サルパが雌性先熟であるという記載にも遂に行き当たらなかった。そもそも無性生殖と有性生殖のライフ・サイクルを持ち、外洋性のプランクトンで自力による積極的な異性求愛は難しいと思われるサルパの場合、この性転換に重大な意味が隠されているようには(経年による性転換ではなく環境悪化による場合は別であるが)思われないのだが。前注同様、識者の御教授を乞う。

「左が雌で右が雄といふやうに身體の兩半の性の異なるもの」所謂、ギナンドロモルフ(gynandromorph)、雌雄モザイク・性的モザイク・半陰陽(ヒトの場合で、遺伝子レベルで細胞全体の遺伝的構成が雌雄の中間型によって統一されている間性状態を含める)のこと。ウィキ雌雄モザイクには、『雌雄モザイクは節足動物や鳥類で観察されている。発生や組織形成時の体細胞分裂で性染色体の脱落がおき細胞レベルでの性表現が異なる組織がモザイク状になることや、性染色体・常染色体を問わない体細胞突然変異による性ホルモン受容性が変化した組織がモザイク状になることなどが、原因として推定されて』おり、『これらの説は、原因は遺伝子の異常によると考えるものだが、鳥類である鶏に関してこれらとは異なる説がある。その説は、オスの遺伝子を持つ精子とメスの遺伝子を持つ精子の2つが卵子と同時に受精し、1つの卵の中にオスとメスの2つの胚が形成され、それが融合することで雌雄モザイクの鶏が生まれるというもの。この根拠は、2010年に発表された実験』によって、『雌雄モザイクの鶏の細胞を調べた結果、遺伝子に異常がないことが発見されたことによる』とある。更に『昆虫で雌雄モザイクが比較的良く観察されることから、「昆虫には性ホルモンは無く、細胞ごとに性別が決定する」という説が昆虫学では定説』と『となっているが、「昆虫にも性ホルモンがある可能性がある」とする研究者もいる』と附言されている。]

明恵上人夢記 23

23

又、其の後の夢に云はく、又、崎山兵衞殿とともに合宿し、所勞するに、枕を取りて、成辨之頭の下に樒(しきみ)を押さると云々。

[やぶちゃん注:これは底本では前の「22」に引き続いて改行せずに続いているもので、「22」の次に元久二(一二〇五)年十月十八日から翌未明にかけて見た、ストーリー上は「22」とは別個な夢であろう。

「崎山兵衞殿」既注済み。明恵の養父で叔父であった崎山良貞。

「樒」別名「仏前草(ぶつぜんそう)」とも呼び、弘法大師が天竺の無熱池にあるとされる青蓮華の花に似ているということから代用として密教修法に使用し、古来から在家でもこの枝や葉を末期の水・仏前・墓前に用いたり供えたりする。納棺に際して葉などを敷き、死臭を消うともされており、昔の土葬にあっては遺体を埋めた墓地を動物が掘り荒らすことがあり、これを防ぐために有毒植物(全草有毒で特に種子にアニサチンなどの有毒物質を多く含み、食べれば死亡する可能性もある)である樒を納棺したり供えることによって遺体の食害を避ける効果があったとも言われる(主にウィキミ」に拠る)。こうした民俗を考えると――「所勞」(単に疲れの意味もあるが、別に病いの意もある)のために臥せっている(その自分を明恵は第三者的にサイドから映画のように見ていると私は読む)目を瞑った明恵の頭の下に親族の崎山が樒の葉を押し込む――というシチュエーションは、とりもなおさず、葬儀の行為、明恵の擬似的な死をこれは暗示させているのではないかと思わせるのである。彼はここで崎山との関係か、若しくは崎山も関わったかもしれない例の丹波某との一連の深刻な(少なくとも明恵の精神史にとって)出来事か事態の中で、一度、心理的に死んで再生する必要か、その願望が無意識下にあったことを意味するのではなかろうか? なお、「又」とあることから、明恵の庇護者でもあった崎山と一緒に宿泊する夢を、明恵はしばしば見ていたことも分かる。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

23

 また、その後に見た夢。

「また以前のように、私は崎山兵衛殿とともに一つところに合宿(あいやど)している。疲弊と病いの重く重なって私は臥せっている。

 すると崎山殿が私の枕を取り除いて、やおら私の頭の下に樒(しきみ)を沢山、押し込んで敷き詰めなさっておられるのであった。……」

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 8 モース先生「レスラーズ」(相撲)観戦記

M13


図―13

 昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。周囲の光景がすでに面白い。小さな茶屋、高さ十フィートばかりの青銅の神様若干、それから例の如き日本人の群集。我々は切符を買った。長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつ印刷してある。興行場は棒を立て、たるきを横に渡した場所に、天井に蓆(むしろ)を使用し、壁もまた蓆で出来ていた。粗末な桟敷(さじき)、というよりも寧ろ桟敷二列がこの建物の周囲をめぐつているのだが、これもまた原始的なものであった。その中心に柱が四木立っていて、その間は高くなっており、直径二十フィートもあろうかと思われる円場(どひょう)が上に赤い布の天蓋を持って乗っている(図13)。柱の一本ずつに老人が一人ずつ坐っているのは、何か審判官みたいなものであるらしい。また厳格な顔をして、派手な着物を着た男がアムパイアの役をする。巨大な、肥えた相撲取りが円場にあらわれ、脚をふんばり、まるで試験をするように両脚を上下したり、力いっぱいひっぱたいたりした後、さて用意が出来ると顔つき合わせて数分間うずくまり、お互に相手の筋肉を検査する(彼等は犢鼻褌をしている丈である)有様は、まことに物珍しく且つ面白い観物であった。いよいよ準備が出来ると二人は両手を土につけ、そこで突然飛びかかる。円場から相手を押し出すか投げ出すかするというのが仕業なんである。この闘争が非常に短いこともあり、また活発で偉大なる力を見せたこともある。時としては単に円場から押し出され、時としては恐ろしい勢で投げつけられる。ある相撲取りは円場から投り出されて、頭と肩とで地面に落ちた。立ち上ったのを見るとそこをすりむいて血が流れていた。私がふり向いて見物人を見ることが出来るように、我々は円場にごく接近して坐った。場内は枘(ほぞ)穴を持つ横木で、六フィート四方位の場所にしきられている。これがボックスなので、そのしきりの内の場所は全部あなたのものである。見物人のある者は筆を用意して来て、相撲の有様を書きとめていた。また炭火の入った道具と小さな急須とを持っていて、時々小さな茶碗に茶を注いで飲む見物人もあった。日本人たちが不思議そうに、ウィルソン教授の八つになる男の子を眺めるのを見ることは、私にとっては、他のいずれの事物とも同じ位興味があった。この可愛らしい子供は、相撲がよく見えるように、例のかこいの一方に腰をかけていた。見物人が全部膝を折って坐っているのにハリイだけが高い所にいるのだから、彼等は一人のこらず彼を眺めることが出来た。彼の色の濃い捲毛と青い目とは、まだ外国人が珍しい東京にあっては、まっかな目玉と青い頭髪が我々に珍しいであろう程度に、不思議なものなのである。所で、この色の白い、かよわそうに見える子供は、日本語を英語と同じようによく話す。彼がお父さんのために後をむいて、演技のある箇所を質問し、そしてそれを英語で我々に語った時の日本人たちの驚きは非常なものであった。彼が自分たちの言葉を話すと知った日本人たちのうれしそうな顔は、まことに魅力に充ちたものであった。私は相撲を見ている間に、何度も何度も、彼等の感嘆した顔が見たいはかりに、ハリイをして日本人にいろいろな質問を発せしめた。相撲取りたちは非常に大きくて、力が強かった。ある者は実に巨大であった。彼等は実際よく肥っている。だが彼等は敏捷さよりも獣的の力をより多く示すように思われた。幾度か彼等は取組み合うと、アムパイアが何か正しからぬことを見つけて彼等を止める。すると彼等は四本棟の一つに当る一隅に行く、そこで助手が飲水を手渡すと、彼等はそれを身体や両腕に吹きかけ、さて砂を一つかみ取って腋の下にこすりつけてから、円場の真中に来てうずくまる。正しく開始する迄に、同じことを六遍も八遍もやる。時に彼等はこのような具合(図14)になり、一人が「オーッ」というと一人が「オーショ」といい、これを何度もくりかえす。だが、その間にも相撲取りたちは各々自分の地位を保持するために、力いっぱいの努力を続けているのである。最後にアムパイアが何かいうと、二人は争いをやめて円場の外に出る。この勝負は明かに引き分けとなったらしい。巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で喋舌(しゃべ)る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。


M14
図―14

[やぶちゃん注:この段落の異例の長さによっても、モースが如何に相撲(及びその礼儀正しい人々)に魅了されたかがよく分かる。なお、この頃はまだ本所回向院境内が定場所であった(両国国技館(旧)の開館は明治四二(一九〇九)年六月)。
「昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。周囲の光景がすでに面白い。」原文の冒頭は“In the afternoon Professor Wilson, with whom we dined, took me to the "Wrestlers," where numbers of wrestlers have their bouts. The surroundings were odd enough;”とあり、“where numbers of wrestlers have their bouts”に相当する部分が訳にはない。石川氏は恐らく日本人には言わずもがなであると判断して、「相撲見物」でそれを圧縮したものらしい)。ここは――沢山の力士たちがそれぞれの真剣勝負(一番)を戦わすところの『レスラーズ』(相撲)という見世物に私を連れて行ってくれた」という謂いであろう。
「高さ十フィートばかりの青銅の神様若干」「十フィート」は約三メートル。青銅製の鳥居と思われる。私は実は相撲を見に行ったことはなく、国技館にも入ったことがないのでよく分からないが、相撲の始祖とされる野見宿禰(のみのすくね)など(若干とあるから鳥居は複数あった模様である)を祀った神社が設置されていたものか。
「長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつ印刷してある」これは叙述からは長さ17・8センチメートル、幅6・5センチメートル、厚さ1センチメートル強の入場整理用の木札のようである。
「興行場」原文は“The "circus"”。円形広場・円形競技場。
「直径二十フィートもあろうかと思われる円場(どひょう)」直径約6・09メートル。現在の公式土俵では直径4・55 メートル。「円場」の原文は“a ring”。
「枘穴を持つ横木」所謂、相撲興行用の組み立て式の枡席の構造材を指している。
「六フィート四方位」約1・8メートル四方。因みに現在の升席は金属パイプで仕切られ、ずっと小さくなって幅1・3メートル/奥行1・25メートルだそうである。]

 ここを立ち去る時、私の友人は人力事を呼んで、日本語で車夫に私の行先きを話した。彼は先約があるので、私を停車場につれて行く訳に行かなかったのである。かくて私は三十分間、この大きな都会の狭い町並を旅していた。その間に欧米人には一人も行き会わず、また、勿論、私が正しい所へ行きつつあるのか、間違った方向へ行きつつあるのか、まるで見当がつかなかった。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(6)

  游江島   石作貞

誰道三山不可尋。

仙遊偶唱歩虛吟。

雨龍將起雲籠洞。

羽客欲來風満林。

天女琵琶懷月色。

梵王臺殿聽潮音。

無因海若襄陵力。

一叩神閽蕩碧岑。

 

[やぶちゃん注:作者は石作駒石(いしづくりくせき 元文五(一七四〇)年~寛政八(一七九六)年)。貞は名。儒学者で木曽代官山村蘇門家臣で家老。江戸の漢学者南宮大湫(なんぐうたいしゅう)門人。七句目は訓点に従わずに読んだ。

 

  江の島に游ぶ   石作貞

誰れか道(い)ふ 三山尋ぬべからずと

仙遊して 偶々 唱歩虛吟す

雨龍 將に起たんとして 雲 洞に籠り

羽客 來たらんと欲して 風 林に満つ

天女が琵琶は 月色を懷き

梵王が臺殿は 潮音を聽く

因(よ)る無し 海若(かいじやく) 陵を襄(はら)ふの力

一(いつ)に神閽(しんこん)を叩(たた)きて 碧岑(へきじん)に蕩(たう)す

 

「三山」中国神話上の蓬莱・方丈・瀛洲の三つの仙山。

「海若」海の神。海神。わたつみ。この句、かく訓読してみたものの、正直、意味が分からない。識者の御教授を乞うものである。

「神閽」本来は門を守る神の謂いで、「閽神(かどのかみ)」「矢大臣・矢大神(やだいじん)」とも言い、神社の随身門の左右に安置されている随身の装束をした二神像の俗称(特に向かって左方の弓矢を持つ神像)を指すが、ここは「叩」とあるので、そこから洒落た、店先で腰掛けて酒を飲ませる店、居酒屋のことであろう(居酒屋の前で空樽に腰掛けて酒を飲むさまを閽神に擬えたか)。

「碧岑」緑の峰。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」では「岑」を「岺」とするが、これは「岑」の異体字。]

耳嚢 巻之七 河怪の事

 河怪の事

 

 七都(なないち)といえる座頭の咄しけるは、右の者は上總國夷隅郡(いすみのこほり)大野村出生(しゆつしやう)にて廿四歳にて盲人となりしが、廿貮歳の時、右村の内に幅拾間程の川有(あり)。右内に字※の井戸迚至(いたつ)て深き所有。向ふは竹藪生茂(おひしげり)、晝も日陰くらくうす淋しき場所成(なる)が、七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て、足の指へ糸をかけては水中に入(いり)、又出ては糸を指へ掛(かく)る事あり。あまたゝびに足首過半糸を掛るゆへ、ひそかに其際に有(ある)くひ木へ右をうつし、如何(いかが)なすやと見置(みおき)しに、又前の如く糸を掛(かけ)、何か水中にてよしかよしかといふと思へば、彼藪の内にてよしと答ふ。後(のち)かのくひ木(き)半分より折(をれ)ぬる故、大きに驚き迯歸(にげかへり)ける。

[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+「段」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ロケーションが上総夷隅郡で一致。前の話もこの七都なる人物が話者と考えてよかろう。この蜘蛛の怪の相同的類話は広域に見られる。国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で「蜘蛛 糸」の検索を掛けただけでも、宮城県本吉郡旧小泉村・福島県東白川郡塙町大字川上・同伊達郡国見町・埼玉県秩父郡皆野町日野沢・長野県南佐久郡北相木村・神奈川県津久井郡・静岡県浄蓮の滝・愛知県東加茂郡下山村・岐阜県郡上郡和良村・滋賀県伊香郡余呉町・和歌山県伊都郡九度山町・徳島県美馬郡一宇村・鳥取県西伯郡西伯町・熊本県等のステロタイプなそれを確認出来る。私の地元鎌倉でも源平池の畔の話として酷似した昔話が伝わっている。因みに、この藪の中から「よし」と答えるのは、果たして、やはり蜘蛛の仲間なのだろうか? 妙なところが気になるのが、私の悪い癖――

・「七都(なないち)」という読みは岩波版長谷川氏のルビに拠った。

・「上總國夷隅郡大野村」現在の千葉県いすみ市大野。先の話柄に出た長者町の西南西約九キロメートルに位置する。

・「幅拾間」川幅凡そ十八メートル。夷隅川の支流大野川と思われる。

・「字※の井戸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『字樅の井戸』とする。読みその他不詳。淵らしいが「井戸」という呼称も不審。「じもみ」と読んでおく。

・「七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て」一字分とは思われない脱落が疑われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『七都俗なりしとき、能(よく)魚の釣れると聞(きき)て釣を垂れしに、水中より蜘(くも)出て』とある。これを訳では採用した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 河の怪の事

 

 七都(なないち)と申す、馴染みの座頭の語って御座った話。

 この者は上総国夷隅郡(いすみのこおり)大野村の生まれにて、二十四歳にて盲人となった者で御座るが、この者が二十二歳の折り、未だ目の見えた頃の話と申す。

「……その大野村の内を流るる幅二十間ほどの川が御座いましてのぅ、その川中に通称「字樅(じもみ)の井戸」と呼ぶ、これ、いたって深き淵が御座いました。川向こうは竹藪が鬱蒼と生い茂げり、昼も日陰にて、すこぶる暗く、何ともこれ、もの淋しい場所では御座いましたが――我ら、その頃は未だ目開きの俗にて御座いましたので――よう、魚(さかな)が釣れるところと聴き及んでおりましたゆえ、訪ねて行って、一日、釣り糸を垂れておりました。……

 すると、足元の水際(みぎわ)より、一匹の小さな蜘蛛が……するするっ……と這い出て参り、我らが草鞋履きの足の指へと……しゅっ……と糸を掛けまして、これまた……するするっ……と水の中へと戻る。……

 暫く致しますと、またしても……するするっ……と水より出でては、糸を指へ……しゅっ……と掛けるので御座います。……

 ……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……

と、これを何度も何度も繰り返しまして、これ、指どころか、我らが足首の過半まで糸を掛け、それはまあ、帯のように、きらきらと輝いて御座いましたのじゃ。……

 何かこう、訳の分からぬながら不吉な感じがふっと萌(きざ)しましたによって、我ら、何気ない振りを致いて、そっと、近くに突き出ておりました棒杭へ、べったりと巻かれた糸の束を剝し移しました。……

 さても、一体、このちんまい畜生は、何をどうするつもりか、と凝っと見ておりますと、また、前の如く……

……するするっ

……と水より出でて

……しゅっ

……と、棒杭に糸を掛け、再び

……するするっ

……と水の中へと、戻りました。……

……と……その時で御座る……

――何かが

――水の中(うち)より

「――ヨイカ?――ヨイカ?――」

と問うたかと思うと、かの対岸の藪の内より、

「――ヨシ!――」

と答える。

――と

――その瞬間

――バキッツ!

と音を立てて、かの根太き棒杭――

――これ――ものの美事に

――ど真ん中より

――折れたので御座います。……

……いやもう! 大きに驚き、這うようにして逃げ帰って御座いました……。」

栂尾明恵上人伝記 62 明恵と北条泰時

 秋田城介入道大蓮房覺知語りて云はく、泰時朝臣常に人に逢ひて語り給ひしは、我不肖蒙昧の身たりながら辭する理なく、政を務りて天下を治めたることは一筋に明惠上人の御恩なり。其の故は承久大亂の已後在京の時、常に拜謁す。或時法談の次に、如何なる方便を以てか天下を治むる術(すべ)候べきと尋ね申したりしかば、上人仰せられて云はく、如何に苦痛顚倒(てんだう)して、一身穩かならず病める病者をも、良醫是を見て是れは寒より發りたり、是は熱に犯されたりと、病の發りたる根源を知つて、藥を與へ灸を加ふれば、則ち冷熱(れいねつ)さり、病愈ゆるが如く、國の亂れて穩かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし。さもんなくて打ち向ふまゝに賞罸を行ひ給はゞ、彌〻(いよいよ)人の奸(かたま)しくわゝにのみ成りて、恥をも知らず、前を治むれば後より亂れ、内を宥(なだ)むれば外より恨む。されば世の治まるといふことなし。是れ妄醫の寒熱を辨へずして、一旦苦痛のある所を灸(きう)し、先づ彼が願ひに隨ひて、妄りに藥を與ふるが如し。忠を盡して療を加ふれども、病の發りたる根源を知らざるが故に、ますます病惱重りていえざるが如し。されば世の亂るゝ根源は、何より起るぞと云へば、只欲を本とせり。此の欲心一切に遍(へん)して萬般(ばんはん)の禍ひと成るなり。是れ天下の大病に非ずや。是を療せんと思ひ給はゞ、先づ此の欲心を失ひ給はゞ、天下自ら令せずして治まるべしと云々。泰時申して云はく、此の條尤も肝要の間、我身ばかりは心の及び候はん程は、此の旨を堅く守るべしと雖も、人々是を守らんこと難し、如何し候べきやと云々。上人答へて宣はく其易かるべし。只太守(たいしゆ)一人の心に依るべし。古人云はく其の身直(なほ)くして影(かげ)曲らず、其の政正しくして國亂るゝこと無しと云々。此の正しきと云ふは無欲なり。又云はく君子其の室に居て其の事を出す、よき時は千里の外皆之に應ずと云々。此のよきと云ふも無欲なり。只太守一人實に無欲に成りすまし給はゞ、其の德に誘(いう)せられ、其の用に恥ぢて、國家の萬人自然と欲心薄く成るべし。小欲知足(しやうよくちそく)ならば天下安く治るべし。天下の人の欲心深き訴來らば、我が欲心の直らぬ故ぞと知りて、我が方に心を返して我身を恥(はづか)しめ給ふべし。彼を咎(とが)に行ひ給ふべからず。譬へば我が身のゆがみたる影の、水にうつりたるを見て、我が身をば正しく成さずして、影のゆがみたるを嗔りて、影を罪に行はんとせんが如し。心ある人の傍にてをこがましく思ふことなり。傳へ聞く周の文王の時一國の民畔(くろ)を讓(ゆづ)りしも、只文王一人の德、國土に及びし故に、萬民皆かゝるやさしき心に成りしなり。畔を讓ると云ふは、我が田の境をば人の方へ多くさり讓りて、我が方の地をば少くせしなり。互にかやうに讓りあひて、我が田地を人の方へやらんとはせしかども、假令(かりそめ)にも人の分を掠(かす)め取る事はなかりき。他人より訴訟の爲に都へ上る人の、此の周の國を通るとて、此の有樣を路の邊にて見て、我が欲の深きことを恥ぢて、道より歸りにけり。此の文王、我が國を治むるのみならず、他國までも德を及ぼし給ひしも、只一人の無欲に依りてなり。剩(あまつさ)へ此の德充ちて、天下を一統にして、八百の運祚(うんそ)を持(たも)ちき。されば、太守一人少欲に成り給はゞ、一天下の人皆かゝるべしと云々。此の教訓を承りしに、心肝に銘じて深く大願を發し、心中に誓つて此の旨を守りき。隨つて義時朝臣逝去の時、頓死(とんし)にて在りしかば、讓状(ゆづりじやう)の沙汰にも及ばざりし程に、二位家の命にて、泰時嫡子たる上は分限(ぶんげん)少なくては何としてか天下の御後見(おんうしろみ)をもすべきなれば、皆管領(くわんりやう)して、舍弟共には分々に隨ひて少しづゝ分け與ふべきよし承りしかども、つらつら父義時の心を思ふに、我よりも遙かに此の舍弟共をば鐘愛(しようあい)せられしぞかし。然れば父の心にはかやうにこそ取らせたく思ひ給ひけんと推量(おしはか)りて、舍弟朝時(ともとき)・重時巳下に宗(むね)と多く分け與へて、泰時が分には三四番の末子の分限程少なく取りき。かやうにては如何としてか御後見をもすべきとて、二位家よりも諫められしかども、今までは聊も不足と思ふこともなし。此の如く萬(よろづ)少欲に振舞し故やらん、天下日に隨つて治まり、諸國も年を逐うて穩なり。孝の宜しきを見るは繁(しげ)く、訴への曲(ゆが)めるを聞くは少し。是れ一筋に此の上人の恩言(おんごん)に依れりとて涙をぞ拭ひ給ひけり。此の太守の前に訴訟の人番(つが)ひて來り望むには、對面し給ひて、暫(しばし)が間兩人の面をつくづくと守りて仰せられて云はく、泰時天下の政を務めて人の心に奸曲(かんきよく)なからんことを存ず。然るに唯今の爭ひ來らるゝ二人の中に、一方は必定(ひつぢやう)して奸謀(かんぼう)なるべし。廉直(れんちよく)の中には更に論あることなし。來るいくかの日兩方の文書を持ち來らるべし。當日に正して奸謀不實の仁においては、則ち其の輕重(けいちやう)に隨つて、忽に死罪にも流罪にも申し行ふべし。奸智の者、一人も國にあれば、萬人に禍を及ぼす失あり。天下の大きなる敵、何事か是にしくべき、とくとく歸り給ふべしとて立てられけり。此の體を見るに、軈て何なる目にも合せられぬべし、益なしとて、各歸つて後兩方云ひ合はせて、或は和談し、或るは僻事(ひがごと)のある方は私に負けて、論所をも去り渡しけり。無欲なる體に振舞ふ人をば甚だ感じ賞し、欲がましき者に向ひては或るは嗔(いか)り、或は恥しめ給ひしかば、人々如何かしてか無欲に尋常なる事し出して、聞え奉らんとのみ、遠き境も近き所も心を一にして勵みしかば、物を掠(かす)めとらん奪ひ取らんとする訴は絶えて無(なか)りき。去るに付きては國々穩(おだ)しく治まりて、政喧かまびす)しからず。寛喜元年に天下飢饉なりし時は、京・鎌倉を始めとして諸國に富(とめる)者に我せう主に成りて、委しき狀を書かせ判を加へて、利を副(そ)へて米を借りて、其の郡・其の郷・村々に餓死せんとする者の所望に隨つて、むらなく貸(かし)たびけり。來年中に世立直(たちなほ)らば、本物ばかり慥(たしか)に返納すべし、利分は我方より添へて返すべしと、法度(はつと)を定められて面々の狀を召置かれけり。只くばり給はば、所々の奉行も紛(まぎ)らかしてわゝくもありぬべければ、さるまじき爲にや賢かりし沙汰なり。さて世立直りて、面々返納すれば、本(もと)所領なんどもありて便り在る人のをば、本物計り納めさせて、本主には約束のまゝに、我が方より利分(りぶん)を添へて、慥かに返し遣はされけり。無緣なる聞えある者をば皆免(ゆる)したびて、我が領内の米にてぞ本主へは返したびける。かやうの年は家中に毎事儉約を行ひて、疊を始として一切のかへ物共をも古き物を用ひ、衣裳の類(たぐひ)も新しきをば著せず、烏帽子(ゑぼし)の破れたるをだにもつくろひ續(つが)せてぞ著給ひけり。夜は燈なく晝は一食を止めて、酒宴遊覽の儀なくして此の費を補ひ給ひけり。心ある者見聞く類、涙む落さずと云ふことなし。然るに太守逝去の後漸く父母に背き、舍弟を失はんとする訴論多く成りて、人倫の孝行日に添へて衰へ、年に隨つて廢れたり。げに只上人の御教の如く、一人正しければ萬人隨へること分明也けりとぞ申し侍りし。
[やぶちゃん注:明恵を出発点としながら、泰時の讃美にスライドする本条(若しくはそのプロトタイプ)は、確かに名執権とされた泰時の客観的な側面や事実を押さえながらも、どこか親幕的な目的を持った政治的意図の臭気を感じる。
「秋田城介入道大蓮房覺知」安達景盛。既注済み。
「奸しくわゝにのみ成りて」「かたまし」は心がねじけているさまで、「わわなり」は形容詞「わわし」の形容動詞化で、落ち着きがなくなるさま。世の大勢(たいせい)の人心が殊更にねじ曲って、巷が何かと騒がしくなるばかりで、の意。
「妄醫」「まうい(もうい)」と読むか。藪医者のこと。
「運祚」原義は、天から受けた幸せ、天運のことであるが、転じて天子の位及び天運によって帝位に就くことを指し、ここはその在位期間(の永きに亙ったこと)をいう。
「二位家」北条政子。]

門を出て故人に逢ひぬ秋の暮 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   門を出て故人に逢ひぬ秋の暮

 秋風落寞、門を出れば我れもまた落葉の如く、風に吹かれる人生の漂泊者に過ぎない。たまたま行路に逢ふ知人の顏にも、生活の寂しさが暗く漂つて居るのである。宇宙萬象の秋、人の心に食ひ込む秋思の傷みを咏じ盡つくして遺憾なく、かの芭蕉の名句「秋ふかき隣は何をする人ぞ」と雙璧し、蕪村俳句中の一名句である。
 この句几董の句集に洩れ、後に遺稿中から發見された。句集の方のは

     門を出れば我れも行人秋の暮

 であり、全く同想同題である。一つの同じテーマからこの二つの俳句が同時に出來た爲、蕪村自身その取捨に困つたらしい。二つとも佳作であつて、容易に取捨を決しがたいが、結局「故人に逢ひぬ」の方が秀れて居るだらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」巻頭。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 於喜久屋 十三首 中島敦

    (以下十三首 於喜久屋)

 

[やぶちゃん注::「喜久屋」既注済み。元町に現在も営業する洋菓子店。]

 

椋欄竹の影に凭れて秋の朝(あさ)のショコラを啜る佛蘭西びとあはれ

 

一(ひと)すぢの朝の陽射(ひざし)にコオヒイの煙はゆれて白く冷えけり

 

陶器(すゑもの)の白き冷(つめ)たさ秋の朝のコオヒイの煙たゆたひをるも

 

朝の日のはつかに射しぬ陶器の卓の上なるコオヒイの碗に

 

我が飮みしコオヒイの碗に紅毛の海賊船が書かれたりけり

 

いにしへの黑き帆前の繪を見ればキャプテン・キッド思ほゆるかも

 

新しき砂糖の壺にわが息(いき)のかゝりて曇る朝は寒しも

 

びいどろの瓶に插(さ)したるコスモスの莖透(す)いて見ゆ水に漬かりて

 

愛(は)しきやし佛蘭西の娘(こ)らショコラ飮む蒙古族(モンゴオル)われ獨りパイを食(を)す

 

居留地のコンセルなども吾(あ)が如かこの街にしてパイを食しけむ

 

Bonjour’‘Give me sugar’‘Ich danke’あなかしましや喜久屋の二階

 

あなやおぞ大和瞿麥(なでしこ)茶を飮むとロバァト・テエラァあげつらひをる

 

料理場ゆポーク・チャップの匂する待てばひもじもランチはや持て

 

[やぶちゃん注:「椋欄竹」ヤシ目ヤシ科カンノンチク属シュロチク Rhapis humilis。中国南部から南西部原産。標準種カンノンチク(観音竹)Rhapis excels(高価な古典的園芸植物として多くの品種が作られている)ほどではないが多くの品種がある。葉はシュロに似(但し、棕櫚はヤシ科シュロ属 Trachycarpus)、耐陰性、耐寒性が強く、ディスプレイ用観葉植物として人気がある。

太字「びいどろ」は底本では傍点「ヽ」。

「コンセル」“consul”。領事。

「ロバァト・テエラァ」Robert Taylor(ロバート・テイラー 一九一一年~一九六九年)はアメリカの俳優。本歌稿の成立時期である昭和一二(一九三七)年前後は未だ映画デビュウ直後であったが、ウィキロバート・テイラー等によれば、一九三六年には早くもマネー・メイキング・スターの第四位にランクされ、その水際立った美男子ぶりからグレタ・ガルボ、ジョーン・クロフォード、バーバラ・スタンウィックなど当時第一線で活躍した女優たちからの希望で彼女たちの相手役をつとめた。中でも一九三七年に“This Is My Affair”(監督ウィリアム・A・サイター)で共演した(厳密には前年の“His Brother's Wife”(邦題「愛怨二重奏」。監督W・S・ヴァン・ダイク)で既に共演し、親密になっていた)スタンウィックとは、その後、恋に落ちて一九三九年に結婚している。この「大和瞿麥」連が「あげつら」っていたのも、案外、この二人のことででもあったのかもしれない。なお、ヴィヴィアン・リーと共演し、彼をハリウッドのドル箱スターにのし上げたメロドラマの名品「哀愁」(原題“Waterloo Bridge”監督マーヴィン・ルロイ)は、この後の一九四〇年の作品であり、しかも本邦での同作の公開は戦後の昭和二一(一九四六)年を待たねばならなかった。]

死は羽團扇のやうに 大手拓次

 死は羽團扇のやうに

この夜(よる)の もうろうとした
みえざる さつさつとした雨(あめ)のあしのゆくへに、
わたしは おとろへくづれる肉身の
あまい怖(おそ)ろしさをおぼえる。
この のぞみのない戀の毒草の火に
心のほのほは 日(ひ)に日(ひ)にもえつくされ、
よろこばしい死は
にほひのやうに その透明なすがたをほのめかす。
ああ ゆたかな 波のやうにそよめいてゐる やすらかな死よ、
なにごともなく しづかに わたしのそばへ やつてきてくれ。
いまは もう なつかしい死のおとづれは
羽團扇(はうちは)のやうにあたたかく わたしのうしろにゆらめいてゐる。

[やぶちゃん注:「羽團扇」鳥の羽で作った団扇(うちわ)。
「颯颯」は「さっさつ」(古語にあっても最初のそれは拗音化する)は風が音を立てて吹くさまを指すが、ここは「雨のあし」で、「あし」は雨・雲・風などの動く様子を足に見立てていう語であり、加えてそ「のゆくへ」を描出するのであるから、風に吹かれて斜に降る雨が、ある彼方へとゆっくりと抜けてゆくような動的な感覚描写(「みえざる」である)として違和感はない。]

鬼城句集 秋之部 秋の暮

秋の暮   秋の暮水のやうなる酒二合

      門口に油掃除や秋の暮

[やぶちゃん注:この「油掃除」とは油漉しのことではあるまいか。近年は健康を考えて、数回で油を捨てる家庭が多いが、かつて私が通っていた親の代から二代続いた天婦羅屋の主人は、減れば注ぎ足しをするが一度として捨てたことはないと言っていた。]

      鼬ゐて人を化すや秋の暮

      さみしさに早飯食ふや秋の暮

2013/09/04

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(5)

  游江島   金中球〔字士琳〕
滄海漫々仙島孤。
浮槎疑是到蓬壺。
拂雲危樹千尋秀。
捲雪驚濤萬里趨。
仰望蜃樓含紫氣。
俯臨龍窟吐明珠。
騷人吟咏偏堪賞。
向夕風光似畫圖。
[やぶちゃん注:作者についての情報は捜し得なかった。

  江島に游ぶ   金中球〔字士琳〕
滄海 漫々 仙島 孤たり
浮槎(ふさ)するに 疑ふらくは是れ 蓬壺(ほうこ)に到るかと
雲を拂ひて 危樹 千尋に秀いで
雪を捲きて 驚濤 萬里を趨(はし)る
仰ぎ望む 蜃樓 紫氣を含み
俯し臨む 龍窟 明珠を吐く
騷人の吟咏 偏へに賞(ほ)むるに堪へ
夕(ゆう)に向へば 風光 畫圖に似たり

「浮槎」筏。
「蓬壺」島の形が壺に似ているところから蓬莱山の異称。]

耳嚢 巻之七 淸潔の婦人の事

 淸潔の婦人の事

 上總國長者町何某の養女こと、同國岩倉村といへるは七面山の半腹の所へ嫁しけるに、聟は婚禮の席一寸出し儘にて、親類抔打寄(うちより)けれ共婚儀も不調(ととのはず)、打寄候親類も皆々立歸り、右娘は先(せん)かたなく一間に入(いり)て、何(いづ)れ曰(いはく)もあらんと、今宵婚調不調とも又しかたやあらんと獨り臥(ふせ)しに、折ふし七面山の嵐も物さびしくねられぬまゝに枕をかたむけきけば泣聲にて、三日は置(おか)ぬといふを聞(きけ)ば、全く大怪(たいくわい)ならんと身の毛よだつ斗(ばかり)なれば、彼(かの)女氣丈なる者にて其夜を明(あか)しけるに、兎角聟も來らず。暫く過(すぎ)て或夜來りて夫婦の交りをなせしが、其後は又きたらず。不思議に思ひ段々聞(きき)つたへしに、右亭主は弟ありて近比(ちかごろ)みまかりしに、後家(ごけ)なる弟嫁と密通なせし故、彼(かの)弟嫁亭主を防ぎて夫婦寢をさせざるよし聞しより、始て過(すご)し夜の女の泣聲を大怪にあらざるをさとりしが、去(さる)にても、弟みまかりて間もなく其弟嫁と密通せし夫の心底人倫にあらず、恨むべき事也と見限りて里へ戻りしに、一夜の交りに懷(くわい)たいなしけるぞ是非なき。其後安産してうみし子は夫の方へ遣し、其身は江戸表へ奉公に出しが、今に其女は存在のよし。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。一見、怪談仕立ての市井貞女譚。所謂、俠女、根岸好みの話という気がする。
・「上總國長者町」現在の千葉県いすみ市岬町(みさきまち)長者。
・「岩倉村」未詳。長者から西北西に約四キロメートルの同いすみ市岬町内に岩熊という地名があるが、疑問(次の七面山の注を参照)。
・「七面山」長者から南西約十五キロメートルの千葉県勝浦市杉戸にある日蓮宗長福寺の裏山の、三二〇段の石段(神力坂(じんりきざか)を登った山頂に日蓮の高弟日朗作と伝えられる七面大明神像を祀る七面堂があり、ここを七面山と呼称している。この杉戸地区の直近の西には「中倉」という地区が存在するから、先の「岩倉」はもしかすると「中倉」の誤りかも知れない。
・「婚調」底本には右に『(婚姻カ)』と注する。
・「大怪」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では二箇所とも『夭怪』。「えうくわい(ようかい)」は「妖怪」と同義で、こちらの方が訳し易いので、ここは大いなるアヤカシではなく、妖怪と訳した。
・「身の毛よだつ斗(ばかり)なれば、彼女氣丈なる者にて其夜を明しけるに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『身の毛もよだつ斗なれど、彼女氣丈なる者にて其夜を過しけるに』(正字化して示した)とあって逆接の接続助詞が自然。接続部はこちらの方で訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 清廉なる婦人の事

 上総国長者(ちょうじゃ)町に住まう何某(なにがし)は己が養女を、同国岩倉村と申す、七面山(しちめんさん)の中腹辺りの在所の独り者の元へ、嫁入させて御座ったと申す。
 ところが婚礼の当日は、聟(むこ)殿は席にちょいと顔を出したきりにて、親類などもすっかり打ち寄って面子(めんつ)も揃ったれど、肝心の聟がおらざれば婚儀も成し得ず、親類の者どもも夜も更け、遂に痺れを切らし、三々五々、皆々、立ち帰ってしもうた。
 かの新妻は詮方なく、奥の閨(ねや)に独り入りて、
『……何(いづ)れ、ご主人さまには……何か深い訳のおありになることであろう。……今宵は婚礼の儀、これ調わずとも……それなりのご対処をお考えになれておらるるのであろうほどに……』
と思い直し、独り臥して御座った。
 折から――聞き慣れぬ七面山から吹き降ろす風の音の――そのもの寂しげなるに寝(い)ねられぬまま――馴染まぬ新しき枕を少し傾ぶて耳を澄ましておると――何やらん――人の泣き声が戸外に致いた。
「…………三日とは…………ここへ…………置かぬぞぇ…………」
と呟く。
『……こ、これは……全く以って……妖怪に相違ない――』
と、身の毛もよだつばかりになったれども、この女子(おんなご)、すこぶる気丈なる者にて御座ったれば、そのまま凝っと我慢致いて、一夜(いちや)を明かしたと申す。
 しかし翌朝になっても一向に、聟殿は姿を現わす気配も、これ、御座ない。
 そのまま暫く過ぎた、ある夜のことで御座った。
 かの聟殿、ぶらりと現われたかと思うと、閨へ導き、夫婦(めおと)の交わりをなした。
 ところが――未だ深更にも至らざるうちに――またしても、家から姿を消して御座った。
 そうして、そのまんま、また、何日も姿を現さず御座ったと申す。
 あまりに不思議と申すより、最初の夜のアヤカシの言葉も不審に思うたによって、近隣の者なんどに、それとのう訊いたところが……
……この独り者の亭主なる男には、唯一の近親と申す血を分けた弟が御座った。ところが、つい最近のこと、身罷ってしもうたと申す。然るにこの兄なる男、その後家(ごけ)となった弟の嫁と、葬儀のその夜に早くも密通をなし、懇ろになった。されば、この度の婚儀が持ち上がってからと申すもの、かの弟の嫁、妬心(としん)甚だしく、かの男をなんやかやと亡き弟の家に押し留めては、男を新所帯(あらじょたい)へと行かさぬように致いて、夫婦(めおと)の契りもなし得ぬように、日々見張っておる由、聞き出だいて御座った。
 これによって始めて、過ぎしあの夜の女の泣声は、これ、覗きに参ったその弟の後家の恨みの声にして、妖怪にてはあらなんだことを悟り得たが、
「……それにしても……弟の身罷ったその涙の干ぬ間に、その亡き弟の嫁と密通致いたと申す――そが妾(わらわ)が夫の心底――これ、男として、いやさ、人倫にあらざる振舞いじゃ。当たり前の人の情けを持った御方ならば、誰もが、これ、恨むべきことにて御座いまする!――」
と、夫の親族の誰彼の方へと赴いて小気味よき啖呵を切っては、見限って、さっさと里へと戻って御座ったと申す。
 しかしながら、一夜(ひとよ)のみの交わりでは御座ったが、これもまあ、天命か、懐胎なして御座ったと申すは、是非もなきことで御座った。
 後(のち)に安産致いて、産んだ子(こお)はこれ、かの元夫の方へと遣わし、かの女子(おんなご)は江戸表へ奉公に出でた。
 本話を語った者の言によれば、今もその女子(おんなご)はこの近所にて、元気に奉公なしおるとのことで御座る。

ブログ500000アクセス突破記念芥川龍之介「龝夜讀書の記」(附やぶちゃん注) / 萩原朔太郎「芭蕉私見」(昭和一〇(一九三五)年十一月号『コギト』掲載初出形復元版 附やぶちゃん注)

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、記念すべき五十万人目の節目のアクセスは、丁度只今、

2013/09/04 12:31:50 * Blog鬼火~日々の迷走: 殴られ土下座をした白洲次郎

をお読みになられた、あなたです。
あなたの幸いを心よりお祈りします。向後とも、これを機縁にお訪ね下さいませ。

記念すべきブログ500000アクセス突破記念として、

芥川龍之介「龝夜讀書の記」(附やぶちゃん注)


及び

萩原朔太郎「芭蕉私見」(昭和一〇(一九三五)年十一月号『コギト』掲載初出形復元版 附やぶちゃん注)

を公開した。

前者はネット上未公開で、注は珍しく、お硬い文学部の作品論的なものになったと思っている。

後者は単行本「郷愁の詩人 與謝蕪村」の巻末に載った「芭蕉私見」の初出版で、知られたそれとは大きく異なっており、寧ろ、別稿とすべきものである。評釈は単発で僕の「萩原朔太郎」でランダムに公開したが、このように纏まった形ではネット初公開である。知られた決定稿との対比を行っている点でも、是非、御笑覧頂ければ幸いである。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 7 モースと日本の濫觴

 我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた。日本服を着た学生が、グレーの植物学を学び、化学実験室で仕事をし、物理の実験をやり、英語の教科書を使用しているのを見ては、一寸妙な気持がせざるを得なかった。この大学には英語を勉強するための予備校が付属しているので、大学に入る学生は一人のこらず英語を了解していなくてはならない。私は文部卿に面会した。立派な顔をした日本人で、英語は一言も判らない。若い非常に学者らしい顔をした人が、通訳としてついて来た。この会見は、気持はよかったが、恐ろしく形式的だったので、私にはこのように通訳を通じて話をすることが、いささか気になった。日本語の上品な会話は、聞いていて誠に気持がよい。ドクター・マレーも同席されたが、会話が終わって別れた時、私が非常にいい印象を与えたといわれた。私はノート無しに講義することに慣れているが、この習慣がこの際、幸にも役にたったのである。私は最大の注意を払って言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩に就いて文部卿をほめた。

[やぶちゃん注:「我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた」まず、「外山教授」であるが、東京大学の、当時二十九歳の文学部教授(日本初教授号の一人)であるこの人物を、読者諸君は知っているはずである。高校の文学史で、近代詩のルーツとして「新体詩抄」(このモースとの出逢いから五年後の明治一五(一八八二)年の刊行)の書名と作者を退屈極まりない形で憶えさせられた折り、あの作者の中の一人に彼は入っていたのである。後の東京帝大文科大学長(現在の東京大学文学部長)を経て同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した外山正一(とやままさかず 嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)、その人である。ただここは読んでいて、突然、既知の人名として姓だけで出るのがすこぶる奇異である。この辺り、以下の注で見るように、記憶と日記を頼りにモースが再構成している過程で、かなりの重大な齟齬や誤認が生じているのが実状である。例えば、モースは六月十七日夜に汽船「シティ・オブ・トーキョー」で横浜入りし、横浜のグランドホテルに入ったその翌十八日に、早くもこの外山の訪問を受けているのであり、そこで既に大学での講演依頼さえ申し入れられていた、数少ない来日後に親しく何度も逢っている日本人要人であった、というのが真相なのである(詳しくは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「8 日本への第一歩」を参照されたい)。しかも、この場面自体が事実とは異なっている。モースはこの日、文部省から「外山教授と一緒に帝国大学を訪れ」ては、いないのである。やはり磯野先生の前掲書によれば、『外山に案内されて』当時、神田一ツ橋にあった『東京大学法理文三学部を初めて訪れた』のは、この(六月十九日)の二日後の六月二十一日のことであり、また、同日、この大学訪問後にマレー同席の上、文部省高官(後注参照)と会見しているのである。

「グレー」十九世紀アメリカで最も知られた植物学者エイサ・グレイ(Asa Gray 一八一〇年~一八八八年)。ウィキの「エイサ・グレイ」によれば、北アメリカの植物分類学の知識を統一するのに尽力した人物で、特に『グレイのマニュアル』として知られた、現在でもこの分野のスタンダードである“Manual of the Botany of the Northern United States”(「北アメリカの植物学マニュアル」一八六三年刊)の著者である。

「英語を勉強するための予備校が付属している」大学予備門のこと。第一高等中学校(後の第一高等学校)の前身。東京大学入学前の予備機関として東京開成学校普通科・官立東京英語学校を統合して、まさにモースが来日したこの明治一〇(一八七七)年成立した。同一九年に分離独立して第一高等中学校となった(「大辞泉」に拠る)。無論、プレ英語教育だけの場ではないが、既にお雇い外国人教師にしようと目論んでいた外山(次注参照)モースへ説明するに、敢てこうした言い回しを用いた可能性は十分に考えられる。

「文部卿」原文は“the Director of Educational Affairs for the Empire”で大日本帝国文部卿(文部大臣の前身)といった意味であろうが、実はこの時は前の文部卿木戸孝允が明治七(一八七四)年五月に台湾出兵の決定に反発して辞任した後、次期の西郷従道(隆盛の弟)の明治一一(一八七八)年五月着任まで、実に四年の永きに亙って空席となっていた。その間の職務は文部大輔(たいふ:文部事務次官相当。)であった田中不二麿が代行していたから、ここでモースが逢ったもの田中であったと考えてよいであろう。因みに田中は明治四(一八七一)年に岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手として雇い、欧米の学校教育を見聞しており、後の明治二十四(一八九一)年には第一次松方内閣で司法大臣(現・法務大臣)となっている。

「ドクター・マレーも同席されたが、会話が終わって別れた時、私が非常にいい印象を与えたといわれた」ここで十九日と二十一日の記憶の混同が生じたことによって、モースは十九日の会見での驚天動地の展開を記載し損なってしまい、それは後の誤った記載にまで影響を及ぼすことになる(第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」冒頭の「若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した」の私の注を参照のこと)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、実はこの六月十九日のマレー学監との会合の際に外山正一が同席しており、その外山から開口一番、モースにとって『思いがけない話が持ち出』されるのである。則ち、『東京大学の教授になってほしいという』申し入れである。モースは、腕足類の採集のために『一夏だけの滞在予定でやってきたのだから、このまま一年ないし二年間日本に滞在しつづけるのは無理だ、すでに約束済みの講演などを果たすために十一月から来年二月まで帰米していいというのなら話は別だがと返事をすると、大学の方ではその条件でもいいような構え』を見せ、『しかも、もし招聘に応じるなら、さっそく夏には横浜の南一七マイルの海岸(つまり江ノ島)で臨海実習を開き、標本も集め』ることが可能だと言うのである。外山はモースの条件を勘案の上、『大学側は数週間以内に確答をするということで、その日は話はここまでで終わった』とその場面を再現なさっておられる(同書七三頁)。これこそがモースと日本を強く結びつける動機となってゆくのであるが、そうした事実は本書では遂に記述されず終いとなっているのである。しかし、そうした磯野先生の考証を踏まえて、この段を読んでみると、後日(日の錯誤を問題とせず)、モースが文部卿に対して好印象を持たれるように。「最大の注意を払って言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩に就いて文部卿をほめた」という記載は、モースにとって既に魅力的となりつつあったであろう日本への長期滞在と言う、ある意味、渡りに舟の提案が二日前にあった故の、巧妙に計算されたポーズであったとも採れるように私には思われるのである。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 於ける雨裸徂阜(ウラゾフ) 五首 中島敦

    (以下五首 於雨裸徂阜(ウラゾフ))

[やぶちゃん注:ロシア料理か、それとも前の短歌に詠まれたロシア菓子店と同一か。五首目「禹喇象麸の」の短歌の注も参照のこと。]

ハルピンのキタヤスカイにわが賞(め)でしサモワァル見つこの店にしも

[やぶちゃん注:「ハルピンのキタヤスカイ」不詳。恐らくは昭和十一(一九三六)年八月八日から三十一日までの中国旅行の帰路のハルビンに立ち寄った際のことを言っていると思われるが、「キタヤスカイ」が分からない。地名のようにカタカナ書きであるが、これは何か旅館か店屋(遊廓?)などの屋号のようにも思われるし、またハルビン北方のロシア国境と接する地にかつて「北安省」があったからそれを「北安界」と表記したとも考え得る。識者の御教授を乞う。]

グレゴリイ七世に似る露西亞びと今日も茶を飮みパイプ磨きつ

あんだんてかんたびれなど聞かまほしロシア茶を飮みもの思ひつゝ

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]

ピロシキは宜しきものかうつたへに吾が喰ひをれば夜ぞ更(くだ)ちける

禹喇象麸の店に茶を飮む宵々を吾師エピクロス咎め給はじ

[やぶちゃん注:「禹喇象麸」は詞書とは違った漢字を恐らくは中島敦が勝手に店名の「ウラゾフ」というロシア語(恐らく人名“Власов”ウラソフ由来)に万葉仮名風に宛てたものであろう。]

乳白色の蛇 大手拓次

 乳白色の蛇

 

みじろく冷氣(れいき)に絶望の垣根(かきね)をおしくづし、

曉闇(あかつきやみ)にひかる眞靑(まつさを)な星のやうに燃える眼をはびこらして

乳白色(にゆうはくしよく)のぢろぢろする小蛇(こへび)は 空間(くうかん)の壁(かべ)を匍(は)ひまはる。

美しい女の呼吸(いき)の動くやうな

むせかへる鈍重な香氣の花束(はなたば)だ!

この怪奇な 昏迷する瞬閒に

傾きかけた肉體は扮裝(ふんさう)をこらして憤(いきどほ)る。

 

[やぶちゃん注:太字「ぢろぢろ」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 秋之部 朝寒

朝寒    朝寒や白き頭の御堂守

       朝寒や馬のいやがる渡舟

衰へや齒に喰あてし海苔の砂 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

  衰へや齒に喰あてし海苔の砂

 老年を自覺する悲哀が、人生の味氣なさと共に、泌々と寂しげに嘆息されてる。「齒に食ひあてし」といふ言葉が、如何にも味氣なく恨めしさうである。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。「泌々」はママ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では以下のように改稿されている。

 獨居する芭蕉の心に、次第に老が近づくのを感じて来た。さらでだに寂しい悔恨の人生である。その上にまた老年が迫つて來ては、心の孤獨のやり場所もないであらう。「齒に喰ひあてし」といふ言葉の響に、如何にも砂を嚙むやうな味氣なさと、忌々しさの口惜しい情感が現はれてゐる。

 この評釈を以って初出版の「芭蕉私見」は終わっている。エンディングに配する評釈としては如何にもしょぼい。]

2013/09/03

若冲を見て来ました――震災後初東北行日録

●09:24上野発「やまびこ131号」乗車。新聞、一面に福島第一タンクの高線量漏れを報じている。安吾「明治開化安吾捕物帖」を読む。

●10:46福島着。快晴。直射日光は強烈だが、鎌倉より涼しい気がする。タクシーにて県立美術館へ。美術館前、「満車」のプラカード、自家用車の長蛇の列。

●美術館前庭の植え込みに進入禁止の紐と注意書き。曰く、除染は今年中に行う予定で、これらの一部には放射線のホット・スポットがあることなどが記されてあった。

●「若冲が来てくれました福島展 プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」
夏休みの子供の観覧を意識して、専用の改題作品名を掲げ、しかも見どころのポイント別に徹底した部立化配列が行われ、すこぶる分かり易く、且つ、面白い構成を採っている(改題構成発案の勝利といってよい)。僕の印象に残った作を参考までに列挙しておこう(図録は購入していないので同美術館出品リスト・データより引く。展示順で頭は「子供向け作品名」である。◎は僕のお薦めする必見作。原題でネット画像検索をかけると大抵は見られるようだが、僕の実物の感動の十分の一も伝わって来ぬのでリンクもしない)。

 

1 ようこそプライスワールドへ
(1)目がものをいう
 4  岩から下をのぞくサル 岩上猿猴図 渡辺南岳 一幅 紙本墨画
 この視線と口つきは思わず見入っている自分が同じ表情になる動物園の猿山現象を引き起こす。

 

 5  ハチを見上げるサル 猿図 森狙仙 一幅 紙本墨画淡彩
 これも視線と肢体の体毛に仰角の身体の運動性が美事に示されている。昇進出世の吉画などという学芸的説明は面白くも何ともない。

 

 6  〈かんざん〉さんと〈じっとく〉さん
      寒山拾得図 曽我蕭白 双幅 紙本墨
 現地の若い娘二人が「これって河童(拾得は点頭禿頭)と子供け?」と会話をしている。すこぶる楽しい展覧ではないか。ここで美術史的知など披瀝する輩は無粋である。

 

 10 〈だるま〉さん 達磨図 河鍋暁斎 一幅 紙本墨画淡彩
明治21年(1888)年作。私は個人的に暁斎が好き。

 

(2)数がものをいう
◎23 松をめざしてたくさんのツルがやってきた
      松に鶴図屏風 森徹山 六曲一双 紙本墨画淡彩
 絵師がデッサンと少しばかり着彩した書きかけで、江戸に呼び出され、そのまま死んだ。この未完の屏風絵がまずぞわっと来た。ここまで未完のものは普通は残らないし、飾られないし、そもそも残されない。しかし僕は広い屋敷を持っていなら、きっとこれを自分の書斎に置きたい。それほど魅惑的な奇体さを孕んでいる。時空を超えたプテラノドンが幻日の虚空から飛来するようだ。

 

(3)〇と△
 24 雪の夜の白いウサギと黒いカラス
      雪中松に兎・梅に鴉図屏風 葛蛇玉 六曲一双紙本墨画
 安永3年(1774)年作。墨塗りの下地に白い顔料を散らす。右翼の兎は何と! 松に四肢の爪を立て鬼気迫る面相で攀じ登っているではないか!

 

◎25 白いゾウと黒いウシ 白象黒牛図屏風 長沢芦雪 六曲一双 紙本墨画
 屏風から肉のはみ出る象(右翼)と牛、白象の尻上に二羽の鴉、伏せた黒牛の右後脚手前に一匹の白い子犬がニッと笑って配置される。はみ出方絶妙。

 

 26 春のムギと秋のイネ 麦稲図屏風 円山応震 六曲一双 紙本金地着色
 この左右が霞によって何の違和感もなく連続するのが不思議。

 

2 はる・なつ・あき・ふゆ
◎30 ヤナギとシラサギ 柳に白鷺図屏風 鈴木其一 二曲一隻 絹本着色
 解説に、時間や空気が止まったかのような印象を与えるとあったが、この解説ははなはだ誤ったものとしか僕には思えない。ここでシラサギは柳の見えない根本の方から音もなく飛び立ったのであるが、その羽ばたきに、柳のしなやかに垂れ下がる枝は微妙にそれぞれが振れているのである。絵師がしだれ柳の枝の葉やその先端を如何に神妙に(1/f ゆらぎ風と言ってもよい)描いたかをこの解説は全く見落としている。この絵は静止した時空間のそれではない、寧ろ、映画のように豊かな自然のそれを永遠にスカルプティング・イン・タイムしているのである。

 

 31 貝と梅の実 貝図 鈴木其一 一幅 絹本着色
 桃の実の色もよいが、主に私の博物学的貝類趣味による選択。

 

◎35 山奥の滝からながれくだる川
      懸崖飛泉図屏風 円山応挙 四曲・八曲一双 紙本墨画淡彩
 寛政元(1789)年。四曲の右翼から遠景→近景→(八曲)遠景→中景→近景→中遠景へと推移するのが屏風の曲部に絶妙の一致を見せて、圧巻である。これは凄い。――見ている僕自身が――屏風中の一点景となり果て――遂には深山の霧中へと――完全に消えて去っていく……

 

 36 すみだ川の渡し船 隅田川図 蹄斎北馬 一幅 絹本着色
 僕には僕が全電子化訳注をやらかしている「耳嚢」の中の登場人物たちの息遣いが聴こえてくる。

 

3 プライス動物園
◎47 歩みよるトラ 虎図 亀岡規礼 一幅 絹本着色
 横にいた若い女性が連れの女性に呟く。
「……何だか縞模様に人の顔が見えるわ……気持ち悪い……」
「ホンマや!……怖(こわ)……」
彼女らにモノホンの心霊写真並みのシュミラクラを起こさせるというそれは……いや! 確かにその背の虎の縞模様は凄絶だ! ネット上の同図の写真を見たが、いや! んナもんじゃないゾ! これは実物を必見せずんばならず! 奥行きを表現するための詰めて圧縮した技法に加えてその毛の神技的描き込みがモノスゴい! これは確かに掛軸から抜け出している、いや、基! 虎の背中が盛り上がって掛軸から僕らの睫毛に触れんばかりに突出している奇体な虎なのである!

 

 59 波立つ海をわたるツバメ 波浪飛燕図 岡本秋暉 一幅 絹本墨画淡彩
 私は海と飛燕の取り合わせが好きなんである(個人的に悲しい中国の話とともに)。

 

◎62 さまざまな鳥とコイ 魚鳥図巻 円山応瑞 二巻 絹本着色
 この多様な彩色法を駆使した鳥には、正直、震えがキタ!

 

4 美人大好き
 73 むかしの中国の美人 唐美人図 岸駒 双幅絹本着色
 天明7(1787)年作。右の幅で左向きに笛を聴くのを聴く右向きの美人の持つ透ける扇の素晴らしさは曰く言い難かった。

 

5 お話をきかせて
 82 悪いリュウとたたかう〈しょうき〉さま
      鍾馗図 勝川春英 一幅 絹本着色
 敢えて挙げるこれか。僕はこういうごちゃついて既存の物語に頼った屏風や作品集への志向が殆んどないので悪しからず。

 

6 若冲の広場
 これはもうすべてが言葉を失う……若冲はまさに天才だ! シュッ描いたたった一本の素朴な墨の線が文句の言いようのない絶妙な人物や自然の輪郭となるかと思えば(これはもう禅味!)、――エッチングのように触れれば刺さりそうな厚みを感じさせない幾何学的なエッジの攻撃――組織や諸器官の構造や性能を如実に伝える、不気味とも言える冷徹な博物学的観察眼と同居する自然讃歌――敢えて挙げるなら、
 88 オンドリとバショウの葉 芭蕉雄鶏図 一幅紙本墨画
の芭蕉の葉に置かれた水の玉(露というには大きいのである)の質感がどうだ! 同パートに展示されてある弟子伊藤若演が真似た芭蕉図のその貧弱さ(単独で見れば相応に優れたものではあろうが)を見れば、それが如何に恐るべき神がかったものであるかがよく分かる!
 因みに、京都国立博物館からの賛助出品、大根を涅槃の釈迦に擬え、ありとある根菜果実がその涅槃に集う、
 s13 果蔬涅槃図  伊藤若冲 一幅 紙本墨
は、微笑ましいものながら、一見、通り過ぎることの出来ない不思議な魅惑に満ちている。心打たれた。

 

7 生命のパラダイス
 100 花も木も動物もみんな生きている
      鳥獣花木図屏風 伊藤若冲 六曲一双 紙本着色
 本展覧の目玉。タイル状に還元したパーツ構成による不思議な屏風絵。右翼の飛翔する三羽の小鳥を見給え! マグリットなんか脱帽だろ! この屏風、これは正真正銘、唯一正統なシュールレアリスムの遠い濫觴に外ならないと僕は思ったものである。

さても――

●混雑もあってたっぷり一時間半見っ放しでこの二年、犬の散歩以外に滅多に書斎から出ることない僕は、足が棒になった。プライス夫妻が来館されており、サイン会が開かれていた。この込みはそれもあったか。

●福島駅より高湯温泉玉子湯へ宿の送迎バスで向かうが、宿へ着いて見ると昼飯を食う施設がない。宿の売店にはロクなものはなく、仕方なしに玉子湯で茹でた温泉玉子10個入りを求め、立て続けに4個喰う。案の定、気持ちが悪くなる。教訓。硫黄分の多い温泉のそれは馬鹿食いしてはいけない。

●古式の川沿いの源泉脇にある小屋掛けの風呂に入る。81歳の朝日岳をやってきた老登山家の話を聴く。沖縄復帰後二年目に石垣島に5年生活されたとのこと。古き良き南島の風情を東北の山中で夢想した。

●入れ替わりに入ってきた同年輩の方は若冲フリークで浦安から来られたとのこと。明日(月曜)の特別限定300人の展覧で見られる由(やや羨望)。隣りで同人の妻君と一緒になった僕の妻にその妻君は「福島駅で本屋さんに入ったら脱原発本が所狭しと平積みされていて吃驚しました。東京じゃ考えられない。忘れちゃいけませんわね」と語られた由。

●泉質は硫黄泉(含石膏明礬硫化水素泉)。源泉の温度47度、PHは2・7の強酸性。飲んでもしっかり酸っぱい。四百年続く老舗で湯治の雰囲気をしっかり味わえた。や往時を模した小屋掛けの小さな離れの風呂や露天風呂(女性専用は一つ多い)、内湯も二種。特に露天天渓の湯(手前の方。今回は男女入れ替えで翌日の午前中に入湯)が素敵。標高700mであるから、実に涼しい。

●夜、「八重の桜」を見る。川崎尚之助(演じている長谷川博己もすこぶるいい)が遂に亡くなってしまった。但馬国出石藩に生まれ、日本の近代化を夢見、会津のために生き、そして会津の借金を一身に受けて孤独に死んでいった彼が、僕は気になって気になってしょうがないのである。その彼の最期をここ福島で見るというのも、何か因縁のようなものを感じたのものである。

●朝起きると、部屋の窓に全長20㎝を超えるチョウ目ヤママユガ科ヤママユガ亜科ヤママユ Antheraea yamamai が凝っととまっている(帰宅後調べるとこの大きさは同種でも半端じゃなく大きいことが分かった)。二対四つの目玉模様を子細に観察する。中央部は僕には穴にしか見えないが妻は模様だという。前日の岸駒「唐美人図」の透けた扇を彷彿とさせた。若冲を堪能したせいか、また、ここまででデカいとまるで気持ち悪さを感じないから不思議である(僕は実は昆虫は大の苦手なんである)。10時過ぎのチェック・アウトした際もそのままで、妻が「バイバイ」と挨拶した。

●福島に向かうバスの中から、一瞬、沿道の普通の家の前に石造のすっごい「ザク」が立っていてサッカクかと思わずビックラこいた(さっきネットで調べたら……
http://blogs.yahoo.co.jp/nobukno/8165699.html
(PORCO・ROSSO氏のブログ「痛風&腰椎間板ヘルニアの赤ゼルビス乗りポルコ・ロッソのへたれ日誌」より。美事な写真あり)……ザクではないのだよ、ザクでは……ということらしいが……いや、似てた。鉄人28号の進化型かとも……ともかく素材もいいんだわ、これが……歩いてたら写真撮ったんだけどなあ……。残念!

●福島駅に付属したレストランでイタリアンを食すが、妙にもちもちぐにぐにしたパスタが私にはパスだった。滅多に残したことがない僕が半分でリタイアン。教訓。地方では和食に従うべし。

●ゆべしの土産、父と我々の夕食に「仙台牛タン弁当」を買う(これ、消石灰の強烈な加熱システム附で美味かった)。魚屋と肉屋を覗いてみるも、海産物は殆んどが北海道か青森産、肉の加工製品に至っては愛媛県とか、我らが湘南寒川町で作られたホルモン(鎌倉ではとんと見かけぬもの)だったり……何だか、そこはかとなく物狂ほしくなってまいった……。

 

●帰りの新幹線。2時過ぎ頃、関東北部を南下中、進行方向左手に巨大な入道雲を妻が見つける。その直後に右手西側の車体に激しい雨粒が降り注ぐ(帰宅後のニュースで、丁度その時刻に、かのサンダー・ヘッドの真下で竜巻が発生していたことを知る。西から東へ、北からの冷たい空気と暖かい空気に境目が発生してそれらの現象が起こったことをも実体験したいたことをも知った)。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 6 なまこ壁 / 加賀屋敷

M12


図―12

 建物が先ず板張りにされる場合には、四角い瓦が、時としては筋違いに、時としては水平に置かれ、その後合せ目を白い壁土で塗りつぶすのであるが、これが中々手際よく、美しく見えるものである(図12)。商売人たちは毎年一定の金額を建築費として貯金する習慣を持っている。これは、どうかすると広い区域を全滅させる大火を予想してのことなのであるが、我々が通りつつあった区域は、長い間、このような災難にあわなかったので、こうして貯えた金がかなりな額に達した結果、他に比較して余程上等な建物を建てることが出来た。
[やぶちゃん注:図―12は、防火防水を目的としたなまこ壁の工法を注意深く観察したものである。壁面に平瓦を並べて貼り(左の図)、瓦の目地(継目)に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る(右の図)(名称はこの盛り上がった目地がナマコに似ていることに由来する)。 ]

 古風な、美しい橋を渡り、お城の堀に沿うて走るうちに、まもなく我々はドクター・デーヴィッド・マレーの事務所に着いた。優雅な傾斜をもつ高さ二〇フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。石垣は広い区域を取り囲んでいる。堀の水は十五マイルも遠くからきているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、たいしたものである。我々はテーブルと椅子若干とが置かれた低い健物にはいっていって、文部省の督学官、ドクター・デーヴィッド・マレーの来るのを待った。テーブルの上には、タバコを吸う人のための、火を入れた土器が箱にはいっているものが置いてあった。まもなく召使がお盆にお茶碗数個を載せて持ってきたが、部屋をはいる時頭が床にさわるくらい深くおじぎをした。
[やぶちゃん注:「督学官」教育行政官の一つ。正確には視学官であろう(特学官という呼称は大正二(一九一三)年にそれを改称したもの)。専門学務局又は普通学務局に所属してその事務をとるとともに学事の視察・監督を行った。
「ドクター・デーヴィッド・マレーの事務所」アメリカの教育行政家で数学者・天文学者でもあったお雇い外国人教師ダヴィッド・マレー(David Murray 一八三〇年~一九〇五年)の勤務していた文部省。マレー(モルレーとも表記)は明治初年に日本に招かれて教育行政制度の基礎作りに貢献した人物である。ニューヨーク州生。同州ユニオン大学に学び、卒業後、オルバニー・アカデミー校長・ラトガース大学数学及び天文学教授を務めた。明治五(一八七二)年に駐米小弁務使森有礼の質問状に回答を寄せたことが契機となって、翌六年に日本に招聘された。以後、文部省学監として五年半に亙って教育行政全般について田中不二麿文部大輔を補助、日本の教育改革に関する諸報告書の中で師範教育・女子教育振興の必要性などを説いて東京大学創設に協力した。この報告書の中でも特に重要な点は彼の学制改革案ともいえる「学監考案日本教育法」で、この中でマレーは学制の急進的教育改革の構想を原則的に支持し、文部省による諸教育機関及び教育内容の統括・公立学校教員資格の制定・教科書の検閲など極端な中央集権化を提唱している。この提言は後に改正教育令(明治一三(一八八〇)年)とその後の文部省諸法令に反映されている。明治一二年に帰国、翌年から十年に亙ってニューヨーク州大学校リージェント委員会幹事として州内の全中等・高等教育機関を監督、ここでも全州統一試験制度の拡充・師範教育の管理強化などの教育行政の中央集権化を推進した。晩年は“The Story of Japan”(一八九四)年を著したり、ジョンズ・ホプキンズ大学で“Education in Japan”と名打った講演を行うなど、日本の紹介に努めた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の吉家定夫氏の記載を参照した)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この面会の主たる目的は『外国人が自由に出歩けるのは居留地から一〇里以内と』いう規定があったため、モースの当初の目的であった腕足類研究を主とした『動物採集のために便宜をはかってもらう』ことであったが、事態は想像だにしなかった方向へと向かってゆくことになる(後述)。やはり磯先生の記述によれば、『当時の文部省は竹橋、現在のパレスサイドビルの辺りにあった』とある(千代田区一ツ橋一丁目一番地一の内堀通りに面した場所)。
「二〇フィート、あるいはそれ以上の石垣」「二〇フィート」は6メートル。
「十五マイル」約24キロメートル。なお、江戸城の濠の水は玉川上水(承応三(一六五四)年六月通水開始)の余った水を使用していた(現在は流入源はなく、浄化施設を経て還流させている)。但し、大本の羽村取水堰からでは直線でも40キロメートルはあるから、この24という数字は西の多摩川方向への大まかな距離を示したものであろう。]

 大学の外人教授たちは西洋風の家に住んでいる。これらの家の多くは所々に出入口のある、高い塀にかこまれた広い構えの中に建っている。出入口のあるものは締めたっきりであり、他のものは夜になると必ず締められる。東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキと呼ばれている。封建時代には殿様たち、すなわち各地の大名たちが、一年のうちの数ケ月を、江戸に住むことを強請された。で、殿様たちは、時として数千に達するほどの家来や工匠や召使いを連れてやって来たものである。我々が行つつある屋敷は、封建時代に加賀の大名が持っていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。かかる構えに関する詳細は、日本について書かれた信頼すべき書類によってこれを知られ度い。大名のあるものの大なる富、陸地を遙々と江戸へくる行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これらは封建時代に於る最も印象的な事柄の中に数えることが出来る。加賀の大名は家来を一万人連れて来た。薩摩の大名は江戸にくるため家来と共に五〇〇マイル以上の旅行をした。これらに要する費用は莫大なものであった。
[やぶちゃん注:「加賀屋敷」は原文でも“Kaga Yashiki”とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「11 加賀屋敷と一ツ橋」によれば、『当時一般の外国人は定められた居留地、たとえば横浜居留地とか東京の築地居留地のなかに住まなければならなかったが、御雇い外国人は勤め先の近くに住むことを許されており、官庁では専用の宿舎を与えることも多かった。東京大学の場合、御雇い外国人教師用の教師館(宿舎)は、本郷加賀屋敷の医学部キャンパス内にあった、江ノ島から戻ってきたモースは、以後二年間その教師館五番館に住』んだとある。同章は十二頁に亙って、地図を交えてこの当時の教師や校舎、さらには当時の教授陣や講義内容を詳述しておられる。是非、御一読をお薦めするものである。その地図と現在の地図を比較するとモースの五番館は安現在の安田講堂の西北西一〇〇メートルほどの、工学部の建物が建つ辺りにあったもので、同書(一〇二~一〇三頁)によれば、『美しい花園に囲まれた平屋建』で『棟ごとに構えが異なり、どれもしゃれた造りで、内部も相当広』く、モースが後に居住することになる五番館は『居間、食堂、書斎、二寝室、それに台所、浴室などと、使用人用の二部屋が付属し』、お抱え人力車を用いて、ここから神田一ツ橋にあった法理文三学部の校舎(現在の学士会館附近)まで往復していた、とある。
「五〇〇マイル以上」凡そ805キロメートル以上。因みに現在のJRの営業キロ数を鹿児島―東京間で算出すると1467キロメートルになり、これだと900マイル相当になるが、ここはモース先生、「以上」とはありますが、倍の「一〇〇〇〇マイル」としても誇張ではなかったと思いますよ、はい。]

 現在の加賀屋敷は、立木と藪(やぶ)と、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の烏が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。ふたのしてない井戸もあるので、すこぶる危い。烏はわが国の鳩のように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。
[やぶちゃん注:「彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。」原文は“sit on the fences bordering the railway and caw as the train goes thundering by and they wake you in the morning by cawing outside the window.”で、特に前半、モースのウィットを石川氏はより面白くオノマトペイアで訳しておられる。]

雪かなしいつ大佛の瓦葺 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 雪かなしいつ大佛の瓦葺

 

 天を摩する巨像のやうな大佛殿。その屋根にちらちら雪が降つてゐるのである。このイメーヂは妙に悲しく、果敢なく佗しい思ひを感じさせる。芭煮俳句の中で、最もイマヂスチツクな特色をもつた句である。

 

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では以下のように改稿されている。ルビが配されているので句も示す。

 

   雪かなしいつ大佛の瓦葺(ぶき)

 

 夢のやうに唐突であり、巨象のやうに大きな大佛殿。その建築の家屋の上に、雪がちらちら降つてるのである。この一つの景象は、芭蕉のイメーヂの中に彷徨してゐるところの、果敢なく寂しい人生觀や宿命觀やを、或る象徴的なリリシズムで表象して居る。人工の建築物が偉大であるほど、逆に益〻人間生活の果敢なさと悲しさを感ずるのである。

 

これも「附錄 芭蕉私見」版の方が感性に迫ってくる。但し、朔太郎には大いなる誤認がある。この雪が散っているのは実は大仏殿ではなく、露座となっていた大仏そのものである。本句は元禄二(一六八九)年十二月の吟で、東大寺大仏殿は存在しなかったからである(永禄一〇(一五六七)年の松永久秀と三好三人衆の戦闘によって炎上、芭蕉が訪れたこの時期にはその再興の計画はあったものの手付かずの状態であった)。大仏殿の再興は宝永二(一七〇五)年を待たねばならなかった。この句は故にこその「いつ」であり「雪かなし」なのである。別稿に、

 

    南都にまかりしに、大佛殿造營の遙けき事を思ひて

  初雪やいつ大仏の柱立

 

がある(「柱立」は「はしらだて」と読み、家屋の建築で初めて柱を立てる、その祝いの儀式を指す。以上の本句のデータは「芭蕉DB」の「初雪やいつ大仏の柱立」を参考にさせて戴いた)。]

 

大風の朝も赤し唐辛子 芭蕉 萩原朔太郎  (評釈) / (但し、この句は芭蕉作存疑の部に入る)

 大風の朝(あした)も赤し唐辛子

 暴風雨の朝。畠の作物も吹き荒され、萬目荒寥として亂れた中に、唐辛子の實だけが赤々として、昨日に變らず色づいて居るのである。廢跡に殘る一つの印象。變化と荒廢との中に殘る一つの實在。それが赤く鮮明に印象されてることは、心の奧深い空虛の影に、悲壯に似た敗北の痛みを感じさせずには居ないであらう。(昔の月並俳人等が、この句を道德的教訓の意に解したのは滑稽である。)
[やぶちゃん注:最初に述べておくが、これは現在、芭蕉の作としては認定されていない、存疑の部に入る句である。岩波文庫一九七〇年刊中村俊定校注「芭蕉句集」によれば、「もとの水」(重厚編・天明七(一七八七)年跋)・「芭蕉新巻(あらまき)」(寛政五年)・「袖日記」(元禄三(一六九〇)年)・「一葉」(貞享・元禄年中)などに載るが、諸家は多く芭蕉の真作とは採っていない。萩原朔太郎は「詩歌の鑑賞と解釋 講演」(昭和一二(一九三七)年白水社刊「無からの抗争」の「韻律の薄暮」の章の巻頭)でもこれを芭蕉の句として引用、

……一體江戸末期の人たちは、俳句やその他の詩歌を、無理に道學的、教訓的に解釋したがる癖がありました。例へば芭蕉の俳句に

  大風の朝(あした)も赤し唐辛子

といふのがありますが、これも江戸末期の宗匠たちは、道學的に解釋しまして、つまりどんな激しい環境の變化や、不慮の災難に逢つても、眞實を守る人は、依然として貞操を代へない、といふ意味の教訓の句として、一般に解釋して居ました。かうした解釋の良ろしくないといふことを、大に強く力説しまして、俳句の新しい解釋の方法、即ち純粹な印象主義的な方法を、始めて日本の俳壇に敦教へたのは、實に、明治の俳人、正岡子規でありました。子規の解釋によりますと、この句は、單にかうした風景の純粋の印象、即ち、暴風雨の吹き荒らした翌朝の實景を、そのまま寫生したのであつて、その外に何の寓意もない、純粹に寫生の句であるといふことになります。かうした別々のちがつた解繹について、何れが果して正しいかといふ事は、後に尚、時間があつたら申しあげます。

と述べている。実は類型句なら「深川夜遊」と題した、  靑くてもあるべきものを唐辛子 があるが、これは膳所の若き門人洒堂を芭蕉庵に迎えた際の句で、この句の場合は寧ろ、「道學的」諷喩とそれを捻った洒堂への挨拶句としてのオードは顕在的であるとさえ言える。萩原朔太郎の例の病的な思い込みがこの絶賛には感じられる。にしても「大風の」は遙かに陳腐極まりない(と私は思う)。
 ともかくも昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」版の評釈を見ておこう。

 暴風雨の朝、畠はたけの作物も吹き荒され、萬目荒寥として枯れた中に、ひとり唐辛子の實だけが赤々として、昨日に變らず色づいて居るのである。廢跡に殘る一つの印象、變化と荒廢の中に殘る一つの生命。それが血のやうに赤く鮮明に印象されることは、心の傷ついた空虛の影に、悔恨の痛みを抱きながらも、悲壯な敗北の意氣を感じさせずに居なかつたらう。

載道的解釈の部分は評釈としては十分条件ではあるが、必要条件ではない。載道的解釈の部分は評釈としては十分条件ではあるが、必要条件ではない。ただ最後の一文は改変によって生命を得ているとは言える。]

秋ふかき隣となりは何をする人ぞ / 秋さびし手毎にむけや瓜茄子 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 秋深き隣は何をする人ぞ

 芭蕉の心境詩として、行き盡した究極の名句と言はれて居る。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。なお、次の「秋さびし手毎にむけや瓜茄子」の評釈注を参照。芭蕉五十一歳、元禄七(一六九四)年九月二十八日の芭蕉最後の俳席での作。芭蕉が横臥する直前の作物で、翌日に臥せった芭蕉は二度と起き上がることなく、翌十月十二日に亡くなった。芭蕉最後の絶唱の一つ。]

 秋さびし手毎にむけや瓜茄子

 友人の家に招ばれて、果實など馳走になつた時の句である。何でもない即興句のやうであつて、しかも秋の寂しさと孤獨にたえてる、人間共の佗しい生活とその人情の戀しさとが、泌々と嘆息深く歌はれてる。前の「秋深き隣は何をする人ぞ」と、同じやうな一つのリリシズムの心境である。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。「たえてる」「泌々」はママ。但し、これは「奥の細道」に載る「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」という句の誤認である。この句は犀川畔の門人一泉の松幻庵での句会の発句で、その折りに出た料理へ感謝する挨拶句である。
 この評釈は「附錄 芭蕉私見」では前の「秋深き隣は何をする人ぞ」とカップリングしてある。以下に句も含めて示す。

   秋ふかき隣は何をする人ぞ

   秋さびし手毎にむけや瓜茄子

 芭蕉の心が傷んだものは、大宇宙の中に生存して孤獨に弱々しく震へながら、葦のやうに生活している人間の果敢さと悲しさだつた。一つの小さな家の中で、手毎に瓜の皮をむいてる人々は、一人一人に自己の悲しみを持つてるのである。そしてこの悲しみこそ、無限の時空の中に生きて、有限の果敢ない生活をするところの、孤獨な寂しい人間共の悲しみである。それは動物の本能的な悲哀のやうに、語るすべもなく訴へるすべもない。ただ寄り集つて手を握り、互に人の悲しみを感じながら、憐れに沈默する外はないのである。見よ。秋深き自然の下に、見も知らぬ隣人が生活して居る。そしてこの隣人の悲しみこそ、それ自ら人類一般の悲しみであり、倂せてまた芭蕉自身の悲哀なのだ。

見当違いの誤認(これは萩原朔太郎の持っている病的な思い込みと関わるが)が含まれてはいるものの、カップリングによって評釈(これは実は最早、芭蕉の心象ではなく、評する萩原朔太郎の孤独な心象の投影なのであるが)には非常な冴えが生じてはいる。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 印度童女の歌 中島敦

    (以下四首 印度童女の歌)

阿媽(あま)つれて代官坂の朝を行く印度童女(わらはめ)あな黑きかも

[やぶちゃん注:「阿媽」アマはポルトガル語の“ama”の漢訳語で、元来は東アジア在住の外国人家庭に雇われていた現地人のメイドを指す。ここでは日本人(若しくは中国人などの黄色系東洋人)の侍女であろう。]

赤き毬を黑き童女(どうによ)が抱(かか)へつゝ幼稚園へぞ行くといふなる

[やぶちゃん注:「毬」は「まり」。]

下げ髮に黄なるリボンの鮮けきキマトライ氏が乙(おと)むすめかも

[やぶちゃん注:「キマトライ氏」不詳。識者の御教授を乞う。
「鮮けき」は「あざらけき」と訓ずる。]

色黑きキマトライ氏が乙むすめ今しむづかり童泣(わらべなき)する

頸をくくられる者の歡び 大手拓次

 頸をくくられる者の歡び

指(ゆび)をおもうてゐるわたしは
ふるへる わたしの髮(かみ)の毛をたかくよぢのぼらせて、
げらげらする怪鳥(くわいてう)の寢聲(ねごゑ)をまねきよせる。
ふくふくと なほしめやかに香氣(かうき)をふくんで霧(きり)のやうにいきりたつ
あなたの ゆびのなぐさみのために、
この 月(つき)の沼(ぬま)によどむやうな わたしのほのじろい頸(くび)をしめくくつてください。
わたしは 吐息(といき)に吐息(といき)をかさねて、
あなたのまぼろしのまへに さまざまの死(し)のすがたをゆめみる。
あつたかい ゆらゆらする蛇(へび)のやうに なめらかに やさしく
あなたの美(うつく)しい指(ゆび)で わたしの頸(くび)をめぐらしてください。
わたしの頸(くび)は 幽靈船(いうれいぶね)のやうにのたりのたりとして とほざかり、
あなたの きよらかなたましひのなかにかくれる。
日毎(ひごと)に そのはれやかに陰氣(いんき)な指(ゆび)をわたしにたはむれる
さかりの花(はな)のやうにまぶしく あたらしい戀人(こひびと)よ、
わたしの頸(くび)に あなたの うれはしいおぼろの指(ゆび)をまいてください。

[やぶちゃん注:終わりから三行目の「指(ゆび)をわたしにたはむれる」の「指(ゆび)」のルビは「び」がカスれている。諸本確認の上で訂した。]

鬼城句集 秋之部 殘暑

殘暑    秋暑し芋の廣葉に馬糞飛ぶ

      秋暑く水こし桶のかな氣かな

      玄關の下駄に日の照る殘暑かな

[やぶちゃん注:個人的に、この三句孰れも、すこぶる附きで好きである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 5 土蔵の建築

 かなり広い焼跡を通過した時、私は今までこんなに人が働くのを見たことがないと思った位、盛な活動が行われつつあった。そこには、小さな、一階建ての住宅や、吹けは飛ぶような店舗と、それから背の高い、堂々たる二階建ての防火建築との、二つの形式の建物が建てられつつあった。大きな防火建築をつくるに当っては、先ず足場を組み立て、次にむしろで被覆するのであるが、これはふんだんに使用する壁土が、早く乾き過ぎぬ為にするのである。かかる建物には、重い瓦の屋根が使用される。これは地震の際大いに安全だとされている。即ち屋根の惰性は、よしんば建物は揺れても、屋根は動かぬようになっているのである。一本の杖を指一本の上に立てようとすると困難である。だが、若し重い本を、この杖の上に結びつけることが出来れば、それを支えることは容易になるし、本をすこしも動かすことなしに、手を素速く数インチ前後に動かすことも出来る。先ず丈夫な骨組みが出来、その梁(はり)の間に籠細工のように竹が編み込まれ、この網の両側から壁土が塗られる。
[やぶちゃん注:土蔵の構造説明と建造風景。原典を見ると、この段落は次の段落と繋がっている。また繋がって訳されるべきところと思われ、石川氏の改行はやや不審である。直前に石川氏が特に言葉を補っているように(後注参照)、ここのパートの記述の分かり難さ(後注参照)を整理する目的が、読者のためというよりも、主に訳す訳者の意識や作業行程に必要であったからかも知れない。
「屋根の惰性」原文は“inertia of the roof”。“inertia”は①〔物理学上の〕慣性・惰性・惰力。②不活発・遅鈍。③〔医学上の〕無力(症)・(運動の)緩慢、の意。下線があるが、原典では特にアンダー・ラインやフォント変更は行われていない。物理学用語の使用がやや唐突に感じられるために石川氏が学術的用語であることを示すために用いたものであろう。我々には馴染みのある「慣性」とするか、若しくは「即ち、よしんば建物は揺れても、屋根は慣性の法則によって動かぬようになっているのである。」と意訳した方が私には分かりがよいように感じられる。
「一本の杖を指一本の上に立てようとすると困難である。だが、若し重い本を、この杖の上に結びつけることが出来れば、それを支えることは容易になるし、本をすこしも動かすことなしに、手を素速く数インチ前後に動かすことも出来る。」原文は“In balancing a cane on the finger some difficulty is experienced. If a heavy book could be fastened to the top of the cane, it would be much easier to balance it, and the hand could be moved rapidly back and forth a few inches without the book moving at all.”。私が馬鹿なのか、日本語も英語もどちらもよく意味が分からない。これは所謂、皿回しの際の様にバランスをとることが可能であることを言って、瓦や梁で重い棟の部分を杖に相当する柱でバランスをとって支えていることを言っているのであろうか? どなたか、是非、私に分るように説明して下さいませんか? (追記)ブログでの以上を公開したところ、私の教え子(海外勤務)とからメールが届いた。それによれば――“cane”には「杖」という意味の他に、藤や竹などの「茎」という意味もあり、ここはつまり、非常に軽い茎や棒を指の上に立ててバランスを取る際、棒の上方に重いものが載っていると、その重い物体は「慣性」の法則によってなかなか動かないため、指をかなり大きく左右に動かしても、物体を乗せた棒は容易に立ち続ける。我々の少年期の掃除の時間の遊びの記憶を例にとるなら、指の上で壊れた自在箒の長い柄だけを立たせることよりも、先に大きな雑巾や綿やジュートなどの分厚く柔らかな繊維がついたモップのようなヘッドが有意に重いものを逆さに立たせる方が容易である。更にはモップの先に水を含ませてより重くすれば、逆さに立て続けることはより容易となる。モースはこれと同じような感覚を言っているような気がする。――とあった。加えて、その彼の大学生の長女の方(彼女は英語に堪能である)にも原文を読んで貰ったところ――重いものを棒の上に乗せると、それが重いものであるほど、下で支える手をいくら激しく震わせても、容易に安定し続ける(重いものは「慣性」の法則が大きく働くので、細かい振動にはびくともしない)という意味だと思われ、受験勉強か高校の英語かで、この文章を読んだ記憶がある――とのこと。愚鈍な私も少年時代の悪戯を思いだして、目から鱗であった。それにしてもモース先生の文章恐るべし、今や日本人の英語学習にさえ凡そ百年前(本原典は一九一七年刊。本邦年号では大正六年)用いられているのか!
「先ず丈夫な骨組みが出来、その梁(はり)の間に籠細工のように竹が編み込まれ、この網の両側から壁土が塗られる。」底本では「〔蔵を建てるには〕先ず丈夫な骨組みが出来、その梁(はり)の間に籠細工のように竹が編み込まれ、この網の両側から壁土が塗られる。」という補填が石川氏によってなされている。]

早稻の香や入分右は有磯海 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 早稻(わせ)の香や入分右は有磯海

 港に近い早稻田道。右は有磯海の道標が立つて居るのである。旅中のスケツチであり、單なる寫生句ではあるけれども、風物の印象と氣分がよく現はされてる。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では本句を挙げていない。因みに、「奥の細道」に載る本句は私にとってすこぶる懐かしいものである。何故なら、恐らく芭蕉がこの句を詠んだであろう(そうでなかったとしても最もそのロケーションに相応しい)場所が、私が出た高校のすぐ近く、私の大好きだった富山県高岡市伏木国分の浜であるからである。]

赤々と日は情なくも秋の風 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 赤々と日は情(つれ)なくも秋の風

「赤々」といふ言葉によつて、如何にも旅に疲れて憔悴し切つた、漂泊者の寂しい影を思はせる。その疲れはてた旅人の心身へ、落日の秋の夕陽が、赤々と灼きつくやうに照つてるのである。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の評釈では本句を挙げていない。「奥の細道」の、金沢―小松間での吟詠とされるが異説もある。]

2013/09/02

凩に匂ひやつけし歸り花 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 凩(こがらし)に匂ひやつけし歸り花

 冬の北風が吹きすさんで庭の隅に、佗しい枯木の枝に嘆いてる歸り花を見て、心のよるべない果敢なさと寂しさとを、しみじみ哀傷深く感じたのである。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「附錄 芭蕉私見」でも一字一句に至るまで相同。句は元禄四(一六九一)年冬の大垣でのもの。「奥の細道」を終えた後の、長かった落柿舎・近江などでの上方滞在を済ませ、最後の東下に向かった途次の嘱目吟。「歸り花」は狂い咲きの花のこと。]

合掌する縊死者の群 大手拓次

 合掌する縊死者の群

雪のやうに降りつもる苦(くる)しさに
身をくねらせて 爪立(つまだ)ち、
ひとつらに合掌(がつしやう)する人人(ひとびと)の群(むれ)。
みなひとしく靑蛇(あをへび)のやうな太紐(ふとひも)にくびをしめくくられ、
ガラス玉(だま)の眼(め)がうすくともり、
恐怖にふるへながらも 手はおのづと合ひ、
ひたすらに祈(いの)りのなかに沒(ぼつ)する。
たれさがつた人閒の果物(くだもの)のやうに腐りかけ、
この 幻影(げんえい)の洪水をゆりうごかす おびただしい縊死者(くびくくり)の群(むれ)、
わたしは 大空(おほぞら)に廻轉する白い鴉(からす)をつかみ殺さう。

鬼城句集 秋之部 夜長

夜長    弟子達の一つ灯に寄る夜長かな

2013/09/01

日の道や葵かたむく五月雨 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 日の道や葵かたむく五月雨

 

 三木露風氏はかつてこの句を推賞して、芭蕉象徴詩の例題とした。曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の晝に、向日葵はやはり日の道を追ひながら、雨にしほれて傾いて居るのである。或る時間的なイメーヂを伴つてゐるところの、沈痛な魂の冥想が感じられ、象徴味の深い俳句である。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。初出では「向日葵」は「日向蔡」。これは読めないので訂した。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、

 

 曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の晝に、向日葵はやはり日の道を追ひながら、雨にしをれて傾いて居るのである。或る時間的なイメーヂを持つてゐるところの、沈痛な魂の瞑想が感じられ、象徴味の深い俳句である。

 

となっている。他者の推賞を削る辺り、如何にもさもしい、という気が私にはする。句は元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十七歳の時のもの。なお、朔太郎は「向日葵」(キク目キク科キク亜科ヒマワリ属 Helianthus annuus と断じているが、これは蜀葵(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea)の可能性も有意に高い(タチアオイなどに顕著であるが、アオイ科の植物には葉や花に相応の向日性がある。そもそも「葵(あおい)」は「仰(あふ)ぐ日(ひ)」の意味なのである)。私は江戸時代の景観からもタチアオイで採りたい口である。]

蛇行する蝶 大手拓次

 蛇行する蝶

月(つき)しろをながして 人人(ひとびと)のたましひをとむらふ
はてしなくひろがる 冥闇(めいあん)の肋骨(あばらぼね)に
うねうねと ゐざりよる毒氣(どくき)の花のなまめかしさ、
あたまを三角(かく)にうちのめして
黑い旗をたてようとする くるしい癡笑(ちせう)のかげに
わたしは 大翅翼(おほばね)の蝶(てふ)のやうに ひらひらとうごめいた。

[やぶちゃん注:「肋骨(あばらぼね)」のルビの「ば」は底本では脱字で空白。一般通念で補訂した(後発の諸本は本詩をどれも引かない)。]

鬼城句集 秋之部 今朝の秋

今朝の秋  今朝秋や見入る鏡に親の顏

      親よりも白き羊や今朝の秋

      淺間山煙出て見よ今朝の秋


      今朝秋や高々出たる鱗雲


[やぶちゃん注:「鱗雲」巻積雲。白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れを成し、集まって魚の鱗や水面の波のような形状をした上層雲。絹積雲とも書き、鱗雲の他、鰯雲・鯖雲などとも呼称される。高度五~十五キロメートル程の高層に浮かぶ氷の結晶から成る。見た目は美しいが、これより先に巻雲(絹雲。「きぬぐも」とも読む。刷毛で白いペンキを伸ばしたように又は櫛で髪の毛を梳いたように或いは繊維状の細い雲が集まった形態の雲。細い雲片一つ一つがぼやけず明瞭な輪郭を持っていて絹様の光沢があって陰影がないのを特徴とする)が出現し、次いでこの雲が現れる場合は、温暖前線や熱帯低気圧の接近が考えられ天気の悪化が近づいていると言える。参照したウィキの「には、『俗称であるうろこ雲・いわし雲・さば雲はどれも秋の季語である。低緯度から高緯度まで広い地域でほぼ年中見られるが、日本では、秋は台風や移動性低気圧が多く近づくため特に多く見られ、秋の象徴的な雲だとされている』とある。]

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