Mes Virtuoses (My Virtuosi) シゲッティを聞く 三首 中島敦
シゲッティを聞く
我が好む曲にあらねどこの人のクロイツァ・ソナタ心に沁むよ
この國の花柳作家にあらねどもまごころをもてシゲッティは彈くか
髮うすき額の汗をぬぐひゝ禮するシゲッティの顏の眞面目さ
[やぶちゃん注:太字「まごころ」は底本では傍点「ヽ」。
「シゲティ」ハンガリー出身のヴァイオリニストであるヨゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti 一八九二年~一九七三年)。二十世紀を代表するヴァイオリン奏者の一人。参照したウィキの「ヨゼフ・シゲティ」によれば、『歴史的演奏家の中ではハイフェッツらとともに来日歴が多く、日本では親日派の巨匠として知られる』とあり、調べてみると、初来日は昭和六(一九三一)年(中島敦満二十二歳で未だ帝大二年生)、二度目が翌七年で(三度目は戦後)、敦はこの孰れかの公演を実見しており、その記憶に基づく短歌である。
「クロイツァ・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調作品47。フランスのヴァイオリニストであったロドルフ・クレゼール(Rodolphe
Kreutzer ドイツ語読みではロドルフ・クロイツェル)に捧げられたため、『クロイツェル・ソナタ』(Kreutzer
Sonata)と呼ばれる。
「この國の花柳作家」と言えば近代なら永井荷風や泉鏡花であろうが、これは特定の花柳小説の作者を指すのではなく、その正統的源流である井原西鶴・近松門左衛門に代表される江戸の浮世草子や浄瑠璃作家から近代の花柳小説作家の、身を売る女の物語或いは身を売った女と男の交情を描くことを節とした花柳情話の作家たちの思い、真心を以って悲劇の男女の情を捉えようとする気構えを指しているように私には思える。大方の御批判を俟つ。]

