Mes Virtuoses (My Virtuosi) エルマンを聴く 五首 中島敦
エルマンを聽く
冬の夜の心にしみて侘しきはエルマンが彈く詠嘆調(アリア)なりけり
エルマンか若(も)しはバッハかG線の上に顫へて咽び泣きゐる
潤ほへる音(ね)の艷けさよエルマンもわれとみづから聞き惚れてゐる
エルマンが光る頭をふり立つるスプリング・ソナタうらぐはしもよ
アダヂオに入るやエルマン眼を細め心しみじみ謠ひ出(いだ)しぬ
[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では踊り字「〲」。
「エルマン」ウクライナ出身のヴァイオリニスト、ミハイル・「ミッシャ」・サウロヴィチ・・エルマン(Михаил (Ми́ша) Саулович Э́льман Mikhail 'Mischa'
Saulovich Elman 一八九一年~一九六七年)。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。参照したウィキの「ミッシャ・エルマン」によれば、『キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった』。『オデッサの官立音楽学校に入学』『後、サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院』へ入る。1904年の『ベルリン・デビューではセンセーションを巻き起こした。1905年のロンドン・デビューは、グラズノフのヴァイオリン協奏曲の英国初演で飾った。1908年のカーネギー・ホールにおけるアメリカ・デビューにおいても、聴衆を圧倒している。1911年からは単身アメリカ合衆国に移住。ロシア革命後は、ロシアに残った一家をアメリカ合衆国に呼び寄せ、1923年に市民権を得た。1921年に初来日』、『1937年には2度目の来日』、戦後の『1955年には3度目の来日を果たしている』とあることから、昭和一二(一九三七)年の手帳を調べると、
一月二十七日(水)健脚會、岡村天神、/弘明寺、/Elman 7.30 日比谷/encore Ave Maria (S. ) Zigeunerweisen.
とある。「岡村天神」は現在の横浜市磯子区岡村二丁目の岡村天満宮で、これは位置から見ても「健脚會」(マラソン大会)の立ち番位置ではないかと思われる。推測であるが、健脚会は午前で終わり、午後、学校から下った弘明寺でその慰労会が開かれたのではなかろうか。エルマンの演奏会のアンコール曲が記されている。「(S. )」は Schubert の頭文字であろう。“Elman plays AVE MARIA (Schubert)”で実際の、それも一九二九年のエルマンの演奏が聴ける。「Zigeunerweisen」はサラサーテの管弦楽伴奏附ヴァイオリン曲「ツィゴイネルワイゼン」(一八七八年作)である。なお、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、この『獨奏會は、一月二十一、二十二、二十五、二十六、二十七日の五日間ひらかれ、その第五夜の演奏曲目は、Vivaldi;Concerto G-minor,Beethoven;Sonata F-major (Spring), Vieuxtemps;Concerto D-minor, Chopin-Sonate;Nocturne, De Falla;Spanish Dance, Wieniawaski;Souvenir de Moscou の六曲で』あるとあり、演目の中にバッハはない。アンコールのメモにもないものの、二首目に『「G線の上に」とあるのは、おそらく同日アンコール曲に「G線上のアリア」』が含まれていたものであろう、という推測が附されてある。
「スプリング・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番ヘ長調
Op.24 の愛称。]