Mes Virtuoses (My Virtuosi) ティボオを聴く 三首 中島敦 / 中島敦歌稿 了
ティボオを聽く
カデンツァの纖(ほそ)き美しさ聞きゐればジャック・ティボオは佛蘭西の人
心にくき典雅さなれやモツァルトもティボオが彈けばラテンめきたり
喝采に應(こた)へてはゐれどティボオの顏やゝに雲れり鬚押へつゝ
[やぶちゃん注:敦の昭和一一(一九三六)年の手帳に、
五月二十九日(金) Jacques Thibaud/Symphonie Espagnole
と記されている。下線はママ。先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、『五月二十六、二十九、三十日、六月一、二日と五囘の公演のうちの第二夜で、演奏の曲目は Veracini;Sonate, Mozart;Sonate la majeur, Lalo;Symphonie Espagnle, Chausson;Poè,Saint-Saëns;Rondo Capricioso の五曲であつた。ラロの「スペイン交響曲」はピアノの伴奏によつたものらしい』とある。
以上、見て来たように、この年は二月六日のシャリアピン、(この間、三月二十三~二十八日の小笠原旅行、四月二十五日に三度目の母の死去があった)四月十五日にケンプ、同二十一日にゴールドベルクとクラウスのデュオ、五月十二日には二回目のケンプ、そしてその十七日後にこのティボーの公演に足繁く出向いている。その後、八月八~三十一日には中国旅行を敢行、その旅行中に「朱塔」歌群を完成させ、しかも現存する原稿に記入されている日附によれば十一月十日には「狼疾記」を、年も押し迫った十二月二十六日には「かめれおん日記」を脱稿しているのである。中島敦満二十七歳、この年は彼にとってすこぶる濃密な年であったことがこれらの事実から窺われるのである。(……私は私の二十七当時を今思い出して、その哀しいまでの精神的な貧しさと飲んだくれの日々に、身の凍る思いがしたことを告白しておく……)
「ティボオ」ジャック・ティボー(Jacques Thibaud 一八八〇年~一九五三年)はフランス出身のヴァイオリニストでクライスラーと並び称された。ボルドー市の音楽教師の息子として生まれ、八歳でリサイタル、十三歳からパリ音楽院に学び、一八九六年に首席で卒業、コロンヌ管弦楽団に招かれ、以後たびたび独奏者として活躍して名声を高める。一九〇五年アルフレッド・コルトー・パブロ・カザルスとともにカザルス三重奏団を結成した。大正一二(一九二三)年初来日、昭和一一(一九三六)年に二度目の来日を果たし、この折り、日本ビクター東京吹込所で録音を行ったほか、JOAK放送局からラジオ放送の生演奏を行った。敦の本歌群はこの時の公演である(前注参照)。第二次世界大戦中はフランスに留まって、ドイツでの演奏を拒否した。昭和二八(一九五三)年、三度目の来日途中、乗っていたエール・フランスのロッキード・コンステレーションがニースへのファイナル・アプローチの最中に、バルスロネット近郊のアルプス山脈に衝突、逝去した。彼が愛用していた一七二〇年製ストラディヴァリウスはこの事故で失われた(以上はウィキの「ジャック・ティボー」に拠った)。この最後の歌でティボーの表情に浮ぶ曇りは何だったのだろう。……この時、既にドイツではナチスが政権を掌握し、この年に日本は日独防共協定を締結している。……
「カデンツァ」“cadenza”(イタリア語)は楽曲の終結部で独唱者又は独奏者の演奏技巧を発揮させるために挿入される華美な装飾的楽句をいう音楽用語。]
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以上を以って筑摩書房版全集第二巻所収の「歌稿」パートの全電子化と注釈を終えたが、同全集の第三巻に所収する「手帳」の中には多くの歌稿を見出すことが出来る。その拾い出しをここで続けて行おうと考えている。また、今回の注で示した昭和十一年の手帳も、後半に小笠原での興味深い有意な分量のメモが含まれており、この手帳の電子化も是非行いたいと考えている。
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