Mes Virtuoses (My Virtuosi) シャリアピンを聴く 十八首 中島敦
Mes Virtuoses (My Virtuosi)
[やぶちゃん注:本歌群は、洋楽の愛好家でもあって足繁く来日したビルトゥオーソ(卓抜した技巧を持つ演奏家、名手の意。元はイタリア語“virtuoso”で、英語“Virtuos”(標題の“Virtuosi”はその複数形)は「ヴァーチュオーソ」と外来語表記されることが多い)の音楽会に足を運んでいた中島敦の、その鑑賞に纏わる歌群である。“Mes Virtuoses”はその(「私の名演奏家」の意の)フランス語表記である。]
シャリアーピンを聽く
北國(きたぐに)の歌の王者を聽く宵は雪降りいでぬふさはしと思ふ
如月の日比谷の雪を急ぎ行けばティケット・ブロ-カー言ひ寄り來るも
眉白く眼(まなこ)鋭どに鼻とがるシャリアーピンは老いしメフィスト
[やぶちゃん注:「シャリアーピン」フィヨドール・イワノヴィッチ・シャリアピン(Fyodor Ivanovich Shalyapin 一八七三年~一九三八年)ロシア出身のバス歌手。当初は教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌っていたが、次第に名声を高め、ペテルブルグやモスクワの大歌劇場で歌い、やがて世界的な大歌手として活躍した。一九一七年のロシア革命もソビエト政権への同意を示さなかったことから、一九二一年に亡命を余儀なくされ、以後、逝去までパリに住んで世界公演に出向いた。豊かに響く声と劇的表現に独自のものがあり、イタリア・オペラやフランス・オペラでのバスの役柄も得意としていたが、特に高い評価を得て居たのはロシア・オペラでのバス・パートで、その中でも極め付けはソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」のタイトル・ロールであった。三首目の歌のグノーの「ファウスト」のメフィストフェレス役は彼の当たり役の一つである。来日は昭和一一(一九三六)年で東京・名古屋・大阪で公演した。これは死の二年前であったが公演を重ねるに連れて次第に調子を上げ、クラシック・ファンは勿論のこと、多くの大衆を巻き込んだ一大センセーションを巻き起こしたと言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「フョードル・シャリアピン」を参照した)。
中島敦のシャリアピン讃歌は既に歌群冒頭の「和歌(うた)でない和歌」の中に、
纖(ほそ)く勁(つよ)く太く艷ある彼(か)の聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)
を見出せる。そこで附した注も再掲しておきたい。
筑摩書房版全集第三巻の年譜等によれば、中島敦は昭和一一(一九三六)年二月六日にシャリアピンの公演バス独唱会を聴いている(於・比谷公会堂。来日期間は同年一月二十七日から五月十三日)。調べて見たところ驚くべきことに彼は事前に演目を決めず、その日の自分の雰囲気で歌う曲を決めたそうであるが、幸いなことに、同第三巻所収の中島敦の「手帳」の「昭和十一年」の当日の記載に詳細な演目を残し於いて呉れた。以下に示す。
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二月六日(木) 7.30 p.m./Chaliapin
1. Minstrel (Areusky)/2. Trepak
(Moussorgsky)/3. The Old Corporal/4. Midnight Review (Glinka)/5. Barber of
Seville (Rossini)/1"An Old Song (Grieg)/2"When the King went forth to War.
1. Don Juan (Mozart)/2. Persian Song
(Rubinstein)/3. Elegie (Massenet)/4. Volga Boatman/5. Song of Flee
(Moussorgsky)/1"Prophet (Rimsky-Korsakov)
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なお、もしかすると、これは非常に貴重な記録なのかも知れない。ネット上でこの来日時の演目記録を捜したが見当たらなかったからである。 「蚤(のみ)の歌」(ゲーテ詞 ムッソルグスキイ曲)は彼の最も得意とする所
また、底本解題には『最近中島家より、若干の資料が新しく見つかつた』として、この「Mes Virtuoses (My Virtuosi)」歌群についての新たに分かった事実(若しくは推定)記載がある。それによれば『シャリアピン獨唱會は、あらかじめ豫定してゐた彼のレペルトワール』(フランス語“rpertoire”レパートリーのこと)『八十八曲のうちから、當日はこの「手帳」に記されてゐるだけが演ぜられた模樣である』こと、『ピアノ伴奏はジョルジュ・ゴッツィンスキイ』であること、曲のうち、“The Old Corporal”(「老いぼれ伍長」とでも訳すか)は Aleksandr
Sergeyevich Dargomizhsky(アレクサンドル・セルゲイヴィチ・ダルゴムイシスキー。但し、氏名の英文綴りは現行のネット上のデータで表示した)、『“When the King Went forth to War”の作者は
Koenemann、“Song of the Volga Ooatman”も同人の編曲である』とある。「Koenemann」はウィキの「フョードル・ケーネマン」によれば、モスクワ音楽院教授(一九一二年~一九三二年)でピアニストのフョードル・ケーネマン(Фёдор Фёдорович Кёнеман ; Fyodor Keneman 一八七三年~一九三七年)で、彼は二十四年間に亙ってシャリアピンの伴奏者・編曲者でもあった。なおケーネマン編曲のこの「ヴォルガの舟歌」は、皮肉なことにシャリアピンがソヴィエトから亡命した後に外国で有名になって、多くの共産主義者の愛唱歌となったものである。“When the King Went forth to War”(「王様が戦争に行ったとき」)はシャリアピンの素晴らしい歌声を“Шаляпин поет "Как король шел на войну"”で聴ける。]
「蚤の歌」のメフィストが笑ふ大き笑ひ會場狹くとゞろき響く
海(わた)の水門(みと)渦卷き湍(たぎ)ち裂け落ちてまた奔(はし)り出づる聲かとぞ思ふ
かにかくに樂しかる世と思はずやシャリアーピンの「ドン・ファン」を聞けば
右手(めて)を伸ばし左手(ゆんで)を胸にシャリアーピンが今し「ドン・ファン」を唱(うた)ひ終りぬ
故郷(ふるさと)のムッソルグスキイを歌ふ時はシャリアーピン(みづか)も自らに醉ふか
蜘蛛の絲(い)の絶えなむとして絶えずまた朗々として滿ち溢れくる聲
見上ぐれば六尺(むさか)に餘る長身(たけなが)を身ぶりかろがろとシャリアーピンは歌ふ
[やぶちゃん注:「「かろがろ」の後半は底本では踊り字「〲」。「六尺(むさか)」の読み「さか」は「尺」「しやく(しゃく)」に同じ上代語。約一・八メートル。おおたに氏のサイト「海外オーケストラ来日公演記録抄(本館)」にある詳細を極めた「シャリアピンが来た(一九三六)(昭和十一年)」によれば、『初日、彼が姿を現わすと拍手とどよめきがおきました。シャリアピンのその巨体に驚いた観客が多かったためです。当時の新聞は彼の身長を六尺四寸五分、もしく六尺五分と記していますが』、『彼の背丈がかなりあるということがよくわかると思います。たしかに当時の彼のリサイタルの写真をみると、右手をピアノの上に、そして左手で表情をつけるような仕草をみせている、ぱっと見にはよくある光景なのですが、よーくみると彼の腰がピアノの上あたりにまできているのがみることができます』とあり、これだと一八三~一九五センチメートルとなる(リンク先は当時の様子がこと細かに分かってとても興味深い。必読である)。因みに私は物心ついた頃から家にあった七十八回転のシャリアピンの「蚤の歌」を聴くのが無上の喜びであったのを思い出す。あのシャリアピンの強烈な劇的表現こそが幼児の私をして後に演劇に向かわせる感動の濫觴であったのだと――今気がついた。]
トレパク(死の舞踏)ムッソルグスキイ
ひそやかにスラヴの森を死の影が過(よぎ)りしと思ふ「トレバク」の歌
わたつ海(み)の潮滿ちくるか澎湃とシャリアーピンの聲の豐けさ
[やぶちゃん注:「トレパク」“Trepak”ウクライナ地方のダンスを由来とする舞曲名。一般的なロシア(風)舞曲をかく呼ぶ。チャイコフスキイの「胡桃割り人形」の第二幕第十二曲“Divertissement”(ディヴェルティスマン・登場人物たちの踊り)の四番目“Trépak”(トレパック・ロシアの踊り)が最も有名。]
「預言者の歌」(プーシュキン詞 リムスキイ・コルサコフ曲)
天翔(あまかけ)る六(む)つの翼の熾天使(セラフィム)が曠野に呼ばふ豫言の歌ぞ
[やぶちゃん注:底本のルビは「セラフイム」であるが、中島敦の外来語の有意な拗音本文表記から考えて元は拗音表記と推定し、かく示した。「バスのための二つのアリオーソ」(一八九七年作)の第二曲「予言者」はサイト「梅丘歌曲会館」の「詩と音楽」の藤井宏行氏訳・解説で同曲の印象及びプーシキンの訳詞が読める。]
天地(あめつち)の果ゆ大河(たいが)と漲(みなぎ)りくる王者の撃と聞かざらめやも
舟唄の嫋々(でうでう)として未だ消えずボルガの水面(みのも)を傳ふが如し
[やぶちゃん注:私の幼児期の記憶のもう一つの78回転のシャリアピンは、この歌声の神韻たる深さへの感動の沈潜であったことを告白する。]
歌ひ終り禮(あや)する見ればこの人は老(お)い人(びと)なりき氣づかざりしかど
[やぶちゃん注:当時のシャリアピンは満六十六歳であった。]
花束を捧ぐる童女(どうによ)小(ちひ)さければシャリアーピンの腰に及ばず
身を折りて童女(どうによ)の額に kiss すれば童女羞(は)ぢらひ喝采止まず
[やぶちゃん注:当時のシャリアピンの観客へのサービスの様子は、是非、先に掲げたおおたに氏の「シャリアピンが来た(一九三六)(昭和十一年)」をお読みになられたい。]