日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 11 団扇屋のディスプレイ / 木の自然美を取り込む日本人の感性
店で売る品物を陳列する方法は多く簡単で且つ面白い。一例として、団扇(うちわ)屋は節と節との問に穴をあけた長い竹を団扇かけとして使用する。穴に団扇をさし込むのである。台所でも同じような物に木製の匙(さじ)や箆(へら)や串等をさし込む(図15)。
人力車に乗って町を行くと、単純な物品の限りなき変化に気がつく。それで、ちょっと乗った丈でも、しょっ中独断なくしていられ、興味深く、また面白がっていられる。二階のある家でいうならば、二階の手摺だけでも格子や彫刻や木材に自然が痕をとどめた物の数百の変種を見せている。ある手摺は不規用な穴のあいた、でこぼこな板で出来ていた(図16)。このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板、それはきのこのためによごれていて、またきのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。
[やぶちゃん注:『このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板、それはきのこのためによごれていて、またきのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。』この最後の部分は訳がちょっと気になる。原文は“one would say, a rude and ungainly object fit only for fire wood, and yet the Japanese enjoy the natural results of nature's caprices : the fungus-stained wood, a plank cut from the outside of an irregular tree-trunk, the holes in the plank being made by the depressions.”である。問題は最後の三つのフレーズで、ここは「然し日本人は例えば」の後は――菌類が付着したために出来たらしい染みのついた木材や、樹木の不規則な外皮から切り出された板、何らかの自然の中での圧迫によって形成された複数の穴をもった材木といった、――『「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。』と訳すべきところではあるまいか?]
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