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2013/09/14

耳嚢 巻之七 疝氣妙藥の事

 疝氣妙藥の事

 

 狩野友川(かのういうせん)咄し。同人疝氣にて兎角腰痛致常(いたしつね)に苦しみけるが、或人西國米を日々五粒づゝ用ゆるは奇功あると語りしに、藥種屋にて求めて不絶(たえず)用ゆ。右の疝氣忘るゝ如く快くて、文化三年予許(よがもと)へ來りて、畫(ゑ)かきける時咄しぬ。右西國米は黄(わう)はくの實(み)也といふ人あれど、名□唐藥也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、河童の呪歌による河童被害から逃れる法はこの民間療法シリーズに当時にあっては大真面目に内包されるものと思われ、私などにはスラーのように自然に続いて読める。以前にも述べたが根岸は疝気持ちであった。なお、年記載から本話が極めてアップ・トゥ・デイトな記録であることが分かる(以下の「狩野友川」の注の終わりを参照のこと)。

・「狩野友川」絵師狩野寛信(安永六(一七七七)年~文化一二(一八一五)年)。別号、融川(友川)後に青悟齋。浜町狩野家(江戸幕府御用絵師御三家の一つで公的に認定され世襲で旗本扱いであった)五代目当主であったが将軍徳川家斉の時、朝鮮王へ贈る近江八景の屏風絵を描くよう命ぜられたが、老中(底本の鈴木氏注では『阿部豊後守』とするが、文化一二年当時の老中には該当者がいない。阿部姓だと書画をよくした阿部正精(まさきよ)ならいるが、彼は対馬守・備中守である上に彼が老中になるのは文化一四(一八一七)年であるから全く合わない)にその画の金砂子のタッチが薄く少ないと指摘された。寛信は、近景は濃くし、遠景は薄いものであり直す必要はないと主張したが、老中は補修を命じたため、寛信は憤慨、よき画家というものは俗世間の要求に屈服しかねるとして、城から下がる途中の輿の中で割腹(一説に服毒)して果てた。享年三十八歳(以上は、鈴木氏注以外に個人ブログ「夜噺骨董談義」の「忘れさられた画家ーその5 太公望 狩野融川筆」を参考にさせて戴いた)。親しかった青年絵師(「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから当時の「狩野友川」は未だ満二十九歳で、根岸は四十九歳であった)の非業の死を根岸はどう感じたであろうか。但し、根岸の死も同じ文化一二年の十一月四日のことではあった。

・「腰痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『服痛』とあり、長谷川氏が「服」の右に『〔腹〕』と訂しておられる。疝気であれば確かに服痛の方が自然ではある。ただ疝気は特に女性に多くみられる服痛や男性の睾丸痛を指す語であるので、部位として「腰痛」という表現は必ずしもおかしくない。

・「西國米」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『四国米』とする。実は「西国米」はある。これで「せーかくーびー」「しーくーびー」と読み、一つは沖縄宮廷料理に用いる澱粉で作った米粒状のものを茹でて砂糖水に浮かせて供するものを指し(沖縄の「料亭那覇」の公式サイトのここを参照した)、またネット検索で沖縄方言では現在そうした伝統料理に酷似したタピオカのことをかく言うことも分かった。なおタピオカは植物名ではなく、料理(デザート)名で、バラ亜綱トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ Manihot esculenta の根茎から製造したデンプンで、ご存知の通り、菓子の材料や料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎとしても用いられるものである。参照したウィキの「タピオカ」に、我々がしばしば中華料理のデザートで見る球状のタピオカについて、以下のように記述がある。『糊化させたタピオカを容器に入れ、回転させながら雪だるま式に球状に加工し、乾燥させたものは「スターチボール」、「タピオカパール」などと呼ばれ、中国語で「粉圓」(フェンユアン fěnyuán)と呼ぶ。煮戻してデザートや飲料、かき氷、コンソメスープの浮身などに用いられる。黒、白、カラフルなタイプとさまざまな色が着けられた製品がある』。『従来より、サゴヤシのでん粉で作られ、「西穀米」(中国語 シーグーミー、xīgǔmǐ)、「西米」(シーミー、xīmǐ)と呼ばれていたが、現在は安価なタピオカに切り換えられているものが多く、「西米」という呼称も避けられている。また、大きい粒には食感調整のために甘薯(さつまいも)デンプンが加えられていることが多い』。『このタピオカパール、スターチボールをミルクティーに入れたタピオカティー(珍珠奶茶)は、発祥の地である台湾はもとより、現在では日本や他の東南アジア、欧米諸国などでも広く親しまれている』。『中華点心では小粒のものを煮てココナッツミルクに入れて甘いデザートとして食べる。他に、ぜんざいのように豆類を甘く煮た汁と合わせたり、果汁と合わせたりもする。台湾や中国とつながりが深い沖縄では、「西穀米」の福建語読みが語源と思われる「シークービー」または「セーカクビー」という呼び方で、伝統的に沖縄料理のデザートとして利用してきた』。乾燥状態で直径五ミリメートル『以上の大きな粒の場合、煮戻すのに2時間程度かかる。また、水分を少なめにして煮ると粒同士が付きやすくなるので、型に入れて冷やし、粒々感のあるゼリーの様なデザートを作ることもできる。欧米では、カスタード風味のタピオカプディングがよく知られている』とあり、この記載から実はこの狩野が飲んだ「西國米」(せいかくーびー)はサゴヤシである可能性が高い。サゴヤシはマレー語・インドネシア語の“sagu”の英語化した“sago”と椰子の合成語で、樹幹から現地で「サゴ」と呼ぶ食用デンプンが採取出来るヤシ科やソテツ目の植物の総称である。参照したウィキの「サゴヤシ」によれば、『サゴはヤシ科のサゴヤシ属(Metroxylon)など11属から採れるほか、ソテツ目のソテツ属(Cycas)など3属からも採れる。英語ではサゴが採れるソテツ属の植物も sago palm と言うことがある』とあり、『サゴヤシは東南アジア島嶼部やオセアニア島嶼部の低湿地に自生する。サゴヤシの植物学的な研究は発展途上であり、原産地は未だ解明されていない』。『東南アジアではイネの導入以前に主食の一端を占めていたと考えられている。南インドでも食べられている。パプアニューギニアでは現在でもサゴヤシのデンプンを主食とする人々がおよそ30万人いる。一方、ミクロネシアやポリネシアではほとんど食べない』。『ソテツ属のソテツから取るデンプンは琉球列島や南日本でも食用とされていた』と「分布・地域誌」を述べ、続く「歴史」の項では『文献記録上最も古い言及は、マルコ・ポーロの旅について書かれた13世紀の『東方見聞録』ではないかと言われている。文中に「スマトラには、幹に小麦粉が詰まった喬木がある。木の髄を桶に入れて大量の水を注ぎしばらく置くと、底に粉が沈殿する。この粉で作ったパンは、大麦のパンに味が似ている」との記述がある』とする。そして「利用法」の項の記述の中に『キャッサバの芋から取るデンプンのタピオカを加工して作られる球状のタピオカパールと同様に、サゴからもサゴパールが作られる。サゴから作ったパールの方がタピオカパールよりもずっと歴史が長く、東南アジアからヨーロッパ、中国、台湾、琉球王国などにも輸出され、中華圏では「沙穀米」や「西穀米」、琉球では「セーカクビー」などと称された』と出、しかも本「耳嚢」の記載より遙か昔の、天正一九(一五九一)年に明の高濂(こうれん)によって編纂された百科全書「遵生八牋」(じゅんしゅはっせん)巻十一にも「沙穀米粥」の調理法について記載がある(篠田統「中国食物史」柴田書店による)と記してあるのである。

・「黄はく」底本には右に『(黄檗カ)』と補注する。ムクロジ目ミカン科キハダ Phellodendron amurense で、「黄檗」「黄膚」「黄柏」とも書く。この樹皮を乾燥させた黄檗(オウバク)は生薬として有名であるが、実は聞かない。ウィキの「キハダ」の「生薬」の項によれば、『樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれている、また黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』と記した後に、『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とあるから、食用が可であること、されば本邦の民間薬として用いられた可能性が高いことが窺われる。

・「名□唐藥也」底本には「□」の右に『(詮カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はこの部分、前文から続いて、以下のように一度切れて、続く。

 ……といふ人あれどたしかならず。唐薬なり。

バークレー校版で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疝気の妙薬の事

 

 御用絵師狩野友川(かのういうせん)殿の話。

 同人は私同様、疝気持ちであられ、とかく刺すような腰の痛みが常に致いて、大いに苦しんで御座ったとのことであったが、ある御仁が、

「西国米(せいかくーびー)を日々五粒ずつ服用致さば、奇効、これ、御座る。」

と語ったによって、薬種屋にて求めて、欠かさず服用致いたと申す。

 すると、かの執拗(しゅうね)き疝気、これ、忘るる如く、快癒致いたと申す。

 文化三年、私の元へ参られ、絵を描いていただいた折りにお話し下された。

 この西国米と申すは黄檗(おうばく)の実(み)のことである、と申す者もあるが、これ今一つ、分明ではないようである。ともかくも、中国渡りの薬ではある。

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