耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事
郭公狂歌の事
元の木阿禰といへる、狂歌詠(よみ)に春夏のうつりかはる氣色詠(よみ)得たり迚見せける。
春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥
□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌連関。
・「元の木阿禰」狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
・「春夏の氣違いなれやきのふまでわらひし山に啼時鳥」「氣違(きちがひ)」は「季違ひ」と狂人の意の「氣違ひ」の掛詞。岩波の注で長谷川氏は、『笑うは花の咲くことをいう。花は春でほととぎすは夏、それで季違い』となり、『春と夏と季節が変わったからか昨日まで花の咲いていた山にはほととぎすが鳴』いているように、さっきまで『泣いていた者が急に泣出すとは狂人のよう』という人事を詠じたものという風に読めるように評釈されておられる。しかしここは、「春夏のうつりかはる氣色詠得たり」という前書から考えるなら、素直に(といってもトンデモ歌語ではあるが)、自然を人事のそれに喩えたもののように思われるが、如何?
■やぶちゃん現代語訳
郭公(ほととぎす)の狂歌の事
元の木阿禰と申す、狂歌詠みが、「春夏の移り変わる景色を詠み得たり」とて見せたという、その狂歌。
春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥