耳嚢 巻之七 河怪の事
河怪の事
七都(なないち)といえる座頭の咄しけるは、右の者は上總國夷隅郡(いすみのこほり)大野村出生(しゆつしやう)にて廿四歳にて盲人となりしが、廿貮歳の時、右村の内に幅拾間程の川有(あり)。右内に字※の井戸迚至(いたつ)て深き所有。向ふは竹藪生茂(おひしげり)、晝も日陰くらくうす淋しき場所成(なる)が、七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て、足の指へ糸をかけては水中に入(いり)、又出ては糸を指へ掛(かく)る事あり。あまたゝびに足首過半糸を掛るゆへ、ひそかに其際に有(ある)くひ木へ右をうつし、如何(いかが)なすやと見置(みおき)しに、又前の如く糸を掛(かけ)、何か水中にてよしかよしかといふと思へば、彼藪の内にてよしと答ふ。後(のち)かのくひ木(き)半分より折(をれ)ぬる故、大きに驚き迯歸(にげかへり)ける。
[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+「段」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:ロケーションが上総夷隅郡で一致。前の話もこの七都なる人物が話者と考えてよかろう。この蜘蛛の怪の相同的類話は広域に見られる。国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で「蜘蛛 糸」の検索を掛けただけでも、宮城県本吉郡旧小泉村・福島県東白川郡塙町大字川上・同伊達郡国見町・埼玉県秩父郡皆野町日野沢・長野県南佐久郡北相木村・神奈川県津久井郡・静岡県浄蓮の滝・愛知県東加茂郡下山村・岐阜県郡上郡和良村・滋賀県伊香郡余呉町・和歌山県伊都郡九度山町・徳島県美馬郡一宇村・鳥取県西伯郡西伯町・熊本県等のステロタイプなそれを確認出来る。私の地元鎌倉でも源平池の畔の話として酷似した昔話が伝わっている。因みに、この藪の中から「よし」と答えるのは、果たして、やはり蜘蛛の仲間なのだろうか? 妙なところが気になるのが、私の悪い癖――
・「七都(なないち)」という読みは岩波版長谷川氏のルビに拠った。
・「上總國夷隅郡大野村」現在の千葉県いすみ市大野。先の話柄に出た長者町の西南西約九キロメートルに位置する。
・「幅拾間」川幅凡そ十八メートル。夷隅川の支流大野川と思われる。
・「字※の井戸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『字樅の井戸』とする。読みその他不詳。淵らしいが「井戸」という呼称も不審。「じもみ」と読んでおく。
・「七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て」一字分とは思われない脱落が疑われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『七都俗なりしとき、能(よく)魚の釣れると聞(きき)て釣を垂れしに、水中より蜘(くも)出て』とある。これを訳では採用した。
■やぶちゃん現代語訳
河の怪の事
七都(なないち)と申す、馴染みの座頭の語って御座った話。
この者は上総国夷隅郡(いすみのこおり)大野村の生まれにて、二十四歳にて盲人となった者で御座るが、この者が二十二歳の折り、未だ目の見えた頃の話と申す。
「……その大野村の内を流るる幅二十間ほどの川が御座いましてのぅ、その川中に通称「字樅(じもみ)の井戸」と呼ぶ、これ、いたって深き淵が御座いました。川向こうは竹藪が鬱蒼と生い茂げり、昼も日陰にて、すこぶる暗く、何ともこれ、もの淋しい場所では御座いましたが――我ら、その頃は未だ目開きの俗にて御座いましたので――よう、魚(さかな)が釣れるところと聴き及んでおりましたゆえ、訪ねて行って、一日、釣り糸を垂れておりました。……
すると、足元の水際(みぎわ)より、一匹の小さな蜘蛛が……するするっ……と這い出て参り、我らが草鞋履きの足の指へと……しゅっ……と糸を掛けまして、これまた……するするっ……と水の中へと戻る。……
暫く致しますと、またしても……するするっ……と水より出でては、糸を指へ……しゅっ……と掛けるので御座います。……
……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……
と、これを何度も何度も繰り返しまして、これ、指どころか、我らが足首の過半まで糸を掛け、それはまあ、帯のように、きらきらと輝いて御座いましたのじゃ。……
何かこう、訳の分からぬながら不吉な感じがふっと萌(きざ)しましたによって、我ら、何気ない振りを致いて、そっと、近くに突き出ておりました棒杭へ、べったりと巻かれた糸の束を剝し移しました。……
さても、一体、このちんまい畜生は、何をどうするつもりか、と凝っと見ておりますと、また、前の如く……
……するするっ
……と水より出でて
……しゅっ
……と、棒杭に糸を掛け、再び
……するするっ
……と水の中へと、戻りました。……
……と……その時で御座る……
――何かが
――水の中(うち)より
「――ヨイカ?――ヨイカ?――」
と問うたかと思うと、かの対岸の藪の内より、
「――ヨシ!――」
と答える。
――と
――その瞬間
――バキッツ!
と音を立てて、かの根太き棒杭――
――これ――ものの美事に
――ど真ん中より
――折れたので御座います。……
……いやもう! 大きに驚き、這うようにして逃げ帰って御座いました……。」
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