大風の朝も赤し唐辛子 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈) / (但し、この句は芭蕉作存疑の部に入る)
大風の朝(あした)も赤し唐辛子
暴風雨の朝。畠の作物も吹き荒され、萬目荒寥として亂れた中に、唐辛子の實だけが赤々として、昨日に變らず色づいて居るのである。廢跡に殘る一つの印象。變化と荒廢との中に殘る一つの實在。それが赤く鮮明に印象されてることは、心の奧深い空虛の影に、悲壯に似た敗北の痛みを感じさせずには居ないであらう。(昔の月並俳人等が、この句を道德的教訓の意に解したのは滑稽である。)
[やぶちゃん注:最初に述べておくが、これは現在、芭蕉の作としては認定されていない、存疑の部に入る句である。岩波文庫一九七〇年刊中村俊定校注「芭蕉句集」によれば、「もとの水」(重厚編・天明七(一七八七)年跋)・「芭蕉新巻(あらまき)」(寛政五年)・「袖日記」(元禄三(一六九〇)年)・「一葉」(貞享・元禄年中)などに載るが、諸家は多く芭蕉の真作とは採っていない。萩原朔太郎は「詩歌の鑑賞と解釋 講演」(昭和一二(一九三七)年白水社刊「無からの抗争」の「韻律の薄暮」の章の巻頭)でもこれを芭蕉の句として引用、
……一體江戸末期の人たちは、俳句やその他の詩歌を、無理に道學的、教訓的に解釋したがる癖がありました。例へば芭蕉の俳句に
大風の朝(あした)も赤し唐辛子
といふのがありますが、これも江戸末期の宗匠たちは、道學的に解釋しまして、つまりどんな激しい環境の變化や、不慮の災難に逢つても、眞實を守る人は、依然として貞操を代へない、といふ意味の教訓の句として、一般に解釋して居ました。かうした解釋の良ろしくないといふことを、大に強く力説しまして、俳句の新しい解釋の方法、即ち純粹な印象主義的な方法を、始めて日本の俳壇に敦教へたのは、實に、明治の俳人、正岡子規でありました。子規の解釋によりますと、この句は、單にかうした風景の純粋の印象、即ち、暴風雨の吹き荒らした翌朝の實景を、そのまま寫生したのであつて、その外に何の寓意もない、純粹に寫生の句であるといふことになります。かうした別々のちがつた解繹について、何れが果して正しいかといふ事は、後に尚、時間があつたら申しあげます。
と述べている。実は類型句なら「深川夜遊」と題した、 靑くてもあるべきものを唐辛子 があるが、これは膳所の若き門人洒堂を芭蕉庵に迎えた際の句で、この句の場合は寧ろ、「道學的」諷喩とそれを捻った洒堂への挨拶句としてのオードは顕在的であるとさえ言える。萩原朔太郎の例の病的な思い込みがこの絶賛には感じられる。にしても「大風の」は遙かに陳腐極まりない(と私は思う)。
ともかくも昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」版の評釈を見ておこう。
暴風雨の朝、畠はたけの作物も吹き荒され、萬目荒寥として枯れた中に、ひとり唐辛子の實だけが赤々として、昨日に變らず色づいて居るのである。廢跡に殘る一つの印象、變化と荒廢の中に殘る一つの生命。それが血のやうに赤く鮮明に印象されることは、心の傷ついた空虛の影に、悔恨の痛みを抱きながらも、悲壯な敗北の意氣を感じさせずに居なかつたらう。
載道的解釈の部分は評釈としては十分条件ではあるが、必要条件ではない。載道的解釈の部分は評釈としては十分条件ではあるが、必要条件ではない。ただ最後の一文は改変によって生命を得ているとは言える。]
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