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2013/09/05

栂尾明恵上人伝記 62 明恵と北条泰時

 秋田城介入道大蓮房覺知語りて云はく、泰時朝臣常に人に逢ひて語り給ひしは、我不肖蒙昧の身たりながら辭する理なく、政を務りて天下を治めたることは一筋に明惠上人の御恩なり。其の故は承久大亂の已後在京の時、常に拜謁す。或時法談の次に、如何なる方便を以てか天下を治むる術(すべ)候べきと尋ね申したりしかば、上人仰せられて云はく、如何に苦痛顚倒(てんだう)して、一身穩かならず病める病者をも、良醫是を見て是れは寒より發りたり、是は熱に犯されたりと、病の發りたる根源を知つて、藥を與へ灸を加ふれば、則ち冷熱(れいねつ)さり、病愈ゆるが如く、國の亂れて穩かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし。さもんなくて打ち向ふまゝに賞罸を行ひ給はゞ、彌〻(いよいよ)人の奸(かたま)しくわゝにのみ成りて、恥をも知らず、前を治むれば後より亂れ、内を宥(なだ)むれば外より恨む。されば世の治まるといふことなし。是れ妄醫の寒熱を辨へずして、一旦苦痛のある所を灸(きう)し、先づ彼が願ひに隨ひて、妄りに藥を與ふるが如し。忠を盡して療を加ふれども、病の發りたる根源を知らざるが故に、ますます病惱重りていえざるが如し。されば世の亂るゝ根源は、何より起るぞと云へば、只欲を本とせり。此の欲心一切に遍(へん)して萬般(ばんはん)の禍ひと成るなり。是れ天下の大病に非ずや。是を療せんと思ひ給はゞ、先づ此の欲心を失ひ給はゞ、天下自ら令せずして治まるべしと云々。泰時申して云はく、此の條尤も肝要の間、我身ばかりは心の及び候はん程は、此の旨を堅く守るべしと雖も、人々是を守らんこと難し、如何し候べきやと云々。上人答へて宣はく其易かるべし。只太守(たいしゆ)一人の心に依るべし。古人云はく其の身直(なほ)くして影(かげ)曲らず、其の政正しくして國亂るゝこと無しと云々。此の正しきと云ふは無欲なり。又云はく君子其の室に居て其の事を出す、よき時は千里の外皆之に應ずと云々。此のよきと云ふも無欲なり。只太守一人實に無欲に成りすまし給はゞ、其の德に誘(いう)せられ、其の用に恥ぢて、國家の萬人自然と欲心薄く成るべし。小欲知足(しやうよくちそく)ならば天下安く治るべし。天下の人の欲心深き訴來らば、我が欲心の直らぬ故ぞと知りて、我が方に心を返して我身を恥(はづか)しめ給ふべし。彼を咎(とが)に行ひ給ふべからず。譬へば我が身のゆがみたる影の、水にうつりたるを見て、我が身をば正しく成さずして、影のゆがみたるを嗔りて、影を罪に行はんとせんが如し。心ある人の傍にてをこがましく思ふことなり。傳へ聞く周の文王の時一國の民畔(くろ)を讓(ゆづ)りしも、只文王一人の德、國土に及びし故に、萬民皆かゝるやさしき心に成りしなり。畔を讓ると云ふは、我が田の境をば人の方へ多くさり讓りて、我が方の地をば少くせしなり。互にかやうに讓りあひて、我が田地を人の方へやらんとはせしかども、假令(かりそめ)にも人の分を掠(かす)め取る事はなかりき。他人より訴訟の爲に都へ上る人の、此の周の國を通るとて、此の有樣を路の邊にて見て、我が欲の深きことを恥ぢて、道より歸りにけり。此の文王、我が國を治むるのみならず、他國までも德を及ぼし給ひしも、只一人の無欲に依りてなり。剩(あまつさ)へ此の德充ちて、天下を一統にして、八百の運祚(うんそ)を持(たも)ちき。されば、太守一人少欲に成り給はゞ、一天下の人皆かゝるべしと云々。此の教訓を承りしに、心肝に銘じて深く大願を發し、心中に誓つて此の旨を守りき。隨つて義時朝臣逝去の時、頓死(とんし)にて在りしかば、讓状(ゆづりじやう)の沙汰にも及ばざりし程に、二位家の命にて、泰時嫡子たる上は分限(ぶんげん)少なくては何としてか天下の御後見(おんうしろみ)をもすべきなれば、皆管領(くわんりやう)して、舍弟共には分々に隨ひて少しづゝ分け與ふべきよし承りしかども、つらつら父義時の心を思ふに、我よりも遙かに此の舍弟共をば鐘愛(しようあい)せられしぞかし。然れば父の心にはかやうにこそ取らせたく思ひ給ひけんと推量(おしはか)りて、舍弟朝時(ともとき)・重時巳下に宗(むね)と多く分け與へて、泰時が分には三四番の末子の分限程少なく取りき。かやうにては如何としてか御後見をもすべきとて、二位家よりも諫められしかども、今までは聊も不足と思ふこともなし。此の如く萬(よろづ)少欲に振舞し故やらん、天下日に隨つて治まり、諸國も年を逐うて穩なり。孝の宜しきを見るは繁(しげ)く、訴への曲(ゆが)めるを聞くは少し。是れ一筋に此の上人の恩言(おんごん)に依れりとて涙をぞ拭ひ給ひけり。此の太守の前に訴訟の人番(つが)ひて來り望むには、對面し給ひて、暫(しばし)が間兩人の面をつくづくと守りて仰せられて云はく、泰時天下の政を務めて人の心に奸曲(かんきよく)なからんことを存ず。然るに唯今の爭ひ來らるゝ二人の中に、一方は必定(ひつぢやう)して奸謀(かんぼう)なるべし。廉直(れんちよく)の中には更に論あることなし。來るいくかの日兩方の文書を持ち來らるべし。當日に正して奸謀不實の仁においては、則ち其の輕重(けいちやう)に隨つて、忽に死罪にも流罪にも申し行ふべし。奸智の者、一人も國にあれば、萬人に禍を及ぼす失あり。天下の大きなる敵、何事か是にしくべき、とくとく歸り給ふべしとて立てられけり。此の體を見るに、軈て何なる目にも合せられぬべし、益なしとて、各歸つて後兩方云ひ合はせて、或は和談し、或るは僻事(ひがごと)のある方は私に負けて、論所をも去り渡しけり。無欲なる體に振舞ふ人をば甚だ感じ賞し、欲がましき者に向ひては或るは嗔(いか)り、或は恥しめ給ひしかば、人々如何かしてか無欲に尋常なる事し出して、聞え奉らんとのみ、遠き境も近き所も心を一にして勵みしかば、物を掠(かす)めとらん奪ひ取らんとする訴は絶えて無(なか)りき。去るに付きては國々穩(おだ)しく治まりて、政喧かまびす)しからず。寛喜元年に天下飢饉なりし時は、京・鎌倉を始めとして諸國に富(とめる)者に我せう主に成りて、委しき狀を書かせ判を加へて、利を副(そ)へて米を借りて、其の郡・其の郷・村々に餓死せんとする者の所望に隨つて、むらなく貸(かし)たびけり。來年中に世立直(たちなほ)らば、本物ばかり慥(たしか)に返納すべし、利分は我方より添へて返すべしと、法度(はつと)を定められて面々の狀を召置かれけり。只くばり給はば、所々の奉行も紛(まぎ)らかしてわゝくもありぬべければ、さるまじき爲にや賢かりし沙汰なり。さて世立直りて、面々返納すれば、本(もと)所領なんどもありて便り在る人のをば、本物計り納めさせて、本主には約束のまゝに、我が方より利分(りぶん)を添へて、慥かに返し遣はされけり。無緣なる聞えある者をば皆免(ゆる)したびて、我が領内の米にてぞ本主へは返したびける。かやうの年は家中に毎事儉約を行ひて、疊を始として一切のかへ物共をも古き物を用ひ、衣裳の類(たぐひ)も新しきをば著せず、烏帽子(ゑぼし)の破れたるをだにもつくろひ續(つが)せてぞ著給ひけり。夜は燈なく晝は一食を止めて、酒宴遊覽の儀なくして此の費を補ひ給ひけり。心ある者見聞く類、涙む落さずと云ふことなし。然るに太守逝去の後漸く父母に背き、舍弟を失はんとする訴論多く成りて、人倫の孝行日に添へて衰へ、年に隨つて廢れたり。げに只上人の御教の如く、一人正しければ萬人隨へること分明也けりとぞ申し侍りし。
[やぶちゃん注:明恵を出発点としながら、泰時の讃美にスライドする本条(若しくはそのプロトタイプ)は、確かに名執権とされた泰時の客観的な側面や事実を押さえながらも、どこか親幕的な目的を持った政治的意図の臭気を感じる。
「秋田城介入道大蓮房覺知」安達景盛。既注済み。
「奸しくわゝにのみ成りて」「かたまし」は心がねじけているさまで、「わわなり」は形容詞「わわし」の形容動詞化で、落ち着きがなくなるさま。世の大勢(たいせい)の人心が殊更にねじ曲って、巷が何かと騒がしくなるばかりで、の意。
「妄醫」「まうい(もうい)」と読むか。藪医者のこと。
「運祚」原義は、天から受けた幸せ、天運のことであるが、転じて天子の位及び天運によって帝位に就くことを指し、ここはその在位期間(の永きに亙ったこと)をいう。
「二位家」北条政子。]

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