中島敦短歌拾遺(3)
相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を提げて來しかな
送らうといへば手を振り「いや」といふかつては「ノン」といひてしものを
[やぶちゃん注:底本の「手帳」の部の「昭和十二年」の十一月七日の日録の中に出現する二首。「南南豆」はママ。無論、「南京豆」の誤記。年譜には、まさにこの年のこの『十一月から十二月にかけて「和歌五百首」成る』とあり(「和歌五百首」とは全集第二巻所収の「歌稿」群を指す)、この日よりも前の部分にその雰囲気が伝わってくる記載があるので、この日までを以下に示す。
十一月三日(水)何トナク和歌ガツクリタクナル/作リ出スト20首程タチドコロニデキル
十一月四日(木)又、歌三〇首ほど
十一月五日(金)約三十首
十一月六日(土)約二十首
十一月七日(日)朝天氣ヨシ/吉村氏來、avec 南京豆
として、二首が載る。但し、一首目には「提げて」を「持ちて」とする別案のメモが示されているので別案を復元しておく。
相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を持ちて來しかな
「吉村氏」吉村睦勝。横浜高等女学校の同僚で友人。後に金沢大学教授(物理学)。旧全集には例外的に(友人・知人書簡は極めて少ない中で)彼宛の書簡は十通も掲載されている。書簡番号五五同昭和一二年十一月九日附吉村宛(『横濱市中區本郷町三ノ二四七』発信で宛先は『神奈川縣秦野町乳牛二三九一井上方』)には、
一昨日は南京豆を難有う、話の巧い羊毛宣傳家は高橋六郎氏、アドレスは京橋區槇町一ノ五城邊ビルディング、日本羊毛普及會内 紙芝居の方も判り次第知らせる
只今、喘息につての切拔到着、御親切にありがたう
九日
とある。]
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