胎内の動き知るころ骨がつき 鶴彬 / 反戦川柳の悲劇の詩人鶴彬(つるあきら)の生涯と作品抄
胎内の動き知るころ骨がつき 鶴彬
鶴彬(つるあきら、明治四〇(一九〇八)年~昭和一三(一九三八)年)
反戦川柳作家。本名、喜多一二(きたかつじ)。石川県河北郡高松町(現かほく市)生。小学校在籍中から『北国新聞』子ども欄に短歌・俳句を投稿、大正一〇(一九二一)年、尋常小学校卒業。師範学校進学を養父に拒まれて断念、高等科に進学。近所の川柳家岡田太一(澄水)に川柳の指導を受け、句作を始めた。工場労働者を生業とする傍ら、プロレタリア川柳へと傾斜するも、多くの川柳誌で続々と掲載拒否の対象となる。昭和三(一九二八)年に「高松川柳会」を設立、プロレタリア川柳を唱導。全日本無産者芸術連盟(ナップ)高松支部を結成するが、喜多一二ら四名検束される。昭和五(一九三〇)年、徴兵検査甲種合格、金沢の第九師団歩兵第七連隊に入隊するも、反軍的行動により軍律違反として重営倉を食らい、昭和六(一九三一)年には『無産青年』所持及び隊内配布等の反戦行動の主犯(七連隊赤化事件)とされて、治安維持法違反の罪で大阪衛戍監獄に収監(刑期一年八ヶ月)。刑期終了後上京。昭和一二(一九三七)年深川にある木材通信社に就職するが、十二月、創作作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕、中野区野方署に留置さる。参照したウィキの「鶴彬」では翌昭和一三年八月、野方署にて赤痢に罹患、豊多摩病院に入院するも手遅れで死去した、とあるが、これは警察発表によるものと思われ、大阪市港区・西区の情報サイトにある三善貞司氏の「わが町人物誌」(鶴彬は大阪衛戍監獄に収監される以前にも大正一五(一九二六)年十七歳の時に此花区四貫島の従兄弟喜多市郎を頼って来阪、一年ほど町工場で働いている)の「鶴彬(三)」の末尾には『リンチのようなむごたらしい取調べを受けて、同年8月29才で死亡しました。警察の発表は赤痢(せきり)による病死だとなっています』とある。
冒頭に掲げた一句は、臨月を迎えた女性が戦死した夫の遺骨を受け取るというシチュエーションを、獄中にて詠んだもので、鶴彬最後の句とされる。
*
――鶴彬の川柳より(「鶴彬」Wikiquote に拠るが、恣意的に正字化した)
俺達の血にいろどつた世界地圖
飢迫る蟻米倉をくつがへし
軍神の像の眞下の失業者
毒瓦斯が霽(は)れて占領地の屍
血税に上る兵工廠の煙
指のない手に組合旗握りしめ
稼ぎ手を殺し勳章でだますなり
肺を病む乳房にプロレタリアの子
血を喀いて坑をあがれば首を馘り
晝業と夜業夫婦をきりはなし
足をもぐ機械だ手當もきめてある
孫までも搾る地主の大福帳
奪はれた田をとりかへしに來て射殺され
銃劍で奪つた美田の移民村
ふるさとは病ひと一しょに歸るとこ
血を吸ふたままのベルトで安全デー
轉地すれば食へぬ煙の下で病み
嫁入りの晴衣こさえて吐く血へど
ベルトさへ我慢が切れた能率デー
みな肺で死ぬる女工の募集札
吸ひに行く―姉を殺した綿くずを
ざん壕で讀む妹を賣る手紙
修身にない孝行で淫賣婦
待合で徹夜議會で眠るなり
賣った日を命日よりもさびしがり
フジヤマとサクラの國の餓死ニュース
屍のゐないニュース映畫で勇ましい
萬歳とあげて行った手を大陸において來た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
ロボットを殖やし全部を馘首する
*
――「名詩の林」の「鶴彬」で、彼の十三篇の詩が読める。
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