衰へや齒に喰あてし海苔の砂 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)
衰へや齒に喰あてし海苔の砂
老年を自覺する悲哀が、人生の味氣なさと共に、泌々と寂しげに嘆息されてる。「齒に食ひあてし」といふ言葉が、如何にも味氣なく恨めしさうである。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。「泌々」はママ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では以下のように改稿されている。
獨居する芭蕉の心に、次第に老が近づくのを感じて来た。さらでだに寂しい悔恨の人生である。その上にまた老年が迫つて來ては、心の孤獨のやり場所もないであらう。「齒に喰ひあてし」といふ言葉の響に、如何にも砂を嚙むやうな味氣なさと、忌々しさの口惜しい情感が現はれてゐる。
この評釈を以って初出版の「芭蕉私見」は終わっている。エンディングに配する評釈としては如何にもしょぼい。]