日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 4 旅つれづれ その二
我々が休憩した宿屋の部屋部屋には、支那文字の格言がかけてある。日本人の通弁がその意味を訳そうとして一生懸命になる有様は中々面白い。我々として見ると、書かれた言葉が国民にとってそれ程意味が不明瞭であることは、大いに不思議である。読む時に、若し一字でも判らぬ字があると、通弁先生は五里霧中に入って了う。接続詞が非常にすくなく、また文脈は役に立たぬらしい。今 Penny wise pound foolish――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。この格言が初めてである場合、若し四字の中の一字が判らないと、全体の意味が更に解釈出来なくなる。つまり…… penny wise……foolish とか、……wise pound foolish とか(外の字が判らぬにしても同様である)いう風になって、何のことやら訳が判らぬ。我々の通弁が読み得た文句は、いずれも非常に崇高な道徳的の性質のものであった。格言、古典からのよき教え、自然美の嘆美等がそれである。このような額は最も貧弱な宿屋や居酒屋にでもかけてある。それ等の文句が含む崇高な感情を知り、絵画の優雅な芸術味を認めた時、私は我国の同様な場所、即ち下等な酒場や旅籠(はたご)屋に於る絵画や情趣を思い浮べざるを得なかった。
[やぶちゃん注:「今 Penny wise pound foolish――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。」原文は“Let us suppose the proverb, "Penny wise, pound foolish,"
written in four Chinese characters.”。ここのみ、石川氏の割注をそのままの形で示した。]
田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前のきれいに掃かれた歩道、家内にある物がすべてこざっぱりとしていい趣味を現わしていること、かわいらしい茶呑み茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これらの美しい品物はすべて、あたりまえの百姓家にあるのである。
[やぶちゃん注:「鏡板」は「かがみいた」と読み、壁や天井などに張る、平らで滑らかな一枚板のこと。原文は“panels”。
「木質のきのこ」原文“woody fungus”。硬質の担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum の類の加工品か。しかし私は寧ろ、モースの質問答えた通弁の言葉を何か取り違えた(例えば茸が採れる木とか、茸を生やすために切り出した材木とか)のではなかろうかと疑っている。]
この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――きわめて些細なことにでも――で示されている。子どもが誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、奇麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我国ではこわれた窓硝子を古い帽子や何かをつめこんだ袋でつくろうのであることを思い出した。
穀物を碾(ひ)く臼は手で回すのだが、余程の腕力を必要とする。一端を臼石の中心の真上の桷(たるき)に結びつけた棒が上から来ていて、その下端は臼の端に着いている。人はこの棒をつかんで、石を回転させる(図38)。稲の殻を取り去るには木造で石を重りにした一種の踏み槌が使用される。人は柄の末端を踏んで、それを上下させる。この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見るとシナではすくなくとも二、○○○年前からあるのである。この米つきは東京の市中に於てでも見られる(図39)。搗(つ)いている人は裸で、藁繩で出来たカーテンによって隠されている。このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通りぬけ得るから、誠に便利である。帳として使用したらよかろうと思われる。
[やぶちゃん注:図39は言わずもがなであるが、唐臼(からうす)である。
「藁繩で出来たカーテン」原文“a curtain consisting of strands of straw rope”。石川氏は直下に『〔縄のれん〕』と割注する。]
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