フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 戀さまざま願の糸も白きより 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) 《注を追加したリロード》 | トップページ | Mes Virtuoses (My Virtuosi) ハイフェッツを聴く 三首 中島敦 »

2013/09/13

小鳥來る音うれしさよ板庇 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   小鳥來る音うれしさよ板庇

 渡り鳥の歸つて來る羽音を、爐邊に聽きく情趣の侘しさは、西歐の抒情詩、特にロセツチなどに多く歌はれて居るところであるが、日本の詩歌では珍しく、蕪村以外に全く見ないところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥來る」の句などは、日本の俳句の範疇してゐる傳統的詩境、即ち俳人の所謂「俳味」とは別の情趣に屬し、むしろ西歐詩のリリカルな詩情に類似して居る。今の若い時代の靑年等に、蕪村が最も親しく理解し易いのはこの爲であるが、同時にまた一方で、傳統的の俳味を愛する俳人等から、ややもすれば蕪村が嫌はれる所以でもある。今日「俳人」と稱されてる專門家の人々は、決してこの種の俳句を認めず、全くその詩趣を理解して居ない。しかしながら蕪村の本領は、却つてこれらの俳句に盡くされ、アマチユアの方がよく知るのである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。本文中の『前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」』は先行する「夏の部」に現われる。以下に示す。

   愁ひつつ丘に登れば花茨

「愁ひつつ」といふ言葉に、無限の詩情がふくまれて居る。無論現實的の憂愁ではなく、靑空に漂ふ雲のやうな、または何かの旅愁のやうな、遠い眺望への視野を持つた、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主觀の情愁に對象されてる。西洋詩に見るやうな詩境である、氣宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れて居る。

「氣宇」は器宇とも書き、心の持ち方(特にその広さ)・気構え・度量の意。]

« 戀さまざま願の糸も白きより 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) 《注を追加したリロード》 | トップページ | Mes Virtuoses (My Virtuosi) ハイフェッツを聴く 三首 中島敦 »