小鳥來る音うれしさよ板庇 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
小鳥來る音うれしさよ板庇
渡り鳥の歸つて來る羽音を、爐邊に聽きく情趣の侘しさは、西歐の抒情詩、特にロセツチなどに多く歌はれて居るところであるが、日本の詩歌では珍しく、蕪村以外に全く見ないところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥來る」の句などは、日本の俳句の範疇してゐる傳統的詩境、即ち俳人の所謂「俳味」とは別の情趣に屬し、むしろ西歐詩のリリカルな詩情に類似して居る。今の若い時代の靑年等に、蕪村が最も親しく理解し易いのはこの爲であるが、同時にまた一方で、傳統的の俳味を愛する俳人等から、ややもすれば蕪村が嫌はれる所以でもある。今日「俳人」と稱されてる專門家の人々は、決してこの種の俳句を認めず、全くその詩趣を理解して居ない。しかしながら蕪村の本領は、却つてこれらの俳句に盡くされ、アマチユアの方がよく知るのである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。本文中の『前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」』は先行する「夏の部」に現われる。以下に示す。
愁ひつつ丘に登れば花茨
「愁ひつつ」といふ言葉に、無限の詩情がふくまれて居る。無論現實的の憂愁ではなく、靑空に漂ふ雲のやうな、または何かの旅愁のやうな、遠い眺望への視野を持つた、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主觀の情愁に對象されてる。西洋詩に見るやうな詩境である、氣宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れて居る。
「氣宇」は器宇とも書き、心の持ち方(特にその広さ)・気構え・度量の意。]
« 戀さまざま願の糸も白きより 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) 《注を追加したリロード》 | トップページ | Mes Virtuoses (My Virtuosi) ハイフェッツを聴く 三首 中島敦 »