藪入の夢や小豆の煮えるうち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
藪入の夢や小豆の煮えるうち
藪入で休暇をもらった小僧が、田舍の實家へ歸り、久しぶりで兩親に逢あつたのである。子供に御馳走しようと思つて、母は臺所で小豆を煮にてゐる。そのうち子供は、炬燵にもぐり込んで轉寢をして居る。今日だけの休暇を樂しむ、可憐な奉公人の子供は、何の夢を見て居ることやら、と言ふ意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、單にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘しい思慕を、遠い郷愁のやうに懷かしんでる情想の主題(テーマ)を見るべきである。かうした郷愁詩の主題(テーマ)として、蕪村は好んで藪入の句を作つた。例へば
藪入やよそ目ながらの愛宕山
藪入のまたいで過ぬ凧の糸
等、すべて同じ情趣を歌つた佳句であるが、特にその新體風の長詩「春風馬堤曲」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄であるところの、遠い時間への懷古的郷愁を咏嘆して居る。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあつたに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあつたことを、讀者は特に注意して鑑賞すべきである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]
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