綾鼓
ふと能の「綾鼓」を思い出し、綴りたくなった。――
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綾鼓(あやのつづみ)
女御(ツレ)に恋慕した庭掃きの老人(シテ)は、廷臣(ワキ)を通して伝えられた女御の池の畔りの桂木に吊るした鼓を打ってその音(ね)が聴こえたら姿を見せてやると伝える。老人は懸命に鼓を打つ。
シテ「げにや承り及ぶ月宮(げつきう)の月の桂こそ、名にたてる桂木(けいぼく)なれ、これは正しき池邊(ちへん)の枝に、掛かる鼓の聲(こゑ)出でば、それこそ戀の束(つか)ねなれと、〽夕(いふべ)の鐘の聲そへて、また打ち添ふる日並(ひなみ)の數。
地謠〽後(のち)の暮(くれ)ぞと賴め置く、後の暮ぞと賴め置く、時の鼓を打たうよ。
シテ〽さなきだに闇の夜鶴の老の身に、
地謠〽思ひを添ふるはかなさよ〔シオリ〕。
シテ〽時の移るも白波の、
地謠〽鼓は何(なに)とて、鳴らざらん。
シテ〽後の世の近くなるをば驚かで、老に添へたる戀慕の秋。
地謠〽露も涙もそぼちつゝ、心からなる花の雫の、草の袂に色添へて、何を忍(しのぶ)の亂れ戀(ごひ)。
シテ〽忘れんと思ふ心こそ。
地謠〽忘れぬよりは思ひなれ。
地謠〽しかるに世の中は、人間萬事、塞翁が馬なれや、隙(ひま)行く日數移るなる、年去り時は來れども、つひにゆくべき道芝(みちしば)の、露の命の限りをば、誰(たれ)に問はましあぢきなや、などさればこれほどに、知らばさのみに迷ふらん〔シオリ〕。
シテ〽驚けとてや東雲(しののめ)の、
地謠〽眠りを覺ます時守(ときもり)の、打つや鼓の數繁く、音に立たば待つ人の、面影もしや御衣(みけし)の、綾の鼓とは知らずして、老の衣手(ころもで)力添へて、打てども聞えぬは、もしも老耳(ろうに)の故やらんと、聞けども聞けども、池の波窓の雨、いづれも打つ音(おと)はすれども、音(おと)せぬ物はこの鼓の、あやしの太鼓や、何とて音(ね)は出でぬぞ〔シオリ〕。
――しかしその鼓は皮の代わりに綾を張ったもの――幾ら打っても音は出ぬ。……
地謠〽思ひやうちも忘るゝと、綾の鼓の音(ね)もわれも、出でぬを人や待つらん。
シテ〽出でもせぬ、雨夜(あまよ)の月を待ちかぬる、心の闇を晴らすべき、時の鼓も鳴らばこそ。
地謠〽時の鼓のうつる日の、昨日今日とは思へども。
シテ〽賴めし人は夢にだに、
地謠〽見えぬ思ひに明暮(あけくれ)の、
シテ〽鼓も鳴らず、
地謠〽人も見えず、こは何(なに)と鳴神(なるかみ)も、思ふ仲をば放(さ)けぬとこそ聞きしものをなどされば、か程の緣なかるらんと〔シオリ〕、身を恨み人を託(かこ)ち、かくては何(なに)のため、生(い)けらんものを池水(いけみづ)に、身を投げてうせにけり、憂き身を投げて失せにけり。
――悲嘆に暮れた老人は池水に入水し、果てる――
《中入》
――廷臣(ワキ)が女御に老人の死を告げる。池畔に立つ女御(ツレ)――その様子は何か妖しげである――
ツレ〽いかに人々聞くかさて、あの波の打つ音(おと)が、鼓の聲に似たるはいかに。
ツレ〽あら面白の鼓の聲や、あら面白や。
ワキ〽不思議やな女御の御姿(おんすがた)、さも現(うつつ)なく見え給ふは、いかなる事にてあるやらん。
ツレ〽現なきこそ理(ことわり)なれ、綾の鼓は鳴るものか。鳴らぬを打てと言ひし事は、我が現なき初めなれと、
ワキ〽夕波(いふなみ)騷ぐ池の面(おも)に、
ツレ〽なほ打ち添ふる、
ワキ〽聲ありて。
――老人の霊が出現し――
後シテ〽池水(いけみづ)の、藻屑となりし老の波、
地謠〽また立ち歸る執心の恨み、
後シテ〽恨みとも歎きとも、言えばなかなかおろかなる。
地謠〽一念嗔恚(しんに)の、邪婬の恨み、晴れまじや、晴れまじや、心の雲水(くもみづ)の、魔境(まきやう)の鬼(おに)と今ぞなる。
後シテ〽小山田(おやまだ)の苗代水(なはしろみづ)は絶えずとも、心の池の言ひは放なさじとこそ思ひしに、などしもされば情(なさけ)なく、鳴らぬ鼓の聲立てよとは〔ツレへ向く〕、心を盡し果てよとや〔ツレの方へ一歩出、杖を以って床を突き鳴らす〕。
後シテ〽心づくしの木(こ)の間の月の、
地謠〽桂(かつら)にかけたる綾の鼓〔両の手を合わせ、鼓を見つめる〕、
後シテ〽鳴るものか〔ツレへ向く〕、鳴るものか、打ちて見給へ〔ツレの方へ一歩出、杖を棄てる〕。
地謠〽打てや打てやと攻め鼓〔ツレへ寄る〕。寄せ拍子(びやうし)とうとう、打ち給へ打ち給へとて〔ツレの胸を執って引き立てる〕、笞(しもと)を振り上げ責め奉れば〔打ち杖を振り上げる〕、鼓は鳴らで悲しや悲しやと〔ツレ、シオリ〕、叫びまします女御の御聲(おんこゑ)、あららさて懲りやさて懲りや〔右手でツレを指して足拍子〕。
地謠〽冥途の刹鬼(ぜつき)阿防羅刹(あばうらせつ)〔足拍子〕、冥途の刹鬼阿防羅刹の、呵責(かしやく)もかくやらんと、身を責め骨を碎く、火車(くわしや)の責めといふとも〔足拍子、正面へ〕、これにはまさらじ恐ろしや、さて何(なに)となるべき因果ぞや〔ツレへ向いて一歩出る〕。
後シテ〽因果歷然は目(ま)のあたり、
地謠〽歷然は目のあたり〔足拍子〕、知られたり白波の、池のほとりの桂木(けいぼく)に〔作り物を指す〕、掛けし鼓の時も分かず〔打ち杖を振り上げて作り物に登る〕、打ち弱り心盡きて〔下る〕、池水(いけみづ)に身を投げて〔安座す〕、波の藻屑と沈みし身の、程もなく死靈(しりやう)となつて〔立つ〕、女御に憑き祟つて〔ツレを凝視す〕、笞(しもと)も波も打ち叩く〔立って打ち杖を揮う〕、池の氷(こほり)の東頭(とうとう)は〔見回し、足拍子〕、風渡り雨落ちて〔左袖で被(かず)く〕、紅蓮大紅蓮(ぐれんだいぐれん)となつて〔角へ〕、身の毛もよだつ波の上に〔足拍子〕、鯉魚(りぎよ)が踊る惡蛇となつて〔左から周って常座へ〕、まことに冥途の鬼といふとも〔左袖を返し、ツレへ向き直る〕、かくやと思ひ白波の、あら恨めしや恨めしや〔中央へ〕、あら恨めしや、恨めしの女御やとて〔周って常座へ〕、戀の淵にぞ入りにける〔両手を打ち杖に添えて膝をつく停まる〕。
[やぶちゃん注:引用本文の底本は小学館の「日本古典全集 謡曲集(2)」を元にしたが、総て恣意的に正字化し、また平仮名表記の一部を漢字に変えてある。一部の読みを省略したり、追加したりしている。一部に入れた所作(主にシテのそれ)は同書を参考にしたが、同じ言い方を用いずに私が分かり易いと判断する表現に変更してある。]