霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 於外人墓地 十七首 中島敦 / 霧・ワルツ・ぎんがみ 了
(以下於外人墓地 十七首)
見まく欲(ほ)り來(こ)しくもしるし山手なる外人墓地の秋草の色
秋なれば外國(とつくに)びとの墓處(はかど)にも大和白菊供へたりけり
敷島のやまとの國のさ丘べに永久(とは)にいねむと誰が思ひけめ
愛蘭土(あいるらんど)シャノンの畔(ほとり)キャリックに生(うま)れし子かも今こゝに眠る
[やぶちゃん注:「キャリック」キャリック・オン・シャノン(Carrick-on-Shannon)。アイルランド北西部リートリム州の町。シャノン川沿いに位置し、十九世紀、水上交通の要衝として栄えた。現在は釣りの名所として知られ、毎年八月に音楽祭が催される観光地である。]
主の御名(みな)は讚(ほ)められてあれと刻みける石碑(いし)の背後(そがひ)の黃なる秋薔薇
石碑(いしぶみ)の聖書の文字を誦(ず)しゐれば秋の薔薇(さうび)の花散りにけり
妹(いも)死にてやがて二年(ふたとせ)その夫(つま)もあと追ひけりと碑に書きたるを
たらちねの母と眠るよ亞米利加の總領事とふジョーヂ・スィドモア
[やぶちゃん注:「ジョーヂ・スィドモア」ジョージ・ホーソーン・シドモア(George Hawthorne Scidmore 一八五四年~大正一一(一九二二)年)横浜駐在アメリカ領事。生え抜きの外交官として永く横浜領事や長崎領事を勤めた。一九二二年十一月二十七日逝去、享年六十七歳。墓は山手外人墓地一一区三〇にある。]
はゝそはの母を悼むと築(つ)きし墓に子も入りてよりはやも幾年(いくとせ)
いと小(ち)さく白き十字架碑を見れば生(あ)るゝとやがて死にしみどり兒
いと小(ち)さき墓のほとりに色紅(あか)くヂェラニウムの花咲きにけらずや
‘Sleep on, Beloved. Sleep and take thy rest. (いとし見よ眠れ。やすけく息へよ。)’と刻みたりけり小さき墓石に
[やぶちゃん注:「いとし見よ眠れ。やすけく息へよ。」は底本では‘’内の英文のルビ。「‘」は底本では下付き。]
何しかも世には生(あ)れ來(き)し汝(し)が親の心しぬべば我はも泣かゆ
汝(し)が拳(こぶし)小さくありけむ汝(し)が衣(きぬ)も愛しくありけむと我はも泣かゆ
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、以上の五首、敦は直近の昭和一二(一九三七)年一月十三日に生まれて三日後に亡くなった長女正子への思いを重ねて慟哭しているのである。]
印度なるマドラスの人ランガンの墓の芭蕉葉秋寂びにけり
[やぶちゃん注:「ランガン」不詳。ネット記載に横浜居留地で明治二(一八六九)年一月、最初に四両の馬車を使って路線営業を始めた会社として、居留地百二十三番に店を持っていたランガン商会が挙がっている。この所縁の人物か?]
この丘に眠る舶乘(マドロス)夜來れば海をこほしく雄叫(をたけ)びせむか
[やぶちゃん注:「こほしく」は「戀(こほ)し」で、「戀(こひ)し」の上代語。]
朝曇りこの墓原に吾がゐれば汽笛とよもし船行くが見ゆ
*
秋一日(いちじつ)――かの中島敦が十七首を携へ、山手外人墓地を逍遙するも、これ、一興ならん――
これを以って味わい深かった「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦」全篇が終わる。
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