甲斐ヶ嶺や穗蓼の上を鹽車 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
甲斐ヶ嶺や穗蓼の上を鹽車
高原の風物である。廣茫とした穗蓼の草原が、遠く海のやうに續いた向ふには、甲斐かいの山脈が日に輝き、うねうねと連なつて居る。その山脈の道を通つて、駿河から甲斐へ運ぶ鹽車の列が、遠く穗蓼の隙間から見えるのである。畫面の視野が廣く、パノラマ風であり、前に評釋した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」などと同じく、蕪村特有の詩情である。旅愁に似たロマンチツクの感傷を遠望させてる。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。本文中の『前に評釋した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」』の句は、評釈の前にも冒頭の総論「蕪村の俳句について」でも、他五句とともに掲げて以下のように述べている。
陽炎(かげろふ)や名も知らぬ蟲の白き飛ぶ
更衣野路の人はつかに白し
絶頂の城たのもしき若葉かな
鮒鮓や彦根が城に雲かかる
愁ひつつ岡に登れば花いばら
甲斐ケ嶺(ね)や穗蓼(ほたて)の上を鹽車
俳句といふものを全く知らず、況んや枯淡とか、洒脱とか、風流とかいふ特殊な俳句心境を全く理解しない人。そして單に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだらう。何となれば、これらの句には、洋畫風の明るい光と印象があり、したがつてまた明治以後の詩壇に於ける、歐風の若い詩とも情趣に共通するものがあるからである。
僕が俳句を毛嫌ひし、芭蕉も一茶も全く理解することの出來なかつた靑年時代に、ひとり例外として蕪村を好み、島崎藤村氏らの新體詩と竝立して、蕪村句集を愛讀した實の理由は、思ふに全くこの點に存して居る。即ち一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古來日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であつたやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだつた。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる、一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的靑春性を指してゐるのである。
「穗蓼(ほたて)」のルビの「て」、「理解しない人。」の読点はママ。先行する「夏の部」に現われる評釈は、
鮒鮓や彦根の城に雲かかる
夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴイジヨンを浮べたのである。鮒鮓を食つたのではなく、鮒鮓の聯想から、心の隅の侘しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」といふ言葉、その特殊なイメーヂが、夏の日の雲と対照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀れた技巧を見るべきである。島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と、どこか共通した詩情であつて、もっと感覺的の要素を多分に持つて居る。
を指す。]
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