日の道や葵かたむく五月雨 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)
日の道や葵かたむく五月雨
三木露風氏はかつてこの句を推賞して、芭蕉象徴詩の例題とした。曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の晝に、向日葵はやはり日の道を追ひながら、雨にしほれて傾いて居るのである。或る時間的なイメーヂを伴つてゐるところの、沈痛な魂の冥想が感じられ、象徴味の深い俳句である。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。初出では「向日葵」は「日向蔡」。これは読めないので訂した。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、
曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の晝に、向日葵はやはり日の道を追ひながら、雨にしをれて傾いて居るのである。或る時間的なイメーヂを持つてゐるところの、沈痛な魂の瞑想が感じられ、象徴味の深い俳句である。
となっている。他者の推賞を削る辺り、如何にもさもしい、という気が私にはする。句は元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十七歳の時のもの。なお、朔太郎は「向日葵」(キク目キク科キク亜科ヒマワリ属
Helianthus annuus と断じているが、これは蜀葵(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea)の可能性も有意に高い(タチアオイなどに顕著であるが、アオイ科の植物には葉や花に相応の向日性がある。そもそも「葵(あおい)」は「仰(あふ)ぐ日(ひ)」の意味なのである)。私は江戸時代の景観からもタチアオイで採りたい口である。]