中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(4) 中島敦の謎めいた恋愛悲傷歌群
宵々の家になりはひ憎とふ君をし思へば心苦しも
[やぶちゃん注:私はこの歌から「かの宵」での恋歌十一首には、現在知られていない中島敦のある秘密が隠されていると確信する。その秘密とは、宵闇に浮ぶ団欒の燈火を見て連れの男に「憎し」と呟く女はどんな存在の女性かを考えて見れば、お分かり戴けるものと思う。]
心迫りスコップ捨てゝ立ちにけり花を植ゑゐる心にあらず
[やぶちゃん注:庭に本格的に根付かせる花を植えるというのは妻も子もある家庭人である。しかしこの一家の主人は茫然とし、その心はここならぬ彼方へあくがれ出でて呆けているではないか。その魂のあくがれ出でる先は明らかに恋する女の元であることは言を俟たぬ。そしてそれは無論、この庭のある家庭の幸せな妻とは異なる女性であるとしか考えられまい。]
今はたゞあはまほしさにねに泣きて伏してをるてふ言のかなしさ
[やぶちゃん注:これはこの女性が敦に逢うことが出来ない、逢いたいのに逢うことが許されていない、禁じられているということを容易に連想させる。そしてそれを「言のかなしさ」は同時に敦自身もこの女の元へ逢いに行くことは叶わない、逢いたいが逢うことは許されていないからこそ、愛(かな)しいのである。]
いたつきに伏すとふ君が手に持てる紙かよこれのふみぞ愛(かな)しき
[やぶちゃん注:逢えないのは「いたつき」(病い)だからなどと解釈してならない。寧ろ、逢うことが許されていない彼女が、逢いたい一心を以って「いたつき」を口実(無論、その真偽を考証する必要は逆にない)に思いの丈を語った恋文なのである。仮に病いが本当ならば、それを見舞いに行って当然である。しかし、敦は行かない、行けないのである。そのような女性は誰か、どのような女性か、どのような状況下で生じた関係とその結果かを類推することは、それほど難しいことだとは思われない。]
せむすべをしらに富士嶺をろがみつ心極まり涙あふれ來
丘行けば富士ケ嶺見えつする河野の朝を仰ぎて君と見し山
昏のまゆの市場の裏路のまゆの匂もなつかしきかな
[やぶちゃん注:この嗅覚的回想の叙景吟も、実はその匂いと黄昏の繭市場を歩む男女の景と結びつく抒情歌であることは最早、疑う余地がない。ここに無縁な叙景歌を一首だけを敦がここに投げ込む必然性は皆無である。この繭の匂いには何か性愛的な匂いさえ私は感じているくらいである。]
かの宵の松葉花火の火の如く我は沿えなむ今はたへねば
[やぶちゃん注:「かの宵の松葉花火」「松葉花火」は線香花火のことである。私が現在、電子化注釈を進めている中島敦の昭和十一年の手帳の中に、次のような詩の一節が現われる。
はかなしや 空に消え行く
花火見し 宵のいくとき
花模樣 君がゆかたに
うちは風 涼しかりしか
かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や
一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人
敦は自身を「しれ人」(痴れ人)としている。この恋は紛れもなく「痴人の愛」なのである(因みに中島敦は谷崎潤一郎の愛読者であった)。]
するが野の八月の朝はつゆしげみ君がす足はぬれにけるかも
[やぶちゃん注:この素足のクロース・アップの画面のただならぬ妖艶さを見よ。]
君が文人目を繁み公園の藤棚の下によめば悲しも
[やぶちゃん注:「繁み」は「しげみ」は上代の用法で、形容詞「しげし」の語幹に原因理由を示す副詞的用法を持つ接尾語「み」がついたもので、「多いので」「うるさいので」の意である。この恋文は誰にも見られてはならないものなのである。]
かの宵の君が浴衣の花模樣まなかひにしてもとな忘れず忘らへぬかも
[やぶちゃん注:「まなかひ」目の当たり。「もとな」副詞で、切に、の意。やはり、昭和十一年の手帳の中に次のような詩の一節が現われる。
なにしかも 君がゆかたのも
花模樣 忘れかねつる
まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな
歩みつる 野遽の草花
そをつみし 君が白き手
一夏の たゞかりそめを
かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ
得思はぬ われは痴人 吾よしれびと
この昭和十一年の手帳のこの詩を再度、全文を引いて示す。
はかなしや 空に消え行く
花火見し 宵のいくとき
花模樣 君がゆかたに
うちは風 涼しかりしか
かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や
一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人
別るゝと かねて知りせば
なかなかに 逢はざらましを
なにしかも 君がゆかたのも
花模樣 忘れかねつる
まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな
歩みつる 野遽の草花
そをつみし 君が白き手
一夏の たゞかりそめを
かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ
得思はぬ われは痴人 吾よしれびと
これらは手帳に書かれたもので、行空きは改頁を示す。中間部(二連目に見えるもの)の二行は、事実は、この女性と敦とが別れた、引き裂かれたことを意味している。
この十一首の恋愛悲傷歌群とこの相聞歌風のそれはどう考えても仮想された恋愛詩歌などでは決してない。
これは「ゆかた」すがたの「うちわ」を持った「君」とある「夏」に「花火を見た」「松葉花火」一緒にして眺めた、その「一夏のたゞかりそめ」の燃え上がった恋、時が経った今以って「忘れ得ぬ」その思い出を詠っているのである。
そして――その「君」とは結局「別」れなければならない運命にあるということが「かねて知」っていたならば、「逢は」なかったものを――私は何という「しれ」者であったことか――と激しく悔やむ、現にその一人の乙女に今も恋い焦がれている――その「一夏の」「たゞ」「かりそめの」恋を決して「忘れ得ぬ」敦のやるせない熱情にふるえる恋歌なのである。
しかも――それは――どう好意的に考えても――現実の妻たか――ではない――のである。]

