夜の脣 大手拓次
夜の脣
こひびとよ、
おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
その やはらかいぬれたくちびるに
なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
ものしづかに とぢてゐてください、
こひびとよ、
はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
きれぎれの かげのあつまりである。
おもひは ふかい地のしたにうもれる。
こひびとよ、
わかばは うすあかくひらくけれど、
わたしの さらぼふこころは 地のしたにうもれる。
[やぶちゃん注: 「なんにもつけないでください、」の一字下げはママ。本詩集のここまでの編集コンセプトでは、これは一行で表記が足らなくなった場合に続いている一行であること示すものである。次の行との対句的表現からもここは、
その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
とするべきところを文選工か植字工が誤ったものではあるまいか。実際、創元文庫版では、かくなっている。なお、創元文庫版では以下に見るように、二連ではなく全体一連で構成されている。
夜の脣
こひびとよ、
おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
ものしづかに とぢてゐてください、
こひびとよ、
はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
きれぎれの かげのあつまりである。
おもひは ふかい地のしたにうもれる。
こひびとよ、
わかばは うすあかくひらくけれど、
わたしの さらぼふこころは 地のしたにうもれる。
なお、「さらぼふ」は現在の「老いさらばう」の「さらばう」の古語で、風雨に曝され、骨と皮ばかりに瘦せ衰えるの意。
ところが実は、この詩は思潮社版では、後半の凡そ三分の一が全く異なっている。以下に示す。
夜の脣
こひびとよ、
おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
ものしづかに とぢてゐてください。
こひびとよ、
はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
おまへのくちびるをつぼみのやうに
ひらかうとして ひらかないでゐてください、
あなたを思ふ わたしのさびしさのために。
この思潮社版は選詩集でありながら編集方針や底本が示されていない非常に困ったものものであるが、これが現在、大勢に於いて正しいと考えられている「夜の脣」の詩形であるものらしい。とのみ述べるに留めておく。]