耳嚢 巻之七 川狩の難を遁るゝ歌の事
川狩の難を遁るゝ歌の事
上總國夷隅郡岩和田村半左衞門と言(いへ)る方へ、其村の船頭の來り、此程よるよる河童來り怖しき由語りければ、半左衞門家に夢承相の歌とて持(もち)傳へしを書(かき)てあたへければ、其後は河童來りても其儘逃去(にげさり)しとや。其古歌は、
ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら
右のひよふすべといふは、川童(かはわろ)の由、官神の緣のよしといふも疑(うたがは)し。土人の物語也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、五つ前の「河怪の事」と同じ夷隅郡しかも川の怪奇譚で強く連関する(その前後も上総が舞台の民話・世間話)から、これも当該話の話者である七都(なないち)がニュース・ソースであったか。
・「岩和田村」現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田。網代湾の東北部分の臨海地区であり。直近の河童が棲息しそうな川は、網代湾奥から御宿町を蛇行しながら縦断する清水川と考えられる。
・「夢承相」意味不明。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『菅丞相(かんしょうじょう)』(歴史的仮名遣では「くわんしようじやう」)とあり、これなら菅原道真の異称で後に出る呪歌の伝承ともうまく一致する。これで採る。
・「ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら」「ひふすべ」は後に記される「ひよふすべ」で、これは河童の一種とされる妖怪の名である。他にもひょうすえ・ひょうすぼ・ひょうすんぼ・ひょうすんべ等とも呼び名する。以下、ウィキの「ひょうすべ」によれば、佐賀県や宮崎県を始めとする九州地方に伝承されるもので、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるものの、実際には河童よりも古くから伝わる呼称ともされる。元の起源は古代中国の水神・武神であった兵主神(ひょうしゅしん)が秦氏ら帰化人と共に伝わったともされ(「ひょうしゅ」が「ひょうず」「ひょうす」「ひょうすべ」と転訛したということであろう)、それが本邦では専ら食料の神として習合して信仰され、現在でも滋賀県野洲市・兵庫県丹波市黒井などの土地では兵主(ひょうず)神社の祭神として祀られているという。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。中でも尤もらしい起源説を含む伝承は、例えば佐賀県武雄市のもので、嘉禎三(一二三七)年に武将橘公業(きみなり)が『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』というものや、『かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』とある。前者は本話の呪歌とも関係が深いもので、『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』とある。他にも道真絡みの伝承が福岡県の北野天満宮に伝わり、実際に「河伯の手」と呼ばれる河童(ひょうすべ)の手のミイラが残るが、これは九〇一年に大宰府に左遷させられた道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、若しくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる(この部分はウィキの「河童」に拠った)。因みに、ひょうすべの特徴を纏めておくと、河童の好物が胡瓜といわれることが多いのに対し、ひょうすべの場合は茄子を好物とするという。人間に病気を流行させる妖怪との説もあって、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するともいい、茄子畑を荒すひょうすべを目撃した女性が全身が紫色(茄子の色であると同時にひょうすべの体色ででもあるのかも知れない)になって死んだという話もあるとする。ひょうすべは一般に毛深いことが外観上の特徴とされ、その体毛や浴びた湯水には毒性があり、触れた馬が死んだ、ひょうすべ自体が馬を殺すという伝承もあるようである(河童駒引きと同話である)。
「飼置せし」「かひおきせし」と読むのであろう。道真が契約によって彼らを保護使役(飼いおく)したことというニュアンスであろうか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの歌、
ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら
で後で見るように、この句形の方が知られており、しかも分かりがよい。今回、訳ではこの句形を採用することとした。
「川立おとこ」泳ぎの上手い男。
底本で鈴木氏はこの歌に、『これとほぼ同じ歌は河童除けの呪歌として各地に伝えられている。たとえば『諸国俚人談』には肥前国諫早の例として、『中陵漫録』には豊後の例として出ている。『物類称呼』には九州で川下りをする時に、「古の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」と唱えるとある。かつて河童が菅原氏の人に糾明せられて、助命と引換えに今後は人間にわるさをせぬと約束したという説話がこれに伴うべきであろう』と注されておられるが、まさに先の北野天満宮の、道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童が逆に道真に手を切り落とされ、普遍的な河童の詫び状伝承に見られるようにそれと引き換えや謝罪のために、万能の霊薬の製造法や言質状を差し出すというパターンである。なお、鈴木氏の挙げた和歌を含むものを仔細に見ておくと、
「諸国俚人談」(俚は里とも書く)は「卷之二 四 妖異部 河童歌 肥前」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第二期第24巻を用いたが、恣意的に正字化した)。
〇河童歌
肥前國諫早の邊に河童おほくありて人をとる。
ひやうせへに川にたちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
此歌を書て海河に流せば害をんさずとなり。ひやうすへは兵揃にて所の名なり。此村に天滿宮のやしろあり。よつてすがはらといふなるべし。〇又長崎の近きに澁江文太夫といふ物、河童を避る符を出す。此符を懷中すれば、あへて害をなさずと云。或時、長崎の番士、海上に石を投て、其遠近をあらそひ賄(うけもの)して遊ぶ事はやる。一夜澁江が軒に來りて曰、此ほど我栖に日毎石を投けおどろかす。是事とゞまらずんば災をなすべしとなり。澁江驚きこれを示す。人皆奇なりとす。
「賄(うけもの)」とは賭けのことであろう。「投け」はママ。この話柄はもしかすると本来は、石投げをやめさせて呉れる交換条件に、河童自身が害を避ける霊符を澁江なる侍に伝授したという原型をも連想させるように思われる叙述である。そうすると霊符の出所も由縁もすっきりして納得出来る伝承となるように私には思われるが、如何であろう。さらに「中陵漫録」は「卷之六」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第三期第3巻を用いたが、恣意的に正字化した)。
〇河太郎の歌
河太郎の人を害する事希にあり。怪しき川に入り水を浴し、又魚を釣るべからず。奥州には此害なけれども、西土には時々此害に逢ふ。此爲に豊後の某、河太郎を禁る事を知て靈符を出す。若し獵に行、或は怪しき水を渡りし時は、此歌三遍祝すべし。其害を防ぐ事、信にしかりと云へり。
ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
「禁る」は「いさめる」、「信に」は「まことに」と訓じていよう。
さて、以上を綜合して考えると、この歌は
――ひょうすべどもよ、お前らが人に悪さを致さぬと私と約束したことを忘れるな! ひょうすべなんど、物の数ではない、何層倍も泳ぎの達者なその男の氏(うじ)は「菅原」だってことを、な!――
という、史上最大級の御霊のチャンピオン、道真由来の呪歌の、かなり、ステロタイプな一つであることがよく理解されるのである。
・「官神」底本では右に『(菅神)』という訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
川漁の際に河童の難を遁るる歌の事
上総国夷隅郡(いすみのこおり)岩和田村の半左衛門と申す者の元へ、その村の船頭が来たって、
「……実はこの頃、夜の漁(すなど)りに出ずるに、夜な夜な、河童らしき妖怪(あやかし)が現われては、脅かすによって、怖しゅうてなりませぬ。……」
と語ったによって、半左衞門は『菅丞相(かんしょうじょう)の歌』とて、代々家に伝わって御座る呪(まじな)いの和歌を書いて与えたところが、その後は河童が舟近くに現われても、何もせず、そのまま逃げ去るようになったとか申すことで御座った。
その古歌と申すは、
ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら
と申す一首なそうな。
この和歌の「ひよふすべ」と申すは、川童(かわわろ)、河童のことを言う由にて、その呪文は菅公天神さまの縁(えにし)によるもののなりと申すも――これは、まあ、疑わしきものでは御座る。
地(じ)の者の物語った話で御座る。
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