冬近し時雨の雲も此所よりぞ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
冬近し時雨の雲も此所よりぞ
洛東に芭蕉庵を訪ねた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拜し、自分の墓地さへも芭蕉の墓と竝べさせたほどであつた。その崇拜する芭蕉の庵を、初めて親しく訪ねた日は、おそらく感激無量であつたらう。既に年經て、古く物さびた庵の中には、今も尚ほ故人の靈が居て、あの寂しい風流の道を樂しみ、靜かな瞑想に耽つているやうに見えたか知れない。「冬近し」といふ切迫した語調に始まるこの句の影には、芭蕉に對する無限の思慕と哀悼の情が含まれて居り、同時にまた芭蕉庵の物寂びた風情が、よく景象的に描き盡つくされて居る。流石に蕪村は、芭蕉俳句の本質を理解して居り、その「風流」とその「情緒」とを、完全に表現し得たのであった。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。
「芭蕉庵」は京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派佛日山金福寺(こんぷくじ)内にある。当初は天台宗の寺院であったが、後に荒廃したため、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に円光寺(同所近在にある臨済宗南禅寺派の寺院)の鉄舟によって再興され、その際に円光寺末寺となった。その後、鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京に旅した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ、後年、そこが芭蕉庵と名付けられた。後に荒廃していたものを、彼を敬慕した与謝蕪村とその一門が安永五(一七七六)年に再興したものである。同寺には与謝蕪村筆芭蕉翁像や芭蕉庵再興の際に蕪村とその一門が寄せた俳文「洛東芭蕉庵再興記」が残り、記されている通り、与謝蕪村自身の墓もある(以上はウィキの「金福寺」に拠る)。]
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