オリンピック聖火夢 又は ゲッセマネの園夢
2020年である。――
私は3人の教え子とオリンピックの聖火を運んでいる。――
その夜は東北の廃校となった高校の体育館に泊まっていた。
私はまず、2人を放送ブースに入れ、マリン・ランプの聖火の番をして、決して眠ってはならないと命じた。
明日トーチを掲げて走ることになっている今1人には、ピアノ室に入って仮眠をとるように言い、用心のために角型の焼香に用いる火種に移したそれを傍に置かさせ、数時間おきに起きては、火種を繫げるように、と命じた。
私は戸外で、やはり聖火を移した苧殻(おがら)の束の焚き火の前で、凝っとその火を見つめているのだった。――
暫く経った――その時――一陣の強い風が吹いて、一瞬のうちに苧殻が吹き飛び、夜空を焦がして散り消えてしまった。
慌てた私がピアノ室へ駆け込んでみると、火種は白い灰の塊となってしまっていて、探ってみても最早火種はなく、脇に横臥した教え子は、すやすやと眠っており、突っついても全く起きる気配がないのだった。
放送ブースに入って見ると、何故か、マリン・ランプの聖火も消えており、2人の教え子もやはり居眠りをしていて、まるで何か妖怪(あやかし)に憑(と)りつかれたように、私がいくら揺す降っても目覚めぬのであった。――
私は、その時、茫然としながらも、何か悲愴な決意の中で、
「……このカタストロフは――どうしても映画にして残さなければならない!」
と叫んだまま、立ち尽くしているのであった……
*
これは私がイエス役を演じているという、トンデモ不遜夢なのであるが、事実見てしまったのだから仕方がないのでそのまま忠実に記録した(つもりである)。
何だかこの象徴群は妙に分かり易いのが、かえって変である。
東北を聖火が廻っているという設定が、実に如何にもな皮肉である(夢とは関係ないが、事実、聖火はまた日本中を廻ることになるのであろうが、その時は是非、まだ燃えている福島第一原発まで行ってもらって、その炉心の火も聖火の火種に加えてもらいたいもんだ、などと思う。カロの破片が東京じゅうを経巡るようにだ)。
またこの奇体な夢を何故、細かに記憶出来たかといえば、偏えにオリンピックの聖火という、私が最も興味がなく、寧ろ現在甚だ嫌悪の対象であるところの2020年オリンピック(以前に申し上げた通り、オリンピックなんぞより今やらなくてはならないことは絶望的に山積しているという立場を私はとる者である)に関わった話柄であったからに他ならない。
シチュエーション全体はマルコの福音書に出るゲッセマネの園のシークエンスをほぼそのまま借用している。
しかも私の印象では、マリン・ランプ(実際のかつての東京オリンピックの予備火種はこれを自動車で運んだはずである)がキリスト教を象徴しており(これは私が夢の中で、それを「ランプ」と呼ばずにわざわざ「西洋ランプ」と呼称していた事実からも認識出来る)、移した角型火種が仏教を、お盆の迎え火に用いる苧殻が日本土着の信仰を象徴しており、これまた如何にもな宗教総体の象徴であって、それらが現実のカタストロフを全く救い得ないという構図も、随分、分かり易い、分かり易過ぎ、である。
最後に、何故、映画なのか? 分からない。ただ、私にとって「映画」は「タルコフスキイ」であり、「タルコフスキイ」というと彼の著作の題名ともなっている「スカルプティング・イン・タイム」を連想するのを常としている。映画は唯一、時間を切り取ることが出来るもの、の謂いである……とりあえず醒めた時、私がそんなことを考えたことだけ記しておく。
ともかく――ブッ飛んだトンデモ夢で……それでいて醒めた際に酷く哀しい気持ちになった夢であったことも、これ、事実なんである。……

