耳嚢 巻之七 長壽の人狂歌の事
長壽の人狂歌の事
安永の比迄存在ありし增上寺方丈、壽筭(じゆさん)八九十歳なりし、海老の繪に贊をなし給ふ。
此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ
と有しを、小川喜内といへる是も八十餘なりしが、右の贊へ、
此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狂歌シリーズ。流石にこの歌に注釈は不要であろう。特になし。狂歌シリーズの一。流石にこの歌に注釈は不要であろう。なお、底本の注で鈴木氏は第一首目の歌に注して、『この歌の異伝と見られるものが、『三味庵随筆』中に、志賀酔翁の作として出ている。酔翁は後出の随翁(瑞翁)で、長生して昔のことを語ったという人であった。実は自分も幼い時その随翁に逢ったことかあるなどと言い出す暑が何人か出て、いよいよ噂ばかり高かった人物だが、信用できるような具体的伝記事実は伝わっていない。「志賀酔翁御逢候哉と尋候へば、自分など江戸へ詰候時分は未ㇾ出人にて候哉、名も不ㇾ聞よし、其已後段々聞及候、酔翁海老を書き、「髭長く腰まがるまで生度と大食をやめ独りねをせよ」と讃書候絵、義岡殿有ㇾ之よし、大坂陣の節共は壮年の積由候ば、何事も知らぬと申候由。」とある。海老の絵にこんな狂歌を書くのは増上寺方丈や随翁に限ったことでなく、一つの型になっていたことを思わせる』とあって、この歌が次項の主人公「志賀隨翁」のものであるという伝承があったことが記されてある。
・「安永」西暦一七七二年から一七八〇年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年。
・「增上寺方丈」底本の鈴木氏注に、『増上寺の十時で安永年間に示寂したのは、二年寂の典誉智瑛(四十八代)と六年の豊誉霊応であるが、いずれも世寿伝えていない』とある。
・「筭」算に同じ。
・「小川喜内」不動産会社ジェイ・クオリスの「東京賃貸事情」(ここの情報はあなどれない!)の「美土代町二丁目」に、同地域の歴史を綴る中に元禄一〇(一六九七)年『には全域を松平甲斐守(柳沢吉保。武蔵川越藩主)が一括して拝領。享保年間(一七一六―三六)になると再び細分化され、小笠原駿河守・林百助・能勢甚四郎・本間豊後守・金田半右衛門・窪田源右衛門・堀又兵衛が拝領している。寛政一一年(一七九九)には林家跡に大前孫兵衛、金田家跡に中野監物、窪田家跡に小川喜内が入っており、文政一二年(一八二九)になると小笠原家跡に駿河田中藩本多豊前守正寛が、その他の一帯に摂津尼崎藩松平筑後守忠栄が入っている』とある。この「小川喜内」なる人物、時代的にもぴったりである。
■やぶちゃん現代語訳
安永の頃まで存命であられた増上寺の方丈は、齡(よわい)八、九十歳まで矍鑠(かくしゃく)となさっておられたが、ある折り、海老の絵に賛をお書きになられた、その和歌。
此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ
かくあったものに、後年になって、小川喜内と申す御仁、これも八十余歳にて壮健であられたが、右の賛へ、
此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず
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