日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 10 杉並木と電柱
宇都宮の二十五マイル手前から日光に近い橋石に至る迄、道路に接して立派な杉(松柏科の一種)の並木がある。所々に高さ十二フィートを越える土手があり、その両側には水を通ずる為に深い溝が掘ってある。その溝のある箇所には、水の流れを制御する目的で広い堰(せき)が設けられている。二十七マイルにわたって、堂々たる樹木が、ある場所では五フィートずつの間隔を保って(十五フィート以上間をおくことは決してない)道路を密に辺取(へりど)っている有様は、まさに驚異に値する。両側の木の梢が頭上で相接している場所も多い。樹幹に深い穴があいている木も若干見えたが、これは一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である。所々樹の列にすきがある。このような所には必ず若木が植えてあり、そして注意深く支柱が立ててある(図41)。時に我々は木の皮を大きく四角に剝ぎ取り、その平な露出面に小さな丸判を二、三捺(お)したのを見た。皮を剝いだ箇所の五、六尺上部には藁繩が捲きつけてある(図42)。このようなしるしをつけた木はやがて伐られるのであるが、いずれも密集した場所のが選ばれてあった。人家を数マイルも離れた所に於て、かかる念入りな注意が払われているのは最も完全な保護が行われていることを意味する。何世紀に亘ってこの帝国では、伐木の跡には必ず代りの木を植えるということが法律になっていた。そしてこれは人民によって実行されて来た。この国の主要な街道にはすべて一列の、時としては二列の、堂々たる並木(主に松柏科)がある。奥州街道で我々は、村を除いてはこのような並木に、数時間亘って唯一つの切れ目もないのを見ながら旅行をした。
[やぶちゃん注:「二十五マイル」約40キロメートル。宇都宮の手前というと小山を過ぎた辺りになる。現在は失われた往時の日光街道の杉並木の威容が髣髴とされる。
「橋石」原文は“Hashi-ishi”。このような地名はない。日光に着いてからの第三章の冒頭のも出るが、ここで石川氏は割注して『〔括弧してストーンブリッジとしてあるが現在の日光町字鉢石(はついし)のことらしい〕』と記しておられ、そこに付帯するモースの図から見ても鉢石であることが分かる。その発音の誤認と、恐らくは日光の入口に当る鉢石の大谷川に架かる神橋との混同による思い込みからかく言っているように思われる(この橋は石造ではないが、橋脚が石造でそれに切石を用いて補強されている特殊なものであることから、モースはこの石造橋脚の説明を通弁から聴いていたと推定される)。
「十二フィート」約3・7メートル。
「二十七マイル」約43・5キロメートル。
「五フィート」約1・5メートル。
「十五フィート」約4・6メートル。
「一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である」慶応四(一八六八)年四月に大鳥圭介率いる旧幕府軍が野口十文字に陣を張り、それを新政府軍が砲撃した際の弾痕である。
「五、六尺」1・5~1・8メートル程。]
密集した部落以外に人家を見ることは稀である。普通、小さな骨組建築(フレーム・ワァーク)か、門(ゲート)の無い門構(ゲート・ウェー)が村の入口を示し、そこを入るとすぐ家が立ち並ぶが、同様にして村の通路の他端を過ぎると共に、家は忽然として無くなって了う。
道路の両側に電信柱がある。堤の上には柱を立てる余地が無いので、例の深い溝の真中に立ててあり、柱の底部に当って溝は手際よく切られ、堤の中に入り込んでいる(図43)。古いニューイングランド式の撥釣瓶(はねつるべ)(桿と竿とは竹で出来ている)が、我国に於るのと全く同じ方法で掛けてあるのは、奇妙だった。正午人々が床に横わって昼寝しているのを見た。家は道路に面して開いているので、子供が眠ている母親の乳房を口にふくんでいるのでも何でもまる見えである。野良仕事をする人達は、つき物の茶道具を持って家に帰つて来る。山の景色は美しく、フウサトニック渓谷を連想させた。
[やぶちゃん注:「横わって」はママ。
「つき物の茶道具」原文は“the ever-present appliances for making tea”。お茶を淹れるための常の道具。
「フウサトニック渓谷」“the Housatonic Valley”底本では直下に『〔ニューイングランドを流れる川の一つ〕』という割注が入る。コネチカット州のフーサトニック川とタコニック山脈が作り出した風光明媚な渓谷。]
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