耳嚢 巻之七 先細川慈仁思慮の事
先細川慈仁思慮の事
先(せん)細川越中守は慈仁にて、世に質人と唱しが、同□の方へ上客に饗應に被參(まゐられ)しに、膳出(いで)候節に至り、右飯の蓋を取被見(とられみ)候處、飯無間(なきあひだ)直(ただち)にふたを致(いたし)、扨尾籠(びろう)ながら小用に罷立度(まかりたちたき)旨を一座に斷(ことわり)、其座を被立(たたれ)小用所へ被相越(あひまかりこされ)、手水(ちやうづ)を持(もち)候家來に耳へ寄(より)、斯々(かくかく)の事也、あらはに言はゞ配膳其外の者に不調法にあらん。座に戻らば飯の加減も冷(ひえ)し候迚、引替へ可然(しかるべし)と被申(まうされ)候故、難義由にて其家來より内々相通じ、一座の膳も引替(ひきかは)りしが、其事を見聞(みきく)者ども難有(ありがたき)仁慈なりと、いと賞しける。
□やぶちゃん注
○前項連関:大名家逸話で連関。粋な男だねえ、この頃の細川さんは、ね。
・「先細川越中守」細川重賢(しげかた 享保五(一七二〇)年~天明五(一七八五)年)は熊本第六代藩主・細川家第八代。第四代藩主宣紀(のぶのり)五男。兄宗孝の仮養子であったが、延享四(一七四七)年に宗孝が江戸城で旗本板倉勝該(かつかね)に斬られて不慮の死を遂げ(勝該は日頃から狂疾の傾向があり、今でいう禁治産者と見做され、板倉家本家の板倉勝清が勝該を致仕させて勝清の庶子に後を継がせようとしていた。勝該はそれを恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたのだが、板倉家の九曜巴紋と細川家の九曜星紋が似ていたため、背中の家紋を見間違え、細川宗孝に斬りつけてしまった誤認謀殺事件であったとされる)、俄かに封を継いで藩主となった。当時の熊本藩は連年の財政難にあり、参勤交代や江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであったが、重賢は藩主に就任後、宝暦二(一七五二)年には堀勝名を大奉行に抜擢して藩政改革を行い(宝暦の改革)、綱紀粛正・行政機構整備・刑法草書制定・財政再建に向けての地引合(じびきあわせ:検地の一種。)による隠田摘発・櫨(はぜ)や楮(こうぞ)の専売・蠟生産の藩直営化と製蠟施設の設立などを敢行し、宝暦年間末頃(宝暦は一四(一六七四)年まで)には藩財政の好転が始まった。また、同宝暦年間より飢饉に備えてての穀物備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済に当たっている。一方で、藩校時習館を建てて人材の育成を図り、今で言う奨学金に相当する制度も制定、農商人の子弟でも俊秀の者には門戸を開放した日本最初の学校とも言うべきものに成し上げた。紀州藩第九代藩主徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった(平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「細川重賢」や同「板倉勝該」を参照した)。なお、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年の藩主は第八代藩主細川斉茲(なりしげ)である。重賢嫡男(次男)で第七代藩主となった細川治年は三十で夭折、同人実子長男の細川年和も早世していたため、支藩の宇土藩主細川立礼(たつひろ。改め斉茲)が養子に入って跡を継いでいる。因みに、これによって細川玉(ガラシャ)の血統は細川本家では絶えることとなった(ここはウィキの「細川治年」に拠った)。なお、重賢は根岸より十七歳年上なだけであるから、この話柄自体は根岸が重賢の生前にアップ・トウ・デイトに聴いた話であったとしてもおかしくはない。
・「慈仁」情け深いこと。
・「質人」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賢人』とする。当然、「賢人」を採る。
・「同□の方へ」底本は『(卿カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『同席』とする。「同席」を採る。
・「難義由」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『難有(ありがあき)由』とする。「難有」で採る。
■やぶちゃん現代語訳
先(さき)の細川家御当主慈仁(じんじ)思慮の事
二代前の細川越中守重賢(しげかた)殿は、情け深きお人柄であられ、世に賢人と称せられた御方であられた。
さる御同役の御屋敷に上客として饗応をお受けになられたところが、さても、膳が一通り出だされた砌り、その飯の蓋をお取遊ばされてみたところが――椀の中には――これ――飯どころか――何も――入って御座らんだ――と申す。
と、越中守殿、柔和なるお顔のまま、さっと蓋を戻さるると、
「――さても――まっこと、尾籠(びろう)なること乍ら――ちと、小用に罷り立ちたく存ずればこそ――」
とて、一座の方々に無礼を謝し、その座をお立ちになられ、ゆうゆうと厠(かわや)へと参られ、これまた、ゆるりと尿(すば)り遊ばされたと申す。
厠よりお出にならるると、厠の外にて手水(ちょうず)を持って控えて御座った御自身の御家来衆を物蔭に手招きなされて、やおら、耳打ちなされたことには、
「……かくかくの次第で御座った故、の。このこと、あからさまに申さば、御当家の配膳その外の者どもの、これ、忌々しき不調法ということにもなろうほどに。……我ら、これより、また座にゆるりと参る。……戻ったならば、そなた、御当家の者に、ここは一つ、
『我が主(あるじ)の不調法によって、時も暫く経って御座いましたにゆえ、皆様の御前に、折角、お出し下された温かき飯の加減も、これ、大層冷えてしもうて御座いましょうほどに。相済みませぬが、ここは一つ、ために飯の椀をお取り替え下さるるが、これ、よろしいかと存ずる。』
と申し上ぐるがよかろう。」
と仰せられたによって、一切の御意(ぎょい)を察した御家来衆は、
「はッ! あり難きお心遣いに御座いまする!」
と肯んじ、その御家来衆より、御当家の配膳の者にだけ、内々に相い通じ、一座の方々の膳の飯も総て引き替えられて御座ったと申す。
後に、このことを、その折りの重賢殿を饗応なさった御当家の内輪方々で、見き聞きして察した者どもは皆、
「――何とまあ――あり難き御仁慈(じんじ)で御座ろうか……」
と、大層、讃仰申し上げたとのことで御座る。
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