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2013/09/09

栂尾明恵上人伝記 63 承久の乱への泰時に対する痛烈な批判とそれに対する泰時の弁明

僕の「北條九代記」はもうじき、承久の乱に突入する。



 泰時朝臣、此の山中に入來す。法談の次に、上人問ひ奉つて云はく、古賢の云はく人多き時は則ち天に勝つ、天定まれば人を破すと云云。しかるに只武威を以て國を傾け給ふと雖も、其の德なくしては、果して禍來らんこと久しからじ。賢聖の詞疑ふべからず。古より和漢兩國に力を以て天下を治めし類、更に長く持てる者なし。忝くも我が朝は、神代より今に至るまで九十代に及びて、世々受(うけ)繼ぎて、皇祚他を雜へず。百王守護の三十番神(ばんじん)、末代と雖もあらたなる聞えあり。一朝の萬物は悉く國王の物にあらずと云ふことなし。然れば國主として是を取られむを、是非に付て拘り惜しまんずる理なし。縱ひ無理に命を奪ふと云ふとも天下に孕(はら)まるゝ類、義を存せん者豈いなむことあらんや。若し是を背くべくんば此の朝の外に出で、天竺・震旦にも渡るべし。伯夷・叔齊は天下の粟(あは)を食はじとて、蕨(わらび)を折りて命を繼(つな)ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰められて、其の理必然たりしかば、蕨をも食せずして餓死したり。理を知り心を立てたる類皆是の如し。されば、公家より朝恩を召し放たれ、又命を奪ひ給ふと云ふとも、力なく國に居ながら惜み背き奉り給ふべきにあらず。然るを剩へ私に武威を振つて、官軍を亡ぼし、王城を破り、剩へ太上天皇を取り奉りて遠島に遷(うつ)し奉り、王子・后宮を國々に流し、月卿・雲客を所々に迷はし、或は忽ちに親類に別れて殿閣に喚(さけ)び、或るは立所(たちどころ)に財寶を奪はれて、路巷(ちまた)に哭する體(てい)を聞くに、先づ打ち見る所其の理に背けり。若し理に背かば冥の照覽(せうらん)天の咎めなからんや。大に愼み給ふべし。おぼろげの德を以て此の災(わざはひ)を償ふことあるべからず。是を償ふことなくんば、禍の來らんこと踵(きびす)を廻らすべからず。なみなみの益を以て此の罪を消すことあるべからず。是を消すことなくば、豈地獄に入らんこと矢の如くならざらんや。御樣を見奉るに、是程の理に背くべき事し給ふべきことにあらぬに、何(いか)にとありけることにやと、拜謁の度には、且は不思議に、且は痛はしく存ずと云々。泰時朝臣こぼれ落つる涙をさらぬ體に押し拭ひて、疊紙(たゝうがみ)を取り出し、鼻かみなんどして押し靜めて、答へ申して云はく、此の事、所存の趣(おもむき)、日來(ひごろ)も委く語り申度く存じ候ひつるを、指して事の次(ついで)でも無く候て、自然に罷り過ぎ候ひき。故將軍、平大相國禪門の一類を亡ぼし、龍顏を休め奉り、萬民の愁を助け、君の爲に忠を盡し、忠の爲に私を忘れ、滋味を嘗(な)めては先君に備へんことを營み、珍しき財を儲けては則ち公に獻ぜんことを專にす。或時は諫め申し、或時は隨ひ奉りしかば、大將の門にありとし在るもの、上一人を重くし奉らずと云ふことなし。此の如きの功を感じ思食しけるにや、官位俸祿日々に添ひ、年々に重なり、大納言の大將に成さるゝのみにあらず、日本國の惣追捕使(そうついほし)を賜はられき。かゝる時は、毎度固く辭し申されて云はく、頼朝、凶徒を鎭めて叡慮を休め、貧しき民を撫でゝ、敕裁を亂らざらんことを存す。是れ若きより性に稟(う)けて願ひ來し所なり。而るに今飽まで官位を極め、恣まゝに俸祿に飽き、且は此の志を汚(けが)すに似たりとて堅く子細を申されけれども、敕定(ちよくじやう)再三に及びければ力なく、敕命背き難きに依りて、泣く泣く領掌(りやうしやう)申されけり。之に依りて、親類・眷屬恩賞に浴する中に、祖父時政・父義時殊に鴻恩(こうおん)に誇る。是れ皆故法皇の御惠みの下を以て榮運を開けり。去れば彼の御子孫に於ては、彌(いよいよ)無二の忠を致し、増々純一の功を勵すべき旨、深く心中に插み候ひき。而るに法皇崩御なり、幕下逝去の後、公家の御政も廢(すた)れ果てゝ、忠あるも忠を失ひ、罪なきも罪を被る輩、勝げて計るべからず。諸國大きに煩ひ、萬民甚だ愁ふ。指(さ)せる誤りなき族(やから)、重代相傳の莊園を召し放たれ、朝に給ふ者は夕べに召され、昨日下さるゝ所は今日改めらる。一郡一莊に三人四人主有りて國々に合戰絶ゆることなし。處々に浪牢(らうらう)の人多くして山賊海賊充ち滿てり。諸人安堵の思ひなく、旅客の通ずること稀なり。さるに付(つけ)ては、飢寒に責めらるゝ者多く、妖亡(えうばう)に遇ふもの數を知らず。此の事兩三年殊に放廣(ほうくわう)の間、關東深く欺き存ずる刻(きざ)み、結句誤りなき關東亡さるべき由、内々洩れ聞え候ひしかども、指したる支證(ししよう)なく候ひし程に、愁へ申すに及ばず、謹みて恐怖せし處に、巳に伊賀判官(はうがん)光末(みつすゑ)に課して、數萬騎の官軍、關東へ發向の由、聞え候ひし間、父義時ひそかに予を招きて語りて云はく、既に天下此の儀に及ぶ、如何か計るべきや、内儀(ないぎ)を能く談じて後、竹の御所に參りて二位家に申し合すべき由申し候ふ間、泰時答へ申して云はく、平平相國禪門、君を惱まし奉り、國を煩はし候ひしに依て、故大將殿御氣色(みけしき)を承つて討ち平げ、上を休め下を治めてより以來、關東忠ありて誤りなき處に、過なくして罪を蒙らむこと、是れ偏に公家の御誤りに非ずや。然れども一天悉く是れ王土に非ずと云ふ事なし、一朝に孕まるゝ物宜しく君の御心に任せらるべし。されば戰ひ申さん事(こと)理に背けり。しかじ頭を低れ手を束ねて各降人に參りて歎き申すべし。此の上に猶頭を刎(はね)られば、命は義に依て輕し、何のいなむ所かあらん。力無き事なり。若し又御優免(ごいうめん)を蒙らば然るべき事なり。如何なる山林にも住みて殘年(ざんねん)を送り給ふべきやと申したりし程に、義時朝臣暫く案じて、尤も此の義さる事にてあれども、其れは君王の御改正しく、國家治まる時の事也なり。今此の君の御代と成りて國々亂れ所々安からず、上下萬人愁(うれひ)を抱かずと云ふ事なし。然して關東進退の分國(ぶんこく)計(ばか)り、聊か此の王難に及ばずして、萬民安穩(あんのん)の思ひを成せり。若し御一統あらば、禍四海に充ち、煩ひ一天に普(あまね)くして、安き事なく、人民大に愁ふべし。是れ私を存して隨ひ申さゞるに非ず、天下の人の歎きに代りて、縱ひ身の冥加(みやうが)盡き命を捨つと云ふ共痛むべきに非ず。是れ先蹤(せんしよう)なきに非ず。周の武王・漢の高祖、巳に此の義に及ぶ歟(か)。其れは猶自ら天下を取りて王位に居せり。是は關東若し運を開くと云ふ共、此の御位(みくらゐ)を改めて別の君を以て御位につけ申すべし。天照太神・正八幡宮も何の御とがめかあるべき。君を誤り奉るべきに非ず。申し進むる近臣共の惡行を罸するまでこそあれ、急ぎ罷り立つべし。此の旨を二位家に申すべしとて坐を立ちしかば、力及ばず。是れ亦一義無きに非ざる上は、父の命背き難きに依て隨ひき。仍て打立て上洛仕り候ひしに、先づ八幡大菩薩の御前にある橋の本にして、馬より下り頭を低れて信心を致して祈り申して云はく、此の度の上洛、理に背かば、忽に泰時が命を召して後生(ごしやう)を助け給ぶべし。若し天下の助けと成りて、人民を安んじ佛神を興(おこ)し奉るべきならば、哀憐(あいれん)を垂れ給へ、冥慮(みやうりよ)定めて照覽(せうらん)有らんか、聊か私を存せずと云々。又二所三島の明神の御前にして誓を立つる事同じ。其の後は偏(ひとへ)に命(めい)を天に任せて、只運の極まらん事を待ちけり。而るに聊かの難無くして今に存せり。若し是れ始の願の果す所か。而るに若し予緩怠(くわんたい)にして佛神を興(こう)せず、國家の政を大に資(たす)けずんば、罪一身に歸すべし。仍て一度食するに、士來れば終へずして急ぎ是を聞き、一度髮(かみ)梳(くしけづ)るにも、士來れば終らざるに先づ是れに逢ふ。一休一寢なほ安からず、士愁(うれひ)を懷きて待たんことを恐る。進んでは深く萬民を撫(な)でん事を計り、退きては必ず一身に光あらん事を思ふと雖も、天性蒙昧にして及ばざる所あらんか。誠に其の罪脱れ難し。今慈悲の仰を承つて、感涙禁じ難しと云々。

[やぶちゃん注:「三十番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で後に日蓮宗で信仰された。

「人多き時は則ち天に勝つ、天定まれば人を破す」人が多く勢力の盛んな折には時として人は一時的に天の理に勝つこともあるが、正しい状態に戻れば天道が必ず人の邪を打ち破るものである、という謂い。父兄の仇敵であった楚の平王の墓を発いて亡骸を三百回鞭打った(「死屍に鞭打つ」の語源)伍子胥に対し、友人申包胥(しんほうしょ)があまりの酷さに咎めた際の言葉(伍子胥は「日暮れて道遠し。故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。これは「自分はすっかり年をとってしまった。だからやり方などは気にしてはおれぬ」の意とも、また自己の非を悔いての「時間はないのに、やるべきことは沢にある。それでつい焦ってしまって非常識な振る舞いをした」の意ともいう)。総て「史記」の「伍子胥伝」による故事である。

「伊賀判官光末」伊賀光季(?~承久三(一二二一)年)の誤り。鎌倉幕府御家人。伊賀朝光長男。母は二階堂行政の娘。姉妹が北条義時継室伊賀の方であったため(泰時義母)、外戚として重用され、建保七(一二一九)年に大江親広とともに京都守護として上洛した。承久三 (一二二一)年の承久の乱では倒幕の兵を挙げた後鳥羽院の招聘に応じず、同年五月十五日、官軍によって高辻京極にあった宿所を襲撃されて子の光綱とともに自害した。後に北条泰時は光季の故地を遺子季村に与えている(以上は一応、ウィキ伊賀光季に拠ったが、同記載には、光季が『後鳥羽上皇の招聘に応じず、「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。再び勅すると、「面勅すべし、来れ」と言った。「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕に入るは臣の知る処にあらず」と言って行かなかった』というまことにリアルな描写があるものの、この直接話法、まず、どこからの引用か分からぬ点、さらに「面勅すべし、來れ」とはどう考えても後鳥羽院の台詞の誤りではなかろうか? 特別な面勅を許したのにも拘わらず、というところか。「官闕に入るは臣の知る処にあらず」というのもよく分からない。欠けている討幕軍の臨時職に就くなどということは天子を守護する幕閣組織の家臣として知るところではないという意味か? 識者の御教授を乞うものである)。]

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