日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 18 安息日なんて糞喰らえ!
旧式なニューイングランドの習慣で育てられた者にとって、日曜日は面白い日であった。あらゆる種類の商売や職業が盛んに行われつつある。港の船舶は平日通りに忙しく、ホテルの向いの例の杙打機械は一生懸命に働き、往来には掃除夫や撒水夫がいるし、内国人の店はすべて開いている。私の見た範囲では、日曜を安息日とする例は、薬にしたくもない。この日の午後、私は上野公園の帝室博物館を訪れるために東京へ行った。公園の人夫たちは忙しく働いている。博物館の鎧戸(よろいど)は下りていたが、裸の大工が二十人(いずれも腰のまわりに布をまいている)テーブルや陳列箱の細工をしていた。
[やぶちゃん注:「ニューイングランド」“New England”)はボストンを中心都市としたアメリカ合衆国北東部の六州を合わせた地方名でモースはその中のメイン州ポートランドで生まれた。作家ジェームズ・ジョイスによれば、ニューイングランド気質とは『利己主義に対する絶えざる警戒であり、自己を超えた理念の裏付けがなければ行動を起こせない人々である。分かりやすく云えば、自己を卑下するというのが最大の美徳であって、この世とは神の審判を前にして只管神に感謝し、あらゆる楽しみを断念することであると信じる人々である。断念すると云うよりは、あらゆる楽しみを罪悪視して感じる人々である』(ブログのアリアドネ会修道院図書館の「ジェイムズの『ヨーロッパ人』――ニューイングランド気質について」より引用させて戴いた)だそうである(なお、現在のポートランドの名誉のために記しておくと、ウィキの「ポートランド(メイン州)」によれば『現代の生活意識調査では、アメリカでも最も住みやすい小都市の一つに挙げられている』とある)。以下、この日曜日にかこつけての描写にはモースのキリスト教嫌い(だからこそダーゥインの進化論の最初の紹介者でもあったのである)が如実に表れている。底本の「1」の巻末にある藤川玄人の解説によれば、『モースの父親は厳格なピューリタン的人物で、生来自由奔放な息子とは肌が合わなかった。父親が教会に行くように命じても、彼には教会が幸せを与え、魂を救ってくれる場所だとは信じることができなかった』とあり、モースは一八九五年三月六日の日記に『「神は我われに、微笑め、と言う。だが教会には陰鬱さが漲(みなぎ)っている。一方、自然は、花は、みな微笑み美しい」と』まで書いている、とある。なお、これは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載によって明治一〇(一八七七)年六月二十四日(日曜日)のことと判明する。なお本邦に於ける曜日の概念の導入は意外なことに、平安初期に遡る。以下、ウィキの「曜日」より引用しておく。『日本には入唐留学僧らが持ち帰った「宿曜経」等の密教教典によって、平安時代初頭に伝えられた。宿曜経が伝えられて間もなく、朝廷が発行する具註暦にも曜日が記載されるようになり、現在の六曜のような、吉凶判断の道具として使われてきた。藤原道長の日記『御堂関白記』には毎日の曜日が記載されている。『具註暦では、日曜日は「日曜」と書かれるほかに「密」とも書かれた。これは、中央アジアのソグド語で日曜日を意味する言葉
ミール(Myr)を漢字で音写したものであり、当時、ゾロアスター教やマニ教において太陽神とされていたミスラ神の名に由来する』。ところが、『その後江戸時代になると、借金の返済や質草の質流れ等の日付の計算はその月の日にちが何日あるか』(旧暦では二十九か三十日)『がわかればいいという理由で、七曜は煩わしくて不必要とされ、日常生活で使われることはなかった』。『現在のように曜日を基準として日常生活が営まれるようになったのは、明治時代初頭のグレゴリオ暦導入以降である』とある。新暦(グレゴリオ暦)の本邦での採用は本記載に先立つ四年前の明治六(一八七三)年一月一日のことであり、この明治十年頃でも日曜休業という感覚は全く以って普及していなかったことが分かる。
「上野公園の帝室博物館」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下の記載がある。
《引用開始》
六月二十四日、彼は再度上京して、上野の文部省教育博物館を訪れている。同博物館の前身は湯島の昌平館にあった東京博物館(明治八年四月八日命名)で、明治十年(一八七七)一月二十六日に教育博物館と改称された。また、これに先立って上野への移転が決まり、前年六月に着工、明治十年三月に落成していた。場所はいま東京芸術大学のある辺りである。一般公開は同年八月十八日で、したがってモース訪問時は開館の準備中だったが、東大の誰か、おそらくは教育博物館の館長を兼任していた植物学の矢田部良吉教授の紹介で、開館前の同館を見学することができたのだと思われる。この教育博物館のはるかな後身が現在の国立科学博物館である。なお、これとは別に、日比谷の内山下町には内務省の博物館があった。モースはのちにここも訪れているが、この内山下町博物館がのちの帝室博物館、現在の東京国立博物館の前身である。
《引用終了》
最後の部分は「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」のこのシーンに叙述される。因みにこれによって、そこに記載された別な博物館が内山下町にあった内務省管轄の国営博物館であったことが分かる。また、磯野先生はこの直後に『モースはその前後に横浜の魚市場や青果市場を訪れたり、歌舞伎を見たりしている。と同時に、日本人の生活ぶりをますます熱心に観察して、自然を生かした装飾品や簡素な民具、とくにさまざまな竹製品に心を奪われはじめている。日本人が正直で礼儀正しいこと、清潔なことも彼に強い印象を与えたようだ』と記しておられ、この叙述からは先の歌舞伎観劇が横浜でのことであったようには(少なくとも磯野先生は私と同じく横浜と推測なさったという風には)読める。
「まわりに布をまいている」和服で上半身肌脱ぎになって仕事をしているのを見て、こう表現したものであろう。]
博物館には完全に驚かされた。立派に標本にした鳥類の蒐集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬の大きな蒐集、その他動物各類が並べてある。そして面白いことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。教育に関する進歩並びに外国の教育方針を採用している程度はまったくめまぐるしい位である。
« 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(8) | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 三 單爲生殖(2) ミジンコの例 »