中島敦短歌拾遺 (2) 昭和八年手帳から 「尾瀬の歌」は実は昭和8年のものではなく、昭和9年のものではないか?
[やぶちゃん前注:底本の「手帳」の現存する最古の「昭和八年」から。]
秋近み高原の空は山欅の木の梢を洩れて眼に沁みきたる
[やぶちゃん注:本歌群の詠唱時期は八月と推定される(後注を必ず参照のこと)。
「山欅」は通常は「やまにれ」又は「あきにれ」と読むが、「歌稿」の「Miscellany」歌群に、この草稿の三首目の決定稿が載るが(後注参照)、そこで「山毛欅」と書いて「ぶな」とルビを振っており、明らかに敦はここでは「木欅」と書いて「ぶな」誤訓していることが分かる。ブナ目ブナ科ブナ
Fagus crenata である。因みに正しい「山欅」はイラクサ目ニレ科ニレ属アキニレ
Ulmus parvifolia の異名である。名前は同ニレ属の中で唯一、秋に開花することに由来する。アキニレは「ネバの木」とも呼ばれ、カブトムシやクワガタが好む、とウィキの「アキニレ」にある。従って、この一首は、
あきふかみ/たかはら(又はかうげん)のそらは/ぶなのきの/こずゑ(又はこぬれ)をもれて/めにしみきたる
と訓ずるものと思われる。私は「たかはら」で読みたい。]
大淸水にて、
たまきはるいのち愛しも山深き空の碧を眺めてあれば
[やぶちゃん注:「大淸水」群馬県利根郡片品村戸倉にある尾瀬の群馬側登山口。標高一一八〇メートル。尾瀬探勝では鳩待峠から入り、最後にこの大清水へ下るルートがよく利用される。]
さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風にうら葉かへすも
[やぶちゃん注:「さらさら」の後半は底本では踊り字「〱」。「山欅の大木は」は「ぶなのおほきは」と訓じていると思われる。
この一首は「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「大淸水にて」の前書で一首載るものの草稿であるが、そこでは(踊り字はここと同じ)、
さらさらと山毛欅(ぶな)の大木は高原の朝(あした)の風にうら葉かへすも
となっている。さらに「手帳」には二箇所について別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。
さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風にうら葉かへすも
さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風に木の葉かへすも
さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風に木の葉かへすも
本来の句形でよいように(短歌には暗愚であるが)私には思われる。]
山欅わたる風の冷たさこのあさけ高原は秋となりにけらしも
[やぶちゃん注:「山欅」は前に注した通りで「ぶな」(以下、この読みで通すので注記は略す)。この一首、「冷たさ」を「寒さよ」とする別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。
山欅わたる風の寒さよこのあさけ高原は秋となりにけらしも
また、「けらしも」には「けり/ける/けらしも」という別案(?)附記があるらしいが、これは音数から見ても「けらしも」を引き出すまでの推敲メモのように思われる。]
水山欅の梢もれくる空の靑草にいねつゝわが仰ぎけり
[やぶちゃん注:本歌は表記通り、抹消されている(以下、取消線は注に至るまで同様)。「水山欅」は「みづぶな」と訓じているのであろう。この「水」は「瑞」で、瑞々しい・麗しいの謂いである。言わずもがなであるが「空の靑(あを)/草(くさ)にいねつゝ」で切れる。]
尾瀨へ、
いつしかに會津境もすぎにけり、山欅の木の間ゆ尾瀨沼靑し、
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の一首目の草稿であるが、そこでは、
いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅(ぶな)の木の間ゆ尾瀨沼靑く
となっている。確かに「靑く」の方が余情を加えてよい。]
水芭蕉の茂れる蔭ゆ褐(かち)色の小兎一つ覗きゐしかも
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の二首目の草稿であるが、そこでは、
水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも
とある。この草稿の存在によってこれが「かちいろ」と訓じていることが分かる。
なお「手帳」草稿では「覗きゐしかも」の「ゐる」を「たる」とした「覗きたるかも」とするかと思われる別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。
水芭蕉の茂れる蔭ゆ褐(かち)色の小兎一つ覗きたるかも
決定稿が画像がしまっていてよい。]
兎追ひ空しく疲れ草に伏しぬ山百合赤く咲けるが上に
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の掉尾であるが、そこでは、
兎追ひ空しく疲れ草に臥(ふ)しぬ山百合赤く咲けるが上に
とある。]
白々と白根葵の咲く沼邊、岩魚下げつゝ我が歸りけり。
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の二首目の草稿であるが、そこでは、
しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚(いはな)下(さ)げつゝ我が歸りけり
となっている(「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」)。
「白根葵」はそこでも注したが、キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ
Glaucidium palmatum。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ
Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]
じゆんさいの浮ぶ沼の面、月に光り、燧の影はゆるぎだにせず、
[やぶちゃん注:「燧」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。]
熊の棲む會津よろしと、燧山、尾瀨沼の上に神さびせすも
[やぶちゃん注:「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「神(かみ)さび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。
「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の一首目の草稿であるが、そこでは、
熊の棲む會津よろしと燧岳(ひうちだけ)尾瀨沼の上に神(かん)さびせすも
となっている。私は個人的に「ひうち」は「たけ」でないとしっくりこない山屋なので、決定稿がよい。]
[やぶちゃん後注:本歌群が尾瀬で詠まれたものであることは疑いようがないのであるが、現在の年譜上(底本全集版の)の知見では、敦は、横浜高等女学校の同僚と昭和九(一九三四)年の五月に乙女峠、八月に再び尾瀬・奥日光に遊んでいるとあって、この前年の「昭和八年」には年譜にはそうした記載はない。ところが試みに彼の現存する数少ない書簡を繰ってみると、昭和八年の八月十九日附橋本たか宛絵葉書(底本旧全集第三巻「書簡Ⅰ」内番号二七)が現在の群馬県利根郡みなかみ町にある法師温泉から発信されており、そこには(下線やぶちゃん)、
天幕をかついで、四五日ぶらついて、此處まで來た。こゝは越後と上州の國境、山の中の電燈もない、淋しい温泉場だ、
もうすゝきが奇麗に穗を出してゐる。中々いゝ。
一寸東京や横濱へは歸る氣がしない。
そちらへ行くとすれば九月近くになるだらう。
世田谷(小石川)のが、今度職があつとめたため大連に行つたよ、皆さんによろしく
とあり、また続く八月二十九日附橋本たか宛書簡番号二八(封筒欠であるが恐らくは独居先であった横浜市中区山下町一六九同潤会アパートと思われる)では、
山からは一週間程前に歸つて來た。まだ中々あついね。
今月もやつと、これだけしか送れない。それに、これだけ送ると、もう、そちらへ行く汽車賃もないんだ。僕は、考へたんだがね。これだけにしろとにかく送るのと、そちらへ僕が行くだけで、何も金を置いてこられないのと、どつちが良いかつて。結局、金を送つた方が(實際的には)何といつても役に立つだらうと、きめたんだ。
婿姻とゞけは(そちらに判をおしていたゞくために)二三日中に送る。あるひはもう、うちから送つたかもしれない。判を押していたゞいて、それから又、世田ケ谷の家へおくりかへして〔貰〕いたゞくのだ。
それから、お前にだけ内證にきくのだが。
新地において貰つて、氣づまりだつたり、辛かつたりすることが多くはないかい?
それに何時頃まで置いていたゞけるのだい?
それから、もし、東京へお前とチビとが來て間借でもするとすれば、大體、月いくら位で、あがるだらうね?
右の返事をきかせてくれ。
敦
皆さんに殘暑御見舞を申上げておくれ、』
とあるのである(この二八書簡は中島敦の新妻への率直な思いや当時の状況をよく伝えて微笑ましい)。この「橋本たか」とは、文面からお分かりになった通り、敦の「妻」である。年譜では二人の結婚は昭和七(一九三二)年三月の大学在学中であり、しかもこの昭和八年の四月にたかは既に「チビ」、長男桓(たけし)を郷里(愛知県碧海(へきかい)郡依佐美(よさみ)村。現在の安城市の一部と刈谷市の一部)で産んでいるのであるが、二人は未だ同居をしておらず、いわば一種の妻問婚状態、単身赴任状態(同年四月の横浜高等女学校奉職以降)にあった。しかも年譜には書かれていないが、二八書簡に見る通り、何とこの時点でも正式な婚姻届は未だ出されていなかった事実も判明するのである(桓君の出生届けはどうなっていたのでしょう? 後からわざわざ中島姓に変えたんですかねえ。戸籍にべたべたと追加記載が張られる上に、しかも私ならとても面倒だと思うんですがねえ……つまらないことが気になる、僕の悪い癖!……)。前の書簡の「小石川」は同書簡番号十九・二十に出る(二十には「皐さん」とある)が、これは敦の親戚である中島皐(かう)という人物である(大叔父の息子で父田人の甥に当る)が、どうも文面から見るに、彼はたかの橋本家とも相当に親しい関係(婚姻届がここを経由しているように二八書簡で読めるのは何らかの姻族関係が強く疑われる)にあったものらしい。「新池」は依佐美村高棚新池で橋本家実家の地名である。
補注が長くなった。
この二つの書簡によって、昭和八年の八月十五日前後から八月二十二日前後までの間(最長八日から九日ほど)に、彼が尾瀬周辺を逍遙していた可能性が非常に高い確率であるということが分かった。寧ろ、翌九年の尾瀬行は、もしかするとこの時に踏破した思い出の場所を同僚たちに彼が勧め、実現した再山行ではなかったろうか? そうしてこの歌稿草稿や「歌稿」の「尾瀨の歌」を見渡すと、高原に佇んでいるのは彼独りであることが見えて来るのである。我々が(少なくともさっきまでの私が)この歌群の映像が年譜上の記載から(実は彼の書簡を読んだの今回が初めてである)昭和九年の同僚たちとのわいわいがやがやの尾瀬行だ、と無批判に思い込んでいたのは大いなる愚であったと思い始めているのである。]
« 中島敦短歌拾遺 (1) 「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」草稿 | トップページ | 藪入の夢や小豆の煮えるうち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) »

