孤獨の箱のなかから――おぼえがき―― 大手拓次
孤獨の箱のなかから
おぼえがき
大 手 拓 次
わたしは ながいあひだ蝸牛のやうにひとつの箱のなかにひそんでゐた。ひとりで泡をふいてゐた。さうして、わたしのべとべとな血みどろの手が、ただひとり人 北原白秋氏にむかつて快くさしのべられた。白秋氏のみえない手がつねにわたしの指にさはつた。「ザムボア」に、「地上巡禮」に「ARS」に、「詩と音樂」に、そしてまた「近代風景」に、ちやうど大正元年から今まで十五年といふ長い間、わたしは常に白秋氏のあたたかき手のうちにあつた。そのあたたかき手にわたしは育てられたのである。
しかも、このながい十五年のとしつきのあひだ、わたしはただの一度も白秋氏をおとづれはしなかつた。未知の戀人をおもふやうにたえず氏を思ひつつ、一度もおとづれることができなかつた。なんといふ内氣な、はにかみやの、氣むづかしい、けつぺきな、ぴりぴりとあをじろい神經のふるへるわがまま者だつたのであらう。けれども、わたしの心のすべては私の詩を通じて氏にひらかれてゐたのである。
わたしは涙のあふれるやうな敬愛の情をたたへながらも、さびしくものおとのしない孤獨の箱のなかにとぐろをまいてゐた。
いんうつな心、くらい心、はげしい情熱のもどかしさ。まつたくその頃のわたしは、耳ののびる亡靈であつた。みどりの蛇であつた。めくらの蛙であつた。靑白い馬であつた。つんぼの犬であつた。笛をふく墓鬼であつた。しばられた鳥であつた。
わたしの憂鬱は本質的でどうともすることが出來なかつた。自然にこのうすぐらい花が散つてゆくのを待つよりほかはなかつた。
白秋氏のやはらかい手はどんなに私にとつてうれしかつたか。
うれしくなればなるほど蝸牛は角をかくし、蛇はとぐろをまいた。
まだごのあひだにあつて、萩原朔太郎氏は、ときどき火花のやうな熱情のこもつた友愛を私にしめしてくだすつた。
さらに、大木惇夫氏にはなにやかやいろいろおほねをりにあづかつてゐる。こんど、白秋氏をおたづねするやうになつたのも、氏があつたればこそである。
わたしボオドレエルといふ古風な黄色いランプをともして、ひとりとぼとぼとあるいてきたのであつた。その孤獨の道に、みどり色のあかるいみちびきの光をともして下すつたのが白秋氏である。十五年といふ長いあひだである。おもふさへ、うれしくなる。ありがたくなる。
この詩集の刊行は、白秋氏のひとかたならぬ御配慮にあづかつたたまものである。ここに護しんで御禮申上げます。
詩の選擇も、自分としてはすゐぶん思かきつてしたつもりである。私の初期に屬する吉川惣一郎の名で發表したものは大部分とり、「詩と音樂」時代のものは、駄作が多いので、四分の一ぐらゐにすててしまつた。また、をりがあつたら、惡いのをすててゆかうと思つてゐる。詩の排列は凡て年代順にしてある。
[やぶちゃん注:以下の詩群の後の解説は底本ではポイント落ちで全体が二字下げである。詠み易くするために各詩群の間に一行空きを入れた。]
陶器の鴉
大正元年秋から大正二年末までの作品で、吉川惣一郎の名のもとに「ザムボア」及び「創作」に載つたものである。
球形の鬼
私の最も窮迫した時代大正三年頃の作で、やはり吉川惣一郎の名で、「地上巡禮」に載つたものである。
濕氣の小鳥
大正四、五、六年頃の作品で、そのうち「朱の搖椅子」から「むらがる手」までは「ARS」に載つたものである。
黄色い帽子の蛇
大正七、八、九年頃の作品で、「無言の歌」及び「あをちどり」に載つたもの、「詩と音樂」に載つたものである。
香料の顏寄せ
大正九、十年頃の作品で、「詩と音樂」に載つたほかは、未發表のものである。
白い狼
大正十年の作品、即ち私の病氣中の作である。「詩と音樂」に載つたもののほかは、未發表のものである。
木製の人魚
大正十年、十二年の作品で、すべて「詩と音樂」に載つたもののみである。
みどりの薔薇
大正十二年の作品で、うち四、五篇をのぞいて、他は凡て「詩と音樂」に載つたものである。
風のなかに巣をくふ小鳥
大正十二年の作品で、「詩情」及び「日光」に載つたものなどがある。
莟から莟へあるいてゆく
大正十四、五年の作品で、「詩と音樂」「日光」「アルス・グラフ」「近代風景」に載つたものである。
黄色い接吻
昭和二、三、四年の作品で、「近代風景」に載つたものである。
みづのほとりの姿
昭和七年病氣療養のたの伊豆山温泉に行つた前後及び八年南湖院に入院して書いたもの、このうち「そよぐ幻影」が八年八月の「中央公論」に載つたほかは未發表のものである。
薔薇の散策
作品として最後のものである。
散文詩
綠の暗さから・琅玕の片足・帽子の谷 は大正元年の作で未發表のものである。
二ひきの幽靈・木造車の旅 は大正二年の作で未發表のものである。
狂人の音樂・あをい冠をつけて は大正三年の作で、未發表のものである。
暗のなかで は大正四年の作で、未發表のものである。
愛戀する惡の華 は大正六年作で、未發表のものである。
言藁の香氣・白い鳥の影を追うて・香水夜話 は以上大正三年の作で、未發表のものである。
噴水の上に眠るものの聲 は大正十五年の作、「近代風景」に載つたものである。
日食する燕は明暗へ急ぐ は昭和二年の作で、「近代風景」に載つたものである。
綠色の馬に乘つて は昭和三年の作で、「近代風景」に載つたものである。
無爲の世界の相に就いて は昭和五年の作で、未發表のものである。
[やぶちゃん注:「散文詩」の項の二行目は底本では「二ひきの幽靈・木造車の旅は 大正二年の作で未發表のものである。となっているが誤植として訂した。
「大木惇夫」(おおきあつお 明治二八(一八九五)年~昭和五二(一九七七)年)は翻訳家・詩人。昭和七(一九三二)年までは大木篤夫と名乗っていた。広島生。太平洋戦争中の各種戦争詩や軍歌・戦時歌謡で有名だが、児童文学作品の他、「国境の町」などの歌謡曲や「大地讃頌」を始めとした合唱曲及び社歌・校歌・自治体歌等の作詞も多く手掛けた。青年期に文学者を志し、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)の学生時代より与謝野晶子・吉井勇・若山牧水らの短歌に感化されて短歌を始めが、その後、三木露風や北原白秋の詩を知り、特に白秋に深い感銘を受けたという。学校卒業後は一時、銀行に勤めたが文学への志向止み難く、二十歳で上京、博文館で働きながら文学活動を行った。またこの頃、キリスト教の受洗も受けている。その後、同棲している女性の肺結核療養のため、博文館を辞めて小田原に引っ越し、文筆活動に専念したが、これが契機となって、当時、小田原に在住していた北原白秋の知遇を得、大正一一(一九二二)年に、大手拓次の詩の発表の舞台ともなった白秋・山田耕筰編の雑誌『詩と音楽』創刊号に初めて詩を発表した。大正一四(一九二四)年にはジョバンニ・パピーニ「基督の生涯」の翻訳をアルスから出版してベスト・セラーになるとともに、処女詩集「風・光・木の葉」を白秋序文附きで同じくアルスから出版、その後も一貫して詩人として白秋と行動をともにした。昭和一〇~一五(一九三〇年代後半)から歌謡曲の作詞も手掛けるようになり、一世を風靡した東海林太郎の「国境の町」の他、「夜明けの唄」「隣の八重ちゃん」「八丈舟唄」「雪のふるさと」などを作詞、また知られたスコットランド民謡「麦畑」(誰かさんと誰かさんが)(伊藤武雄共訳)他の訳詞から軍歌・社歌、山田とのコンビで多くの校歌も多数残す。太平洋戦争が始まると徴用を受け、海軍宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もした。この際の経験を基に作られた詩を集めてジャカルタで現地出版された詩集「海原にありて歌へる」(昭和一七(一九四二)年アジアラヤ出版部刊)に日本の戦争文学の最高峰とも称され、前線の将兵に愛誦された「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを……」の詩句で知られた「戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。」が掲載されている。彼はこの詩集で日本文学報国会の大東亜文学賞を受賞、同時に作品の依頼が殺到した。この国家的要請に対して大木は誠実に応じ、詩集「豊旗雲」「神々のあけぼの」「雲と椰子」や従軍記・国策映画用音曲の作詞・各新聞社が国威発揚のためにこぞって作成した歌曲の作詞等をも行ったが(その一方で序文以外には殆ど戦時色の感じられぬ詩集「日本の花」も編集している)、戦争末期になると過労が祟って身体精神共に不調となり、福島に疎開して終戦を迎えた。戦後は一転、戦時中の愛国詩などによって非難を浴びて戦争協力者として文壇から疎外された。参照したウィキの「大木惇夫」によれば、『戦争中、大木をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し、窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の心ある出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をして生涯を過ごした』。『ただ、石垣りんの項目にあるように、新日本文学会の重鎮のひとりであった壺井繁治とともに、銀行員の詩集の選者をつとめているということもあるので、戦後の活動の全体像についてはなおも検証が必要である』とし、『大木惇夫は太平洋戦争(大東亜戦争)中、海軍の徴用を受けて従軍し、その経験を基に作詩をした。また、帰国後も国家やマスコミの要請に応じて、多数の作品を作った。このような戦争協力は大木だけでなく、当時の文学者や芸術家の多くが当然の行為として行ったことである。また、大木は戦争詩を作ったことで多数の栄誉を受けているが、これは純粋に作品が評価されたためのことであり、これは今日でもその戦争詩の一部が高い評価を受けていることでも証明される。また、大木自身が戦時中に特権を求めるような行為をした形跡は無く、むしろ、終戦前には過労からノイローゼに近い状態にすらなっている』。『終戦後の文壇やマスコミは大木を徹底して無視、疎外し、反論の機会すら与えずに詩壇から抹殺しようとした』。『大木自身も戦争中の活動を『はりきり過ぎた』と指摘されたことに対し『顔から火が出るほど恥ずかしかった。』としているが、これは自分の行為や詩そのものを否定するものではない。『(前略)堂々とわたしをやっつける人がなくて、すべて私を黙殺してゐるから、その向きに対しても、私は答へる術を知らないのである。』と述べている』。『戦後の一時期、著しく左傾化した文壇で行われた迫害行為から、大木は完全に復権したとはいえない。このことはソビエトでボリス・パステルナークが政府から迫害された際に、自由主義の各国で非難の声が上がったにもかかわらず、日本では文壇が全く反応をしなかったことなどと共に、戦後日本文学史の政治的な汚点の一つともされる』。しかし、昭和三六(一九六一)年には『依頼により作成した「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」の詩碑が故郷である広島市の平和記念公園に建てられるなど、日本国民の評価は文壇やマスコミとは明らかに異なっていた』とある。なかなか骨のあるウィキ記載であると私は思う。]