日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 16 男体山へ
図―79
その夜非常によく眠て翌朝はドクタア・マレーと私とが男体山に登る事になっていたので、五時に起きた。我々は先ず一ドル支払わねばならなかった。これは案内賃という事になっていたが、事実僧侶の懐に入るのである。男が一人、厚い衣類や飲料水等を担いで我々について来た。往来を一マイルの八分の一ばかり行った所で、我々は石段を登ってお寺に詣り、ここで長い杖を貰った。お寺の正門の両側に長い旗が立っていた。細長い旗を竿につける方法が如何にも巧みなので、私はそれを注意深くスケッチした(図78)。(その後私は店の前やその他の場所で、同じように出来た小さな旗を沢山見た。)旗は竹竿の上端にかぶさっている可動性の竹の一片についていて、次の片側にある環がそれをちゃんと抑え、風が吹くと全体が竿を中心に回転する。旗は漢字を上から下へ垂直的に書くのに都合がいいように長く出来ている。私は漢字を写す――というよりも寧ろそれ等がどんな物であるかを示すべく努力した。旗は長さ十五フィートで幅三フィート、依って私はその上半部だけを写した。漢字は寺院と山の名その他である。図79は石段の下部、両側の旗、及びそのすぐ後方にある鳥居の写生図である。古めかしい背の高い、大きな門の錠が外されて開いた。それを通り越すと、我々は直接に山の頂上まで行っている山径の下に出た。唐檜(とうひ)が生えているあたり迄は段々で、それから上になると径は木の板や岩の上に出来ている。それは四千フィートの高さを一直線に登るので、困難――例えばしゃがんだり、膝をついて匐(は)ったり、垂直面につまさきや指を押し込んだりするような――を感じるようなことは只の一度もなかったが、それにも拘らず、私が登った山の中で最も骨の折れる、そして疲労の度の甚しいものであった。径は恐ろしく急で、継続的で、休もうと思っても平坦な山脊も高原もない。図80は我々が測定した登攀(とうはん)の角度である。図81は段々の性質を示しているが、非常に粗雑で不規則で徹底的に人を疲労させ、一寸鉄道の枕木の上を歩いているようだが、続け様に登る点だけが違っている。またしても珍しい植物や、美しい虫や、聞きなれぬ鳥の優しい声音、そして岩はすべて火山性である。
図―80
図―81
[やぶちゃん注:男体山登山である。
「一マイルの八分の一」約200メートル。これから二荒山神社直近の、現在の中禅寺湖北岸の東寄りに旅宿があったものと考えられる。
「お寺の正門の両側に長い旗が立っていた」「お寺」とあるが、これは二荒山(ふたらさん)神社である。但し、元来が男体山は二荒修験のメッカで神仏習合の霊場であるから表現上は問題がない
「旗は長さ十五フィートで幅三フィート」長さ4・57メートル、幅約92センチメートル。
「唐檜(とうひ)」原文“the spruces”。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科トウヒ変種トウヒ Picea jezoensis var. hondoensis。常緑針葉樹で北海道及び北東アジアに広く分布するエゾマツ
Picea jezoensis の変種。紀伊半島大台ヶ原から中部山岳地帯を経て福島県吾妻山までの海抜1500から2500メートルにかけての亜高山帯に分布する。]
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